第3話 大国の世継

 ターリックは独身で、言うまでもなく男である。生まれてこの方、出産に立ち会ったことは勿論ない。

「さて、どうしたものか」

 真っ白く可愛らしい生き物は、目に涙をためてセイフとターリックを交互に見る。セイフがおろおろとするのを見るのは面白いと思ったが、そう呑気にしていられる状況ではなかった。

「出産は自然なことだ、様子をみてみよう」

「……頼りにならないな」

 ターリックが全くあてにならないと諦めたのか、セイフはきっと唇を引き結ぶと、ターリックを追い出しにかかった。

「あてにできないのが近くにいると、気が散る」

 随分な言いざまに反論しかけた時、先ほどの男が戻ってくる。

「マレイカ様の熱が下がったそうだ。今度はこっちが大変だな」

 男は苦しむアルーカの様子をみて、これなら大丈夫だろうと出産初心者二人に頷いて見せた。貧相な男が、この時ばかりは輝いて見える。

「任せておけ、明日には可愛い仔が生まれているよ」

 役立たずの二人は、早々に小屋から追い出された。

「マレイカ様の人選は間違っていない……ほんとうに。あの男はアルーカをよく世話する、心底楽しそうに」

 セイフが安堵したように息を吐き、薄い胸に手を当てた。マレイカはあの男の適性まで不思議な力で見抜いたのだろうか。なら自分は何のためにここに来たのだろうか……ターリックはふとそんなことを思う。

「助かったよ、普通の男には分からないことだからな。セイフもそう思うだろう?」

 ターリックの何気ないひとことに、セイフが呆れ顔をつくる。

「私の方が、貴方よりはましだ」

「なぜ?」

「……どうも貴方は、勘違いをしているようだが」

 言いかけたセイフの顔が、すっと引き締まる。

「どうした?」

 ターリックの言葉など聞こえないかのように、セイフが走りだした。行く先には城塞の高い壁があるだけだ。ただならぬセイフの雰囲気に、ターリックは迷わず後を追った。 

 城壁には幾つか階段がある。セイフは闇の中でもつまずくことなく駆け上がる。

「おい、待て!」

 ターリックも続くが、階段は所々が朽ちていているうえにかなり急で、暗いなか易々と上れるものではない。ようやく半分上ったところで、剣の重なり合う音が聞こえた。

「セイフ!」

 ターリックは前のめりになりながら、なんとか階段を登り切る。勢いのままに重なる影に声をかけてから、腰に剣が無いことにひやりとした。この旅に剣は身に着けてきたが、先ほど休んだ時に外してしまった。丸腰で呼びかけるなど、セイフより無鉄砲だ。

 だが、ターリックの呼びかけのおかげで、重なる影が離れた。

 城壁の上は地上よりも明るい。月や星たちが、城壁の上で思い思いに動く三人を照らしている。

「また会ったな、ターリック」

 弾かれた細い影がセイフ……そして、近寄ってくる大きな影は。

「アジーズ……と言ったか」

「一度顔を合わせただけなのに、よく俺の名前を覚えたな。流石は商人と言えばいいか」

 アジーズは刀身を肩に置いて、ターリックを見下ろした。昼間、互いに駱駝の上に居た時よりも、身長差を感じる。ターリックは背が低い方ではない。にやけた顔で立ち塞がるアジーズが、大男なのだ。

「私は商人だが、客でもない男の名前など、覚えたくもない」

「憎まれ口は言うもんじゃねえぜ、特に剣を持った俺の前ではな」

 二人の男はどちらも視線を外さない。風が吹いているのに辺りはやけに静かだ。ターリックの耳に入るのは、相変わらず砂の流れる音だけだ。

「アジーズ、お前の相手は私だ!」

 弾かれて後方に跳んだセイフは、着地と同時に地を蹴りアジーズの背中から剣を振り下ろす。アジーズは即座に上半身をひねる。巨体に似合わない身のこなしだ。二人の剣は衝突するかと思われたが、セイフが寸前で再び地を蹴り後方に下がる。体格差からすれば、正しい判断だ。

