第21話 六七日(十二月二十四日~)
「今年も一年間お疲れ様、巴さん」
ゆかりがそう言ったのに、みずなはただ「はい。お疲れ様です」とそっけなく返していた。
鮮烈な青葉との再会から週が明け、今年の講義が次々に終わっていき、気づけばゆかりと会うのも今年最後になっていた。
クリスマスイブを開講日としているのは、学生にはもちろん教職員にも不評だそうだった。ただ、今日は容赦なく平日であり、理事長の方針か、大学はカレンダーに忠実である。話の分かる教員などは、何かと理由を付けてこの日を休講にしたりもしていた。
しかし、今日が何日だろうと、目の前に誰がいようと、みずなには関係の無い話だった。
「どう? 最近は……」
ゆかりはいつものようにラフな様子でそう切り出した後、言いにくそうに、
「といっても、随分大変だっただろうけれど」
そう言ってみずなの顔を覗き込んだ。
青葉の死体が見つかった件は、大きなニュースになった。全国区で巴宅の外観が放映され、死者、小日向青葉の名は繰り返し繰り返しキャスターの口に上った。
「……いえ、特には。野次馬への対処が少し手間でしたが、それももう落ち着きましたし。知り合いではあっても興味関心の度合いは一般的なニュースと一緒ですね。一目見て、事実を認識して、お終いです」
淡々とみずなは言ったつもりのようだったが、たくさんの人の感情を取り扱ってきたゆかりにはそうは聞こえなかった。
「どこか、倦んでいるね」
そうするべきか迷ったが、ゆかりは最後にはそう尋ねていた。
「そうですか。もしかすると疲れがあったのかもしれません。野次馬根性というものに晒されて。でも、それ以上は何もありません」
「そう」
「はい」
跳ね返すような口調。そこにはある種の感情を感じずにはいられない。
それは、みずなにあるはずもない、「お前と話すのは面倒だ」という負の感情だった。
「何か話したいことがあれば、どうぞ?」
「ありません。では、失礼しますね。良いお年を」
取り付く島もなかった。
みずなはそう言って、そそくさと椅子を鳴らして立ち上がった。
足早に立ち去ろうとするその横顔は、確かに憮然としていた。振り返ろうともしない。
ゆかりはその後姿に一瞬悩んだ。
治療者としては、見送るのが正解だ。
だが、しかし。
「巴さんはこの三週間で、何を見たんだい」
みずながドアノブに手を掛けたところで、ゆかりはみずなを呼び止めていた。
みずなは肩を震わせて、動きを止めた。
「君は今、明らかに私を疎んでいる。それはこれまでの君には全くなかった気持ちのはずだ」
「だからどうしました」
今日の短い会話の主導権はずっとみずなにあった。それを自覚していないゆかりではない。
「私たちの治療の目的は、図らずも達せられたわけだ」
知らず、ゆかりも立ち上がっていた。そしてゆっくりとみずなに近づきながら、
「つらい思い出を掘り返すことにはなってしまう。それは申し訳ないが、どうしても後学のために聞いておきたい。君は一体何を見た。どこで、何を見て、感じ、ここに立っている」
「どういう意味です――」
「――どうやって四十九日の楔から解き放たれたんだ……!」
煮えきらない答えにたまらず凄んでいたゆかりの様子に、みずなの顔が確かにこわばる。それが更にゆかりの確信を強めた。
「見ろ、恐れた。君は完全に四十九日から自由だ。さあどうすれば、何をしたらいいんだ」
わななくばかりのみずなにゆかりは詰め寄る。
「教えてくれ、後生だから! なぁ、頼む――」
「――死ぬほど……!」
喉元まで迫ったゆかりを、みずなの絶叫が遮った。ゆかりが顔を上げると、みずなの顔は今にも泣きそうだった。震えて、言いたくもないことを絞り出そうとする苦悶の表情だった。
「死ぬほど好きだったなら、そうまでして好きだったなら、死んでみればいいんだ!」
反対に胸を叩き返されながら、ゆかりはみずなの言葉に受けた衝撃で立ち尽くしていた。
