第5話 新都の佳人

 蒼穹を裂く風は、無慈悲に隊商の行く手を阻む。それでも隊商は休息を最小限にとどめ、先を急いでいる。

 隊商の通った跡だけが、砂の上に続いている。行く手には何もない。この砂ばかりの世界に、彼らだけしか存在していないかのようだった。

 静寂が乱された。突然、隊商を目がけて突進してくる一団がある。見るからに盗賊と分かる男たちは駱駝を巧みに操り、隊商を取り囲む。

 流石にターリックの選んだ隊商と言えばいいのか、盗賊たちの白刃がひらめいても声をあげる者はいず、駱駝の上でじっとしている。だが、幾ら気丈に構えても、羊は羊である。獲物を狩り慣れた野犬たちの敵ではない。

 少なくとも、盗賊を率いる男はそう思った。追いつけそうで追いつけず、足の速い隊商を捉えるのに予想外に時間を喰ってしまった。野犬たちは追い回すことに飽いている。

 男は隊商の中のひとりに剣を向け、前に出るように促した。砂がふきつける中で、隊商も盗賊も同じように顔に布を巻いて、目元だけを晒している。だが、黒い眼帯は見間違えようもない。

 眼帯の男が盗賊の前に出る。その横で、若い手下が待ちきれないかのように隊商の駱駝に手をかけた。駱駝の背には荷が沢山積んである。その荷がどんな財宝かと浮かれた若い手下の目元が驚きにひきつるのを、残念ながら盗賊を率いる男は見ていない。なぜならば、眼帯の男の発する違和感に引き付けられたからだ。

 眼帯の男を見たのははじめてではない。一度だけ、バスマの城塞に入っていく姿を見たことがある。

 こんなに細かっただろうか。

 何より彼の片目は、緋色ではなかったか。

 進み出た男の片目は、紫水晶のように美しい。

「誰だ、お前は?」

「おい! こりゃあただのガラクタだ!」

 盗賊を率いる男と若い手下の声が重なる。それを合図に眼帯の男は、今日初めて着けた眼帯を取り去った。大人しくしていた隊商の者たちが、砂除けのマントを払い除け、一斉に剣を抜いた。マントの下で鈍色に光るのは、鎧である。

「男だと思われたうえに、まさか奴の素振りまでさせられるとはな」 

 眼帯を取ったセイフは、身代わりを頼んだ商人に対して心底からのため息をついた。当の商人はここにはいないが。

 今度は盗賊たちが怯む番のようだ。隊商は全て、ゼーネッテの兵たちだった。野犬は羊の皮を脱ぎ捨てた狼のまえで息を呑んだ。

 見事に盗賊を出し抜けたわけだが、セイフの心中は穏やかではない。観念してすっかり大人しくなった盗賊たちの中に、アジーズの姿がない。盗賊をまとめていた男には見覚えがある。背格好がアジーズに似ていた。セイフもおとりなら、アジーズも囮だった。

 アジーズは身一つでバスマを出て、砂漠で盗賊として生き抜いた男だ。油断はいけない。

「商人に伝えねば」

 だが、アジーズの先を読むならば、バスマに一刻も早く戻るべきだ。セイフはカラフ王子から借りた兵たちにきびきびと指示を出す。盗賊を手際よく捕縛し、急いで帰路につく。

「商人……豪語しただけの働きをしてもらうぞ」

 セイフは駱駝を駆りながら、振り向いて言った。その先にターリックの向かった砂漠の入り口の街がある。祈るような言葉は、風に乗って流れて消えた。



 一方、ターリックはゼーネッテの兵が扮装した隊商に紛れ、盗賊たちに見つからぬよう途中で別れた。

 相手をただの隊商だと思って油断している盗賊たちと、隊商に扮したゼーネッテの兵たちはもう出会っただろうか。一戦を交えたとしても、勝敗は明らかである。

 これは化かし合いである。ターリックが依頼を完遂するための難問のひとつだ。セイフの兄……アジーズを穏便に捉えられるといいのだが。血を分けたとは信じがたいほど似ていないが、アジーズとセイフは兄妹である。命の取り合いは避けたいところだ。

(俺も他に気を取られている場合ではないな)

 案内がいても険しかった往路を、復路は一人で行かねばならない。水も食べ物も十分に持った。急ぐ道行きを考えて、乗り換える駱駝も連れてきた。装備は万端でも地図は無く、ターリックの記憶がすべてだ。ターリックは砂埃に目を細め、セイフの案内は完璧だったと思い知る。

「よい従者だ。憎まれ口さえなければ尚更に」

 塩の城を出たターリック、マレイカ、カラフ王子の前に慌てた様子であらわれたセイフをふいに思い出した。心底申し訳なさそうにマレイカに頭を下げていた。マレイカが幾ら慰めても、自分を許せないようだった。

(休んで当然だろうが。マレイカ大事も結構だが、あれでは)

 セイフの身が持たない。

 女の身で何人もの商人を迎える旅をやり遂げ、アルーカの出産を手伝い、夜の見張りをし、盗賊と戦う。いつ休んでいるとも知れない生真面目な従者は、たいせつな姫を放ってしばし休んでしまったことを悔いていた。寝ていた間に起こったことと、これからやるべきことをマレイカに聞くと、ターリックの道案内を申し出て、どんなに止めても引かない。それどころか盗賊の襲撃に備えて、自ら囮になると言い出す始末だ。

 セイフは無事だろうか。勝って当然の戦いで、万が一にも重傷を負ってはいまいか。どんなに後ろ髪をひかれても、ターリックは前に進まなければならない。手は自然に手綱を離し、胸にある父の形見を握っていた。