 二人がにらみ合う隙に、ターリックは周囲に視線を走らせた。アジーズがここに現れたということは、どこかに梯子はしごなり縄なりあるに違いない。

「そこか」

 ターリックは普段から慌てにくい自分の性質に感謝する。城塞に上がろうとする影を見つけた。ターリックは迷わず現れた男の手を踏みつけ、相手が叫んで落ちる瞬間に素早く剣を奪い、城塞の古い煉瓦に食い込んだ縄梯子を切り落とす。次の瞬間悲鳴が上がり、重いものが次々と砂の上に落ちる音が続く。

「全く、私は商人であり客人だぞ」

 奪ったばかりの剣を握り直し、ターリックは押され気味のセイフを守るように立つ。砂漠からの乾いた風が、ターリックの髪を揺らす。風の冷たさに、ターリックは微かに震える。こんな夜は強い酒でも飲んで、アルーカの毛で織られた毛布にでもくるまりたいところだ。

「貧しいオアシスには不釣り合いな城塞だと思ったが、とりあえず風よけにはなっているわけだ……盗賊けにはとしては十分ではないようだがな」

 アジーズが構えていた剣を下ろした。いかつい顔には余裕がある。ターリックの震えの原因を勘違いしたらしい。

気障きざもほどほどにしないと死ぬぞ、優男」

 ターリックは向けられたあからさまな侮蔑に、同じ侮蔑を返した。眼帯をしていない方の目にあざけりがうかぶ。二人の男の距離は近く、アジーズはその表情を嫌でも見ることが出来る。緋色の瞳は、言葉よりも雄弁にアジーズを焚きつける。

「馬鹿め、宝を見つけるまでは生かしておこうと思ったが! マレイカの宣託などなくても、俺が宝を見つけてやろう!」

 アジーズの剣がうなり、セイフが短く声をあげた。三人の中で、冷静なのはターリックだけだった。

「意外に可愛らしい悲鳴だな」

「ふざけている場合か! 死ぬぞ、下がれ!」

 セイフは目を閉じ、縮こまった。バスマに入る直前、戦えるかと問うたセイフに「私は商人だ」とターリックは返して寄越したのだ。戦えるわけがない。血しぶきをあげて倒れる姿が、まぶたの裏にふいに浮かぶ。

 何度かの金属音が繰り返され、少しの間のあとにひときわ大きくぎいん、という鋭い音がセイフの耳に響く。――静寂が訪れる。セイフは恐る恐る目を開けた。

 信じられない光景だった。ターリックの剣先はアジーズの喉元にあり、剣を突き付けられたアジーズは膝をついて憎々しげに相手を見上げている。

「――アジーズが遅れをとるとは」

 セイフは自分の息が震えていることに気付かない。澄ました商人が、髪ひとすじの乱れもなくセイフを見る。

「さて、どうするセイフ?」

 ターリックは剣先でアジーズの顎をつつく。うずくまった獣のような男は差し迫った状況でなお牙を剥く。

「くそ、油断した……。今日の所は引く……が、覚えておけターリック、この街は俺がいただく」

 苦々しげに唇を噛むアジーズの視線が、ターリックの後ろに移る。

「セイフもだ。よくも俺をだましたな! マレイカがゼーネッテの王子と結婚するなど俺は聞いていないぞ!」

「バスマの民はゼーネッテの厚意でかの国に移住する。正式に決まっているのはそれだけだ」

「ほざくな! 俺はこの目でゼーネッテの王子を見た。大層な行列を連れて、明後日にもここに着くだろうよ!」

 言いながら、アジーズは痛烈な敵意をターリックに向けた。

「この野郎が、このさびれたバスマのちんけなガラクタすべてを売り払ったあとは、好きにすればいいと言ったのは、嘘だったか! この俺のもとに来るというのも! マレイカをさらいたければ好きにしたらいいと言ったのも!」

