スペツナズ

いりやはるか

スペツナズ

 だいちゃんの名前は、鬼頭大毅という。

 大層男らしい、勇壮な、将来を託された名前だ。その名の示す通り、だいちゃんは193センチ、105キロという恵まれた体格だった。今年で28歳になる。その体格を、腕力を生かし、現場作業の肉体労働に従事している。寡黙ではあるが真面目で従順であり、課された仕事を必ずこなした。文句は言わず、体は丈夫で私用で休むこともなく、無理を言われても嫌な顔ひとつせずに黙々と取り組んだ。周囲の信頼もあった。

 彫りの深い顔立ちで、短く刈り込まれた清潔感のある髪型と無精髭を生やしたその風貌は異国の血さえも感じさせた。実家の両親との仲も良好だ。決して裕福な家ではなかったが、彼のために両親は自分たちのことは二の次にし、できる限りのことをさせた。惜しみない愛情を注いだ。彼は愛情を受け、立派に育った。誰にでも優しく、人を愛することを知り、友情を大切にすることを大切にし、何より自分自身に厳しくあろうとした。

 そして彼は、ゲイだった。


 見たこともないが、「地下アイドル」だというその若い女のブログにあがっていた画像を適当に何枚か広い、プロフィール画像にした。

 数分もしないうちに何人もの男からデート希望の連絡が来た。だいちゃんはマッチングアプリの通知機能が止まらないことに辟易しながら、応募してきた男たちのプロフィールを次々と開いていった。

 「都内に住んでます。36歳 医師です。麻布のイタリアンでもいかがですか?」

 「広告代理店に勤めてる28歳の男です。一度カフェでお茶でもしませんか?」

 「IT系の企業を経営してます。32歳です。ドライブに行きませんか?」

 快活そうな、そして自分の容姿とプロフィールになびかない女はいないだろう、とでもいわんばかりの自信に満ち溢れた、傲慢そうな男たちの画像が文章の横には必ず添付されていた。

 だいちゃんはつい先ほど考えた「ともみ」という名前で

 「素敵ですね!次の土曜日なら都合があいそうなんですけど。いかがですか?」

 と男とたち全員とやりとりを始める。

 全員と同じ日にち、同じ場所で会うことを約束する。

 架空の女が待ち合わせ場所に現れることなどない。初めからそんな女は存在しないのだから。下半身に突き動かされた、似たような顔つきの男たちがその場でお互いを意識しながらうろうろとしているだけだ。

 そんな愚かしい男たちの姿を想像するのが、だいちゃんのここのところの唯一の楽しみといってもよかった。

 スマホをベッドの上に放り投げると、だいちゃんはそのまま椅子の背もたれに体重をかけて天井を仰いだ。だいちゃんの体重に椅子が軋む音が部屋に響く。

 中身など何もわからなくても、女でさえあれば、男たちはこんなに簡単に近づいてくる。セックスが目的であることは間違いないが、セックスに至る過程でもっと知りたいと思ってくれる人もいるかもしれない。自分は、そこに至るまでにどれだけの行程を踏まなければいけないのだろう。

 シャットダウンし、真っ暗なパソコンの画面に自分の顔が映る。

「お前の顔、熊みたいだよな」

 高校生の頃、だいちゃんが通っていた男子校で、彼の好きだった男子生徒が、休み時間にだいちゃんの顔を覗き込んでそう言った。

「でかいし、なんか全体的に熊って感じ。シャケとか取るのうまそうだよな」

 彼がそう言うと、周りの男子生徒もいっせいに笑った。だいちゃんは周りに合わせて薄く笑うことしかできなかった。もちろん、彼が男を好きになることも、その男子生徒のことを想っていることを知っている人間も一人もいなかった。

 だからだいちゃんは、かおりちゃんにすぐにメールをした。


 小学生の頃から、だいちゃんのことを唯一知っていた、かおりちゃんに。


 「ひどい!熊だなんて。だいちゃんって彫り深いし、俳優さんみたいなのに」

 ファストフード店で会った久しぶりにあったかおりちゃんは、髪を金に近い色に染め、下着が見えそうな短いスカートを履いていた。学校の帰りのはずだが、顔は念入りに化粧され、耳にはいくつもピアスがつけられていた。彼女が髪をかきあげるたびに、甘ったるい香りが強くにおった。190センチで学ラン姿のだいちゃんとテーブルにつく姿は、端から見れば派手めなカップルにしか見えなかっただろう。

