第20話

 取調室が小さくて四角いのは、被疑者に圧迫感を与えて心理的負荷をかけるためだと何かの本に書いてあった。みずなは唐突にそれを思い出して、すぐに打ち消した。目の前に座っている取調官は温厚そのもので、取調に抱いていた圧迫するような意志は全く感じなかった。

「では、話を整理すると」取調官が言う。

「住職の力を借りて、あなたはご友人の小日向青葉―今回の被害者ですね――を思いの根源に封じた。その場所には偶然にも小日向の死体があり、あなたはそれに……」

 陰鬱とした空気が澱む。

「口づけをした、と。そしてすぐに警察に通報した。それであっていますか?」

「すぐに、と言うのは正確ではないかもしれません。小日向青葉の霊体が泣き止むまで待っていましたから」

 みずなはすぐさま訂正する。

「はい、泣き止むまで待った、と。その間は何を?」

「小日向の頭をなでる真似をしていました。その方が安心するかと思って」

「はい。そうですか」

 取調官がパソコンを叩いている。

 みずなは何を聞かれてもすぐに訂正できるように、記憶を手繰る。青葉との再会の喜びで飛んでしまった部分を思い出そうとする。

 調書とは、危険な物だ。それの記述が被疑者の――この場合はみずなの、見聞きしたことすべてになってしまう。今回はそもそも青葉の自殺なのだから、この調書が日の目を見ることは恐らくないだろうけれど、万が一ということもある。間違いの無いようにはしておかなければならなかった。

 取調官は訂正を終えて、パソコンから顔を上げた。

「ご友人なのに、何も相談を受けることはなかったのですか?」

 そして、そう聞いた。

「はい?」思わず聞き返す。

 完全に想定の外だった。そう聞かれたことももちろん、その発想そのものが。

 取調官は表情一つ変えずに、ぶしつけな質問を繰り返した。

「ご相談を受けることはなかったのか、とお伺いしているのです。その、死体に口づけられるほどの仲であるのに、まず死に際して事前に相談――あるいは、小日向さんが出していたと思われる兆しに気が付けなかったのは、どうにも不自然だなと思いましてね」

「それが本件と何か関係ありますか」

 動揺を押し隠してみずなは聞き返す。

「ええ、あります。小日向さんが自殺であるとは、まだ確定していないからです。あなたがその話を聞いていないということで、より一層疑わしくなりました。巴さん、あなたの立場もね」

 取調官は無表情だった。

「巴さん、もう一度だけ聞きますよ。小日向さんは、どうして死んだんですか?」

「自殺です。これは小日向の証言ですし、間もなく裏が取れることです。それより、先の質問は不当で――何を記録しているのですか、見せてください」

 キーボードを叩く取調官に詰め寄る。

 みずなは焦っていた。

 青葉の行動を、受け入れながらまだ納得できていない自分がいた。

 どうして、死んだのか。

 みずなが殺したも同然だ。

 生きることは、みずなに好かれることだと青葉は言った。そのために青葉は命を捨てて、新しく生を得ようとした。

 しかし、選択したとはいえ、それは命という巨大な権利を投げ捨てて、不利益を甘受する行為である。その原因であるみずなに、青葉は怒っていても不思議ではない。目的が遂げられた今なら、なおさらだ。

 理屈が繋がるにつれ、もやもやとした気持ちが頭の中を満たしていく。それが表情に出てしまったのか、取調官が更に質問を重ねる。

「思い当たる節があるんじゃないですか。どうなんです?」

 慇懃無礼な口調が癇に障る。不満が募っている。

 語られたことで、青葉の気持ちは理解できた。

 しかしその他には? 現に青葉が何を考え、思い詰めていたのかさえ、みずなには言われるまで分からなかったのだ。

 そのことに葛藤しているのは私自身だ。

 ――私は青葉ちゃんの、何を知ってるんだ?