「さあ……ゼーネッテの王子は少々強引なうえにマレイカ様をお好きらしい。分かっているのはそれだけだ。マレイカ様も私も、自由にしたらいい。出来るものならばだが。私は簡単に負けるつもりもない、欲しければ命を賭けることだ」

 セイフが言葉を紡ぐほどアジーズの顔が赤黒くなっていくのが、薄闇でもわかる。

「ターリック、お前もこいつには気を付けろ。人を簡単にだます。マレイカの為なら」

 この女狐は、とアジーズは吐き捨てた。

「まて、女狐とは誰のことだ」

 奇妙な違和感に、ターリックの剣先が揺れた。巨漢の盗賊はそれを見逃さず、蹲った姿勢のまま素早く下がると、城塞の向こうに姿を消した。よく見れば、縄が一本城壁に引っかかっている。切ろうとする前に、重い着地の音がした。

「逃げられたか」

 だがまあ、それはこの際問題ではない。ターリックはセイフを振り返る。「やはり勘違いしていたか」とセイフは淡々と言う。

「聞き違えてなければ、確か女狐と」

 ターリックが言いよどむ。出会った時の鮮やかな剣技、丸みのない身体……姫へのあからさまな思慕……どこに『女』の要素があるというのだ。風呂上がりの姿を思い出しても、痩せた身体に女らしさは感じなかった。

「聞き違えではない、私は女だ。商人殿」

 ターリックはこの旅で一番の驚きを感じているが、礼儀として顔に出すのをこらえた。同時に僅かな安堵も……その安堵の意味が全く分からない。一晩でいろいろなことがあり過ぎた。混乱しているのだと、無理に納得するしかない。

