第4話 深遠の財宝

 ターリックの目の前に、またとない好機が差し出されている。それは大国・ゼーネッテの王子の右手だ。白い手は、成功への大きな足掛かりに違いなかった。

 だが、ターリックはその手を握らない。こんな状況にすら舞い上がらない自分が恨めしいと思う。冷静に考えて、ターリックにはその資格がない。彼の集めた骨董や絨毯が、カラフ王子の言うように高価だったとしても、それではカラフ王子の手を取るには足りない。カラフ王子も、ただの凡庸な商人を望んではいまい。

「折角ですが、王子様のお手を取るわけには参りません」

 ターリックの答えに、カラフ王子は気分を害した様子もなく、あっさりと手を引っ込めた。

「私はゼーネッテ王の妾腹でね、身籠った母ごと殺されかけた」

 重い話なのに、カラフ王子の口調は軽やかだ。内容と合っていない口調のせいで、ターリックが理解するのに少々の時間を要した。

 ターリックの瞳が驚きのために僅かに動くのを認めると、カラフ王子は楽しげに口角を上げた。聞き手がその話に興味があるかないかに関係なく、語り手は話を続ける。

「指図した正妻は身ごもってはいたが、私の母の産み月の方が早かった。あの国では長男が世継ぎになる。母はこっそり河に沈められるはずだった……でもね、手筈を整えた男が、母に恋をしたおかげで、こうして生きている。男の本業は商人で、身籠った母を妻に迎えて、私を息子として密かに育てた……とまあ、こんな理由だよ。こんなことは、私も何年か前まで知らなかったけどね。養父と母は、私を普通に育ててくれたので」

「――マレイカ姫は、王子様の出自までお見通しだったと?」

 アルーカを世話する男、そしてカラフ王子。二人の商人の現在を目の当たりにして、ターリックはマレイカの力に対する疑いを完全に捨てた。呟いたターリックの短い言葉に、カラフ王子はしかし、首を横に振ってみせるのだった。

「私のいとしい姫の予見の力は、千里眼ではないからね。ぼんやりと未来への道筋がみえるそうだ。力を使うたびに弱い身体をなお痛めて、ただただ、ひたすら民の幸せのために動いている。もう力は使わないようにと、言ったのだけどね。なかなか頷いてくれなくて、意固地なところも可愛いけれど……困っているのだよ。ここを離れればもう、私と甘い蜜月を送る身なのに」

 カラフ王子は言葉の端々に惚気のろけを入れるが、慣れてきた。ターリックの歯も浮かない。というより、これは王子独特の話術なのだ。浮ついた王子を演じながら、内心は狡猾に動いている。商人としても有能であったに違いない。でなければ、幾らマレイカの宣託があったとはいえ大国に政変を起こし短期間で成功に導くことはできまい。ターリックは身を引き締める。数々の商談をこなしてきたターリックだが、今ほど気を抜けないときは無かっただろう。

「私はマレイカに選ばれて、運命に導かれて弟と争い、病身の父王に世継ぎと認められた……でもね、本当は全て、マレイカの為。彼女を幸せにしたいという欲が原動力さ。これも、運命かな?」

 カラフ王子がしみじみと言う。どうやらマレイカへの愛は本物のようだ。

「さて――どうでしょうか」

 ターリックは言葉を濁した。不甲斐無いがそれしか言葉を選べなかった。

 マレイカが紡ぐ運命の糸に、ターリック自身がからめ捕られている真っただ中である。選ばれた商人たちには死んだ者もいると聞く。つまり結末には幸も不幸もある。カラフ王子と違って、ターリックの結末はまだ見えない。

「私は狭量でね、マレイカが君を優遇するのが少し気に入らない。でも、いずれ取引はさせてもらう気がする。君はマレイカが見込んだ最後の商人だ。期待しているからね。マレイカの君への期待は、きっとこんなものではないよ」

「王子様、それは買い被りすぎかと……私はただの商人、物を仕入れて売るだけです」

「そうかな? だがマレイカが選んだとっておきだ。マレイカの力はこの私で証明されただろう?」

 ターリックは答えず、ただグラスに残っていた葡萄酒を一気に煽った。思ったよりも濃厚な液体が、喉を熱くする。葡萄の香りは甘く、微かに青くさい。

「本当に、恋は盲目だね、我ながら……ねえ、ターリック、明日だけマレイカの時間を君にやるよ。私はすぐにでも旅立ちたくてね。国内は落ち着いたとはいえ、油断できないやからはまだ残っている」