「相手は、知らないしね。僕の、こと」

だいちゃんは声こそ低いが、自分の言葉が相手に届くことをいつからか自分で拒否するようになったからか、とても小さな声で話す。かおりちゃんは遠慮なく

「え?」

と聞こえなかったのか、聞き返してきた。

「なんでもない」

そういってだいちゃんはフライドポテトを口に放りこみ、コーラをすすった。

「大体さあ、だいちゃんそんなこと言われてそこで一緒になって笑ってるようじゃだめだよ。自分の気持ちをもっと正直に出してみればいいのに」

 かおりちゃんが毒々しい色のストロベリーシェイクを音を立てて吸い込むと、そう言った。

 「…どうして、世の中には、男と女しかいないんだろうね」

テーブルの上に置かれていたかおりちゃんの携帯電話のバイブが鳴った。

「あ、ごめん男からだ。もう行かなくちゃ。また今度たくさん話聞かせてね」

 かおりちゃんはスクールバッグを掴み上げると、そのままドタドタと踵を踏んづけたローファーを響かせて、階段を降りていった。

 男でも、女でもない。

 どちらでもない自分は、何者なんだろうか。

 だいちゃんは、小学生のときのことを思い出していた。


 最初に思い出すのはかおりちゃんの涙だ。

 小学生の頃からだいちゃんとかおりちゃんは仲良しだった。男の子との遊びに慣れなかっただいちゃんを誘い、女の子の遊びに入れてくれたのはかおりちゃんだった。からかう男子を叱り、その頃から体は大きかったのに気の小さかっただいちゃんをいつでもかばった。だいちゃんは、ある日かおりちゃんに言った。

 ぼく、男の子の方がすきみたいなんだ。へんだよね。かおりちゃんは言った。

 だから?全然変じゃないけど。

 かおりちゃんは、強い女の子だった。そんなかおりちゃんが、泣いていた。


 近所のショッピングセンターでは、以前から小学生の女の子に声をかける不審者がいる、と小学生の間でも噂がされていた。もちろんだいちゃんは自分には関係のない、根も葉もない噂だと思っていたが、それでも繰り返し聴くほど、町では有名な話になっていた。

 そんなショッピングセンターに、かおりちゃんが家族に行った時、それは起きた。 

 ほんの一瞬両親と離れ、ゲームセンターでUFOキャッチャーを見ていたかおりちゃんの元に、若い男がやってきた。

 お父さんが、トイレで君を呼んでいるよ。何か頼みごとがあるみたいなんだけど、僕だと直接トイレまで入れないから、ついてきてくれないか。お父さん、とても困っているみたいなんだ。

 かおりちゃんは、その若い男の切実そうな表情を見て、何の疑いもせず、一緒にトイレへ付いていった。一瞬のことだった。トイレの障害者用多目的トイレに男と一緒に入ったかおりちゃんは、背後から口を押さえられ押し倒されると、そのまま男にレイプされた。抵抗する間もなく、彼女は小学3年生にしてレイプされたのだ。衝撃と恐怖でしばらく動くこともできず、男が出て行ったあともそのままトイレでうずくまった。しばらくして何とか服装の乱れを直して、両親のもとへ戻った。男の姿はもちろんどこにもなかった。そして、かおりちゃんは、その日のことを両親にも、誰にも言わなかった。

 その話を、だいちゃんだけが、かおりちゃんから聞いた。

 事件から3年が経っていた。小学6年生になり、自分がされたことの意味がわかったかおりちゃんは、泣きながら、震えながら、誰もいなくなった放課後の空き教室で、だいちゃんに話した。話すきっかけになったのは、男に再び会ったからだという。下校途中、背後からやってきた男はかおりちゃんのすぐ耳元でこういったのだと言う。「もう君にはしないよ。大きくなっちゃったからね」

 かおりちゃんはその男が住む場所を確認した。ショッピングセンターにほど近い団地の6号棟。4階建のその建物のどこかに、男はいる。

 だいちゃんは、全身の血が逆流するのを感じた。目の前のかおりちゃんを泣かせたその男を、許すわけにはいかない。6年生で170センチを超えていただいちゃんは、自分のすべきことを決めていた。