「早く言えばよかったろう」

「自分の性別をわざわざ言う者など何処にいる。言ったらなにか変わったか?」

 セイフはなびく金髪を押さえながら城塞を点検する。安全を確認し終えると「ああ」とわざとらしく思いついたように声をあげ、意地の悪い笑みを浮かべた。

「女と言っていれば、もっと早くに助けてもらえたかもしれないな。今ばかりでなく、このオアシスに着いたときにも」

「あの時アジーズ達は何もしてこなかったではないか」

「ただの商人だ、などと。こちらこそ貴方にすっかりだまされてしまった。それ程の剣の腕前とは」

 どうやら怒っているらしい。セイフは言うだけ言うと階段を降りはじめた。

「私は敵が多いからな、剣はそれなりに学んでおかなければ、今まで生きていない」

 事実その通りで、若くして成功しているターリックは時々襲われることもある。父を盗賊に襲われて亡くした時から、身を守る術については怠りなく励んできた。

「過ぎた謙遜は嫌味になるぞ。とにかく私も貴方も黙っていたことが一つずつ……お互い様だ」

 セイフに並んで歩こうとするが、彼女はそれを拒否するように速度を上げる。

「話したいことがあるのだが」

「明後日にはゼーネッテの王子がやってくるらしい。忙しいのだ、お前になど構っていられるか。勝手に売れそうなものを見つくろい、早く出ていけ」

「お互い様なら、怒る事は無いだろう」

 ターリックのたしなめを聞くことなく、セイフは族長の屋敷に帰って行った。唖然とするターリックのもとに、アルーカを看ていた男が満面の笑みで駆け寄ってくる。

「ターリック、無事生まれたぞ。とても安産だった……見るか?」

 男は興奮した様子を隠そうともせず、ぐいぐいとターリックの背を押した。

 小屋の中では、生まれたばかりのアルーカが、母親にすり寄っている。母親は優しく子どもの毛を舐めた。

「毛が灰色なのだな、これでは高く売れない」

 可愛いよりも何よりも、商人としての感想が口をつく。アルーカの毛は白が一番高く売れる。灰色や黒は染色に向かないからだ。

「……ターリックは根っからの商人なのだな。それではつまらないだろう」

 男が言うが、ターリックにはよく分からない。商人の仕事が好きだが、面白いかつまらないかなど考えたこともなかった。



***



 翌朝は騒がしい気配で目覚めた。静かなだけの小さな街が、賑わいに満ちている。

「いったい何の騒ぎだ」

 ターリックは着替えを済ませると、あくびを噛み殺しながら部屋を出た。屋敷の中に人気はない。仕方なく外に出ると、外は祭りのような騒ぎだ。

 狭い通りの両側にはバスマの年寄りたちが立っていた。皆がうっとりと見つめる中、豪奢な行列が屋敷への道をゆっくりと上ってくる。そろいの服を着て槍を持った兵士の後ろに、きらびやかな侍女たち、その後ろには特に屈強な兵士たちに抱え上げられた立派な籠が揺れ、更に後ろにまた兵士――。ターリックもあちこち旅をしたが、こんなきらきらした行列を見るのははじめてだ。華やかな人々の重みで、小さなオアシスがさざめくように揺れている。

 衆目の中、籠がゆっくりと下ろされる。中から出てきたのは若い男だった。立派だが重そうな総刺繍の服を引きずった青年が、満面の笑みを浮かべてこちらに向かってくる。

「マレイカ、待たせたね!父がようやく私たちの結婚を認めたくれたよ!」

 青年の目の前には、マレイカが立っている。マレイカの体調はどうなのだろうか。少し離れたところからは、顔色までは分からない。隣にはセイフが控えているのが見える。

 はにかみから首を傾げたよう見えた可憐な姫は、思わぬことを口にした。

「王子様、まずはこの行列を、バスマの入り口までお戻し願いますわ。じつは私、昨夜熱を出して寝込んでおりましたの。正直申しまして、あまり騒がしいのは少し」

 この言い様にはターリックも息をのんだ。吹けば飛ぶようなオアシスの族長が、大国の王子に言い放つことではない。

 だが、とても意外なことに王子は気分を害した様子もなく、自分の後ろに続く行列に、城塞の近くまで下がるように指示を出した。大仰な身振りに、重そうな服が揺れる。光る糸は金糸に違いなかった。

 行列は砂の大地を揺るがせながら、静かに下がっていく。さらに後方からは、聞いたこともない鳴き声がする。城門の外には、駱駝のほかに珍しい動物がいるのかもしれない。

「これでいいかな、マレイカ。熱を出していたなんて……可哀そうに。安心しておくれ、これからは私が、心をつくして守ってあげるよ、いとしい人」

 王子は行列が下がっていくのを確認してから、歯が浮くような台詞を並べ立て、手を広げた。大仰なしぐさは自然で、どうやら地のようだ。

「こんな田舎者の私でも、大きな国で生きていけますかしら」

「勿論だよ、マレイカ。もう何も心配はいらないよ。私の瞳は君しかうつさないからね」

 言ったのは王子なのに、ターリックの歯が浮きそうになる。

 王子はマレイカを優しく抱きしめた。バスマの民から歓声が上がる。年寄りたちの歓声は、微風に流れる砂のように穏やかだ。

 昨夜のアジーズの話は真実であった。王子の到着はアジーズの予測より早かったが。

 貧しいオアシスの姫が、大国の王子に求婚される。童話の結末のような幸せな光景のなかから、セイフがそっと退場するのが見える。ターリックは彼女のあとを追った。

 セイフは城塞に上っていく。昨日アジーズとひと悶着あったところとは別のところだ。昨夜の暗闇の中では高さは気にならなかったが、こうして明るいところで下をみると、かなりの高さがある。間違って落ちていたら、無事では済まなかっただろう。

 セイフはターリックが後からついてくることに文句は言わない。ただ黙って砂漠のほうを見ている。その先には険しい岩山がある。ここからそれ程遠くないところだ。

「泣いているのか」

 ターリックが声をかけると、セイフは振り向かずに首を振った。

「何を馬鹿なことを。良かったと思っている。あの方なら、マレイカ様を幸せにしてくれる。……このバスマの民ごと引き取ってくれるというのだから……この上ない人に見染められた。幸せな終焉しゅうえんだ」