 なら、使いだけを寄越せばよかったのではないか、という問いをターリックは呑み込んだ。それを見越したように、カラフ王子は目を細める。柔和な茶色の瞳が、様々な思惑に揺れている。

「悪いけど、明日だけだ。彼女に今の商いの状況を報告したらいい。マレイカの期待に添えた時、あらためて私と握手をしようじゃないか。私もね、実は財力が切実に欲しい。私とマレイカの将来を盤石ばんじゃくにするための」

 カラフ王子は空になった酒瓶をターリックに渡すと、自分のためにしつらえられた天幕に向かっていった。

「瓶が新しい……どうりで若い香りだ。味は悪くないが」

 新品の酒瓶に彫られた模様は、バスマの水差しの模様と似ていた。バスマの独特の技術はすでに、ゼーネッテで息づき始めているのかもしれない。大国に保護された小さなオアシスの文化は、かたちを変えて花開くだろう。

 いずれ王妃となるであろうマレイカに、持参金があればすべてはうまくいく。貧しいだけで後ろ盾のないか弱い娘には、何としても必要なものだ。世の中には金で買えないものはないと、ターリックは思っている。だが、反感や悪意は、金を出さない方が買いやすいのだ。

「俺に出来ることなど……」

 ターリックはバスマにきてはじめて、軽く弱音を吐いた。与えられた時間は余りにも少ない。残る希望はこの地に残る伝説の宝だけだ。この土地のことを何も知らない自分が、何の役に立つというのだ。

「存在さえ分からない宝だけが希望とはな」

 ターリックは無意識に、父の形見を握りしめている。袋の上からでも分かる、固い手触り。その感触が、いつものように心を休める……。

「――!」

 不意に高く清んだ音がして、袋の中身が砕けた。ターリックは急いで中身をてのひらに開ける。暗がりの中でも、薄紅色の石が二つに割れているのが分かった。細かい破片が砂の上に落ちる。ターリックは思わず屈みこんで砂をすくうが、砂の上の小さな欠片など、この闇で見つかるはずもない。諦めて二つに割れた石を懐に仕舞う。

「なんの厄日だ、全く」

 立ち上がるターリックの手から、砂はさらさらと真っ直ぐに落ちていく。そういえば今は風がない。だが耳には、砂の流れる音が入ってくる。バスマに入ってから、その密やかな音は常にターリックの耳に響いている。

(何に流されているというのだ)

 さまざまなことが起こり過ぎていた。ターリックは考え込むが、先ほどの葡萄酒がもたらす酩酊が、正常な思考を奪っている。何か大事なことを、見逃していないか。

 酔いが思考を混乱させる。これではあきらめて天を仰ぐしかない。見上げればいつもそこにある星々が、幾らかぶれて見えた。

「あの甘々王子、顔色も変えずに飲んでいたが」

 どれだけ強い酒だというのだ。星空を見れば狭い視界の端に城壁が入る。高すぎる城壁の上に、まだセイフはいるだろうか。いや、間違いなくそこにいて、人形のように微動だにせず、外をにらんでいるに違いない。

 ターリックは荷をくくったまま窮屈そうに眠る駱駝の列に寄り、毛布を一枚取り出すと階段を登る。ここに来る旅路でも、彼女に毛布を掛けてやった。あのときは男だと思っていた。今は女と知っている。

 少し離れたところに立つセイフは、ターリックに気づく雰囲気はない。いや、気付いて居るはずだ。知らないふりをしているのか。ならばそれでいい。ターリックも気付かれていないふりをして、セイフの立ち姿を見つめる。

 夜の星々の瞬きを優しく受け止める金色の髪、聡明そうな額、整った鼻筋。相変わらずぼろを纏った細い身体。服の大きさは身体に合っていず、身体の線を隠してしまう。胸の膨らみがどう目を凝らしても分からない。

 それでもやはり、女だ。愛する者を守るために懸命になる、芯のつよい女だ。どうして自分は男と思っていたのだろうか。やはり体型のせいだろうか。

(俺の視力は半分だからな。胸が控えめ過ぎて、目の良いものでなければ分からないのだろうよ)