 父の商いを引き継いでみせる。

 ターリックは砂漠に慣れている。何度も旅をした。このくらいどうということはない。セイフならきっと囮の役目をやり遂げて、マレイカとカラフ王子の世話を焼きながら、ターリックを待ちわびるだろう。

(まあ、セイフが気にするのは、俺でなく俺の出す結果だろうがな)

 風は止むどころかどんどん強くなる。青空には黄色い砂の竜が踊り狂っていて、陽の光を遮りつつあった。考えにふけっている場合ではない、砂嵐が来る前にターリックは先を急ぐことにした。

 


***



 砂漠の入り口の街には、今日も商人たちの喧騒が溢れている。昼時を少し過ぎて商談も一段落し、商人たちは煙草の煙をくゆらせながら酒を楽しむ。商談で疲れた喉を癒す、しばしの休憩時間だ。

 ある酒場では、砂漠からやってきた隊商のひとりが、遭遇した砂嵐の凄まじさを大仰な身振りで語って聞かせていた。語り口は滑らかで、聞き入る者も自然に増える。

 それは本日の午前も早いうちのことだという。語り手は命からがらこの街にたどり着いた。その話は誇張ではないらしい、彼の服は砂だらけである。喉を潤すためか、彼は酒でなく水を飲んでいる。

 もうもうと舞い上がる砂が太陽をかくし、空はあっという間に鉛色となったというのに、痛いほど振ってくるのは砂ばかり。駱駝と荷を半分ほど失いながらも街に辿りつけた隊商はまだ運がいい方で、ちょうど流通航路を舐めるように進んだ砂嵐には、いくつもの隊商が飲まれたという。旅慣れた大きな隊商でも悲惨な目にあったというから、個人で旅するものなどはひとたまりもなかったのではないかと、語り部は話を結んだ。

 進路は流通行路であったのに、この街に被害を及ぼす前に消滅した。朝も早いうちのことだったせいか、勢力を弱めた嵐を見たものは少ない。朝方の風は強かった、という程度の認識である。

 だが、その話を「大げさな」と笑う者はごく一部で、大概の者は真剣に聞いている。

 笑える者は商人としてはひよっこだと晒しているようなものである。砂嵐と盗賊の恐ろしさを知ってこそようやく一端いっぱしの砂漠の商人となれるのだ。

 さて、そんな話題で盛り上がる酒場の一軒隣では、砂嵐とはまた違う話題で盛り上がっていた。こちらは自然災害でなく、人災の話である。

「バスマの巫女姫に呼ばれた商人が、また消えた」

 その商人は深刻な顔で酒を煽り、ナッツをつまむと、噛み砕きながら低い声で言った。彼はターリックと塩の商談をした男である。不利な条件での商談は、相手が行方をくらましたことにより破談となる。人を雇って相手を消すまでもなかった、生意気な若い商人……ターリックは勝手に消えてくれたらしい。

 巫女姫の噂はやはり本物だ、と集まった商人たちは顔を見合わせてどよめく。恐ろしい話だが、眉間にしわを刻んで話す商人だけは、歓喜の声をあげたいのをこらえるのに一苦労だ。

 この酒は祝い酒である。仕入れた塩は自由に売れるし、何よりターリックとの商談が一方的に破算となった。ということは、彼には違約金を請求する権利がある。ターリック当人に身寄りがおらず、広い邸宅はうまくいけばこの小狡い商人のものとなる。

「ターリックは私の商談相手だった……握手を交わした直後にこんなことになるとは。残念ながら彼がいないからには、違約金を請求しなければならんな」

 小狡い商人は図々しくも、既にターリックの邸宅を見分済みである。古いがよく手入れされていて、調度品は一級品ばかり、そして立派な風呂がついている。風呂はこの砂漠では何よりの贅沢品だ。

 住むのはもちろん、売ればかなりの財になるし、宿としてもいいかもしれない……。

「巫女姫は恐ろしい、また一人の商人が毒牙にかかった」

 と、さも恐ろしそうに話を結ぶと、小狡い商人は足早に酒場を出ようとする。勝手に緩んでくる口端に力を入れるのにも限界があるというものだ。さっさとここを出て、塩とターリックの邸宅をどうするかよく考えねば。

「本当に、巫女姫は恐ろしい。あの愛らしい笑顔で人をうまく動かすからな」

 小狡い商人が出ていこうとして開けた扉が、乱暴に閉められた。聴衆の一人だろうか――砂で元の色が分からないようなマントを頭から被っており、砂埃が陽炎かげろうのようにその身を取り巻いている。

 男は衆目が全て自分に集まるのを待って、マントを落とした。黄色いほこりが充満した中から、黒い眼帯の男の顔があらわれる。無精ひげが目立つ顔に描かれた疲労は隠しようもないが、緋色の片目には力がみなぎっていた。

「タ……ターリック!」

「俺は噂など信じない。どうだ生還して見せたぞ! 俺は巫女姫に認められ不可思議な力の加護を受けた、最初で最後の商人だ!」

 ターリックは朗々と声を張り上げ、近くのテーブルからグラスを拝借し酒を一気に煽った。

 おお、と先ほどのどよめきよりも大きな声が酒場のあちこちからあがる。ターリックは喧騒の中で驚愕の表情のまま固まっている小狡い商人の襟元をぐい、と引き寄せた。

「俺との商談が気に入らなくて刺客を差し向けただけでなく、まさか破談にしようとするとはな。代償は何にするつもりだった? さし当り、俺の屋敷か? どうだ、いい家だろう」

