『全部、夏が君を殺したせいだ。』

音無 蓮 Ren Otonashi

『全部、夏が君を殺したせいだ。』

 ――君は夏に殺された。


 空から降り注ぐ灼熱が肌を火あぶりにする。湿った風が喉を締め付ける。締め付けられて、締め付けられて吐き出そうとして――僕の一夜の夢は終わりを告げる。時刻は午前五時半。カーテンの裾から洩れる赤光に狙われている危機感から本能的に覚醒してしまったのだ。


 全部、夏が僕を殺そうとしているからだ。お天道様はいつだって楽しげに、賽の目を眺めている。人口一億三千万の日本に向けて射出される不快な夏の空気だって、神様風情のショータイムを盛り上げるものなんだろう。くそったれが。僕は誰に向けるでもない舌打ちを打った。空を見上げて。


 その日も僕は、クーラーの効いた自室シェルターにこもって昼下がりまで過ごした。外でヒグラシが鳴き始めたのが合図だった。僕はしぶしぶシェルターの外に出ることを決意していたのだ。


 大切なものを奪った夏と対峙するために。

 そして、あわよくば夏を殺してやるために。


 夕刻の空だった。憂国の空でも違いないと思う。僕は君と神社の境内をゆっくりと歩んでいる。一歳差の君は高校でも一学年下の後輩。ただ部活の先輩後輩の関係だった。そしてこれからも、そうであったらいいと思う。


 神社の本殿の周りで祭囃子が鳴り響いている。杉や檜の山林に木霊して、僕らの耳に届く。その度に、君が夏に殺されたことを憂うのだ。隣で意気揚々と鼻歌を歌う君は、濃い藍色の浴衣を着こんでいた。ひらり、はらり、と歩む度に裾が揺れる。夏風の中に紛れ込んでしまった北風のようだった。


 からん、ころん、と君の履く下駄が石畳の上で軽快なリズムを刻んでいる。


「先輩……私、冬が好きなんです」


 それは冬真っ盛りの一月、この街で激しく雪が降り積もった日に君が残した言葉である。薄いベージュのダッフルコートで身を包み、マフラー越しに届いた声は何故か忘れられない。忘れられない、というより、厭に思い出してしまうのだ。君が夏に殺されたから。


「おーい。先輩、……ぼうっとしてどうしたんですか? もしかして……バテました?」

「まさか。夏休み中クーラー籠りっぱなしな君に言われたくないな」

「それは先輩だって同じでしょう? 夏休み中の活動日だって私より先に来て部室のクーラーガンガン効かせてるじゃないですか」

「後輩が来た時に涼しい部室を提供するのが、部長ってやつの仕事だろ?」

「後生のためにいいことを教えてあげますね。……先輩のそれは使いっ走りっていうんですよもっと後輩をこき使ってくださいっ!」

「……そう言われても、朝弱いから遅れてくるのがオチだ」


 うっ、と君がうめき声を漏らす。図星のようだった。


 僕らが所属する文藝部は構成員が二人しかいない。過去には十人以上部員がいた時代もあるらしいが今では廃部寸前である。僕が卒業してしまえば、部の構成員は君だけになってしまう。そして来年の三月に僕は高校を卒業して、この街を出ていくことにしていた。


「今年で、先輩と一緒に祭りに来るのも最後ですね」

「まあ、そうなるかもな。街を出ていくことには変わりないし」

「先輩、優秀ですからどこまでも遠くに行ってしまいそうです」

「そんなに優秀じゃないって。いつか、君もたどり着ける場所だと思うよ」


 志望先は東京の有名大学だった。当然、山奥にあるこの街から出て行って独り暮らしをしなければならない。まあ、まだ合格以前に、試験も受けていないから捕らぬ狸のなんとやら、だけれど。


「私も、たどり着きたいですけど……、けど」

「けど?」

「私にはやりたいことが、一つだけ残っているので。まだ、ここに残りますよきっと」

「へえ。今まで無趣味! とか、やりたいことなんてないっ! って豪語していたくせに意外だな」

「……先輩、馬鹿にしてます? 私にだってやりたいことの一つや二つはありますよっ。それに、趣味とかじゃありません!」


 祭囃子が一歩ずつ近づいてくる。浴衣をたくし上げ、軽快に境内の石階段を一段抜かしで飛び越えた。亀の歩みだった僕を追い抜かし、前に立ちふさがる。ばっ、と両手を広げた。カマキリの威嚇に似ていた。


「強いて言うなら――夢、でしょうか?」

「何を強いて言うんだよ」

「先輩が戻ってくる場所を……戻ってこれる場所を作ること。それが、私の夢です」


 林に夏の匂いを帯びた風が吹いた。柑橘系の甘酸っぱい香りがした。にかっ、と君がほほ笑む。


 おいおい、冬が好きって言っときながら……その笑顔はまるで夏の日差し、或いは爛漫と咲く向日葵の花じゃないか。


「いつか、君は冬が好きって言ったよな」

「ええー? 言いましたっけ。確かに夏よりかは冬の方が好きですけど。炬燵で食べる蜜柑とか、羽毛布団に包まってなかなか起きられない朝とか堪らないですよね」

「だけどさ。お前、…………案外、夏の方が似合ってるよ?」


 浴衣がたくし上げられ垣間見えた足は、浴衣をたくし上げている手は、指の先の先は、日焼けで黒ずんでいる。思い出作りと称されて、僕を引っ張り海やら山やらに出かけた跡だった。いつかは消えてしまう形。だけど、残ってほしいと思わず願えてしまうひと夏の痕跡。


「へへ、そうですかー? 日焼けしてるからじゃないんですか? だとしたら先輩も夏がお似合いですよ」

「お互い様、だな」


 僕の日焼けは、君と夏が僕を殺そうとしてきた名残だ。だけど、僕が殺される夏はもう、今日をもって終わりだ。祭囃子は夏の終わりを告げる音を響かせる、この街に。


 夏が終われば、秋が来る。秋が来たら、飽きが回る。夏空の下駆け回ったあの日や、部室にこもってクーラーの下君を待つ日は次第になくなっていく。


 そうやって、いつしか僕らの周りには冬がやってくるのだろう。


「最後とは言わず、また来年も祭りに来れたらいいですね。もちろん、二人で」

「……帰ってこられるように、善処するよ。まだ受験すらしてないけど」


 からん、ころ。からん、ころ。からん。

 下駄の鳴らす透き通った音が境内の祭囃子をかき消した。

 針葉樹に囲まれた僕と君だけの道に向けて、夜の帳が開かれていく。

 石段の傍で提灯が列をなして灯されていく。

 数段先。前に立ち僕を急かす君を見た。


「ほら、先輩行きましょう? 祭りはまだ始まったばかりですよ?」


 藍色の浴衣が風をはらんで、ひらり翻る。君が差し伸べてくる小麦色に焼けた手を僕は掴んだ。


 そのとき、君に殺された気がした。君が夏で、僕を殺したんだ。

 嗚呼、全部、夏が君を殺したせいだ。

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