第12話:リンドン男爵



 その翌朝、アルフォンスが家にいなかった。

 どこかへ遊びに行ったのだろう、とエリオットは思っていたのだが、夕方になっても帰らない。さすがに心配になり、夜、町へでかけたのだが、酒場に息子らしき少年の姿はなかった。

 帰宅するが、レベッカとオリヴィアは不安そうな顔で出迎えるだけだ。

「ジョン、いなかったの?」

「どこへ行くか、せめて書き置きぐらいあれば……」

「明日、兄さんの友だちの家を訪ねてみるわ」

「ああ、頼む、オリヴィア。もう今夜は遅い。とりあえず寝よう」

 夕食もそこそこに、ベッドに入る。朝早く起きて、奉公仕事の前に息子を探すためだった。

 浅い眠りから目覚めたら、表が騒がしかった。例のストライキのデモ隊だ。クリスマスが近いのだから、いったん休止するよう願っていたのだが、労働者たちは賃金交渉に必死だった。

 外出着に着替え、町へ行くために門をくぐろうとしたとき、プラカードの赤い文字が目に入る。

『クリスマスのチキンすら買えない。我々に正当な賃金報酬を!』

 デモ隊のなかに、ふと、見覚えのある顔があった。

「アルフォンス!」

 要求を叫ぶ人々のなかに入り、アルフォンスの腕を取る。

「すみません、僕の息子なんです!」

 そう言いながら、強引に集団から出そうとするが、抵抗された。

「帰るんだ。ここは子供がいる場所じゃない」

「ライナスに意見するなら、炭鉱所のことを知らないといけないんだ」

「ええ? 諦めてなかったのか」

「当然だろ。でも父さんは使用人だから、意見しない。俺はあいつの友人だ」

 そのとき、周囲にいた労働者たちが、わっとアルフォンスに思いをぶつけた。「領主さまのお友だちなら、伝えてくれ」と。

 晩秋のころ炭鉱所で事故があったのだが、経営者はけが人たちを病院へ連れて行くどころか、役に立たないからとその場で解雇した。そのときの事故がもとで、四人の男が死んだという。そのなかにはまだ十二歳の少年もいた。

 戦争前だったら、それでも我慢――いや、諦めていたが、時代は変わった。労働者が権利を主張すべきだ、と戦争帰りの男の提案で、ストライキは始まったのである。いっしょに戦った仲間から、啓蒙されたらしい。

 炭鉱のなかは熱くて暗く、ガスがたえず充満している。発掘が始まった十九世紀なかばから事故はときおり発生し、ガスが灯りのランプに引火して爆発が起きた。命をかける仕事だったが、底辺労働者である彼らの労働環境を鑑みる経営者はいなかったし、それを疑問に思う者はいなかった。

 労働者たちの訴えを聞いているうちに、エリオットはストライキを起こすのも無理はないと考える。炭鉱労働は危険が当たり前で、それを承知して彼らは働いている。それが世の中の常識だと思っていた。

――僕が感じている以上に、時代は早く進んでいく……。

 若くない自分はその速さについていけないが、十代の息子は柔軟に受け入れている。

――もしかして主従関係を結ぶ使用人そのものが、時代遅れなのか?

「父さん、今度は炭鉱所に行ってみたいんだ。話を聞くだけじゃ、わからないことがたくさんあるだろ。反対しても実行するからな」

 まっすぐにおのれを見るアルフォンスの瞳に迷いはなかった。

 一瞬、「危険だからやめなさい」と口にしかけるが、思いとどまる。

「ああ、おまえがそうしたいのなら、そうすればいい。そのかわり、坊っちゃんが泣き言をならべても僕は関知しないからな。自分で責任を持つんだぞ」

「ありがとう、父さん」

 ストライキはいったん中止になった。

 領主の友人であるアルフォンスが登場したことで、労働者たちの作戦が変更したためだった。彼を仲介役にして、交渉をするのだ。



「僕にどうしろと言うんだ?」

 そう言って、リンドン男爵は眉根を曇らせる。

 パブリック・スクールから帰郷したライナスに、すぐさまアルフォンスは資料を並べて見せたのである。炭鉱所の労働者たちの意見をはじめ、石炭坑作業の劣悪な環境の写真、給金の数字に、逃亡した経営者の情報、ほかの地方で起きた炭鉱所ストライキの新聞記事……。