「私はそうした! そして今こんなに苦しんでる! 亡くすことの苦しみを思い出して、こんなに! もうすぐ青葉ちゃんはいなくなっちゃうんです、早く青葉ちゃんのことを知らなきゃいけないんです! あなたと、こんなところでくっちゃべってる暇なんてないんです!!」
ガチャリとドアを引き開けて、去り際にみずなは言い放った。
「あなたも苦しんでみればいいんだ! 死んだ方がマシだと思うくらいに!!」
呆然としている間に、みずなの足音は物凄い速さで遠ざかっていった。
真っ白なカウンセリングルームには、力なく開いた両手を見つめるゆかりだけが、
「――死んで、みる、か」
残されていた。
†
「青葉ちゃん、今日はクリスマスイブだね」
自宅に駆け戻ったみずなの第一声は、息を切らしながらという不格好な物ではあったけれど、初めてのみずなからのデートのお誘いだった。
「ん、そうだね」
そっけなく言ったつもりになっている青葉は、しかしどこからどうみてもそわそわしている。
「じゃあ、今日はちょっと特別だね。どこ行こうか」
笑顔を作ってみずなが聞くと、青葉はほとんど飛び上がりそうになりながら答えた。
「え。えーっと、じゃあ、あそこは? この間出来たっていう、新しい遊園地」
「良いね。じゃあ早速行こうか」
かばんを片付けながら青葉に答えると、青葉は頷いてちょこんと座り、みずなを待っている。
デートの準備が必要なのは青葉ではなくて、みずなの方だ。手持無沙汰になる青葉は、小さくなってじっと待っていることが多かった。ただ、その表情だけは物凄く弾んでいて、時々、にへら、とねばねばした笑みを浮かべることもあった。
青葉を伴って駅へと向かうと、すぐに電車がやってきて、六駅ばかり先の最寄り駅で降りた。
駅からほとんど直結するような形で、山間を切り拓いて作られた真新しい遊園地が広がっていた。
「うわぁ、私実は遊園地って初めて来たんだ!」
隣で青葉がはしゃいでいる。
なぜ。みずなの中にはその疑問が渦巻いている。
今日で、青葉が旅立ってしまうまであと一週間だ。デートを重ねるたびに、残りの時間は間違いなく縮んでいく。青葉と一緒にいられる時間は、無慈悲に消えていっている。
悲しみとは、葛藤だ。
好きあっている二人が、別れたいわけがない。それでも別れは容赦なく、時間とともにやって来る。
別れたくないけれど、別れなくてはならない。青葉も、その葛藤を抱いているはずだ。
だから、青葉は悲しいはずだ。そして、みずなも。
そう推論するが、青葉が見せる表情はとても楽しげだ。それが分からない。
みずなは、無表情に見えた青葉がその裏側に、燃え上がるような慕情を、それに伴う強烈な負の感情を隠していたことを知っている。しかし、今の青葉の笑顔が、その延長にある偽ったものであるとは思えなかったし、思いたくなかった。
悪い感情を出来事から帰納するすべを、みずなは手に入れてしまった。
想像が働くがゆえに、もう、何を信じていいのか。分からない。
そんな気持ち悪い状態への不満が募っている。みずなはそれを表に出さないようにずっと笑っていたし、それがまた現状への不満を募らせることにもなっていた。
青葉はそんなことはどこ吹く風、という感じで、始めて来たという遊園地を満喫している。
「みずな、クレープだって」
ほとんど飛び跳ねそうなくらいに躍動する青葉がいた。
そんな青葉がいたことを、みずなは知らなかった。
これが、恋人に見せる本当の青葉の姿なのか、それとも。黙っているうちに青葉がのぞき込んできたので、みずなは思考を打ち切った。
「うん? いいよ。ちょっと待っててね」
「はーい」
近くのベンチに青葉を座らせて、みずなは列に並んだ。
五組ほどがわいわいと並んでいたが、店員の手際がいいのか、すぐにみずなの番になった。
「いらっしゃいませ」と甘ったるい声。
「二つください。おいくらですか」