 ターリックはセイフが聞いたら確実に怒るようなことを内心で呟いて、声をかけずに毛布をその場に置いた。そして階段を降りていく。

 セイフに打ち明け話は出来ても、弱音は吐きたくなかった。ターリックはあくびをかみ殺すと、さっさと休むことにした。明日すっきりした頭で考えれば、きっと道は拓けるだろう。

 夜もだいぶ更け、宴の騒ぎもいつの間にか静かになっている。今朝がた象がつけた足跡を辿るターリックの前に、人影が佇んでいるとは思いもしなかった。


 

***



 マレイカの部屋には明かりが灯っている。古い家具の上、窓枠、冷たい床……いたるところに灯された蝋燭の皿は欠けていた。マレイカは最後の蝋燭に火を灯すと、絨毯に胡坐をかくターリックの対面に座り、明かりを置いた。好き勝手に揺れる沢山の火影が、部屋のあらゆるものの影を淡く幾重にも作り出す。

「こういう雰囲気は、好きな男と作るものだ」

「あら。私はターリックの好みではないでしょう?」

 ターリックの軽口を、マレイカは笑ってかわした。

「身体は大丈夫なのか?」

「ええ」

 明かりの色を受ける頬は、血色がよい。元気ならいいが、無理をしているようにも見える。早めに切り上げるべきだ。あの王子の怒りも買いたくはない。

「話なら明日でもいい、無理をすると王子に叱られるのは俺だ」

「まあ……ターリック、言葉がくだけたのね。セイフのおかげかしら?」

 マレイカはまた笑う。本当にこの娘は、笑顔が似合う。セイフの無愛想さと足して二で割れば、ちょうど良いかもしれない。

「私の力への疑いは晴れているといいのだけど、ターリック?」

「さすがは巫女姫、お見通しか。だが今は信じている。俺はどうすればいい、時間がない」

 商人の率直な問いに、巫女姫は答えない。

 外の宴は完全に終わったようだった。音が途絶えた空間で、蝋燭に飛び込んだ虫がじりっと鳴った。

「あなたの問いに応えてあげたいけれど、私はこの身のうちに息づく力を操れるわけではないの。この地を治める者は、この地に危機が迫ったときだけ力に目覚めるわ。バスマは遠い昔に近隣の族長に滅ぼされかけたけれど……」

 マレイカは遠くを見る。ここではないどこかを見ている。

「……その遠い昔にも、この地は族長の宣託によって救われたの……いえ、だから族長になったのよ。その娘も私も、この地を守りたいのではないわ、人々を救いたいの。他には何も望まない」

「それに付き合う俺の身にもなってみろ。俺は無理矢理巻き込まれた身だ」

「だから、ターリックに謝りたかったの。バスマの族長マレイカは、あなたに重荷を負わせたことを申し訳なく思っています。このとおりです」

 衣擦れの音もさせないほど丁寧に、マレイカが深く頭を下げた。金色の髪が動きに合わせて流れるのを、ターリックはただ見ている。濃い金色を見ると、どうしても砂を連想した。無風でも音をたてるバスマの砂の不思議を。

「私が見たのはターリックが最後なの、あとはもう何も見えない。この先見えるかどうかも分からない。この地の最後を、私の大切な人を、導く商人。それだけが真実」

 マレイカが姿勢を正す。表情は大人びて見えるのに頼りない。彼女もまた、不安なのだ。

「ここまで来たからには、俺も覚悟を決めている」

 ターリックは立ち上がり、部屋を出ていく。酔いはいつの間にか醒めていた。

 いくつか心に引っかかる事がある。マレイカの不思議な力がうつったとでもいうのだろうか――いや、違う。ターリックの商人として培ってきた注意力が、ひらめきを与えたのだ。

「ターリック、ごめんなさい」

 去っていくターリックに、マレイカの声がかかる。

「ついさっきの謝り方より、今の方がマレイカらしいな」

 ターリックは振り返らない。

「俺なりにやってみよう。だが、これは俺の為だ。俺はがめつい商人だからな」

 族長の部屋を出て、ターリックはその場にたたずむ。明かりのない屋敷に、星の光が落ちている。青白い光の中で、ターリックは壁を慎重に撫でた。バスマに着いてすぐの時、彼自身が模様を念入りに辿った古く脆い壁を。