 次の日からだいちゃんは、学校が終わるとその男が住む団地の前で、ひたすら該当する男が出てくるのを待った。

 老人、中年、子供。除外できる人間たちが何人も通り過ぎた。1日では特定できず、次の日も、その次の日も、団地へ通った。

 4日目、男は現れた。黒いボタンダウンのシャツに、ジーパンを履き、黒いリュックを背負っていた。どこにでもいる、地味な学生風の男だった。身長はきっとだいちゃんより低いだろう。

 だいちゃんは男に近づき、「おい」と声をかけた。とっくに声変わりを済ませただいちゃんの声は夕暮れ時の団地によく響いた。男がびくっと体を震わせる。

こちらを見つめる目は、小さく、その目の中には間違いなく怯えが見て取れた。

 「女の子にいたずらしたのは、お前か」

 男が踵を返して駆け出した。だいちゃんもそのあとを追って駆け出した。急に走り出したからか男の足取りは重く、もつれるように走っていた。だいちゃんは走る勢いのまま男の背中に飛び蹴りをした。男が小さな悲鳴をあげて前のめりに倒れこむ。倒れこんだ背中にまたがって、全体重をかけた。両手を後ろでしばりあげる。

「ごめんなさいごめんなさい」

 何も聞いていないのに、男は勝手に謝り始めた。

 だいちゃんは男をこちらへ向かせる、握りしめた右の拳で思い切り顎の辺りを殴りつけた。鈍い音がして、男が呻く。だいちゃんの中で何かが熱く溢れ出す感覚があり、そのまま男の顔を何度も殴りつけた。途中男の口から血が流れ出し、殴った衝撃で白いものが飛び出した。折れた歯だった。腰に震えが走った。股間のあたりがむず痒くなり、男を殴るたびにその感覚は強まっていった。やがて感覚ははっきりと快感へと変わり、だいちゃんは自分のペニスが大きく、硬くなっていることを自覚した。抑えきれず、快感に身を委ねると、何度かペニスが痙攣したかと思うと、股間のあたりがじわじわと暖かくなり、ペニスがぬるぬるとした液体に満たされた。それがだいちゃんにとっての、初めての精通だった。

 だいちゃんは立ち上がると、今度は足で思い切り男の首筋の辺りを蹴った。顎を蹴ると嫌な音がした。顎の骨が外れたか、折れたかした音だと思った。鼻の上を踏みつけ、頭を蹴った。

 もはや逃げる気力を失ったのか、血だらけで顔の腫れ上がった男の顔を見て、だいちゃんは欲情した。そのまま彼は自分のペニスをズボンのチャックを下ろして引きずり出すと、男の顔に向けて放尿した。男は微動だにせず、そのままだいちゃんの放尿を顔で受け続けた。


 男のことはまったく話題にならなかった。

 地元でも誰の噂にもならず、もちろん新聞にもテレビにも、暴行事件について触れられることはなかった。男が誰にも言わなかったからだろう。だいちゃんは男を痛めつけたあと、その足でかおりちゃんの家に行った。そして、もう2度とあの男は君の前に来ない、とだけ言った。かおりちゃんは最初不思議そうな顔をし、だいちゃんの拳が腫れ上がって血だらけになっているのを見つけると、また泣き始めた。そして、だいちゃんの体にしがみついて大声で泣いた。指の骨は4本折れていた。血だらけになったスニーカーは公園で洗い、それでも落ちない血はカッターで削った。


 かおりちゃんはそれでも好きなのだ、と何度も言った。

 渋谷にある、薄暗いバーでだいちゃんはかおりちゃんと久しぶりに会っていた。かおりちゃんは大きくなってから複数の男と常に付き合うようになった。高校生の頃、だいちゃんの男子校にもまで「噂のヤリマン」として名前が聞こえてくるほどだった。だいちゃんは何度もやめるよう言ったが、やがてかおりちゃんと連絡が取れる回数は減っていった。次に会ったとき、かおりちゃんは歌舞伎町の風俗店に勤めていた。髪は痛み、肌は疲れ切って何歳も老け込んだように見えた。