「……みんな知ってます」

「というと?」

「青葉ちゃんのことなら、何でも知ってます。私は何でも知ってます!」

 想像以上に大きな声が出て、みずなは口を押える。

 葛藤に水を差されたことが、我慢ならなかったのだ。そう遅れて気づく。これはどういう気持ちか。検討する余裕は今はない。

 取調官が淡々とパソコンを叩いている。

 そして口を開く――


 ――ガンガン、と扉がノックされた。

 取調官が外に出て、すぐに戻ってきた。

「……取調は終わりです。お疲れ様でした」

「はい?」

「ご自宅までお送りしますから、外の職員に付いて出てください」

 そう言って、取調官は立ち上がってドアを開いた。

「さぁ、どうぞ」

 促されるままに外へ出ると、制服姿の警官が立っていて、みずなに付いてくるよう言った。

 廊下を先導されながら、みずなは俯いていた。取調官に開かれた疑念が胸を渦巻いている。

 ――私は青葉ちゃんの、何を知ってるんだろう……。


  †


 青葉が話を終えると、満田は一度深く頷いて、ため息を吐いた。

「ふーん。そうか、そうか」

 頷いて見せる。そして何を言うでもなく、みずなの部屋から出て来た鑑識を呼び止めて、何か小声で囁いて笑いながら肩を叩いたりしている。

 それが満田という住職の在り様らしかった。本当にただ受け流すだけの存在であるらしい。

 青葉は減ったのかどうかわからない心労を抱いたまま、壁を背に蹲る。

 青葉のはす向かいに、携帯電話をしきりに確認する満田がいた。その忙しない様子が住職という職業と結びつかなくて、この人は住職というより警官なんだ、と認識を改める。

 満田は何度目か分からないほど携帯電話を開いて、そして眉根にしわを寄せていた。

「悪いね。普段より時間がかかってる」

 そして口を開いた。

「……いえ。仕方のないことです」

 青葉は諦めきった口調で答えた。

「随分素直になったな」

「ええ」

 投げやりに言ったのに、満田は苦笑した。そして右のまゆを少し上げて、

「しょうがないな。仕方ないからついでに少しだけ説教でもしようと思っていたのに」

「え?」

 青葉が聞き返してしまうと、少し意外そうな顔をして満田は言った。

「巴さんを殺そうとした話だよ。ちゃんと聞いてたよ、私は」

 意外そうな顔をしてしまったのは、青葉も同じだった。「はい」とすぐに神妙な顔をしてみても、この男がどんな話をするのだろう、と内心首を傾げてしまう。

 疑念をよそに、満田は口を開いた。

「仏門には何もかもを煩悩だと言って切り捨てる連中がいるが、それには私は反対でね。犯人を殺してやりたいと思うこと、遺された家族を思うこと、人の思いにはそれぞれ価値がある」

 窓から差し込む日差しは、すでに夕暮れに染まりつつあった。

「何はなくとも、未遂なんだ。巴さんは生きている。ならば、あとはあなたがどうしたいかだ。殺そうとしたことを償いたいと思っているのか、それとも受け入れてほしいと願っているのか。いずれにせよ、解消されない欲求は未練になる。住職としても、あなたの将来を思っても、それは避けたい。じゃあどうするか? この世で解決するしかない」

 満田はそれだけ言って、夕日を背負って青葉を見下ろした。

「どうしたい? おっさんに言えるのは結局のところそれだけだ。正直に過ごすのが一番さ」

 満田がそう言い終えたのと、携帯電話が着信したのはほぼ同時だった。

 電話を切った満田は、青葉に笑いかけた。

「……懸案の彼女だが、お住まいのアパートへお送りしたそうだ。死体の状況があなたの証言とほぼ一致した。それに、そこから出てきた学生証と、あなたの顔が一致したのでね」