 セイフがゆっくりとターリックを振り返る。

「これで、やり手の商人が……この土地にあるものを綺麗に高値で売り払ってくれればな」

「なんでそう突っかかる、まだ昨日のことを怒っているのか」

 ターリックはため息をついた。

「突っかかってなどいないし、怒ってもいない。見ての通りここは何もないところだが、姫様は少しでも財をつくり、移住する皆の足しにしたいとお考えだ。本当に高値で売って欲しいのだ、ガラクタばかりであったとしても」

「そうか? ならいいが……マレイカの目は間違いでなかったということだな、どんなガラクタだろうがその辺の商人よりは高く売ってみせよう」

「大した自信だな。分けてほしいほどだ」

 セイフが目を細める。紫色の瞳が陰り、深い色合いになる。どこを探しても、これほどの美少年はいないだろう。実態は女で、口も悪いのだが。

「それにしてもここは見晴らしがいいな」

 ターリックは砂漠に背を向けて座った。マレイカの屋敷の方角はまだ騒がしい。これから宴でもあるのだろうか。起きてから何も食べていないターリックの腹が、本人に不似合いな可愛い音をたてた。

「ゼーネッテの王子が急にいらっしゃったからな、貴方の食事の用意が間に合わなかった」

 隣に腰を下ろしたセイフが、懐から古紙に包まれたナッツと干した果物をとり出し、半分をターリックに渡す。

「昨日の夕食は、セイフが用意してくれたのか」

「気持ちよさそうに寝ていたな、大きな口を開いて」

「俺は寝相がいいはずなんだが」

 二人は少し笑う。ターリックはナッツを口に入れ、視線を屋敷の方角に向けたまま話し出す。

「俺の父は、商いの途中に殺された」

 突然の打ち明け話に、セイフがこちらに顔を向けるのが分かる。ターリックは話を続けた。勝気なセイフと打ち解けるには、こうするのが一番いいと思ったからだ。商人同士の取引と違って、依頼人との交渉はある程度打ち解けないと難しい。今回は依頼人と話す機会がもてそうになく、ならば近しい人物しかあるまい。

 ……難しい商談をこなそうとして父が死んだこと、その時に片目を失ったこと、父ののこした財産で勉学に励み商人になったこと……そして父の形見のこと。

「形見?」

「ああ、いつも持っている。俺のお守りだ」

 ターリックは首から巾着をとり出してみせた。

「中身は?」

「俺ばかり話している。俺もセイフの話が聞きたい」

 ターリックはセイフの目を見た。生真面目なセイフはターリックが先をうながすと戸惑って口ごもる。ターリックはそれ以上何も言わず、黙ってナッツを頬張る。

 涼しい顔の商人は、姫の従者の心に少しだけ踏み込んだ。セイフは、淡々と話し出す。

「アジーズは私の兄だ」

 告白があまりにも意外だったので、ターリックは口に入れたばかりの干しブドウを呑み込んでしまった。

「似ていない兄妹だな……」

 そうだな、と答えるセイフの横顔は辛そうに見えた。昨日までの人形のような雰囲気は薄れ、わずかながら表情が出てきている。

「アジーズはこの土地に古くからある宝の話を信じている。それはバスマの統治者だけが知っている宝だ。アジーズはここの貧しさに耐えきれずに盗賊になったが、ずっと姫と宝の事を諦めていない。わが兄ながら、愚かしいことだ」

「宝の伝説は本当なのか?」

「さあ――だが、マレイカ様はその伝説ごと、この地を砂に埋もれさせたいのだと思う」とセイフは続ける。

「アジーズと私は年が離れていて、私が生まれたのは兄が居なくなってからだ。母はマレイカ様の乳母だった。マレイカ様の母君は、マレイカ様を生んだ時に亡くなられた。私たちは乳兄弟として育った。私にとって姫は血のつながりのある兄より、近い存在だ。ずっと守って行こうと思っていたが……幸いなことに、その役目はもういらない」