 風俗をやめて、小さな会社で事務を始めた、という話を聞いた時、だいちゃんは素直に嬉しかった。これで、もう一度かおりちゃんはやり直せる、と思った。だが、今目の前にいるかおりちゃんは、その会社の社長と付き合っている、というのだ。社長には妻と、二人の子供がいる。

 「それでも、好きなんだから仕方ないよね」

 強い酒を何杯も飲み、呂律も回らない口調でそう繰り返した。 

 好きになったら、仕方がない。

 だいちゃんには、その気持ちも痛いほどわかっていた。

 

 「鬼頭、お前ゲイなんだってな」

 職場の同僚数名と飲みに行った帰り道、同僚で、だいちゃんが以前から想いを寄せていた年上の男がそう言いだした。

「…誰がそんなこと言ってたんですか」

 だいちゃんは記憶の糸を必死に手繰る。職場関係では誰にも言っていない。そもそも、かおりちゃん以外、両親にすら言っていないのだ。自分からではなく、誰かの冗談まじりの推測にすぎない。

「誰が言ってたかなんて、忘れちまったよ。みんな言ってるぜ」

 そんな馬鹿な。誰にも話していないことを、職場のみんなが知っているはずがない。

 そう反論したかったが、言葉が出なかった。必死に否定するのも、自分がそうだと言っているようで怖かった。自分が好きなこの男に、自分がゲイだとばれたくなかった。

 否定も肯定も出来ず黙って歩いていると、だいちゃんの目の前に男が立ち塞がった。

「なあ、俺別にその趣味ねえんだけどよ、一度男も試してみたいと思ってたんだよ。女だけだと飽きが来るって言うの?なんか、たまには別の経験してみたくてさ」

 酔いの回った男の目は赤く濁っていた。酒臭い息にだいちゃんは嫌悪感を一瞬覚えた。

「テレビで見たぜ。男って男のツボがわかってるから、女よりフェラチオうめえんだろ?やってくれよ」

 男がだいちゃんの腕を掴み、歩き出した。そのまま、公園の多目的トイレに連れ込まれると、男はズボンのチャックを下げ、ペニスを引っ張り出した。酔って力なく垂れ下がる男のペニスがだいちゃんの目に入る。

 「いいだろ?男好きなんだから、フェラくらいしろよ」

 酔ってのいたずらなのだろうか。だいちゃんは何度も男の顔とペニスを見比べた。男は下卑た笑いを浮かべており、ペニスをしまう素振りは見せない。普段から優しくだいちゃんに接してくれるその男のことが、だいちゃんは好きだった。今そこでペニスをぶら下げている男が、自分の中で同じ男につながっていかなかった。だが、こんな機会はもう2度とないかもしれない。むしろ、男が理解を示してくれるかもしれない。カミングアウトをする、またとないチャンスなのだ。

 だいちゃんはゆっくりと男の前にしゃがみこむと、男のペニスをつまみ、口に含んだ。もし万が一、冗談だったとしても、冗談に乗っただけだ、自分も酔っていたのだ、と言えば済む話じゃないか。

 そう言い聞かせて、だいちゃんはゆっくりと頭を前後させ続けた。口の中で男のペニスはあっという間に大きくなる。頭上から男の呻き声が聞こえる。そのまま激しく頭を揺すると、男の呻き声がひときわ大きくなり、口の中で塩辛い味が広がった。だいちゃんは自分のペニスも同じように硬くなり、男が果てるのと同時に自分も絶頂に達していることを感じた。

 深夜の公園のトイレの中で、作業着姿の大柄な男は二人、生臭い匂いが充満する空間で、荒い息をしながら、しばらく動けずにいた。


 かおりちゃんが入院した。

 不倫相手の妻に、刺されたのだ。

 腹と背中を2箇所刺され、出血も相当あったようだ。二人がホテルから出たところを、ずっと尾けていた妻が背後から包丁を持って襲った。

 不倫相手の会社の社長は悲鳴をあげて逃げた。あまつさえ彼は、かおりちゃんを突き飛ばし、妻の方へ差し出した。かおりちゃんは鬼のような形相で包丁を突き出す妻に、それでも説得を試みた。自分と男との関係を認めてほしい、と言ったらしい。通行人の通報で駆けつけた警察官に妻が取り押さえられ、かおりちゃんはなんとか一命を取り留めた。


