第19話
みずなが呼んだ警察がやってきた。
警察官たちは慣れているのか、こんな死体を見ても無表情だった。「検視をしますから」とみずなを部屋の外に促して、すぐに作業が始まった。
青葉は少しだけそれを眺めていて、そそくさとみずなのところへ戻った。
みずなは廊下に座っていて、青葉が出てくるのを見ると柔らかく微笑んで見せた。
胸を撃ち抜かれたかと思った。明かりとりの窓から差し込む太陽光がぼんやりとみずなを横から照らしていて、みずなの表情にはありえない暗い影が差しているように見える。それが艶めかしくて、間違いなくみずな五指を更新する名笑顔だった。
「青葉ちゃんも追い出されたの?」
はっと我に返る。熱くなった頬を押さえながらみずなの隣に座る。
「いや、勝手に出てきた。何か嫌で」
「死体を見られてるのが?」
「それもある。けどね」
「けど?」
「うん。えっと……」
横目でみずなを見る。みずなはきらきらとした期待に満ちた目でこっちを見ている。
一瞬、躊躇った。しかし、
「青葉ちゃん、私は知りたいよ。何でも、悪いことでも」
そうみずなが促すのに、青葉は意を決して口を開く。
「あのね、薄まるから」
「薄まる?」
「そう。私が死んだ意味が、すごく薄まるような気がしたんだ」
青葉はみずなの目を捉えた。不思議そうな、それでも興味に輝いた瞳だった。背中を押されるようにして、青葉は続ける。
「私も驚いてるんだけどね、警察の人が入ってきたとき、私は怒ってた」
「うん。怒ってたのね」
「それで、何でかな、って思ったんだけど……、やっぱり恥ずかしいな」
「笑わないよ。青葉ちゃんの好きの形だもの。聞かせてよ」
俯いてしまう青葉の頬に、みずなの手がそっと添えられる。
感触は当然ない。ただ、そこにある温かさはしっかりと青葉に伝わる。青葉がこれからどんなことを言ったとしても、みずなは受け入れようと言っている。みずなの好きの形は、そうなのだ。
青葉は意を決して、大きく息を吸い込んだ。
「……私は、みずなと一緒にいるために死んだ。みずなが忘れちゃった私への気持ちを、四十九日で焼き付けて永遠になるために」
「……」
青葉は焦りながら続ける。
「だから、死んだところをみずな以外に見られたくなかったんだ、と思う。私が命を捨てたのはみずなだけのためで、他の人が私の死を共有するのは、何か、秘密がばらされていくようで、私の想いが薄まっていくみたいで……」
焦燥に煽られながらそこまで話して、青葉は口ごもってしまう。
みずなは――というより、一般人は、自死を選択肢としては認めない。それは異常であり、考察の対象だ。そしてほとんどの場合、常識から排斥される。
何でも受け入れるとは言ったが、常識から外れた思考を受け入れる用意はみずなにあるだろうか。言ってしまってから、青葉は不安に襲われていた。「それは理解できないよ」なんてきっぱりと言われてしまったら、どうすればいいのか。
みずなの意味ありげな沈黙が、更に心許ない気持ちをかきたてる。こちらを見つめたまま、例の人差指を下唇の下に当てる動作をしているのだ。考えている。青葉の言葉の意味を。
「……ごめん、意味わかんないよね」
遂に居たたまれなくなって、青葉は顔を真っ赤にして俯きながらそう呟いていた。
しかし、その唇にみずなの指が伸びて、それ以上青葉に何も言わせなかった。
顔を上げると、みずなはゆったりとほほ笑んでいる。
「整理できた。青葉ちゃんは、私の記憶に残るために、自分で死んだ。そうだね?」
「う、うん」
「前にカウンセリングでその話が出たことがあってね。疑問だったんだ。生命は生きるための存在で、自ら命を絶つっていう行いは存在の理由と矛盾するから」
みずなの諭すような、一歩一歩足元を確かめながら進むような言葉を、青葉は鳩尾を抉られるような気持ちで聞いている。
やはり、常識の外だったのだ。
「でもね」
しかし、みずなは力強く言って、首を横に振って見せた。
「今、分かった。大事な命を放棄して、生きる。矛盾するようだけど、青葉ちゃんがどうして死んじゃったのかは、分かった」
目と目が合う。吸い込まれそうに煌めくみずなの瞳が、息のかかるような距離に近づく。
「青葉ちゃんにとって、生きることは私に好かれることだったんだ」
みずなはそう言って、目を細めて笑って見せて、唇をそっと近づけた。
柔らかな体温を、幻覚した。
息を呑んだ青葉は、みずなの腕が首の後ろに回されていることに気づく。唇にある心地よい温度が青葉の塞ぎかけた心を溶かしていく。
静かな一瞬だったかもしれない。ただ、その口づけは長い時間を一息に駆け抜けて、現在の青葉に追いついた。
優しい腕の中で、青葉は今泣いてはならないと堪えていた。