 やるべきことの道筋が、薄闇の中に見える気がした。



 バスマの朝が、白々と明けていく。砂漠のどこまでも続く空にいつも雲はないが、今日は珍しく東の空がうすく霞んでいる。霞の中に輪郭のぼやけた太陽があらわれた。空を滲ませている僅かばかりの…雲とも呼べない霞は、夜から朝へのうつろいを、美しく寂しげに描く。朝焼けはバスマの近くにそびえる高い岩山を赤く浮かび上がらせた。

 さらにバスマの近く、砂の上には風紋があるだけのところに、頼りない足跡が残っている。滑らかな砂上のいたるところに岩があった。赤く光る岩山と違い、小さな岩たちは遠目にも脆そうだ。長いときを風に晒して、いずれ砂に返っていくのだろう。足跡はバスマの城門からはじまり、殆どの小さな岩の周りを巡って、バスマに戻っている。所どころの足跡が大きいのは、転んだせいだろうか。

 すべて、バスマの城塞から見渡せる景色だ。

 ターリックは城塞の上に立っている。昨夜は考えが渦巻いて眠れず、結局行動することを選んでしまった。

 夜の闇で考えをめぐらせ、松明たいまつ一本で行動し続けたターリックの全身はすすけ、砂埃で汚れている。商人と言っても誰も信じないような風体だ。

 息を大きく吸い込むと、肺が痛むほど冷たい空気が神経を冴えさせる。ターリックはこの場所が気に入っている。朝陽を見て尚更そう思う。

(ここに来てはじめて朝陽を見たが、なかなかのものだな)

 声には出さない呟きは、足元にうずくまる影に向けられている。毛布に包まる華奢な影は、抱えた膝に顔を埋めていた。

「その毛布は俺が持っていたものに似ているが」

「知らないな。これは落ちていたのだ、ありがたいことに」

 ターリックは太陽の眩しさに目を細める。そっけない物言いから棘がとれているのは気のせいだろうか。

「残された時間は少ないはずだ、こんなところで油を売っている暇などあるのか、商人」

 セイフがようやく顔をあげた。疲れの色が濃い。頬も唇もかさかさに渇いている。マレイカの為に過酷な旅をし、マレイカの為に夜通し寒風に身をさらす。マレイカに幸せが待っているなら、セイフも報われるべきだ。ターリックはふと、セイフが憐れになる。

「顔色がよくない、アジーズは王子の兵が居る限り手出しはできまい、少し休め」

「アジーズはしつこい男だ。何をするか分からないし、ずっと諦めなかった伝説の宝をこれからも諦めないと断言できる。私は私のやりたいことをやっているだけだ。それより、答えろ商人……このバスマに、何か展望はあるのか」

「まあな」

 内心の想いを表に出すことなく、さらりと答えるターリックを、セイフが疑わしげに見つめる。

「この痩せた土地に価値を見出したというのか」

「物事の見方はいろいろあるということを知っている商人たる俺が、目の前に見えるものだけを見ていた」

 謎かけのような台詞に、セイフの眉根が寄る。

「よく分からないが。いったい何を見つけたというのだ、商人」

 今の空の色合いに似た紫色の瞳が、朝焼けに照らされる商人を見上げる。

「そうだな、セイフが俺を名で呼ぶなら教えてやらないこともない。俺にも一応名があるのでな」

 セイフは顔を赤くしてそっぽを向いた。

「未熟な商人を名で呼ぶ必要もない。それにその姿、商人には見えない。砂の上を転げまわったか? 凡庸以下の商人の才に気づいて、気でも狂ったか」

 皮肉な言葉の中に棘がないのは、やはり気のせいではない。

「その通りだな、ならば名で呼ばせてみようか。俺の働きが凡庸以下なら、なんと呼ばれようが甘受しよう。だがマレイカの望む働きをしたときは、名で呼べ」

 ターリックの表情は晴れやかだ。朝焼けを映して濃い緋色になった瞳で、真っ直ぐにセイフを見る。突然の申し出に、セイフは二の句をつけずにいる。

「沈黙は了承だと受け取っておこう」

 からかいとも本気ともつかない言葉を投げて、ターリックは返事を聞かぬまま城塞を下りた。闇の中で砂の上を歩き回ったせいで、服の中に砂が入り込んでいる。本当は風呂に入りたいところだが、とりあえず着替えだけで我慢しよう。