 その声が寂しそうに聞こえるのは、ターリックの気のせいだろうか。

「マレイカに付いていけばいい。喜ぶのではないか」

 セイフは首を横に振る。

「私の兄はバスマに害をなす者だ。マレイカ様は気にしないと言って下さるが、私の気が済まない。……私はここに残ろうと思っている。枯れそうな水も、私一人くらいなら養えるだろう。私は人と上手くやるのが苦手だしな」

「こんなところで独りで生きるか、隠者になるには若すぎるだろう」

 俺たちは似ている、とは口が裂けても言えない。だが似ているところがあるからこそ、セイフは心をさらしたのだ。ターリックもセイフも、周りに頼ることなく生きている。それは虚勢なのかもしれなかった。

 疲れているのか、ターリックの心は感傷に囚われやすくなっている。

(似たものゆえに、セイフの事が気になるのか)

 そう言えば、セイフは怒る気がする。だからターリックは違う言葉を口にする。

「俺も人と上手くやれないが、それなりに人の中で生きている」

 沈黙が流れる。静かになると途端に砂の流れる音がターリックの耳に入る。

 セイフが不意に立ち上がった。打ち明け話をしたことが、急に恥ずかしくなったらしい。ターリックも最後の干しブドウを口に入れると立ち上がった。

「予見の力は、本物だろうか」

「なぜ、急にそんなことを言う?」

「どうして俺なのかと思ってね、最後の商人とやらが」

「マレイカ様の基準はご自身にしかわからない。あとでマレイカ様と話してみるといい。ところで、商人」

 セイフがターリックを見上げる。セイフの手の中には食べ物がそっくりそのまま残っている。

「呼び方が変わったな。昨日までは自分を『私』と言っていなかったか」

「……気が付かなかったな、そういえばそうだ」

 ターリックが笑う。

「おかしな奴だ」

 セイフは言いながらナッツを口に放り込んだ。噛み砕く音が小気味よくターリックの耳に響く。おかしな奴だとセイフは言うが、セイフも変だ。

 出会ったときの一度きりしか、ターリックは名を呼ばれていないと気付いている。



***



 その日は昼から宴となった。ゼーネッテの王子・カラフは陽気で気前のいい青年で、バスマの年寄りたちにも持参した酒肴しゅこうを振る舞う。まるでオアシスが酔ってしまったように、夜半を過ぎてもあちこちにともった明かりは消えることはない。それでなくても明るい夜だ。空には満点の星が広がっている。

 ターリックもその宴に招かれたが丁重に断り、連れてきた隊商の連中と売れるものを家々から運び出し、城門の近くでまとめにかかっている。生活の気配がある家は少ないので、作業ははかどった。隊商の連中はきびきびと品物を梱包し、駱駝に括り付けていく。

 先にゼーネッテへ旅立ったバスマの人々は、細々とした家財を多く残していた。陶器類はどれも古いが、よく手入れされている。大切に使っていたことがうかがえた。

「にしても、一度で運ぶのは困難だ」

 一区切りついたところで、ターリックは駱駝達を見る。背の両側に梱包された荷から、水差しが飛び出している。ターリックはすっかり古道具屋の気分だ。量ばかり嵩張って、それほど高くは売れないだろう。アルーカの毛の絨毯だけは期待できるが、数が少ない。残りはガラクタだけだ。マレイカには全て処分しろと言われたが、もういちど往復する気にはなれなかった。

 ターリックは隊商の連中に休むように言うと、ため息混じりに城門を見上げる。昨夜よりも空が明るい。人の気配は感じられないが、この上にはセイフがひとり砂漠をにらんでいるはずだ。彼女は兄の襲撃に備えている。だが昨日とは状況が違う、ここにはゼーネッテの王子が連れてきた兵が居る。彼らは城門の外に天幕を張っている。昼間見に行ったが驚いたことに象まで居た。アジーズごときのならず者が太刀打ちできるわけがない。