 ターリックは静かな声でささやいた。小狡い商人の顔が青ざめたのを見て、ターリックは畳み掛ける。

「商談相手を葬ろうとしたことを、俺がこの場で言ったらどうなるだろうな。罪になるかは分からないが、商人としては信用を無くして」

 言葉を切って、わざと勿体つける。

「終わりだな」

 小狡い商人は「ひい」と声をあげて、その場に膝をついた。

「許してくれ! まさかあんたが戻ってこられるとは思わないし、私だって生活がある、そんなに長くあんたを待っては居られなかったんだ!」

 故郷には妻も子も、と続けるのを遮って、ターリックは肩をすくめる。

「まあいい、俺も突然いなくなって迷惑をかけた。どうだ、新たに商談をしようじゃないか。ここに居る商人全員、いや、俺の話を聞いてくれる商人全員と俺は商談をしたい。言っておくがこれは語り継がれるような大きくも難しい商いだ。うまくゆけば大きな利益を生むと断言しよう。俺には噂の巫女姫の加護があることを忘れるな」

 ターリックはこの場に居る商人たちの目をひとりひとり見渡した。いつの間にか酒場は静まり返る。動く者のいない中、ターリックの落としたマントの砂埃だけがゆっくりとたゆたっている。誰かがごくりとつばを飲む。

「商談の破棄は必ず噂となり、巫女姫の呪いにより破滅を呼ぶだろう。絶対に裏切るな。それが条件だ」

 巫女姫の呪いなど出まかせである。マレイカに内心で軽く謝る。これだけの働きをするのだ、大目に見てもらおうか。

 ターリックは勝負事がうまいわけではない、ただ勝負を賭けるタイミングが上手い。今がその時だ。


 突然現れた隻眼の語り部は、「一刻を争うことだ」と前置きして、これから始まる物語を紡ぎ始めた。



***



 姫の忠実な従者には休む暇はなく、また本人もそれを望んではいない。

 バスマに帰り着いたセイフを迎えたのは、いつも通りやさしい笑顔を浮かべるマレイカである。

 盗賊を捕えた後、大きな砂嵐に遭遇した。そのせいで動けず、結局セイフは半月ほどバスマを出ていたことになる。すぐにでも帰国するはずのカラフ王子を引き留めて、マレイカはバスマで待ってくれた。この笑顔に、セイフがどれだけ癒されているか。

「お帰りなさい! 疲れたでしょうセイフ。ゆっくりと休んで」

「ですがマレイカ様、盗賊がまだ――捕まえた賊めらは、アジーズの居所を知らぬらしく」

 セイフが兄・アジーズがまだここを狙っているだろうと話しても、マレイカは動じない。

「一昨日の朝、バスマの皆が旅立ったわ。アルーカも……残っているバスマの民は、もう私とセイフだけ。あなたはゼーネッテには行かない、それはもう諦めたわ。でも」

 マレイカはそっとセイフの肩に触れた。

「……また痩せてしまって。私は乳兄弟のあなたに甘え過ぎたわ。分かっているの」

「いいえ、マレイカ様。私の母も、マレイカ様のお母様にお仕えしました。お母様の早世をどれほど嘆いたか。母は心からお母様にお仕えしました。私もまた、心からマレイカ様にお仕えしたい」

「私はよい族長ではなかったわ、このオアシスも貧しいまま……皆に苦労ばかりかけて。宝の存在を知っていながらも日々の安息を選んでしまった」

「マレイカ様の力があったからこそ、バスマの民はここで滅びることなく新たな地を見つけることが出来たのです。そこをどうかお忘れなく」

「そう言うなら、セイフ、あなたも……」

 一緒に、と言いかけたであろうマレイカを、セイフはそっと抱きしめた。やさしい族長の説得を、セイフは何度断ってきただろう。

「マレイカ様、私はここを守ります。例え最後の商人がどうあれ、私はバスマの行く末を見守りたい。だから」

 セイフはマレイカを正面から見つめた。マレイカも黙ってセイフの言葉を待っている。貧しくも穏やかな生活の中で、ふたりは姉妹以上のきずなを得た。セイフはこの地を守り通せなかったマレイカの未練を痛いほどに感じている。マレイカには守るべき民がいる。民を守るためにバスマを離れる。ならば、バスマの地を守るのはセイフの役目だ。最後の商人の手によって生まれ変わるバスマの行く末を、マレイカに代わって見届けるのだ……と言ったら、少しおこがましいだろうか。

 セイフが自分の想いを打ち明けようとしたとき、こほん、と空咳ひとつこぼしてカラフ王子が話に入る。

「いい雰囲気のところ、悪いのだけどね」

 カラフ王子の口調は呑気で、そのあとに続く言葉をマレイカもセイフも想像できなかった。

「マレイカ、時間が来たようだ。この地を離れる時が来た」

 バスマの民とともにこの地を離れた兵がひとり、王子への急使となって帰ってきた。駱駝共々息も絶え絶えの彼は、母国ゼーネッテでの重大な出来事の噂を旅の途中で聞いたという。

「何が起こったというの? カラフ、どうかターリックの帰りを待って」

「愛しいひと、私は帰らねばならないのだよ。君も一緒に」

 カラフ王子はマレイカの髪を撫でた。

「どうやら私のいない時を狙って、不穏な動きがあるらしい。ゼーネッテもなかなか落ち着けない国だね。困ったものだ」

 反乱を起こした張本人が、ぬけぬけと言った。

「らしい……ということは不確かなことなのね?」

「マレイカ、君の気持ちは分かるけれど、たとえ不確かであっても私には帰るより他はない。確信を得てから行動しては、間に合わないからね。バスマも気になるけれど、母国での立場が揺らいでは、元も子もないのだよ」

 婚約者の諭すような言葉が分からないマレイカではない。それでもマレイカは弱々しく首を振る。

「なら、カラフだけ帰って。私はセイフとともにターリックを待つわ。私は後からでも行けるもの」

「いいえ、マレイカ様。一刻も早くゼーネッテへ。きらびやかな行列を寄越した王子様のお気遣いを、マレイカ様はお気付きのはずです」

 兵士や侍女、象まで揃えたきらきら光る行列は、権力者特有の酔狂などではない。これはマレイカの立場を盤石にするための布石だ。これだけ豪奢な出迎えを、世継ぎの王子自らするほどに、辺境の姫は愛を得ているのだと……人々に分からせるための。