 依頼の報告をする商人として、この姿は相応しくない。



***



 早朝に城塞から見かけた朝靄は、やはり幻だったに違いない。そう思わせるようなぎらぎらとした太陽が、中天に輝いている。乾いた小さなオアシスにあって、族長の屋敷だけはいつもひんやりとしている。はじめて訪れたとき、ターリックはその冷涼をもたらすものは、寂しさだと勘違いした。すべては、貧しいとしか思えないバスマの一面だけを、ターリックの目がとらえたことから始まった。

 ターリックは旅じたく姿で腰には剣をき、未来のゼーネッテ国王夫妻の前に立っている。場所はマレイカの部屋の前、複雑な模様の描かれた壁の前だった。

「マレイカ姫、あなたの依頼を深く考えずに簡単にこなそうとしたこの凡庸な商人を、まずお許しいただきたい」

 くだけた物言いをせず、ターリックは商人として依頼人に頭を下げた。姿勢を正したとき、マレイカは安堵と喜びをいつもの笑みに加え、カラフ王子は注意深くなりゆきを見守っている。

「私こそ……私こそ、ごめんなさい、本当に。あなたを試すような真似をしました」

「いや、素晴らしい財宝を託そうというのだ。試されて当然だ」

 ターリックの指が、壁の模様をなぞっていく。古い模様は薄く、ところどころは途切れている。それでも、指が補完しながら描くのは、円だと分かる。

「これは、バスマの城塞だ。複雑で変わった模様だと思っていたが、これは地図だ」

 カラフ王子が短い感嘆の声をあげ、マレイカが幾度か浅く頷く。

「流石は最後の商人というべきなのかな。私もここに長く逗留したけれど、この壁の模様をよく見ようともしなかったよ……もっとも私はマレイカばかりを見ていたから」

「私の目は間違っていなかったのですね、ターリック」

 惚気が始まりそうな婚約者の台詞を、マレイカがやさしくも容赦なく遮り、ターリックに先を促す。

「それがそうとも言えぬところが、こちらとしても苦しいところだ。先に言い訳をさせてもらえば、何しろ時間が足りない。もうあと二、三日の猶予があれば、完璧な報告をしてみせるのだが」

 ターリックは壁の朽ちた絵を、もう一度辿る。バスマの古い地図は、城塞をあらわす円だけでは終わっていなかった。むしろ、円の外に広がる街のほうが広い。縦横に道筋が走り、あちこちに市と思われる広場があり、広い道には人馬が描かれたような跡がある。井戸も点在し、泉と思われる場所もあった。そして市街地の奥には不思議なことに、城のようなものが有る。ターリックの指がなぞったところから、活気に満ちた喧騒が聞こえてくるようだ。

「バスマは昔、随分と潤った土地だったのだろうな。俺は昨夜、それを確かめるために嫌というほど足を使った」

 夜中を歩き回った。頼りなげな明かりを一つ灯して。

 城塞のそとにあった岩は、この壁の材質とよく似ていた。セイフが気づいて斬りかかられるか、または最悪の場合は矢を射かけられるかとひやひやしたが、どうやら彼女は眠っていたようだ。あの毛布が、意外な働きをしてくれたというわけだ。今頃は、自室でまた眠っているだろうか。そのそばにあの毛布があったらいい。疲れた体をなるべく休ませて置いてくれればいい。まだまだやるべきことがある。彼女にも、ターリックにも。

「その昔、このバスマは一度滅びたと聞いた。俺たちの居るところは、その名残だ。ここは族長の居るべきところではない。壁の地図では城は別のところにある。……ここは昔、バスマに繁栄を与えた源。あの異様に高い城塞は、それを独占し守るためにある。それは滅びに繋がるような、つまり戦を呼ぶような宝だ。そして」

 ターリックの指が、壁から離れて下を向く。ターリックの耳には相変わらず、どんな時でも砂の音が入ってくる。バスマの民はこの音に慣れてしまったというのだろうか。それとも、ターリックが砂漠の民でなく、遠く緑濃い山岳地帯の血を引くから気が付いたことなのだろうか。

「ここの砂は、どこかから落ちている。地下に向かって……つまり宝は高い壁の内側、この地下にあるのではないか」

 カラフ王子が象を伴った行列を連れてやってきたとき、マレイカは城塞の外に行列を追い出した。それはただ、沈みゆくこの地に重みを加えることの危険を感じたからに違いない。今は分かる。マレイカはこの地が抱いた宝により沈みゆくことを予知して、商人たちを呼び寄せたのだ。本人の言うように、この地を守るためでなく、暮らす人と生き物を守るために。