それでも一筋涙が落ちてしまったら、もう止まらなかった。みずなの腕の中で、青葉は声を上げて泣いた。やかましくて、でも躍動していて、まるで産声のようだと思った。
みずなは青葉が泣き止むまでそうしてくれていて、目を真っ赤にした青葉がはにかんでいると、頬を少し赤らめて、笑って見せた。
「えへへ、びっくりした?」
「びっくり、したよ。本当に」
「久しぶりすぎて?」
「うん」
「ごめんね」
友人の距離に戻って、みずなは眉根を寄せて口角を下げた情けない顔をしていた。
みずなの謝意の表現が可笑しくて、青葉は堪え切れずに笑った。
そして、青葉の視界は、唐突に真っ暗闇になった。
「……!?」
身をよじって立ち上がると、青葉のいた空間には警官が立っていた。
「任意同行、ということですか?」
みずなが立ち上がって尋ねる。
ざわ、と背筋に寒気が走る。その言葉は門外漢の青葉も聞いたことがあった。警察が誰かに事情を聴くときに使われる不吉なフレーズだ。事情を聴く――事情聴取。その響きは、青葉の知識の中では、すなわち犯罪者への処遇そのものだった。
「みずな……!」
声を荒げた青葉に、みずなは鷹揚に応じる。
「大丈夫だよ。任意同行なんだから、帰りたいって言えばいつでも帰れるよ。それに後ろ暗いことなんか一つもないもん」
みずなは警官に向きなおって、頷いた。
「じゃあ、行きましょうか」
そうしてみずなは、警官と一緒に階下へ消えていった。
青葉が口を挟む余地は、どこにもなかった。
「あ、ああ……」
しばらく呆然としていた青葉は、はっと気が付いてみずなの後を追おうとした。しかし、向こうの階段へ伸びているはずの廊下は目の前に不可視の固い壁があって、部屋の前から一歩も進めない。
「なに、これ」
硬質な斥力にこぶしを叩きつける。何度も、何度も。しかしその障壁はびくともしない。
青葉は自己嫌悪に追い立てられて焦る。
みずなが連れていかれたのは、死に場所をここに選んだ青葉のせいだ。
言い換えれば、本人の口から自殺であると誰かに伝えられれば、それがみずなにとって一番の助けになる。しかし奇妙な力によって、それは出来ない。
不可視の壁に崩れ落ちながら、青葉は両手で顔を覆って俯く。
「ごめん、みずな……」
青葉の死を責める声が聞こえる。想い人のことを顧みずに実行した死なのだから当然だ。
目の前が暗くなる。目を閉じて首を振ってみても声は消えない。
「み、みずな……」
手が震えだす。視野が閉塞して過剰に鮮やかになるのを再体験する。
焦りが青葉を、再びあの暗闇へと駆り立てようとしていた。
その時だった。
「もしもし、そこのお嬢さん」
青葉は唐突な優しい声に顔を上げる。
気づけばひょうきんな顔立ちをした壮年の男が、青葉を見下ろしていた。その場には他に女性がいなかったから、青葉が声を掛けられたのだと気づいた。
「見えるんですか?」
飛びつくように、青葉はその男に詰め寄った。
「ここから動けないんです……! 何とかしてください!」
青葉は息せき切って頼んだ。知り合いでないこの男が、青葉のことを見ている。それは、彼が住職であることの証左だ。
この場に住職が現れたこと、その機会を逃してはならない。青葉は藁にも縋る想いで長身の男を見上げた。
「まぁ、落ち着いて」
住職は優しく笑いながら警察手帳を取り出して見せたが、青葉の目にそれは入らない。
「早くみずなに追いつかないと、どうなるか分からないんです! お願いです、ここから出してください!」
焦りを飛沫のようにまき散らす青葉に、住職は笑うのを止めて、大げさに肩をすくめた。
「ふむ。やはり楽にはいかないね、霊体の相手は」
そして、青葉の額の真ん中を指さして、一言念じて見せると、
「何とか……、あ、あ……?」
半狂乱になっていた青葉は喉を絞られたようなとぎれとぎれの声を発して、そのまま動けなくなった。
住職がやれやれとため息を吐くのを、青葉は固まった視界で見ることしかできない。
「さて、事情聴取を始めさせてもらおうかな」
住職はもう片方の手で警察手帳を取り出して、青葉の視界にかざして見せた。満田利行という警察官は、青葉を見て微笑む。
「この聴取の結果によっては、今連れていかれた子を即座に解放してあげられるかもしれない……と言ったら、協力してくれるかね?」
そう尋ねられたのに、青葉は頷こうとした。けれども体が動かない。声も出ない。
住職はそんな青葉の何を見たのか、深く頷いて青葉から指を離した。
「――――っ、はぁ、はぁ」
不可思議な拘束から青葉は解放される。体に残った緊張を吐き出している間に、満田は柔らかく話し始めた。