「セイフ……そういうことは、言わぬが花だよ」

「はい、失礼しました」

 カラフ王子がゆったりと言い終わる前に、セイフは膝をついた。恋するひとりの青年から、次期国王たる王子へ……カラフ王子の表情がすっと変わる。

「我が婚約者の忠実な従者セイフ、私はすぐにでもここを発つ。ここに残るのはお前ひとりだ。我が婚約者マレイカの大事な土地を、私とて守りたい。無理難題は承知の上だ、やってくれるか」

「承知しています王子様、ここを狙うは所詮盗賊。バスマにそびえる城壁さえ突破されなければ、私一人でも。例えもし、城壁を突破されたとしても、塩の城までは到達させません」

 セイフはカラフ王子を見上げた。セイフの決意に、カラフ王子は頷いた。

「その言葉、信じよう。マレイカの宣託もある。私は彼女の力により今の私となった。彼女の力を誰よりも信じている。ターリックは現れよう。それまで、必ずここを」

「お任せください」

 どちらにしろ、この決断しかあり得ないのだ。セイフは立ち上がる。マレイカがセイフにすがろうとするが、カラフ王子が抱きとめる。マレイカの瞳から大粒の涙がいくつも落ちて、乾いた大地を濡らすのを、セイフは見ていない。

 


 こうしてセイフは、カラフ王子とマレイカの一行を見送ることになった。落日を背負って、長い行列は影に包まれているように見える。砂は陽をうけて赤く、恐ろしげな世界を作り出す。

 セイフは城塞の上に立っている。一行が高い岩山の影に入り見えなくなると、セイフは用意していた松明を何本か、城塞の上にたてた。頼りない明かりでも、無いよりはましだ。城門は既に閉じた。他に備えはいらない。あとは、自分の感覚を研ぎ澄ますだけである。

 不安と孤独の夜が訪れようとしている。セイフの気持ちを汲んだかのように、真っ赤な世界はやがて、星のない真っ黒な世界へと変貌する。

 アジーズは必ずやってくる。ゼーネッテの噂は、アジーズが起こしたものだ。少なくともセイフはそう思っている。

 だが恐らく、アジーズはターリックのたどり着いた宝が何かは分かっていない。分かっていればターリックの隊商を襲わずに、最初からバスマだけを襲えばいい。この地から動かせないほど大きな財宝……見当はつかなくとも、アジーズの期待は相当高まっているはずだ。

 セイフは今までもそうしてきたように、城塞から外を向いて立っている。このところあまり眠っていない身体はだるく、疲労と興奮のためか火照っていた。

 風が出てきた。カラフ王子の一行が、風を避けるところを見つけられていればいいが。マレイカの弱い身体に、冷たい風が障らないことをセイフは願う。

 どれくらいそうして居たろうか。地鳴りの音に、セイフは素早く反応し、松明を掲げる。いくらか闇に慣れた目に、舞い上がる砂埃が映った。

「とうとう来たか」

 セイフは腰の剣に手をあて、束をぎゅっと握った。沢山の駱駝が走ることで沸き起こる煙は、すぐさま強い風が拭い去ってゆく。先頭で剣を肩に担ぐのは、やはりアジーズであった。規模が大きくなっている。盗賊は上からざっと見たところ、八十人ほどと思われた。カラフ王子の兵がいればどうということのない数だが――。

「いい夜だな、セイフ。寂れたオアシスにひとり取り残された我が妹よ。高いところは寒かろう、どうだ、こちらに来ないか? うまい酒も、暖かい毛皮もある」

 城門の前に立ったアジーズは、余裕たっぷりに城塞を見上げた。巨体を乗せた駱駝のぜえぜえという息遣いが、セイフの所まで聴こえる。

「生憎だが酒は飲めない。兄妹と名乗るほど互いを知らぬ。他人も同然の、お前の話など信用ならない。まだあの商人のほうがましというもの」

 セイフの返答に、アジーズはぎりりと奥歯を噛んだ。それから後ろに軽く合図を送る。

 駱駝に乗った数十人の後ろから、丸太を持った盗賊たちが現れる。彼らはセイフが動揺するまもなく、固く閉ざされた門扉に丸太を叩き込む。威勢のいい掛け声とともに、それは幾度も繰り返された。

 セイフは用意しておいた弓矢をつがえ、盗賊たちを射た。闇の中ですべて命中……とはいかないが、数人に当たったようだ。短い悲鳴が上がる。だが、ひとり倒れれば後ろに控えるものがすぐに交代し、それを補った。

 門扉にぶつかる丸太の振動が、城塞の上のセイフの足元を揺らす。鉄製の門扉だが、何しろ古く、かんぬきは木製だ。破られるのも時間の問題……今度はセイフが奥歯を噛みしめる番だった。

 風が強くなっている。おかげでセイフの矢も狙い通りに飛ばない。セイフは矢を見限ると、腰の剣を抜いた。

「勇ましいな、セイフ。綺麗な顔に似合うのは武器ではないだろう。こいつらの中にもお前に気のある奴は多い、意地を張らずに降りて来い。こいつらの誰かと所帯を持って、俺を補佐しろ」

 アジーズのからかいに、盗賊たちが笑った。セイフは答えられない。どうすればいい、どうしたらいい。マレイカの宣託をセイフは信じている。あの澄ました商人がきっと戻ってくる。