「本当ですか……!」

「場に縛る力は、今しがた切らせてもらった。行くなら、行くといい」

「ありがとうございます!」

 不可視の壁があった境目に手を伸ばすと、青葉を阻むものは何もなかった。

 うなずいて、青葉は一歩、踏み出す。

 みずなの家の懐かしい廊下が、色を失って崩れ去る。外の景色も、夕焼け空も日の光も消え去って、残ったのは一本の光の道だ。

 みずなへと続く、青葉だけに許されたただ一本の道。

 その終端でみずなと会って、どうしようというのだろう。青葉は俯きながら思う。

 残された時間はあと一週間ばかり。そしてみずなは青葉を好きになったという。

 それなら、その幸せな時間を高い密度で甘受することは、お互いのためになるのではないだろうか。

 もちろん、殺そうとしたことを水に流せとは言えない。

 それでも、みずながそれを、許してくれたなら。

 可能な限りの思い出を、みずなにあげよう。

 青葉は顔を上げて、光の道の終点を見据えた。

 やがて終端で光が弾けて、世界が形を取り戻す。次の瞬間には、

「青葉ちゃん、お帰り」

 みずなの声が聞こえた。まだ真新しい、二人の住処だった。

「お疲れ様、みずな」

 青葉も笑い返す。温かな笑みが部屋中を満たしていく。

「ありがとう。さっき業者さんから連絡があったよ。青葉ちゃん、もう焼けちゃったって。これからお骨の受け取りに行くけど、一緒に行く?」

「行くよ、もちろん。私の骨でしょ」

「じゃあ、早速だけど出ようか。ちょっと着替えするから先出てて」

 笑いながら、みずなは紺色のダッフルコートを脱いだ。

 コートにしみ込んだ腐汁は、青葉の体から染み出たものだった。青葉はいたたまれなくなって、あいまいな返事をして外へと滑り出た。

 夕日はほとんど沈みかけていた。生前のこの時間を思い出して、青葉は身を震わせる。みずなが適当な格好で出てきたら、きちんとさせなければならない。

 二人に残された時間は、あと一週間ばかり。風邪なんか引かれて寝込まれては適わない。

 両手で頬を覆うと、閉塞した体温が体に戻っていって、温かな気持ちに包まれていく。

 この温度をみずなにも、感じてもらいたい。青葉は決意をため息に込める。

「青葉、これで良かったの?」

 その時だった。唐突に投げ込まれた一石に、青葉は勢い目を開く。

「真瀬さん!」

 黄昏時の闇に溶けるように茫と、さくらが立っていた。

「見てたよ。殺せなかったんだね、巴みずなのこと」

「どういう意味……!」

 青葉はさくらに詰め寄る。しかし、彼女の様子に違和感を覚えて、気勢をそがれてしまう。

 さくらは今にも泣きだしそうな、沈痛な顔をしていたのだ。

「私は教えたよ、青葉」さくらがぼそりと言う。

「巴みずなと一緒にいたいなら、一緒にいるのが幸せなら、殺して霊体として一緒になるのが一番だって。そうすれば永久に一緒にいられるって。青葉は一度、確かにそう思ってくれて巴みずなを手に入れに行った。でも、今は違う。それでいいの? 私はそれを確認しに来たの」

 さくらは一歩前に出て、青葉に視線を這わせた。そして目を合わせて、改めて尋ねる。

「それでいいの? 巴みずなともう二度と触れ合うことが出来ない。それで満足できるの?」

 青葉は俯く。

 そして、絞り出すように言う。

「……良いんだ。ごめん」

「本当に? 今、心は繋がったんじゃないの?」

 さくらの言葉が冷たく切り込んでくる。

「言ってたよね。心がつながらないと思ったから、青葉は死を選んだ。別れと引き換えに無理矢理つなげようとした。でも、今。巴みずなと青葉は繋がったんだ」

「そうだよ。だから……」

 今、とてもうれしいんだ。そう答えかけたところに、

「なら、青葉が消える必要ないじゃない」

「……え?」

 さくらは青葉の目を見つめたまま、諭すように黙りこくっている。

 沈黙の中で、さくらの言葉だけが反復する。それは次第に大きな共鳴となって、いよいよ形を持った衝撃が、青葉の幸せに浮いた心を、打ち砕いた。

「あ……」

 こぼれ出した暗黒の感情が、春色だった心模様を塗りつぶしていく。

 今、青葉の死は、その目的を失ったのだ。

「そうでしょ? 四十九日を待たなくても、巴みずなは青葉のものじゃん」

 淡々と言い募るさくらに、青葉は答えることが出来ない。

 今や、結果だけが残った。みずなは青葉を愛してくれている。それは命を対価にしてなされるはずのものだった。

 命ある間には決して手に入らないものだからこそ、青葉は死を選べたのだ。

 しかし求めていたものは、目の前にある。

 青葉はみずなと永遠に別れることになる。繋がった心を、むざむざと切り離して。

 忌結びをしたあの日、扁額の前で感じた居心地の悪さ。それは目的と手段の齟齬だった。みずなに元に戻って欲しいという願いと、青葉の死の目的は矛盾していた。さくらに言われて、それがはっきりした形を持って青葉の前に立ちはだかる。