 生き物を世話することが好きな商人は、アルーカのために。知略をもって国を手に入れた商人は、民のために。そしてターリックは……財の為だろうか。だがそれだけでないと、ターリックは思っているのだ。

「この地に眠るものは、いずれ必ず砂の幕を落として、人目に触れるでしょう。それは争いをもたらすものでもありますが、才と力のある商人が秩序をもって管理すれば、近隣の地を潤せるもの。あなたには、それができるわ」

「私には、その才はなかったかい? マレイカ」

「あら、才能が違うだけよ。あなたにはあなたの、素晴らしい才があるわ、カラフ」

 カラフ王子が残念そうに言うと、マレイカはその頬に軽く口づけた。……お熱いことで。よい夫婦になりそうだ、カラフ王子が尻に敷かれるのは目に見えているが。

「ただ、残念ながら……ここに眠るものの正体が分からない。俺が出来たのはここまでだ」

「充分だわ、私の選んだひと」

 マレイカは最初に出会ったときにそうしたように、ターリックの手を取った。あのとき熱かった手はつめたい。もしかしたらマレイカは、笑顔の下に緊張を隠しているのかもしれない。カラフ王子が軽い嫉妬を見せそうになると、マレイカはもう片方の手で婚約者の手を引いた。

「では、お二人にお見せしましょう……代々の族長が、隠し続けたバスマの宝を」

 マレイカは二人の男を導いた。従って歩いた先には一見すると分からないような壁と同色の小さな扉がある。壁をくり抜いて作られた、子どもがようやく通れる高さのものだ。まずマレイカが背を屈めて難なくくぐり、男たちが順に身体をぶつけながら中に入る。そこには扉と同じ高さの狭い道が下へと続いている。中は真っ暗だ。マレイカは壁にあるランプに火を灯して掲げた。まるでこうなることを予想していたような、滑らかな動きだ。

 三人は無言で狭い通路を下りていく。もっとも、話す余裕などなかった。通路が広くなることはなく、小さい明かりで視界はおぼつかない。天井に頭をぶつけるのにも飽きてきたころ、マレイカが先頭で息を吐いて立ち上がる気配が分かった。

「ようこそいらっしゃいました、いにしえのバスマへ!」

 砂の流れる音がはっきりと聞こえる中、マレイカが手元の明かりをあちこちに移していく。そのたびに視界がひらける。想像したよりも大きな空間が、ふたりの選ばれた商人の周りに広がっていく。

「――これは!」

 カラフ王子が心からの感嘆の声をあげるが、ターリックの耳には入らない。

 それは城だった。といってもこんな城は恐らく誰も見たことがない。流麗ではない、むしろ武骨で歪んだ城である。いや、城と呼べるのか……ただ、天井は高く、広大な空間を太さが不規則な幾多の柱が支えている。

 マレイカは明かりをどんどん増やしていく。ターリックは導かれるようにゆっくりと歩く。壁も柱も、削られてできたものだ。明かりを灯す場所すらも、くり抜いて作られている。

 柱に気を取られていると、つまずきそうになる。ターリックはそのまま床に膝を付いた。

「床も……削られたものか」

 これは城ではない。ただ削った結果の形である。マレイカが明かりを灯し終えるころ、ようやく揺れる明かりで全容が見えた。壁の色、材質……これをどこかで見たことがある。いや、ずっと見ていた。長いあいだ手元にあった。

 ターリックは懐を探る。父の形見は昨晩ふたつに割れた。その片方を、ターリックは床に置いた。

「なんてことだ……」

 同じ材質だった。床の色には濃淡があるが、同じだと言い切れる。ずっと懐にあった石が、まさかこんなに巨大なものの欠片だったとは。

 父が目指したものを、ターリックはようやく探し当てた。

(これが……父が求めたもの!)