 その時だ、盗賊たちが急に大人しくなった。セイフの見ている前で、盗賊の群れが左右に割れる。

 商人が来たのかと思った。だが違った。現れたのは、無事にと願ったいとしい姫・マレイカだった。夜目にも白い服は、カラフ王子が用意したものだ。旅立ちのときそのままの姿で、マレイカが駱駝をひいて歩いてくる。

「マレイカ様! なぜここに……!」

「セイフばかりを危険に晒せないわ。私は民も、あなたも大事なの。欲張りなのよ。ゼーネッテにはカラフがいてくれる。でもセイフとバスマには誰もいない」

 マレイカが青白い顔で笑った。マントもなく、駱駝には鞍もなく手綱が雑についているだけだ。夜の砂漠の寒さで、褐色の肌には生気が無い。カラフ王子の目を盗んで、着の身着のまま戻ってきてしまったのだろう。セイフは言葉も出ない。

「これはこれは、マレイカ姫。どうやら俺の運も向いてきたようだ。俺は二人の素晴らしい女と、このバスマを手に入れる!」

 アジーズが言い放ち、次いで男たちの歓声があがりそうになるが、マレイカがそれを手で制した。

「待って。バスマの宝は一筋縄ではいかないの。場所を知っているのも私だけ。私たちは女がたったふたりきり、他にはなにもないわ。お願いよ、頭領ひとりだけと中で話がしたいの……ここは寒いわ」

 厳つい男たちに囲まれても全く怯むことなく、マレイカはアジーズを見据えた。アジーズは固そうなあごを何度も撫でる。

「……いいだろう。確かに女ふたりに何が出来るわけでもない」

 アジーズの返答を聞いて即座に、マレイカはセイフに視線を移す。

「セイフ、今すぐ扉を開けて」

「ですが」

「いいから開けて、お願いよ」

 マレイカに懇願されては、セイフは従うほかなかった。



*** 



 マレイカはセイフから渡されたマントを身体に巻きつけて、闇の中をすいすいと歩いてゆく。唇が青いのは緊張でからではない。マレイカの弱い身体が、夜の砂漠を薄着で歩いたことで悲鳴を上げている。普通の旅人ですら、砂漠の夜は凍えるのだ。後ろを歩くセイフは心配でならない。せめて手をとって支えてあげたいが、セイフの手は後ろ手に縛られている。剣もない。

「武器さえなければ、マレイカと同じ可愛い女だ。妹よ」

 すぐ後ろを歩くアジーズが笑う。嫌な笑い声が族長の館にひびき、流れる砂の音に混じって、無人のバスマ全体に広がってゆく。

 マレイカは何も言わない。セイフも同じように無言だ。アジーズは女たちの無反応に肩をすくめ、先を急ぐようにセイフの背を剣先で突いてみせた。

 結局、アジーズだけとはいかなかった。盗賊の頭領の後ろには、ふたりの男が着いてくる。用心深い小心な男なのだ、とセイフは心から軽蔑する。

 セイフがこの窮地を抜け出す方法を思いつかないままに、状況は悪くなってゆく。ターリックを案内した時と同じ道を通って、マレイカは塩の城に淡々と明かりを灯した。

 薄紅色の城を見ても、アジーズには価値のあるものに見えないらしい。それが塩と分からなければ、ただの武骨で歪んだ石の城だ。珍しいが、それだけのものである。

「これが、バスマの財宝です」

「これだけ……これだけか!? こんな濁った色の石など、なんの価値もない! マレイカ、俺をからかっているのか!」

 マレイカは力なく首を振る。そうすることさえ大儀そうだ。よく見ると、肩が小刻みに震えている。セイフは縄を引きちぎりたいが、そんな力があるわけもない。

「この建物に価値がないというなら、そうなのでしょう。あとは……そうですね、ずっと奥までゆけば、水の流れがあるはずです。私は見たこともありませんけれど」

 マレイカの物言いはいつもと違って冷たく、アジーズを突き放す。アジーズは何度も周囲を見回し、それから大声で笑い出した。彼の様子に、手下二人は顔を見合わせる。

「ガキのころに母親から聞いて忘れられなかった宝が……こんな」

 ターリックは自身の推理でここにたどりついたことを、セイフは知っている。力で脅すアジーズとターリックは違う。

 こうなれば、と笑いを収めてアジーズは言った。

「お前たちには一緒に来てもらおうか。マレイカの宣託の力、セイフの剣技、それだけでも」

 アジーズの言葉に、二人の手下が素早く動く。セイフはマレイカを背にかばった。マレイカはセイフの戒めの縄をほどきにかかる。だが、結び目は固い。

「マレイカ様の力を見縊みくびるな! まだ商人がいる、宣託は成就していない!」

 セイフは声を張り上げた。

(見事な働きをしてみせるから、名で呼べと言っただろう、商人!)

 いつも落ち着き払って自信家で、そのくせ打ち明け話をしたり、突飛もない行動したりする変わった商人。常時冷たそうな緋色の瞳に、時折優しさを滲ませる商人。

「……ターリック!」

 その名を呼んだのは、セイフだったか、マレイカだったか。

 剣の光が薄闇に舞った。続いて二つの悲鳴が上がり、手下二人が倒れこむ。

「ターリック!」

 今度の声は、マレイカのものに違いなかった。

「そんな切羽詰まった声で呼ばれては、出ないわけにいかないだろう」

 隻眼の商人は、涼しい顔でそこに立っていた。と言っても、涼しいのは表情だけで、全身が砂に汚れていて、服の裾は擦り切れている。頬も、剣を握る手も、薄汚れていた。肩で息をするたびに、埃がぱらぱらと落ちる。