 青葉が言葉を詰まらせているのに、さくらの声が追い打ちをかける。

「今気づいたって感じだね。やっぱり話しに来てよかった」

「……よかった?」

「そ。私はね、青葉が一番幸せになる方法を選んでほしいんだ」

「一番、幸せに」

「うん。巴みずなと、別れたい?」

「嫌」

「そうだよね。じゃあ、どうしたらいい?」

 ざり、とさくらが一歩踏み出す。

「本当の気持ち……青葉がしたいこと、聞かせてよ」

 真っ黒に染まった思考の闇に、一筋の真紅の糸がするすると下りてくる。

 息もできないほどの閉塞した暗黒にあって、それは限りなく血色に近い赤だったが、まばゆく煌めいていた。

 誘蛾灯に惹かれる様にふらふらと、青葉は救いの糸に手を伸ばす。そして、


「――駄目……」


 わずかに残っていた理性が、青葉を引き戻した。

「駄目?」

 さくらがおうむ返しに問う。

 額にへばりついていた指を頬へ這わせ、ゆっくりと手を下ろすと、悲しそうな顔をしているさくらがそこにいた。

「このまま永久にお別れしてもいいってこと?」

「……いい」

 捩じりあげられた金属が上げるような鈍い悲鳴を、青葉は絞り出す。

「一緒にいられないのは悲しい。けど、みずなには私と違って、私が好きなこと以外の世界がある。それをみんな私のためだけに奪っちゃうのは、冷静に考えたら無理だよ。私はみずなのことが好きで、幸せになって欲しいと思ってる。それが私の幸せと違っても、構わない」

 さくらに口を挟ませないように、一気に青葉は吐き捨てた。

 納得しなければならないことを無理矢理読み上げたのだ。途中でさくらが言葉巧みに何か言ってきたら、今度こそ壊れてしまうと思った。

 それでも、言いながら、胸が張り裂けそうになっていた。別れを生身で受け入れることの苦しみは、事故の前のみずなを見て分かったつもりになっていたけれども、今の青葉はその痛みをこらえるので精いっぱいだった。

「本気? 青葉」

 さくらが息のかかるような距離に立っていた。

 頷いて見せると、さくらは目を伏せた。そして、青葉の耳元に口を寄せて、

「感情を殺すことは、出来ないよ」

 躊躇いがちにささやいた。

「巴みずなの前では笑っててもいい。でも、どこかで本当の気持ちを受け入れて、納得しておかないと、壊れちゃうからね。それだけ気を付けて」

 そして踵を返して、駅とは反対の方向へと去っていく。

「真瀬さん」その背中を、青葉は呼び止めた。

「唆されたとか、そう言うつもりじゃなくて。どうしてみずなと私を一緒にしようとしたの」

 さくらはぴたり、と足を止めた。そして振り向いた。ようやく点いた街灯に、さくらの顔が照らし出された。

 さくらは、一筋だけ涙を流していた。

「本当に、巴みずなしか見てなかったんだ」

「どういう……」

「一石二鳥だったから」さくらは青葉に口を挟ませなかった。

「だから、青葉がそれでいいって言うなら、もう巴みずなには関わらないよ。安心して」

 さくらはゆっくりと進行方向に向きなおって、

「さよなら、小日向青葉」

 それだけ言って、走りだした。さくらは一度も立ち止まらず、あっという間に曲がり角の向こうへと消えていった。

「さよなら……」

 残された青葉は冷たい喪失感を胸に、薄明かりの中佇んでいた。

 冷たい別れの言葉。それが青葉の中にしみこんでいくにつれて、今まで目を向ける必要もなかった事実が、目の前に立ちはだかっていることに気づいた。

 別れは目の前にずっとあった。

 そこに這いあがっていくのか、転げ落ちていくのか。その違いでしかなかったのだ。

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