 病室に入ると、全身を包帯で巻かれ、呼吸器をつけたかおりちゃんが見えた。

 かおりちゃんは薄く目を開け、だいちゃんを見た。呼吸器をゆっくりと自分で外す。だいちゃんがベッドの脇に置かれた見舞い客用の丸椅子に座ると、かおりちゃんは小さな声で、言った。

「奥さんのところ、行かないでね」

「え?」

「あのときみたいに、仕返ししないでね」

 だいちゃんはかおりちゃんの目を見る。その目はすでに閉じられ、だいちゃんからの視線を拒否しているように見えた。

「あのときも、なんとなく思ってた。この人に話をしたら、仕返ししてくれるんじゃないかって。でも本当にやると思わなかった。あのときからあたし、ずっとそのことばっか考えて生きてるの。毎日寝てても血まみれになったあいつが私に復讐しにくる夢見るの。こわいの。」

 だいちゃんの頭の内側で、悲鳴が聞こえた。自分が。自分がかおりちゃんを傷つけていたというのだろうか。かおりちゃんをレイプし、何食わぬ顔で何年も経ってから心の傷を抉るようなことを平気で言った男を、殺しても構わないようなゴミを、痛めつけたのはかおりちゃんの為だったのに。

 だいちゃんが何も言わずにいると、かおりちゃんは続けた。

「あんたがいる限り、あたしまともな恋愛できないよ」

 

 作業が終わり、だいちゃんが着替えに向かうと、フェラチオした年上の男が肩を叩いてきた。

「鬼頭、また頼むよ。すげえよかったぜ、お前のあれ」

 男は笑いながらそう言う。

「なあ、今度そこのトイレでやってくれよ」

「あの、僕はそういうつもりで…」

「じゃあどういうつもりでやったんだよ、このカマ野郎」

 男の口調が急に変わった。

「てめえホモの癖に何口ごたえしてんだよ、つべこべ言わねえでしゃぶれって言ってんだろ。出来ねえならお前がホモ野郎だって全員に言って、お前に襲われてチンポしゃぶられたって言うからな」

 そう言って男はだいちゃんの胸をこぶしでどん、と突くと大股で詰所へ戻っていってしまった。

 立ち止まったままのだいちゃんの周りに、不快な羽音を立てる名も知らぬ小さな虫が飛んでいた。作業終了のチャイムが遠くから聞こえ、夕闇がもう過ぎ広がろうとしていた。


 待ち合わせ場所に指定した駅の東口には、大勢の人間が集まっていた。

 マッチングアプリで知り合った男は、35歳の開業医だという。身長178センチ、年収は6千万。車が趣味で、外車を3台持っていると書いていた。

「体は一つしかないのに?」

 とだいちゃんがメッセージで送ると「三等分したいね」と送ってきた。つまらない男だと思った。

 黒いジャケッット、目印に赤いチーフを胸に挿していきます、と男は待ち合わせ場所でのやりとりの際に書いていた。

 ベンチに座ってスマホを見るふりをし、周囲を確認していただいちゃんの目に、赤いチーフを刺した黒いジャケットの男が入った。身長は、甘く見てもせいぜい170センチ、髪は薄く、メガネをかけたその顔は、35歳どころか、下手したらもう一回り、ふた回り上だと言われても納得してしまうくらい老けていた。

 手元のスマホのバイブが鳴る。

「どこにいるの?」

 男に送ったのはTwitterに自分の自撮り写真をアップしていた、名前も知らないどこかの若い女の顔写真だから、ここにいるはずもない。彼女は今日もどこかの、もっと顔のいい男と楽しく過ごしているだろう。

 きょろきょろと辺りを見回す黒いジャケットの男の視線が、だいちゃんの目と合う。その視線は、だいちゃんを透かしてその先を見ているようだった。その目に自分はうつっていない。自分は、誰にも見えない存在なのかもしれない。

 だいちゃんは男にメッセージを送った。


「私は、どこにいるの? 自分でも、わからないんだ」









 


 










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スペツナズ いりやはるか @iriharu86

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