「また会ったな最後の商人。何もないバスマを見限ったと思ったが。表には俺の手下がいたろう。どうやってここに入った?」

「前にあんたが手本を見せてくれたろう。壁を上るのは骨が折れた」

 ターリックは往路も復路も、急げるだけ急いだ。そして最後に城塞を上り、この有り様となった。

「バスマは素晴らしいオアシスだからな。なるべく早く帰ろうと飛んできたところだ」

「馬鹿め、女狐に惑わされでもしたか。こんな何も無いところに好んで戻ってくるとは」

「惑わせてくれるような女狐なら、やりがいもあるのだがな。俺は商人として戻ってきた」

 ターリックとアジーズは気楽な会話を続けながら、お互いの間合いを測る。

「このがらくた石を売りに来たか、気でも狂ったらしいな!」

 アジーズの剣が唸りをあげた。ターリックがかわした剣の勢いは、薄紅の床に当たって火花を散らす。

 ターリックは剣を握りしめる。以前に城塞でやりあった時のようにはいかない。あの時はアジーズに油断があった。ターリックがそれなりの使い手と知っている今のアジーズには隙がない。さて、どこに勝機があるか。アジーズはセイフの兄だと知っているからには、斬り合いはなるべく避けたいところだ。

 ターリックが考える間もなく、アジーズの剣は振り下ろされる。刃は激突を繰り返す。その間にセイフが二度、短く声をあげた。ターリックがアジーズの剣を大きくはじき、後ろに下がった時には、肩と足に血がにじんでいる。ターリックは傷に顔をしかめた。

「まどろっこしい戦い方をする。それでは命を取ってくれというようなものだ」

 肩に剣を置きアジーズが笑う。どうやらその仕草は癖のようだ。

「アジーズ、私がいることを忘れるな!」

 マレイカによってようやく縄を解かれたセイフが、倒れて動かない手下から剣を奪う。だが、二対一になっても、敵は余裕の態度を崩さない。

「セイフ、お前は兄である俺に本気はだせない。お前はそういう女だ」

「何を!」

 セイフが躍りかかる。アジーズが弾く。その隙をついてターリックが剣を水平に寝せ、アジーズの太い胴をはらう。アジーズは巨体をゆすってそれを避け、逆に剣を繰り出してくる。この場で偽りなく本気なのは、恐らくアジーズだけだ。セイフとターリックには、わだかまりがある。二対一でも、一のほうが優勢の様相となっている。

「……嵐が来る……大きな竜巻だわ……この地が……最後の商人によって生まれ変わる時が来た……」

 剣のぶつかり合う音と、荒い息遣いだけが支配する地下の空間に、歌うような声が突然響いた。マレイカの声である。他の三人は、その声に動きを止められた。

「最後の商人、我の導きによりて、この地に再び息吹を与える……新しい都を治める若人は、最後の商人によって、永の繁栄のいしずえを築くだろう」

 マレイカの目はうつろで暗い。ここではないどこかを見ている。ゆっくりと虚空に向けた両手が、か細く震えている。

 好きな時に視えるわけではないと彼女は言っていた。

 今、突然にマレイカは巫女姫となった。

 魅入られたようになっていた他の三人の中で、最も早く立ち直ったのはセイフだった。セイフはもしかしたらマレイカの変容を見たことがあるのかもしれない。腕をあげたマレイカは、彫像のようにしばらく固まり、そしてその場に崩れた。セイフはそれを支える。

 次に動いたのはターリックだ。バスマにはじめて訪れたころと違って、マレイカの宣託を強く信じている。ターリックは族長の屋敷まで狭い通路を駆けあがり、外へ出ようとして止める。

 小さな隠し扉の向こうから、ごうごうと音がする。

「嵐が来ている」

 扉は押しても引いても開かない。どうやら蝶番ちょうつがいが壊れてしまったようだ。外から木の裂ける音がして、大きなものが飛んだ気配が分かった。

 ターリックは来た道を駆け戻る。アジーズは未だにセイフに剣を向けている。

「逃げろ、嵐が来た! ここは崩れる、この城の奥に行くんだ!」

 声を張り上げるターリックを、アジーズせせら笑う。

「マレイカもターリックも、俺を騙す気だな。俺はここの生まれだぞ! ここは貧弱で糞みたいな土地だが、そんな大きな嵐は来たことが無い。嘘をつくならもっとましな」

 アジーズが言い終えないうちに、雷のような音がした。アジーズが天井を見た瞬間、がれきと共に砂が大量に降り注ぐ。セイフはマレイカを庇い、ターリックはマレイカごとセイフを庇って駆けた。砂の落ちる音に、アジーズの叫びが吸い込まれた。セイフが小さく息を呑む。

 幾つもの商談を短期間でまとめ、砂漠を勢いよく駆け抜け、今度は砂嵐だ。砂煙でまともに口も開けられない。ターリックは溜まった疲れに気付かないふりをして、二人の女を抱えて逃げる。そんな中、意識がもうろうとしていたマレイカが目を開け、ターリックを見上げる。

「ターリック、言えなかったことがあるの……私を生んですぐに亡くなった母は、安寧も富も欲しかったの。不思議な力に恵まれなかった母は、当時評判の商人にこの塩を託そうとしたわ……結果は、ターリックが一番よく知って居るでしょう」

 マレイカが咳き込む。セイフの影に隠れた顔は、きっと悲しい顔をしているに違いない。

「父は商いの途中で死んだ」

 ほんの少し口を開いただけで、砂埃は容赦なく喉をたたく。ターリックも咳き込んだ。

「母は悔やんで、私を生んですぐに病で死んだわ。事後をセイフの母に託して」

 マレイカの声は震えている。ターリックが慰める前に、セイフがマレイカを庇う腕に力を込めた。その様子を見て、ターリックはいつもの調子を幾らか取り戻す。生き延びねば。様々なことを抱えて生きてきた若い二人の墓標は、ここに建つべきではない。

