忌明け

 春一番が吹き去って、冷たい冬を吹き飛ばした。世間はにわかに春支度を始めていた。そこかしこで早咲きの桜が、たおやかに咲き誇っているという話だった。

 田村穂乃果は「どこか花見にでも行こうかしら」と独り言ちて、境内へ出た。温かな春風の香りが胸を満たす。ここのところ法事が続いていて滅入っていた気分が、少しだけ華やぐようだった。

 裏手の宿坊から門の方へと歩く。気の早いモンシロチョウが、穂乃果を追い抜いてどこか蒼穹の向こうへと飛んでいく。

 本堂へ上がる階段の前で穂乃果はそれを目で追いかけていたが、白い姿が太陽に溶けて消えたのをもろに見てしまって、眩しさに目をしばたたかせる。

 まだ虹色の痕が視界を飛んでいる。穂乃果は視線を落として、遠く寺門の向こうを見ようとした。

「……あら」

 いつの間にか、そこには懐かしい来客があった。

 肩まで届くかというくらいの長さの黒髪を、くすんだ緑色のシュシュで束ねている。良く言えば素朴な、悪く言えば少し野暮ったい印象の女。

 巴みずなだった。

「あら、巴さん。久しぶりね」

 歩み寄って声をかけると、みずなはゆったりと笑ってみせた。

「はい。ご無沙汰でした」

 何とも穏やかな声だった。

 最後に会った、悲壮に別れを恐れていた巴みずなの様子が脳裏をよぎった。しかし、今のみずなには、そんな気配はない。

 忌明けからすでに三か月近く経っていた。みずなはその間、きっと激しく悲しんだのだろう。泣いて、叫んで、それでも三か月という時間は長い。悲しみを癒すには、十分な時間と言える。

「あれからもう春になったわね。時間がたつのは早いわ……。どう? 気分は」

 穂乃果は住職の微笑みでみずなに対する。

 みずなは微笑む。

「一緒に死ねなかったのは、少し心残りです。ただ、今はそれでもいいと思っています。生きていることはやっぱり、喜びに満ちています」

「そう、それはよかった――」


「何より、青葉ちゃんもついていてくれますし」


 その瞬間、あの真冬が戻ってきたかと錯覚するほどの寒気を覚えた。

「え?」

「おいで」

 みずなが呼ぶと、一羽のカラスが陽光を遮って穂乃果に影を落とし、みずなの腕にふわりと着地した。

「それは……」

「青葉ちゃんですよ」

 みずなは微笑む。

「まさか……」

「分かるんです、私には。私の中には、ちゃんと青葉ちゃんの欠片が生きていますから。この子が青葉ちゃんだって、青葉ちゃんが教えてくれるんです」

 みずなは微笑む。

「だから、寂しくないんです。やっていけます」

 カラスの頭を優しくなでるみずなに、穂乃果は何も言えなかった。

 

 ――ああ、小日向さんは、それを選んだのね。


 彼女は別れを受け入れたのではなかった。何をすれば、二人は永遠となることができるか。それを考えて、考えて、その実行に至ったのだ。

 即ち、青葉の次の生をみずなに認識させること。

 それはある生き物における魂の来歴を知ることで、常世の者には当然できっこないことだ。

 だから小日向青葉は、四十九日の力に願った。

 青葉のことを見つけられる力を。

 それをみずなに与えたのだ。

 みずなはカラスの方をうっとりと見つめて言う。

「田村さんには随分お世話になりましたし、ご迷惑もおかけしました。改めてお礼を言いに来たんです。田村さん、ありがとうございました。これからもどうかご健勝で」

 そう言い残して、みずなは踵を返した。

「私たちは、ずっと一緒です」

 彼女らの姿が見えなくなるまで、穂乃果は立ち尽くしていた。

 何も言えなかったし、言うべきではなかった。

 彼女らはお互いに繋がり続けることを選んだのだ。互いに絡み合って、縛り付け合うことを。

 手のひらに痛みが走り、穂乃果は我に返る。爪が食い込んで血が滲むほどに、こぶしを握り締めていたことに、その時気づいた。

 彼女らの今生の幸せはそこにある。

 けれども、二つの魂は今生の未練の煉獄の中だ。解き放ってやることは遂にできなかった。

「――力及ばず……ね」

 見上げた空は、空寒く晴れ渡っている。

「どうか、せめて、幸せに――」


  †


「ねぇ、青葉ちゃん。あのポイントカード、貯まったんだ」

 みずなはふと、頭上を舞う青葉を見上げて言った。

「何食べたい? 一緒にお家で食べようね」

 みずなの肩がクスリと揺れるのに、しわがれた鳴き声が応えていた。

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六文銭を届けて――カラスがいつか、啼くまでに―― 瑞田多理 @ONO

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