 居間で焼菓子と紅茶のカップを並べながら、エリオットはことの様子を黙って見守る。

「ライナス坊っちゃん――いえ、リンドン男爵さま。三日前まで、屋敷の周りでデモがありました。この報告のとおりです。まずそれを読んでください」

「だから、どうして僕に? 顧問弁護士に任せればいいだろ。叔母さまだっているし、こういう難しい話に興味はない」

「どこが難しい話です? 俺が作った資料ですよ。子供のとき、いっしょに勉強した仲じゃないですか」

「アルフォンスが……?」

 ライナスの青い目が大きく見開かれた。

「労働者と貴族が友人だなんて、難しいのはわかってます。それでも、ライナス――おまえを信じたい」

「今さら友人として? 三年前、あんな手紙をよこしたくせに」

「父さんと母さんに迷惑をかけたくなかったんだ。あのときの俺は、それしか考えられなかった。悪かったよ」

 ふたりの少年は互いの顔をじっと見つめた。嘘なんかじゃないよな、と確かめるように。

「僕がエリオットを解雇するはずがないだろ。その前の執事も家庭教師も、みんなすぐに辞めてしまったんだ。またいなくなったら――」

 ライナスはやりきれないように、大きなため息をついた。

「僕はずっと不安なんだ。またいなくなるんじゃないかって。エリオットもおまえも。だからといって、僕は労働者の気持ちはわからない。ずっと奉公するよう、命令することしか知らない」

「だったら、今がチャンスじゃないか。資料が足りなかったら、俺が炭鉱所へ案内するよ。知り合いがいっぱい増えたんだ。見た目は少し怖いかもしれないけど、根は気の良い連中だぞ」