「謝ってばかりだな、マレイカが悪いわけではない。それに、過去のことだ。それより気になるのは、まさか、俺を選んだ理由が、贖罪ではあるまい?」

「いいえ、それは違うわ。私は私の力で、あなたを選び、過去を知ったの」

「ならば、それでいい……喉を傷める、もう話すな」

 宣託だと信じた自分が正しければ、それでいい。俺は導かれて、この塩を売り、父の夢を受け継ぐ。こんな地下で、終わったりはしないはずだ。

(全く……やはり、マレイカの宣託は一癖も二癖もある。苦難の道だ)

 砂に呑まれそうになりながらも、入り組んだ塩の城の奥へと二人を抱えて逃げるターリックは、今思い出さなくていいことをつい思い出す。噂では、何人かの商人がマレイカの依頼を断って死んでいるのだ。

(断らなくてもこの結果か。どうせなら最初の商人のようにサソリにでも噛まれたほうがましかもしれないが、俺は生きる。父さんの為にも)

 何かが流れる音がする。何が流れているのか確認する間もなく、ターリックの上に大量の砂が降りかかった。マレイカとセイフの身を抱き取り、目を閉じる。父の姿がまぶたの裏に浮かんだが、父の表情までは分からなかった。



 がやがやと、騒がしい声がする。大勢の気配が近くにあった。目を閉じていても、陽光が分かるほど明るい。仰向けで寝ているターリックの身は、ぽかぽかと暖かかった。

 死後の世界は騒がしいところだと、まず思った。そして胸元の父の形見を探る。どうもこの癖だけは治りそうもない。紅色の石は恐ろしい嵐の中でも懐に留まってくれた。

 痛む身体を庇うように横を向き、目を開ける。すぐ横の椅子にもたれて、セイフが居眠りをしている。彼女は片腕を吊っていた。頬には擦り傷がある。だが元気そうだ。

 ターリックはゆっくり身を起こす。立派な天幕の中だ。布の壁の向こうを、幾つもの影が行ったり来たりせわしない。外は活気にあふれ、賑やかだ。

 ここはどこだ、と言いかけたのを呑み込んで、ターリックはセイフに近づく。動くと肩と足の刀傷が引きれた。思わず傷を確認すると、治療の跡がある。ぼろ布のような服は下半身だけで、上半身には包帯が巻かれていた。近くに服が掛かっている。装飾が多く、重そうな服だ。着てみると実際重い。

「カラフ王子のようだな」

 カラフ王子は似た服を着て軽々と動いていたのを思い出す。

 セイフの服も同様に、豪華になっている。男物ではない、空色のしっとりとした生地が、身体に纏わりついている。本当に胸が無い。ターリックはつい笑いそうになるのを堪えた。胸元の布地が余っていることを除けば、よく似合っている。

 セイフの頬に触れる。体温が心地よい。

(どうやら、生きていた)

 ターリックは長い安堵のため息をついた。セイフを起こさないようにして天幕の外に出る。

 ここはどこだ。自分の居る場所が分からない。

 いつも寂しいばかりの砂漠は、喧騒で溢れかえっていた。

 幾つもの天幕のあいだを縫うように、人が行き交っている。とにかく人が多い。ゼーネッテの兵と話す男たちは、一見して傭兵と分かる。地図を広げて相談する難しい顔の男たちは、設計士や建築士だろうか。知った顔を探すと、商人たちがひとかたまりに集まっていた。こちらも難しい顔をして、何事かを話し合っていた。以前塩の商談をした小狡い男も混じっていて、ターリックに気づくと気まずそうに頭に手を当てた。


 すべて、ターリックが急いでかき集めた人々だ。商人の街でのターリックの賭けは、まずまず成功だろうか。バスマは沢山の人々の手によって、これから生まれ変わるのだ。

 風は相変わらず砂の匂いを運び、ターリックの栗色の髪を揺らす。だが穏やかな風には、僅かに嗅ぎ慣れない匂いが混じっている。

 ターリックは風を受けて振り返った。

 天幕と人と駱駝と、呑気に長い鼻を持ち上げる象の巨体の向こう。青空の下に一部が崩れた高い城塞が見える。ターリックの片目は、崩れた壁を越えて、鈍く光る地面を映す。

「塩の城が…」

 砂嵐によって貧しいバスマは取り払われた。黄色の砂に隠された、紅い城の復活である。マレイカの宣託が、実現したのだ。ターリックは懐の岩塩を握り、父を想う。

(これからだな、父さん。商いはむしろ、始まったばかりだ)

 色々なことがあった。砂漠を疾駆し、人と出会い、砂に呑まれて、ここまできた。これからまた、色々なことが起こるだろう。塩の相場を決め、流通を軌道に乗せ、砂の下に流れる水を掘り当て、水路を整備し、街を造るのだ。眠る間も惜しいほどの日々が始まる。

「まあ! ターリック! 起きたのですね! よかった!」

 張りのある声とともにマレイカがターリックに抱きついた。後ろでカラフ王子がこほんと咳をする。

「マレイカ、無事でよかった」

「ターリックとセイフのおかげよ。私たち、砂に押し流されて水に落ちたの」

 マレイカが頬を上気させる。カラフ王子は渋面で腕を組む。

「地下水脈に出口があったからいいようなものの……まさか、バスマの最後の水場から出てくるとは思わなかったよ。砂嵐の影響で、色々なことがあってね。埋もれていた塩の城が出てきたのはいいが、近くで水が溢れた。早めに対策を打たねば塩に影響したら大ごとだ……まったく、本国といい、飛び地の新しい領土といい、せわしないことだね」

