第八話 旋律
次第に近づいていくサイレンの音。雨により空気が白く濁る街並みから、アベル達以外の影は既に消えており――だからなのだろうか、大犬の悪魔が二人の前に姿を現した。
「そっちから出向いてくれるとは……。今の内に息の根を止めようって腹か、それとも今向かっているところに行かせたくないのか――」
雨に紛れ、何も聞こえない。何も見えない。
これから起きることを覆い隠すかのように、雨は勢いを増していく。
「アベル……」
「一人になったら向こうの思うつぼだ。離れるなよ」
――広げられた傘を大粒の雫が叩く。
濡れるのを厭わず、傘を閉じたアベルは大犬に突き付けるようにそれを構えた。
真っ直ぐにアベルへと向かっていく黒い影。激しく飛沫が跳ねる。向かい撃つようにして、構えていた傘を突き出すアベル。雨粒を引き裂く勢いの傘は――影を捉えたかと思われたが、霧の中へと溶け込むようにして回避されてしまう。
傘を回避した大犬が向かった先は、一歩後ろでその様子を見ていたリィン。
大の大人の首の一瞬で噛み折る程の顎の力だ。幼気な少女など、噛まれたら最期、ひとたまりもないだろう。噛み折られるどころか、骨ごと食いちぎられるのは、火を見るよりも明らかだった。
「くっ――」
遮るように差し込まれたアベルの左腕に――牙が食い込んだ。
スーツ越しの、細く引き締まった腕に食いついて離れようとしない。
ぎりぎりと、万力で締められているかのような激痛がアベルを襲う。
「アベルッ――」
「――悪いな」
息を呑むリィン。しかし噛まれた本人は少し怯みはしたものの、空いた右手で大犬の頭を掴んだ。
「俺も悪魔だ」
――その言葉と共に、噛まれた部分から緑色の炎が噴出する。
口内を埋め尽くし端から溢れ出る炎に耐えかね、ようやくアベルの腕を解放するも、その炎は大犬に纏わりついたまま離れず。頭を緑色の炎に包まれた大犬は、暴れるようにしてアベルから距離を離した。
怯んだ大犬は、二人に背中を向けると猛烈な速度で走り出す。
土砂降り雨の中、その炎の勢いは衰える様子を見せない。
「あの炎はそう簡単には消えない。このまま追い詰めて仕留めるぞ!」
雨脚は激しくなり視界が更に白く染まりつつも、緑色の炎が目印となっていた。大犬も余裕を失っているのか、アベルたちから姿を隠す素振りは見えず、距離を離されるも、なんとか二人は追い続けることができた。
「ここって……」
そうしてたどり着いたのは――管理者であるベンジットの屋敷。速度を落としつつも、玄関を突き破るようにして飛び込んでいく。
「――っ、人質を取るつもりか!」
悪魔が用済みになった人間を処分するのは珍しいことではない。また、こうして追い詰められた時に、盾にするのも同様である。
「……ピアノの音?」
屋根のある場所でも、雨の音が鳴っていた。
ざあざあという雨の音の中で真っ直ぐに伸びる音。
そのまま家主がいるであろう寝室へと向かう。あの大きなピアノがある、あの部屋である。もしやこの音色は、とアベルが考えていたら案の定――ベンジットがピアノに座って自身が作曲したのであろう曲を弾いていた。
「旦那さま……!」
「……何だ、騒々しい。今は演奏の時間だぞ」
ベンジットは小さく悲鳴をあげる女給とは対象的に、飛び込んできた大犬(頭は緑色の炎に包まれている)にも、ずぶ濡れになっている二人にも驚く様子を見せない。一心不乱に、ピアノを弾き続けている。
その指先は流れるように鍵盤を叩く。
外で降り注ぎ続ける雨粒のように、音が跳ねていた。
――目の前の男は、自分の知っている男と同一人物か?
思わずアベルはそう疑いたくなった。
あのベッドの上で寝たきりなっていた老人か?
杖がなければ、室内を歩くこともままならなかった老人が――
まるで憑りつかれたかのように、若々しい演奏をしていることに、アベルは驚きを示す。
「例え、豪雨だろうと……処刑は行う。これは、葬送曲だ。死にゆく者への、最後の手向け……。この数分が、己の罪を悔いる、最後の時だ。――この演奏が終われば、処刑は為される」
ピアノの演奏が終わると同時に、処刑は終わるとベンジットは言った。
これから人を殺すと、淡々と言ってのけた。
一面がガラス張りになったその外側では、土砂降りにも関わらず人影があった。
――絞首台の上に、立たされていた。
影は五つ。顔は確認できないように、袋を被せられている。
一人につき一つの絞首台。床は地面から少し離してあった。
足元が開くことで罪人が落下し、頸部を支点に吊られる構造。
必要最低限な、シンプルなものだった。
演奏が終わるのが何分後かは分からない。
しかし、数分後には処刑が執行されてしまう。
「――喜べ。今日は、特別に、華々しく送ろうではないか……。待ちに待った、念願の――“
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