みずなが上の空で言ったのに、「お味がお選びいただけます」と少し困惑した声が返ってくる。
「……え、ああ」
示された華やかな彩りのメニュー。十数種類のクレープが、並んでいる。
遠出したときに何かを注文するのは、青葉がやってくれていた。だから不慣れではあったが、メニューの中から一つを選ぶのは学食と一緒だ。簡単だ。
「じゃあ、チョコバナナと……」
みずなの分だ。
「それと……、えっと……」
あとは、青葉の分を決めるだけだ。もう一つ、選ぶだけ。
それだけなのに。みずなの目はメニューの上を滑るばかりだ。
青葉がどういうものを好むのか。分からなかった。
それすらも、分からないのだ。
「……二つ。チョコバナナをもう一つ」
気力を振り絞ってみずなは何とかそう言ってお金を払った。
気が付いたときには、店員に商品を手渡されていて、青葉の前に戻っていた。
「ありがと、みずな」
青葉が笑顔で両手を差し出していた。それにクレープを手渡したところで、
「あっ」
青葉のはっとした声と、クレープがべしゃりと地面に落ちた音で我に返った。
「……はは、そうだったそうだった!」
次に飛び込んできたのは、青葉の明るく笑う様子で、それがみずなをまた混乱させた。死を突きつけられた形になった青葉が、こんなに朗らかでいられること。それが分からない。
困惑を隠すためにみずなは呟く。
「……これで四十九日すればよかったね」
「やだよ。次の四十九日はあのパイでやるって決めてたでしょ」
朗らかに笑う青葉に、みずなも笑い返す。
認めざるを得なかった。みずなは青葉のことを、何も分からない。
なら、聞けばいい。しかし、みずなは何度となく口を開きかけては、閉ざしてきた。代わりに青葉の言葉に、行動に笑う。
「青葉ちゃんは、悲しくないの」そんなの、悲しいに決まってる。そう確信しているのも、クレープはチョコバナナでいいと思ったのも、みずなの感覚をもとにした、身勝手な推論だった。
どうして、青葉の気持ちに迫ることにこんなに憶病になっているのか。
みずなが頭を抱えている間にも、青葉の楽しげな声は降ってくる。
「みずなー、あれ空いてるみたいだよ。乗ってみよ?」
青葉が指差したのは、天高くそびえるフリーフォールだった。
「……え?」
みずなは青葉を見つめ返す。
「どうしたの?」
「いや……、あんな高さまで上がるんだ……、って」
尻込みしたのに、青葉が意地悪そうに笑った。
「怖いんだ、みずな」
「怖い、のかなぁ。安全は担保されてるし、別に怖くはないと思うけど」
「いやいや、危険があるかどうかと、怖いかどうかは別物だよぉ。みずなも立派に、何かを怖がれるようになったんだねぇ。感心感心」
「ちょっと、怖くないったら」
大きな声が出たのに、自分でも驚いていた。青葉の言葉に、自尊心からくる不満が沸き起こったのだと気づく。
「だったら、乗ってみようよ。大丈夫だって、私もそばに憑いてるからさっ」
「だから、怖くないったら。それより青葉ちゃんは落っこちたって感じないんだから意味ないんじゃないの」
「意味なくないよ。シートの無いところから落ちるなんて、普通じゃできないでしょ」
それに、と青葉は頬を赤らめて俯く。
「みずなと一緒に落ちられるんだから、なんだって楽しいでしょ」
そう言われたのに、嬉しくて頬が火を噴いてしまう自分がいる。
同時に、青葉の気持ちに触れたいと頭を抱えているみずなもいる。
それを俯瞰していたみずなは、思考を放棄せざるを得なくなった。係員に誘導されて、シートに縛り付けられたからだ。
意外にも締め付けが緩い。こんなもので大丈夫なのか。不安がよぎる。
緊迫の一瞬が過ぎ去る。
潰れそうな加速度を感じる。頬が風を切って、急速冷却される。みずなは歯を食いしばって重圧に耐える。
頂上でふわりと浮いた足が、重力から解放されてむずかゆくなる。
今度は下向きに風を切る。気持ちの悪い浮揚感に鳩尾がシェイクされる。
