第九話 演奏会
「“
だからどうしたと、アベルは呟く。
たとえ災害級の大雨が降ったところで、アベルには関係が無かった。エマルビアに訪れたのは悪魔を排除する為であり、“
しかし、今にも殺されそうな一般人を見捨ててもよいのかと言えば、それは違う問題だった。そのためにも、二人は早急に仕上げに入る。
「この悪魔が死ねばお前も狂気から開放される。この街もまともになる。もう人が死ぬ必要なんて無くなる。――リィン! さっさと済ませるぞ!」
「……うん。わかってる」
アベルの呼びかけに、リィンが祈るように手を組む。そんな彼女の背から伸びたのは――光り輝く一対の翼。背からひざ下まである、大きな白い翼だった。
勢いよく翼を広げたと共に、何本かの羽根が舞い落ちる。
「天使……」
女給が思わず呟いた通り、まさに天使と呼ぶに相応しい神々しさ。
演奏を続けるベンジットも、ちらりと
ついぞ数分前とは何もかもが違う。
悪魔が飛び込んできたかと思えば、次は天使が現れたという。
何が起こっているのかを理解しようとする前に、ベンジットは一切の思考を止める。演奏家は、目の前の楽器にのみ集中するものだと。
「――――」
リィンが大犬へと手を伸ばすと、光り輝く円が現れる。そこから逃げ出す力も残っていない、瀕死の状態のそれを何重にも包み込むように、同心の円が二重三重と増えていき――それが少しずつ小さく、小さく、閉じ込めるように、圧縮するように、範囲を狭めていく。
大犬の声にならぬ声。
光の中で悶える姿が、シルエットとなって
アベルの知る限り、悪魔を消し去るのに最もシンプルな方法がこれだった。
多少の足手まといとなろうとも、リィンを連れている理由でもあった。
光の最後の一筋が消え、天に昇る。
――中にいた大犬の姿は、一欠片も残っていない。
「……終わった?」
消耗し、肩で息をするリィン。最後にアベルが手帳を開くと、二人で視線を合わせ小さく頷く。エマルビアにアベル以外の悪魔の影は存在しない。あとは正気に戻ったベンジットに、処刑を止めるように言うだけ。
「あぁ、確認した。……ベンジット、処刑を止めろ」
――それで終わりのはずだった。
しかし、これで終わりではないことを二人は知ることとなる。
「……
鍵盤に両の手を叩きつけるベンジット。もともとそういう曲なのか、それともベンジットの胸中になにかがあったのか。嵐のような旋律を締めくくるようなその音は、確かに何かを示している。
それは――処刑の始まりだった。
「悪魔だの、天使だの……馬鹿馬鹿しい。お前らなんぞに、私の邪魔はさせん」
二人が最初に見たときと、寸分も変わらぬ目の輝き。
年相応に濁りはしていても、その奥には確かに怒りを湛えていた。
「――待てっ!」
アベルの静止も届かず、ベンジットが一つの鍵盤を叩く。
単音、ポーンと透き通った音が室内に響き、そして――
「い、嫌……! 嘘――」
――残響が消えた瞬間、絞首台の床が開いた。
その光景が、リィンの目に、スローで流れる。
瞬間、彼女の中で音が消える。
線にしか見えていなかった雨粒の一つ一つが、水滴となって浮いていた。
支えを失った身体。重さによって、ピンと張るロープ。
先の輪には頸部が通されており、罪人を苦しむ暇もなく絶命へと導く。
……罪人? 彼らが、そう呼ばれるだけの罪を犯したのだろうか?
この街の規則に違反したから? 誰が決めた規則?
たった今、そんなものから、自分たちが解放したのではなかったのか?
リィンの口から悲鳴が上がる。止まらない。止まらないのだ。
建物の外で降り続ける雨のように、処刑は止まらない。
――二つ。三つ。
一つ終わると、一つ開く。開くと、終わる。
ようやく戻ってきた、全てを上書きするような雨の音。
それをすり抜けるかのように、一音ずつ高くなるピアノの音。
――四つ。五つ。
一つ終わると、一つ開く。開くと、終わる。
リィンは狂気に耐えられず、耳を塞ぎ、目を瞑り、しゃがみこんでしまう。
「どうして……!? 悪魔はいなくなったのに……!」
「私は――。
――狂気であることには変わりない。
だがしかし、悪意とはまた別のもの。
「これは――」
「悲願、だ。……六十年。六十年だぞ。私はこの時を六十年の間、待ち続けた!
――何度でも言うぞ。エマルビアは、私の物だ」
「これまで多くの人々が、開拓して街を作り、そして失敗してきた。そんな中で、ここまで街を発展させたその手腕は確かだ。お前のおかげで、どれだけの人が安全な生活を送れるようになったのか。人々に讃えられていたのに、なぜそれを捨てるような真似をする?」
「私が街を調整したのは、私がそうしなければならない理由があったからだ。他の者に任せることのできない、重大な理由が。人々の賛辞など、私にとってはどうでもいいことだ」
徐々に姿を現した異変に、アベルとリィンが気付き始める。
「この音――」
「一定時間内に設定した雨量を越えた場合にのみ、専用の放水路が開く」
建物の一つ一つが、屋上の雨水受けが、雨どいのパイプが。
用水路が、道路のアスファルトが、軒先の日除けが。
街の何もかもが、彼にとっては神の恵みを受け取るための楽器である。
「
あらゆる分野を修め、極限までに計算を尽くした。
丹念に、丹念に、丹念に調整を重ね、日々のメンテナンスを怠らなかった。
――その結果が今、姿を現す。
纏められ滝のように落ちる水は、打楽器へと変わる。
用水路を流れる水流が風を生み、吹奏楽器へと変わる。
降り注ぐように街に表れた
――音が次から次へと湧き上がってくる。
計算され尽くされた
抑揚をつけて、意思を持っているかのように演奏される。
その様は、まさに“
「――
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