「チャンスか……」

 アルフォンスは資料の紙を手にすると、読みあげる。相手が領主だろうが、まったくひるむ様子はない。父親のエリオットが感心するほどの堂々ぶりだ。

 いまひとつ乗り気でないライナスだったが、だんだんと表情が変わる。炭鉱の事故のくだりまで聞いたころは、少年めいた雰囲気がすっかり払拭されていた。

「……たしかに、これは問題だな。知ろうとしなかった僕もいけない」



***



 春になった。

 復活祭の前、ライナスがパブリック・スクールから帰郷する。そのとき屋敷の周囲に炭鉱労働者たちがいたが、デモをする姿は見られなかった。

 馬車が門を通るとき、わっと人びとが群がる。

「ありがとうございます、リンドン男爵さま!」

 プラカードに書かれていたのは、たくさんの感謝の言葉だった。そして歓声。

 玄関ホールで部下たちとあるじを出迎えるエリオット。ライナスの表情に笑みはなかったが、瞳は力強く輝いている。以前のような幼さを感じられない。

「おかえりなさいませ、旦那さま」

「エリオット?」

「『坊っちゃん』は卒業です。今日から、大人のあるじとして、わたくしはお仕えする所存でございます」

 すると、家政婦ボーデンが「お疲れでしょう、旦那さま」と続き、従僕、メイドは「おかえりなさいませ、旦那さま」とあいさつをした。

 かすかにうなずきライナスは応える。

「ただいま。長旅で喉が乾いた」

「かしこまりました。――さあ、解散」

 エリオットが合図をすると、使用人たちはそれぞれの持ち場へもどる。従僕リックが主人のコートと帽子をあずかり、茶の給仕をするためエリオットは厨房へ行った。

 茶盆を持って居間へ上がると、ソファでライナスが新聞を読んでいた。

「坊っちゃんの大好きな、アプリコットのタルトですよ」

 と言いながら、ケーキ皿をテーブルに置いたら、笑われた。

「あはは。『坊っちゃんは卒業』じゃ、なかったのかい?」

「つい……。申しわけございません」

 タルトを食べたライナスは、破顔する。

「ボーデン夫人の菓子はうまいな。寄宿舎の飯は質素だし、茶菓子はビスケットばかりで、うんざりだ。早く卒業したいよ」

「そういえば、大学はどうされるのです? 以前は獣医になりたい、とおっしゃってましたが」

「獣医はやめておく。領主の仕事を疎かにしてはいけないと、ストライキの件で学んだのさ。僕ひとりのわがままで、大勢の人びとを苦しませてしまった」

「さようでございますか。領民たちに大変喜ばれますよ」

「屋敷の前であれだけ感謝されたら、代理人に任せっきりにはできないだろ。これからは領民たちの幸福を考えながら領地を管理するつもりだ。もちろん、使用人――エリオットたちの幸福も、だ」

「それはうれしゅうございます、旦那さま」

 と、目頭が熱くなる。

 不覚にも涙がこぼれてしまった。

――ああ、ライナスさまはこんなに立派に成長されて……。

 少年時代、寂しがりやでわがままだったあるじだったが、今は一人前の領主だ。

――誇り高いあるじにお仕えできる僕は、幸せ者にちがいない。

「泣いてるぞ? まさか、アルフォンスに何かあったのか?」

「いえいえ。ゴミが入ってしまっただけです。わが愚息は元気すぎて、村の友人とサッカーをしております」

「では、帰ったら、僕のところへ来るよう、伝えてくれ。炭鉱だけでなく、領民たちが何に困っているかを知りたいんだ」

「お役に立てますでしょうか? ふだんは学生の身でございますし」

「アルフォンスだったら僕の話をよく聞いて、すばやく行動するからな。頼りにしている」

――そして僕の息子も立派に成長した。

 また涙がでそうになるが、エリオットはぐっとこらえ、笑顔で銀のポットを持ち上げた。

「かしこまりました。お茶のお代わりをいたしましょう」



 一九二四年五月、マーガレット・リンドン嬢が亡くなった。

 ストライキの件以降、女主人は心身が衰弱したために、ベッドから起き上がることはほとんどなかった。少し体調が良くなったと、感謝祭で久々に外出をしたのだが、運悪く風邪をこじらせてしまったのである。

 臨終間際、ライナスが老嬢の手を握ると、かすかだが、彼女はこう言った。

「…………リンドン家を……たのんだ……わ、ね」

「はい、大叔母さま。僕のことなら、心配しないでください。心強い友人たちがいますから」

 と、あるじは部屋の隅にいるアルフォンスを見つめた。うなずきが返る。

「そう。……よ、か…………」

 それ以上、彼女は口を開かず、静かに目を閉じた。

 翌日の葬儀は簡素だった。教会の葬式には、ライナスの遠い親戚が三人参列し、あとは屋敷の使用人だけである。

 墓地での埋葬が終わり、黒い喪服姿でエリオットたちが屋敷にもどると、見覚えのある顔がいた。村の獣医、ジェニングス氏だ。黒いネクタイ姿の氏は、シルクハットを取ると深々とライナスへ頭を下げる。

「すみません。葬儀に間に合わなかったようだ」

「先生、わざわざ訪問ありがとうございます。大叔母の遺言で身内だけの葬儀にしたので、村には明日、知らせる予定だったんだ」

「ライナス坊っちゃん、どうか気を落とさないでください。どうしても獣医になりたいのでしたら、私が尽力いたしましょう。助手を数人雇えば、領地の管理もできるようになります」

「ああ、それなら、考えが変わった。僕はオクスフォードへ進学するよ。領主としての努めを果たさないと」

「坊っちゃん……?」

 ジェニングス氏は唖然とする。

 玄関ではなんだからと、エリオットは氏を居間へ案内した。あるじと客人のために茶を用意する。

 ライナスは話した。なぜ、獣医になるのをやめたのかを。

「そうでしたか。炭鉱のストライキについては、私の耳にもたくさん入っております。坊っちゃんが逃亡した経営者を探して、持ち逃げした炭鉱所の資金を取り返したそうですね。その金を労働者たちの臨時給金にしたあと、残りは福祉事業に使われたとか」

「ああ。宿舎は狭くてボロボロだったし、炭鉱所に診療所はないし、食堂も改善させた。不思議なことに、以前より採掘量が増えたから、領地の収入も増えた。これもアルフォンスのアドバイスのおかげだよ。いい友人を持って、僕は幸せだ」

「アルフォンス――エリオット氏の息子さんのことですね」

 そのとき、ジェニングス氏は鋭い視線を、執事エリオットに投げかけた。

「悪いが、きみ、席を外してくれないか。リンドン男爵と大切な話がある」

――大切な話とは?

 しかし使用人。知りたい気持ちを抑えながら、エリオットは静かに居間を退室した。



 ジェニングス氏が帰宅した数分後、書斎から呼び鈴が鳴った。

 エリオットが駆けつけると、先代が使っていたという紫檀の執務机に、ライナスがいた。神妙な表情で、あるじは問うた。

「ジェニングス氏から聞いたんだが、ミセス・エリオット――レベッカ先生が、准男爵家の令嬢だった、というのは真実なのか?」

 エリオットの思考が、一瞬、真っ白になった。

――ついにこのときが来たのか?

 どう答えるべきか迷う。

「氏が言うには、以前、働いてた動物病院の近くに、アンダーソン家の屋敷があったそうだ。先週、その近くに用事があって、帰り際、かつての同僚に会った。そのとき、アンダーソン家のある醜聞を氏は耳にした。その内容は――」

 鼓動が早鐘を打つ。指先に震えが走る。

「出戻り令嬢とそこの執事が駆け落ちした、とか。その執事の名は――」

 とても隠しきれない。

 観念したエリオットは、ぎゅっと唇をかみしめ、視線を床に落とす。

「ええ、そうです。わたくしです。その醜聞がもとで、リンドン家に奉公するまで、執事職に復帰できませんでした。真実を話せなかったのは、解雇を恐れていたからです。申しわけございません。謝罪してもしきれません」

「なぜ謝罪する?」

「へ?」

 あっけらかんとしたライナスの態度に、エリオットは腰が砕ける。

「……とんだ醜聞でございますよ、旦那さま。わたくしが奉公しておりますと、社交界の笑いものになるのでは?」

「あほくさい。だいたい、エリオット以外のやつがわが家の執事になるなんて、考えるだけで憂鬱になる。そんな昔話、くそくらえだ」

「つい十七年前のことですが……」

「僕が生まれたときだから、ずっと昔だ。だから気にするな」

「そうおっしゃっていただけると、助かります」

「それに」

 ライナスは飛び切りの笑顔を、エリオットに見せる。

「おまえたち夫婦はとっても面白い。僕も将来、エリオット家みたいな家族を作りたい…………なんて、な」

「まるで喜劇役者、ですか。若い時分、同じことを言われた気が……」

「やっぱりそうか。だれが見ても面白いもんな!」

 そして腹を抱えて笑う。

 エリオットもつられて笑う。

 昔、あれだけ自分を悩ませていた出来事が、霞のごとく消え失せた。

――時代は変わったなあ。

 ライナスとエリオットが書斎を出ると、制服姿のアルフォンスがいた。右手にはトランクを持っている。

「もう学校にもどるのか?」

 エリオットより早く、ライナスがそう言った。

「ああ。明日は試験だからな。夏休みになったら、釣りをしようぜ。約束だぞ」

「どっちがたくさん釣れるか競争だ」

「釣り針を改良するから、震えて待て」

「じゃあ、僕は餌だな。うん、と食いつきがいいのを探すぞ」

 ふたりの少年は、たがいの拳を軽く突き合わせた。

「じゃあ、父さん、ライナス。いってきます」

 エリオットは手を振り、頼もしい息子を見送る。

「ああ、いってらっしゃい」



おわり


※本編について↓

https://kakuyomu.jp/users/rose/news/1177354054887758112


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