再び重力に体を支配される。
浮遊感に掻きまわされる。
何度も何度も振り回されて、何も考えられなくなって。
助けを求めるように隣を見ると、青葉は眩しく笑っていた。
†
「あー、楽しかったね」
そうして一日を日が沈むまでたっぷりと過ごして。みずなたちは例の喫茶店でパイを囲んでいた。暖房の効いた、柔らかな白熱灯の明かりが照らす温かな店内が、冷えた体を温めている。
横目で店主を見てみると、彼はちらちらこっちを見ていて、時々ナプキンで目じりをぬぐっていた。
入店してすぐに、青葉は店主に騒ぎを起こしたことを謝りに行った。対して彼は、泣いて喜んで見せた。まともに戻れてよかった、と。四十九日用のパイを無償で提供しようとさえした。それは悪い、とすったもんだした末に、お金は受け取ってもらえた。
そのパイにはスプーンが一匙差し入れられていて、未だ湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
今日も、一日が終わる。青葉と過ごせる一日が終わる。明日も、明後日も終わる。そしてやってくるのは、青葉との別れだ。
中に入っているクリームシチューのまろやかな香りがじわじわと体にしみこんでいく。みずなの中に、わだかまっていく。
青葉は遊園地から帰ってから、ずっと興奮冷めやらぬ様子だった。その眩しさが、みずなの心に影を落としている。肩を落としそうになるのを、みずなは堪える。代わりにため息を吐く。
「みずな、どうした?」
青葉は耳ざとかった。
「ごめんね。ちょっと冷えた」
手をこすり合わせてみせる。
嘘を吐いた。今なら、死の状況を偽った青葉の気持ちがよく分かる。事実を相手に知らせる必要が無くて、あまつさえそれが不利益を生じさせうると判断した瞬間に、人は嘘を吐くのだ。みずなは、そんな後ろ向きな判断ができるようになっていた。
青葉はみずなの手に両手を重ねようとして、苦笑して引っ込めた。
「そっか。ありがとうね。付き合ってくれて」
青葉は、水菜の気も知らずに笑って見せた。
「あ、冷めたね。みずな、食べる?」
青葉の笑顔が嫌に眩しくて、みずなは目をそらすようにスプーンを手に取る。
青葉には、もう一つ隠していることがある。四十九日の供物が欠けたことについてだ。
霊体への供物とは、その実、霊体にささげるものではない。常世の者にはあずかり知らぬ裁定者へ、この霊体はこの世でどれほど愛されていたのか、必要とされていたのかを報告するために、向こう側へと狼煙のように湯気をくゆらせるのだという。
その供養が欠けるということは、青葉にとって何らかの不利益が発生するはずだ。
ただ、何にしたって、それを青葉に伝える必要はない。今更どうしようもないことだし、先行きを不安にさせるのは青葉の幸せにただ悪戯に水を差す行為だ。お互いにデメリットしかなくて、それは怖い。だから言わない。
上唇に冷たい感触が触れる。スプーンが狙いを違えて、口腔よりはるか上を進んでいた。
青葉がそれを見て柔らかく笑う。
「みずな、ぼーっとしすぎだよ。どうしたの? 疲れちゃった?」
「え、ごめん」
慌てて貼り付けたような笑顔を作って、パイを口に運び、もそもそと咀嚼する。
青葉の心痛が、今更、死んでしまいたいほどによく分かる。
伝えたくない真実がある。伝えたい気持ちがある。でも、胸の内に秘める。
内圧がどんどん高まっていく。張り裂けて死にそうなほどに。
みずなはスプーンを置いた。青葉が小首を傾げてみずなの視線に交差するように手を振っている。
「どうしたの、みずな」
「うん。お家帰って食べるから、包んでもらおう?」
おっけー、と青葉はすぐに店主を呼びに行った。
みずなはその隙に、眼窩をそっと押さえて気持ちをおしこめた。
――青葉ちゃん、今、何考えてるの?
その想いは熱を持つ。
――どうして、笑っていられるの?