検視には可能な限り、警察付きの住職が同伴するのだという。犠牲者の霊体がその場に留まっている可能性があるからだ。満田のような警察の住職は、現場の霊体と対峙し、話が聞けるようであれば簡易な事情聴取を行い、霊障を振るう状態であれば相応に対処するのだという。
「さて、死体の主さん。あなたのお話を聞かせてくれるかな」
青葉は満田に情報をぶちまけた。
私は小日向青葉、そこの死体の本人であり、十一月十二日に、そこで睡眠薬の過剰摂取による自殺を試み、成功した。そんなことをつっかえながら早口で言った。
満田はそれを手帳に書き留めた。
「自殺、ね。でも、表札と苗字違うね。どうしてここにいたの」
「巴さんと仲が良くて、鍵をもらっていたからです」
「それ、身に着けてる?」
「多分」
「死んだ当時の所持品を、覚えてれば聞かせてもらえるかな」
「鍵の他にはケータイと財布と、砕いた薬を入れてきた瓶だけです。あと、水」
「どんな?」
苛立ちをぐっと押さえる。この住職に伝えたことが、そのまま青葉の証言になるのだ。可能な限り詳しく話さなければならない。
「ケータイは白いスマートフォンで……、秋モデルの、カメラ性能に定評のある会社のです。財布は小銭入れでカードを入れるポケットがあって、身分証明書はそこに入っています」
「そう。忌結びは済んでいるかな? そうなら、誰と?」
「巴さんです。さっき参考人として連れていかれた子です」
「ああ。なら話は早い。早速本部に伝えさせてもらうよ」
そう言って、満田はにっこりと笑って携帯電話を取り出した。
「あの」
青葉はとっさに呼び止めていた。満田は振り返って、首を傾げた。
「何か言い残したことが?」
「この場所から、解放してください」
青葉は、今度は冷静を装って言った。それに満田は即座に事務的な声で答える。
「いや、駄目だな」
「……! なぜですか!」
青葉は即座に反駁する。
満田は不思議な男だった。優しげな笑顔からは、とらえどころのないつるつるの声。ひょうきんな表情。それらが彼の考えを覆い隠して、全く読ませない。
そんな不可解なところから、先に体験した住職の力が飛んできたことで、青葉は正直な所この男が恐ろしくて仕方がない。
けれども、ひるんでいる場合でもなかった。
青葉が決然と見上げたのに、満田は笑顔のまま、こちらを見下ろしていた。
「危険だから。知人が聴取を受けている様子は感情を揺らしてあまりあるようでね。現場で発見した霊体はすべて拘禁しておくことが、私たちの仕事の一つになっているくらいだ」
「そうかもしれませんが」
「しれませんが、何だい。あなたの話を聞けるのは私だけだし、どのみち、自分の感情を扱えていない霊体を野に放つわけにはいかない」
満田は淡々と言って、
「でも、それは彼女の聴取が終わるまでの間だ。それもあなたの証言と合わせれば、すぐに終わるだろうね。さあ、いいかな? 電話を掛けさせてもらっても」
満田はそう言い切って、電話を取り出して話し始めた。有無を言わせぬ様子で、青葉は仕方なくはらはらしながらそれを聞いていた。ここから動けないということをすんなりと受け入れられたわけではない。ただ、結局駄々をこねたところで無駄なのだ。みずなの命運は今、満田の声に委ねられていた。
満田の語ったことは青葉の証言に正確だった。すぐに電話は終わった。
「……さあ、お終い。あとは折り返しの電話がかかってくるのを待つだけだ」
満田が笑いかけてくるのに、青葉は答えなかった。満田は気に障った様子もなく、廊下の端に寄って、クリーム色の壁紙に寄り掛かった。
「それにしても、場に縛られるとは。一体何をしでかしたのかな」
不可視の壁に手をつく青葉に、満田はため息交じりに尋ねた。
「言いたくなければそれでもいい。ただ、話してみると楽になることも往々にしてあるからね。話を聞くだけなら、私は得意だよ」
満田はそう言ったきり、黙り込んだ。
住職という存在の、心を読み取る力。それに青葉は驚かされ続けている。
心のつかえがあることを、的確に見透かされるのだ。
そして、満田はやはり住職だった。底知れぬ恐ろしさはあったが、それがそのまま人の話を受け入れる素養になっていた。
穂乃果のそれとは性質が異なる。何事にも真摯に向き合って答えを共に探そうとする穂乃果に対して、満田は底の空いたバケツのように、全てを受け流しながら話し手が解決に至るのを待つタイプに感じた。何を言っても彼は気に留めず、それが故に何でも話せるというもの。
そんな満田だったから、青葉は口を開いた。
「私……」
満田が眉を上げる。
「私、大好きな人を、殺そうとしてしまいました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます