第十話 魔笛

 ――ベンジットがその土地に訪れたのは全くの偶然だった。


 限られた場所、限られた期間にのみ起こる“神の悪戯プランキス”。当時二十五歳――街から街へと渡り、大金で依頼されて曲を奏でていた彼が目にしたのは、その土地を洗い流すような大災害級の大雨である。


 その前に居を構えようとしていた人々の家々が、大雨によって崩壊し流されるのを見た。聞いた。その時だった。


 確かに耳にした、神の調しらべ

 曲というには荒すぎた。はかなすぎた。あまりにも未完成だった。

 しかし今まで聞いたことのない音が、旋律が、彼の心を捉えて離さない。


『私が探していたのは……この“音”だった』


 掴もうとしても指の間をすり抜けるような音を、自分のものへとするために。既に莫大な資産を有していたベンジットは、自分の目的の為の作品、“雨奏街”エマルビアを作り上げることを心に決めた。


 同時に、“神の悪戯プランキス”についても調べ上げ、大雨が三十年に一度必ずやってくることを知る。準備をする時間は膨大にあった。それでも彼にとっては、刹那とも思えるぐらいに短い時間であったが。


「ここは私の街だ。その時が来る前に、完璧に整えられていなければならない。私はそのことだけに努めた。それ以外に何もいらなかった。なにもだ」


 ――街は予定していたうちの五割まで出来上がっていた。しかし一番重要な部分は最後にと決めていたので、二度目の“神の悪戯プランキス”ではその調を聴くことはできなかった。


 覚悟はしていたが、それでもベンジットの心に苦いものが残る。

 ……決して失敗ではない。次の三十年。次の三十年で完璧にするために、必要な過程だったのだと自身を納得させたのだった。


 入念な研究と準備によって各所の正確な降水量を計り、それに合わせて既に立ててある建物の改善も計画に組み込んだ。そうしてエマルビアは完成していく。


 ……しかし、それにも問題はつきまとう。につれ、どこからか街の噂を聞きつけた者が、各地で居場所を失った者が、雨風を防ぐ場所を求めて街に棲みつき始めたのだった。


彼はその事に対して非常に遺憾の意を感じていた。大切に手入れをしている楽器に虫が棲みつき始めたのを見て、それを良しとする者がどこにいよう。


「汚らわしい。実に汚らわしい奴等だった。大切に手入れをしている楽器に、虫が棲みつき始めたのを見て、それを良しとする者がどこにいる?」


 若い時には実力行使に出たりもした。ベンジットが一から作り上げ、ベンジットが管理下に置いている街だ。しかし他の街の管理者が黙っていないのも事実。嫌々ながらも受け入れることを余儀なくされたのだった。


 しかしベンジットは、抵抗として規則を設ける。この街に無駄なものは何一つとしてない。無駄なものを加えようとする者は許さない。それだけは譲れなかった。


 最初は注意だけに済ませていた。業者を雇い、街の清掃に勤めていた。それでも、人のエゴというものには限界が無かった。


 ゴミは見える所だけでなく、排水溝の中などの見えない部分にも捨てられていた。一つ一つは微々たるものでも、なんらかの要素によってとどまり、まり、街の血管とも言える水路を細いものから塞いでいく。


神の悪戯プランキス”ではないただの雨でも、かすかにだが調しらべは奏でられる、もちろん彼のような天才以外には分からないほど微細なものだが。


 ある時音の濁りを感じ、雨に打たれ冷えた身体に構わず異常のあった部分を見に行き、そしてその有様を見た彼の忍耐が限界を迎えてしまう。


「人とはなんと汚らしい存在なのだろうか。なぜ人が魂を注ぎ込んで美徳を保つ物を、場所を、汚して、汚涜して平気でいられるのだろうか。なぜこの世界の大半が意識をせずとも守っていることを、意識もせずに守らずにいる者がいるのだろうか」


「私の演奏を邪魔する者は、私の街で生きる資格はない」


 ――出ていくのが嫌ならば死んでしまえ。

 エマルビアの街が、過去の姿の一部を取り戻した瞬間だった。


「――そして八十五歳。今年のことだが、今日が三度目の“神の悪戯プランキス”の日だった。長い年月を経て、ようやくこの瞬間に立ち会うことができた」


 ――雨の音に負けない程の音の奔流。

 水流が風を生み、幾つもの管を通って、笛の音を響かせる。


 壮大に曲を奏でるエマルビア。


 ピアノから離れ、窓際に立ち、その音を全身に浴びるかのように腕を広げた。

 待ちに待った瞬間だった。目的は果たされた。


「ここまでたった一人で――いや、もう一匹だったな。違反者の数が減っていたのは分かっていたが――こればかりは感謝しなければならないのだろうか」

「……悪魔なのに」


「……悪魔、悪魔か。それがなんだというのだ」


 それまで見たことも、聞いたこともないのだ。悪魔は悪いものと言われたところで、存在を信じていなかったベンジットにとっては、古臭い信仰を信じている者だけの戯言程度にしか受け取っていなかった。


 ――確かに協力者であったのだ。あの悪魔は。


「まったく……。お前たちがいなければ……本当に、最高の、ひとときだったのだがな……」


 薄く笑い、ベンジットが崩れ落ちる。


「――旦那様っ」

「……後のことは任せた。街の管理については、話していた通りに」


 駆け寄り、抱え起こす女給。

 一つ、二つと何かを伝えるように耳打ちし、女給はそれに頷く。


「……お前たちも、用が済んだのなら雨の終わりと共に出て行くがいい。三十年の時が経つまで……再演アンコールはない……の、だ……から……」


 最期にそう言い残し、全身が脱力していく。頭も、腕も。ひんやりとした床へと垂らされ、ピクリとも動く様子を見せない。


 困惑するアベルとリィンを前に、女給がゆっくりと首を振る。八十五歳という高齢、管理者としての責務や度重なるストレス――もう永くないというのは、本人も、女給も理解していたのだった。


「この音を聞いて心が奪われない人はいないでしょう。誰しもが、彼のしてきたことの意味を知ったはずです」


『あの悪魔もきっと……』と言いかけたところで、女給は慌てて口をつぐむ。


「……誰もが積極的に街の美化を努めようとする。人の記憶が薄れようとも、三十年ごとにそれは新しく更新されていきます。彼の音は……これで永遠となったんです」


「永遠に……」


 ――三十年に一度。“神の悪戯プランキス”によって奏でられる楽器の物語。

 それはアベル達を置いて、一度その幕を閉じたのだった。

 






「――ねぇ、アベル。ああいうのを、神の音色って言うのかな」

「……神の?」


 大雨の中で悪魔を追い、ベンジットの屋敷へと乗り込み、それを消滅させた。そして、止めることのできなかった処刑。衝撃的なことが立て続けに起きたその中でさえも、突然始まった演奏に、高く大きく鳴った笛の音に――不覚にも、一瞬でも心を奪われてしまった。


 それは街を離れた今となっても、記憶とともに音の響きが呼び起こされる。


 鮮明に。まるで呪いのように。


「あんなものが神の音色なものか」


 ――遠く離れる“雨奏街”、エマルビア。

 誰もが雨が降る度に、足を止める。呼吸を止める。耳を傾ける。


「狂った男が、狂ったことをしただけ。やり遂げてしまっただけだ。狂った街の、決して狂うことのない音色……。あの街は――」


 アベルは呟く。

 忌々しいと、吐き捨てるように。


「――“魔笛”だ」






(了)

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魔笛 Win-CL @Win-CL

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