迂回してきた感情が、行き場を失って過熱している。死の予兆に気づかなかったこと、青葉の恋を踏みにじり続けたこと、そして今、こうして青葉に言わずに悶々と悩んでいること。それらにみずなが感じているわだかまりが青葉の感情に伝播して、影響を与えているように感じてしまう。青葉の不満を煽っているように感じる。
青葉は店主と一緒に戻ってきた。
「やあ、お嬢ちゃん。イブにうちの店を選んでくれるとは、ありがたいね」
テーブルに包んだパイを置いて、店主がフランクな口調で言う。
「ええ、青葉ちゃんの思い出のお店ですから」
みずなは無表情に答える。青葉が少しうろたえるのが、俯いた視界の端に見える。
「じゃあ、そんな巴さんにはこいつをプレゼントだ。受け取ってくれるかな」
みずなは顔を上げた。店主は名刺を渡すような格好で、一枚のカードを持っていた。
「お店のポイントカードだよ、私の」
青葉がおどけた様子で言う。
みずなは肩が跳ねてしまうのを抑えられなかった。
「そう、小日向君が貯めていた分なんだ。最後にここに来た時に、忘れていったみたいでね。君さえよければ是非、小日向君の思い出をだね、引き継いで――」
その先は聞こえなかった。あまりきれいとは言えない青葉の自筆の名前から、目が離せない。
青葉が蓄積してきた、その記憶のアイコンが今、目の前にある。
引き継ぐということは、いなくなるということ。
喪失。差し出されたカードが、それを逃れ難く実感させて――受け入れられなかった。
「――要りません」
勢い立ち上がっていた。
「要りません。青葉ちゃんの他に何があったって。思い出がいくらあったって、意味ないですから……!」
青葉の驚く顔も目に入らなかった。パイをひっつかんで、みずなは駈け出していた。まばらな人の柱をよけながら、駅まで懸命に、一心に走った。電車がやってきて、飛び乗った。
青葉はもうすぐ、目の前からいなくなってしまう。みずなの好きを抱えたまま。そうしたら、この感情を何に受け止めてもらえばいいのか。スタンプカードやぬいぐるみでは役者不足だ。
自宅の最寄り駅から飛び出して、転げるように蓮命寺へ駆け込んだ。
「……どうしたのかしら」
穂乃果は沈痛な面持ちで振り向いた。境内に冷たい風が一筋吹く。みずなの束ねた黒髪が力なく揺れる。
「青葉ちゃんがいなくなっちゃいます」
「そうね。いなくなってしまう」
「何とかなりませんか」
穂乃果の襟首をつかみかねない勢いでみずなは迫る。
対して、穂乃果は。
「残念だけど、何ともならないわ」
「どうしても、ですか。じゃあ私――」
かつて穂乃果に聞いた、最後の選択肢。『相手の死で、忌結びは無かったことになる』。
それが頭をよぎったその瞬間、頬を張られた。
「馬鹿を言っちゃいけないわ」
みずなは初めて見る、鬼気迫る形相の穂乃果がそこにはいた。
「そうすれば、あなたたちは見かけ上永遠になれる。けれど、それを小日向さんは望まなかった。分かるわね」
「望まないわけがない! 別れがこんなに心を重くするなら、それを避けようと最大限の努力をするはずです!」
「違う!」
穂乃果の両手が、肩を掴んで揺さぶった。
「目を覚まして! わけがない、じゃない! 小日向さんは事実、望まなかったの! 別れを受け入れようって、あなたのことを見て思ったのよ!」
「青葉ちゃんは辛くないって言いたいんですか。そんなはずありません! だって私たちは五年間もずっと一方通行で、青葉ちゃんはそれを打開するためだけに死を選んだんだ! そんな強大な願いが、執念が! たったの一週間ぽっちで解消されるわけがない! 適当なこと言わないで! 私は、青葉ちゃんのことならなんだって知ってるんだから!」
「知らない!」
穂乃果が叫ぶ。喉を裂くような裂ぱくの気勢に、みずなはたじろぐ。
「あなた方二人はどうしようもなくお互いの気持ちを知らなくて、それが故に間違い続けてきた。でも、あなたが死体を見出した日を境に、小日向さんは変わったわ。巴みずなと言う存在の中に、自分が確かな位置を持っていたことに気が付いた。
だから今、小日向さんはとても心穏やかだと言っているわ。別れはやっぱり寂しいけれど、みずなの中に私が残るならいいと、そう言ったわ。最後に思い出をたくさん増やして、みずなの中のきれいな私を増やしたいとも言った。今までの私はとても貪欲で、忙しなくて、思い出されたら恥ずかしいから、と――」