 不覚にも熱いものがこみ上げそうになり、ターリックは誰にも悟られぬよう息をのむ。

「ターリック、これをあなたにお任せしたいの。この大量の宝の正体を知りたければ、こうしてみて」

 マレイカは壁に口づけた。小さな舌が、壁をひとすくいする。ターリックは何も考えないまま、少年のころからずっと供にあった小石を舐めた。

「まさか、こんな色の……こんなに大量に!」

 すっかり石だと信じていた形見を、まさか舐めてみようとは今まで一度も思わなかった。

 今度こそターリックは涙をこらえるのに苦労した。父が生涯最後に挑んだ宝は、命を懸けるにふさわしいものだった。この、こみ上げる涙を飲んだのと変わらぬ味は。

「これは塩よ。塩は遠い海で取れる白いものばかりではないの。いいえ、ここも大昔は、海だったのかもしれないわ。薄紅色の塩……透明ではないけれど、この濁った色も、なかなか綺麗でしょう。金属と砂を含んでとても固く、このままでは使えないけれど、古きバスマの民は精製の方法も知っていたわ。そしてこの塩のもたらす莫大な富の為に、滅ぼされかけた。だから、ずっと隠してきたのね。バスマの代々の族長は、富よりも安寧を選んできたわ……」

 マレイカの言葉がいちど途切れた。

「……ターリック、これからが大変だと思うけれど、協力は惜しまないわ」

 何かを逡巡しゅんじゅんしたあと、マレイカがそう話を締めくくった。本当に言いたいことはほかにあるのかもしれないが、ターリックに詮索する余裕はない。それよりも、ずっと探していたものに出会えたこの運命に、感謝せずにはいられない。

 昨夜一睡もしていないのに、心が浮き立っている。疲れなど全く感じなかった。

「マレイカ、ところでこの城の周りを流れているらしい砂は、どうなっているのかな?」

 ずっと黙っていたカラフ王子が、冷静に口をひらく。そうだ、もうひとつの問題がある。ターリックはそれをすでに予想している。だから時間がない、すぐにでも動かなければこの宝は無くなってしまうかもしれない。

「カラフ、ターリック、砂の流れる先には水脈があるわ。まだこの塩からは遠いけれど、いずれここに到達するかもしれない。この地の水が悪いのは、塩のせい。古代の人々も、そこには苦労をしたはず」

 ターリックの予想は当たった。バスマは不毛の地ではないのだ。水も財も、砂に隠されていた。二つの宝は反目し合って、うまく扱わねばいずれ消えてしまう。やっかいな宝だ。

 ターリックには考えがある。壁の地図を思い出す。昨夜歩いた砂地。地図の場所を、今朝もういちど歩いてみた。そこにはまだ、井戸や泉のあとが残っている。バスマの先人たちは、未来への構想も残してくれていた。

「俺に任せろ。この塩の城は、俺が守って見せよう。俺の築いてきた全てをかけて」

 旅じたくは間違いでなかった。

 今こそ冷静になるべきだ。すぐにでも旅立ちたい気持ちをこらえて、ターリックは計画を二人に話し始めた。



 中天から西へ、太陽が傾き始めるころ。バスマの城門が開いた。現れたのは長い隊商の列だ。旅に出る隊商を、規律正しく整列し見送るのはゼーネッテから来た兵たちだ。

 隊商が遠くなると、門が閉まった。いつものように夕暮れを迎えようとしている城塞の外で、兵たちが忙しそうに動いている。煮炊きの細い煙がいくつも立ちのぼる近くでは、象が餌を求めて大地を踏んだ。

 この異国の一団を、厄介と思っている輩がいる。だが、獲物が砂漠に出てしまえば話は別だ。

「動いたか、最後の商人。来た時より人を増やしたな、臆病者め」

 干し肉を噛みながら呟いたのは、大柄で屈強な盗賊だった。アジーズはこの時を待っていた。彼はいつも強欲だ。砂漠を巡り沢山の隊商を襲いながらも、故郷にあるという宝と二人の女を同時に手に入れたいと願っていた。女としての魅力ではない。見目のよいだけの女なら、力と金があれば手に入る。だが、バスマの二人は違う。マレイカには世に二つとない力がある。セイフには女にしておくのは惜しいほどの剣の腕と度胸がある。

 アジーズは瓶から豪快に酒を飲み、口に残った干し肉を胃に流し込んだ。バスマからほど近い、だが死角になった砂丘の影で、地平線へと消える隊商の影を見送る。先日の失態は繰り返すつもりはない。アジーズは残った酒を飲み干すと、後ろに控える目つきの悪い男たちを振り返った。


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