「ごめんなさい、カラフ。私どうしてもセイフが心配だったの」

 ぶすっとしたままのカラフ王子に、マレイカがおねだりするように手を合わせる。すると面白いようにカラフ王子の表情が溶ける。

「いいのだよ、マレイカ。私こそすまなかった。君の優しい気持ちを汲んであげなくて。大丈夫、本国の危機は噂だと分かったし、たとえ噂でなくても、私に逆らうことがどういうことか分からせるために、今回きちんと先手を打つことにしたよ。結果的には、よい機会だった」

 ふふふ、と忍び笑いを漏らすカラフ王子。砂糖菓子の王子は、甘い華やかな王子と、苦くしたたかな元商人の顔を巧みに使い分けている。

「とは言え、二つの場所を同時に統治するのは骨が折れる。マレイカはゼーネッテで静養が必要だしね。ああ、結婚式が待ち遠しいよ、いとしいマレイカ」

「まあ」

 すでに新婚夫婦のように寄り添う二人に、ターリックは目を逸らす。丁度セイフがこちらに向かってくるところであった。慣れない服につまづきそうになりながら、懸命に駆けてくる。やはりセイフには、スカートより剣の方が似合うかもしれないと、ターリックは思う。何しろ可憐な姿で、鎧の騎士のようにきびきびと膝をつくのだから。

「セイフ、疲れているのだからきちんと寝なくてはだめよ」

「いいえ、マレイカ様……商人が起きたことに気付かず……」

 垂れた頭をさらに下げようとするセイフに、カラフ王子が近づき、貴婦人を立たせるように手をとった。

「セイフいいところに来たね。これからのことを話そうと思う」

 カラフ王子に手を取ってもらったことを恐縮しながら、セイフは立ち上がった。

「マレイカは私の花嫁だ。持参するものはバスマの民とアルーカと……そしてこのバスマの地がもたらすだろう大きな富! これほどの花嫁が、他に居るだろうか!」

 カラフ王子がセイフの手を握っていない方の手を、バスマの城塞の奥に向けた。カラフ王子の声は大きく、周囲の人々の足を止める。

「この地は宝の地だ、ここに集まる皆が知っている。今は過酷な地だが、やがて素晴らしい都になるだろう……セイフ」

「はい」

「この地を、マレイカの忠実な従者セイフに、任せたいと思う。困難なことも多くあるだろう、勿論助力は惜しまない。だが考え決めるのは、この地をよく知る君だ」

 マレイカもたまに遣そう、とカラフ王子が締めくくる。

 セイフが息を呑み、マレイカが感極まったように手を合わせた。

 新しいバスマの誕生に、ターリックは立ち会っている。最後の商人として。

 マレイカが泣いてセイフに抱きつき、セイフもまた涙した。その様子に満足して、カラフ王子が手を打ち鳴らす。派手好きの王子によって、豪華な宴の準備はすでに整っていた。



***



 目まぐるしく騒がしい一日を見届けた太陽が沈もうとしていた。宴の騒ぎも引けて、幾つもの天幕には明かりがともり始める。バスマの城塞からそれを見つめるものは二人。どちらが誘ったわけでもない。お互いが自然にここへ足が向いた。

「マレイカの予言で死なずに済んだようだ」

 ターリックは淡々と言った。夕陽を浴びるセイフの服は、紫色に輝いている。

「さて……それはどうか……。それに」

 セイフが子どもじみた笑みを浮かべ、口元をおさえた。はじめて見る仕草に、ターリックはつい目を奪われる。

「サソリに刺されて死んだ商人の話は、私の作り話だ。姫様が導いた商人は、三人だけだ。突拍子もない商談を、アルーカの商人は最初信じてくれなくて困ったので」

 ターリックはぽかんと口を開ける。

「なるほど、なかなかのでっちあげたな」

 そのおかげでマレイカは恐ろしげな巫女姫として世間で知れ渡っているのだが。ターリックも巫女姫の威光を持ち出して商談をすすめたので、セイフのことを強くは言えない。

「マレイカ様のご希望に添うためだ。小さな嘘は仕方ないだろう、商人」

 セイフはマレイカが幸せなら気にしないのだろう。そしてマレイカも……。ゼーネッテの地で優しい王妃となって、いつか恐ろしい噂は笑い話になる。

「一段落したら名で呼べと言ったろう」

「その話なら。商人の働きはむしろこれからではないのか?」

 憎まれ口は相変わらずである。

「さて、意外に策士な新しい領主殿、俺と改めて契約を結ぼうか。この地に留まり、塩をうまくさばいていける商人は俺だけだ」

 ターリックはセイフに向かって手を差し出した。マレイカの契約も、カラフ王子とするはずだった契約も、全てはセイフに受け継がれた。そう考えて間違いないだろう。何しろセイフはこの地のすべてを任された。

 やるべきことは山積みだ。若い領主には、助けが必要だった。

「帰る家はどうする。立派な家だ、風呂もある」

 セイフが不安げな声を出す。全く素直でないことだ。

 不意に、出会った時のことを思い出す。あの時セイフは入浴の時間が長かった。セイフは風呂好きなのかもしれない。

「あの家は売った。この地に集めた技師や商人の手付け金だ」

 無一文になった、とは言わない。

「……随分な博打をする」

「心配するな、俺は賭けも商いもうまい。これから幾らでも儲けてみせよう」

 長い沈黙があった。セイフはゆっくりと手を差し出す。ターリックはその手をとり、依頼人が驚きの声を上げる間もなく引き寄せる。細い身は、ターリックの腕の中で逆らうことはなかった。


『最後の商人、我の導きによりて、この地に再び息吹を与える……新しい都を治める若人は、最後の商人によって、永の繁栄のいしずえを築くだろう』


 塩の城での、マレイカの予言は一字一句正確にターリックの中で蘇る。最後の商人の行く末は、これから決まる。長い時間をかけて。このバスマの地で。





〈了〉

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砂の通い路 比紗由 @hisayoshiyurara

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