「それじゃあ、私の気持ちはどうしてくれるんですか! どうしたらいいんですか! もっともっと謝らなきゃいけないのに、あと一週間しかなくて、青葉ちゃんが楽しそうだから言い出せなくて、本当に楽しいのかどうかも分からないし――」
くらり、とひざが折れる。
穂乃果はみずなを支えてひざを付かせると、自らもかがみこんでみずなに視線を合わせた。
「小日向さんは、そんなこと望んでいないわ」
「……どうして、そう言いきれるんですか」
「人徳、あるいは職能。そう言いたいところだけど、小日向さんの気持ちは普通に見ていればわかる。あなたはこの期に及んでまた、自分勝手にすれ違おうとしているわ」
穂乃果は住職の技である、精いっぱいの包容を見せたつもりだった。
しかし、みずなにとってはそれが逆効果だった。
訳知り顔の穂乃果が覗き込んでいる。
みずなのくらくらする頭に、混沌とした怒りが巻き起こる。
「何を、偉そうに」
「え?」
「すれ違ってなんか、ない!」
穂乃果の手を振り払って、みずなはゆらりと立ち上がる。
「あなたは間違ってる。青葉ちゃんの話だけ聞いたって、青葉ちゃんのことなんか分かったりしない。だって青葉ちゃんが好きなのは私で、私が好きなのは青葉ちゃんなんだから。そのつながりを持っていないあなたに、青葉ちゃんの本当のことなんて分かりっこない。だってそれは、青葉ちゃんの命そのものなんだから!」
白熱した頭は、置いてきてしまった青葉のことでいっぱいになっていた。
早く青葉と一緒に、残された時間を過ごさなくてはならない。
「今、分かった。やっと分かった! 青葉ちゃんが何を考えてるか分からない、なんて言っちゃいけないんだ。私にしかそれは分からないんだ。私なら分かるんだ! 早く帰らなきゃ、一緒にいてあげなきゃ。だって私はそうしたいと思ってるし、青葉ちゃんもそう思ってるんだから!」
「……! 待ちなさい!」
スニーカーがアスファルトを力強く掴む。
氷点下に迫ろうかという気温の中で、上気したみずなの頬は少しも冷めることはない。
交差点の一つ一つがもどかしい。
全力で走って五分も経っただろうか。
アパートが見えたところで、みずなはさらに加速した。
扉に取りついてガチャガチャとサムターンを鳴らして、扉を開け、一口しかないコンロとユニットバスの入り口を横目に、居室へ転がり込んだ。人感センサーすら一瞬遅れた。
「おかえり、みずな。遅かったね」
部屋の真ん中のちゃぶ台には、青葉が座っている。こちらを見て、優しい笑みを送ってくれている。
みずなはかばんを部屋の隅に放った。壁に当たって落ちる。鈍い音がする。
「みずな……」
驚く青葉に駆け寄る。抱きしめようとする。
けれども、勢いがついたまま前のめりに倒れてしまう。
「みずな……! 大丈夫!?」
「大丈夫……じゃない」
うつ伏せに転がったままみずなは呻く。
「大丈夫なわけないよ。青葉ちゃんと、あと一週間でお別れなんだから」
「みず――」
「とても耐えられる気がしないよ。青葉ちゃんがいなくなっちゃうなんて。ねぇ、どうして青葉ちゃんは、ニコニコ笑っていられるの? 死んでまで私と一緒にいようとしたのに、どうしてお別れする、ってときになって、平気でいられるの?」
くぐもった声で聞く。
「私に思い出が残れば、それで満足なの? 私は嫌だよ。思い出の中だけでしか青葉ちゃんに会えないなんて。ねぇ、どうなの。どうなの!」
言葉の勢いを借りて跳ね起きる。
青葉はすぐそばに粛と座っていた。
そして、さめざめと泣いていた。
「青葉ちゃん」
「……みずなは、そう思ってくれてるんだよね」
「うん」
「正直に言うとね。私はそれが、すごく嬉しい。みずなが私のために感情を揺らしてくれていることがとても。だって私は、そのために死んだんだから」
「だから、笑って別れられるって言うの? あんまりだよ、自分勝手すぎるよ! 青葉ちゃんを私は亡くして、そのまま生きるんだよ!?」
「だから、だから!」
青葉の首元に詰め寄ったみずなは、しかし青葉が両手を振りおろして大声で遮ったのに口を閉じた。
青葉は絞り出すように言う。