 安心して宴に加わればいいものを。こんなところでひとり気を張っている。姿は見えなくても、真剣な目で砂漠を見遣る細い背中は、容易に想像できた。

「まあ、俺も同じか……」

 宴に加わらず、黙々と作業をしている。ターリックはくくっと笑った。

「やはり似ているな俺たちは」

 知らないうちに、セイフを連れて行けないだろうかと考える。無愛想だが、賢そうだ。教えれば何か出来るだろう。そこまで考えて、ターリックは首を揉んだ。哀れみか、同情か……どちらでもない気もするし、それであっている気もする。ただ、ここを離れてもしばらくセイフを思い出すだろう。強情さを宿した紫水晶の瞳を。

「損な商売になりそうだな。予想通りだが」

「なら、私が買いましょう、ターリック殿」

 不意に声がした。総刺繍の立派な服を着た青年が、酒瓶とグラスを持って立っていた。ゼーネッテの王子である。ターリックは即座に商売用の顔をつくり、優雅に礼をしてみせる。

「これは、王子様。ここには生憎あいにくと王子様のお気に召すようなものは」

 王子はグラスになみなみと葡萄酒を注ぐと、ターリックに差し出した。

「マレイカに関わるものは、全て私が買い取るよ。どんなものでも……最初からそう言っているのに、彼女が聞かなくてね。そんな頑固なところも愛しいけれど」

 受け取ったグラスにターリックが口をつける前に、王子は酒瓶に口をつける。白い喉が何度か上下し、口端から赤い液体が零れた。

「豪快な飲み方をなさる」

 王子は酒瓶を口から離して、豪奢な服でためらうことなく零れた葡萄酒を拭う。

市井しせい育ちなので、これで普段どおりだよ。堅苦しいのは性に合わないみたいでね。それと、君は集めた骨董に関して謙遜し過ぎだ」

 王子は酒瓶を地面に置くと、駱駝の背から水差しをとり出した。

「このバスマは辺鄙へんぴで流通の行路から外れている。おかげでほら、こうやって何物にも影響を受けない美しく珍しい模様ができた。古さは価値となることもある、君ならわかるだろう?」

「それは王子様の価値観……世間は何と見ましょうか」

「分かっているのだよ、ターリック。私が一度、仕入れて売ったからね。悪い値ではなかった。もっと高値で売れたのは絨毯だけど……君の分まで残して置かなくて悪かった。でも私はその金を元手の一部として、祖国に政変を起こせたのだ」

「市井におられて、商売をしたと」

「そうだよ、ターリック。今の立場はこの滅びゆくオアシスのおかげさ、ここは砂に埋もれて気付かれない宝石のようなものだ。一番の宝石はマレイカだけど」

 ターリックは巫女姫の噂話を思い出す。マレイカに魅入られた商人はどうなった?

 王子が甘い笑顔をターリックに向ける。明るい夜空に照らし出される白にちかい金色の巻き毛、茶色の瞳……砂糖菓子のような王子は、ターリックの言葉を待っている。

「姫に魅入られた何人目かの商人は、若く経験の浅い男だったが、彼はバスマに旅立ち商談をこなした後、しばらくして姿を消した」

 ターリックの記憶をたどりながらの呟きに、王子は満足げに頷く。……それにしても砂の流れる音が耳につく。風は穏やかなのに、砂はこの狭い城塞の街で、いったいどこに向かうと言うのか。

「さすがだね、最後の商人。私がマレイカに魅入られてついでに恋をした五番目の商人……いや、元商人にしてゼーネッテの世継ぎ、カラフだ。商談させてもらおうか、ターリック」


 王子……カラフは嬉しそうに、ターリックに向かって右手を差し出した。


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