「一瞬一瞬大事に、きれいな私を刻み付けて、みずなには楽しい思い出を持って行ってほしいと思ってた。私もみずなの事を少しでも多く見たいと思ってた。でもね」
青葉がにじり寄ってくる。濡れた涙の気配が膨出する。溢れ出す。
「もう我慢できない。つらいよ。別れが。気持ちがつながった今だから、つらい。このまま別れなくちゃならないのが」
みずなは目を見開く。
「願いがかなってうれしいはずなのに、そのせいでつらくて、何が何だか分からなくて――みずな、離れたくないよ」
「青葉ちゃん……!」
心音が共鳴するのを幻聴する。
みずなは青葉ににじり寄る。
「一緒にいて……みずな」
ふわり、と青葉が覆いかぶさってくる。青葉の丁寧に手入れされたしなやかな髪がなびいて、あのころに馴染んだいい香りが感覚を満たしていく。
抱き合って交差したみずなの目の前には、青葉の形のよい耳が見えている。みずなはそれに歯を立てようとする。青葉が身じろぎする。
くすぶり出した体の芯が二人を一度引き離して、お互いを見つめ合わせた。
そしてすぐに、再び一つになる。
感触の無い口づけを、心の経路を通しながら繰り返す。目を閉じていれば、そこに相手はいて、触れた唇の柔らかさを、彼女の体温を思い出すことができる。
どちらからともなく横たわっていた。時折瞼を上げて、相手も自分と同じように涙を流していることを確かめて、その雫を触れ合わせるように深く、熱く想いを通わせる。
みずなも、青葉も、一つになっていた。残された時間をただ二人だけのために使おうと心に決めたのだ。余計なことは一切を捨てて、ただ、相手だけを見つめて。
みずなは着衣を脱ぎ捨てる。青葉は最初気おくれしていたが、すぐに露わなみずなの体に夢中になる。青葉の体もまた繊維がほどけるように裸体へと還元されていく。誰にも見せたことの無い部分をお互いに惜しげなく晒して、見つめ合って、特別の熱に浮かされながら二人は絡み合っている。
記憶は上塗りされて、厚塗りされて、次第にはっきりとした形を持つようになった。触れあっている感触すら幻覚するようになった。
一瞬ごとがまるで永遠のようで、それでも長い長い時間が流れて、テレビも携帯電話も、ずっと沈黙していた。
だから、その日は唐突に訪れた。
はぁ、と息をついて、青葉を求めて顔を近づけると、冷たいフローリングに唇が降れた。。
目を開けると、そこには誰もいなかった。
反射的にテレビを付けた。
重厚な鐘の音が響いていた。
呆然としているうちにもう一つ、鐘が鳴った。
大晦日を過ぎ、年が変わっていた。
青葉の忌は、丁度年の瀬に明けたのだ。
体の中に残る熱が、荒ぶっていた。
小日向青葉はもういない。身をぎゅうと抱く。湿った吐息が漏れる。細い指が熱情を求めてさまよう。露わな白磁の肌が波打つ。震える。
――除夜の鐘が煩悩を払ってくれる、なんて、嘘っぱちだ。
こんな割れるような鐘の音の中で、巴みずなはただ、一人になった。
ただ一人になった。どちらを向いても、小声で呼ばわっても、あの恋人はもうどこにもいやしない。
会いたい、そして続きをしたい。
この気持ちに気づいたときには、残された時間はあまりに少なかった。
否、四十九日という時間をすべて注ぎこんだとしても、きっと足りなかった。
低い呻き声が聞こえる。自分の声とは、とても思えない嘆きが。
頬を伝う違和感をそっと拭うと、指先が微かに濡れた。
「涙……」
熱い雫だった。
これが別れ。
この痛みが、愛情。
「青葉ちゃん、私ね――」
滔々と湧き出す涙は流れるに任せて、白いぬいぐるみに顔を埋めた。それは意外なほど、青葉と共にあった時よりもずっしりと重い。今、みずなが半身を失ったせいだ。二人力に心地よい重量は、一人で持つには重すぎる。
体に熾った熱が、容赦のない冷厳な真冬に奪われていく。
「……青葉ちゃん、ありがとう」
そう呟いたのを最後に、みずなの熱を帯びた意識は、排水溝に吸い込まれるようにゆっくりと薄らいでいく。
除夜の鐘が煩悩を払ってくれる、なんて、嘘っぱちだ。
つけっぱなしのテレビから、最後の鐘の音が空しく響いていた。
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