第2話 辺境の姫君

 案内役のセイフは隊商を引き連れて族長の屋敷へと入って行く。城塞から屋敷までの道のりは短く、それはこのオアシスの狭さを物語っている。

 高台にある屋敷は城塞と同じように古く、建物はいくつかに分かれていて、渡り廊下で繋がっている。セイフは出迎えた年寄りに隊商の世話を任せると、ターリックだけを奥に案内した。

「セイフ、さっきの男は何者だ」

 二人だけになると、ターリックはセイフにたずねた。

「あれは姫様の予見の力とこの地を狙う盗賊だ。……この地は遠い昔、一度滅びている。そのときの財宝が今もどこかにあるという迷惑な言い伝えが細々と残っていて、あの男は、それを信じている。この地の生まれなのに、勝手に出て行って盗賊になって戻ってきた」

 城塞の外にいた盗賊は、姫とセイフを欲しいというようなことを言っていなかったか。淡々とした語りの中にそのことは含まれていない。

 ターリックは逞しい腕に抱き寄せられたセイフを思い出す。そこらの美女よりも外見は頼りなくても、腰で揺れる剣が素晴らしい動きをすることを、ターリックは知っている。セイフは一流の剣士だった。簡単に抱きすくめられた自分の油断を、恥と考えるのが当然だ。ターリックはこの話題を続けるのをやめた。

 セイフは中庭を横切っていく。木々は少ないがよく手入れされている。中庭から城塞の中をほぼ見渡せた。やはり緑は少なく、水場は見える範囲には一つもない。ターリックは砂漠をあちこち渡り歩いたが、これほど乾いたオアシスを見るのははじめてだ。

「こちらだ」

 セイフは中庭に面した両開きの扉の前で止まった。草花が彫られた貴人の部屋らしい扉の前に衛兵の姿はない。召使も先ほどの年寄以外の姿を見かけない。

 暑い砂漠であっても妙に寒々しいのは、この屋敷のせいだろうか。人気のない古い屋敷の白い壁の模様は、朽ちてなお精巧で美しい。ターリックは壁に手をあて、壁の模様を辿たどった。殆ど力を入れていないのに、指は白く汚れる。材質はなんだろうか? もろい壁にこれほどの装飾をするとは、バスマの民は器用な一族なのだろう。

 壁の材質を吟味するターリックは、値踏みするようにあごを撫でる。セイフはそんなターリックに呆れたような視線を投げてから、扉を叩いた。

「マレイカ様、商人が到着しました」

 セイフは中の人物に話しかけるが、返事がない。もう一度扉をたたこうと手をあげたセイフは、何かを思いついたように細い手を下ろした。

「姫はどうした?」

「もうすぐ子が産まれる、そちらに行っているのだろう」

「姫は独身ではないのか」

「何を馬鹿なことを。子を産むのはアルーカだ」

「アルーカ……」

「アルーカくらい知っているだろう、商人。あの動物は乾きに強い。ここでも飼える貴重な動物だ。頭数は少ないが」

 アルーカくらいは勿論知っている。体毛が柔らかく良質で、刈り取った毛は服や織物に使われる。ターリックも商品として何度か扱ったことがある。少し眠そうな顔をした、駱駝よりひとまわり小さな家畜だ。

(アルーカとたわむれる姫、か)

 おごぞかな巫女姫のイメージが、ターリックの中で崩れていく。勝手に抱いていたイメージは、うす布を被った神秘的な姫だったのだが。想像の姫の輪郭がぼやけると同時に、気のせいか疲労が増した。

 セイフはターリックを伴って屋敷から出て集落へと降りていく。すれ違う人は少なく、みな年寄りばかりだ。さびれた集落と、年寄りばかりのオアシス……そういえば、バスマに着いたばかりにセイフが言った『滅びのオアシス』とはどういうことだろう。

 ターリックがセイフに向かって口を開きかけたときだった。勢いよくこちらに向かってくる人影がある。太陽を背にしているせいで顔が見えないが、溌剌はつらつと手を振る影は女のものだ。ゆるく結わえた金髪が、女の背で跳ねる。そして後ろから、妙な生き物が付いてくる……顔はもこもことした白い毛に覆われているのに、身体が妙に細い。珍妙な光景に声を失うターリックの横で、女がセイフに思い切り抱きついた。

「セイフ! おかえりなさい! 心配したわ、予定よりも遅いから……大変だったでしょう」

 セイフは「マレイカ様」と女を呼んで、優しく抱き返す。セイフはこんな柔らかい声も出せるのか。

 それにしても今セイフが呟いた名は、アルーカのところに行ったという姫の名ではないか。

(これが、噂の巫女姫か)

 ターリックが思ったことを読み取ったように、マレイカがセイフから身を離した。

「はい、バスマの族長・マレイカと申します、ターリック様。遠いところをよくおいで下さいました」

 だがマレイカは姫には見えない。服は簡素で土で汚れていた。身を飾るものはいっさい付けておらず、ターリックが普段街で見かける女たちよりも質素だった。

 ターリックの巫女姫への幻想は完全に崩れた。少々唖然あぜんとするターリックの足元に、奇妙な生き物が身をすり寄せる。マレイカについてきたその生き物は、よく見れば毛刈りがすんだばかりのアルーカだった。埃っぽいアルーカが離れると、服には巫女姫と同じような土の跡がつく。なるほど、巫女姫はこうして汚れたか。

「まあ、ターリック様は動物に好かれるのですね!」

 巫女姫の笑い声が弾けた。



***



 『巫女姫』の呼称は、マレイカには似合わなかった。そもそも、姫らしくない。太陽を反射する明るい金髪、若葉色の柔和な瞳。表情は朗らかでよく笑う。近くに控えるセイフの慎ましさ、神秘さのほうが、巫女姫の名に相応しいのでは……とすら、ターリックは思ってしまう。セイフは男だが。

 だが確かに、マレイカは姫に違いなかった。彼女の周りにはゆっくりと人が集まってくる。動きが緩慢なのは年寄りばかりだからだ。人々の表情はマレイカへの素朴な尊敬であふれていた。

 マレイカが集まった人々にターリックを紹介すると「姫様のお選びになった方なら、間違いはないだろう」と安堵の声があがる。人々の視線は暖かかったが、真っ直ぐで遠慮がなかった。商人たちのやっかみの視線に慣れているターリックにとって、これは少し居心地が悪い。

「ターリック様、では、商談をしましょうか」

 まるで「踊りましょうか」とでも言うような愛らしさで、マレイカがターリックの左目を見つめる。走ったせいか頬がほんのりと赤い。マレイカの肌は他の民と違いうすい褐色で、頬が染まればはっきりと分かる。

「喜んで」

 つられてダンスの申し出を受けるようにターリックが答えると、マレイカは嬉しそうに首をかしげ、それから集まった人々を振り返った。

「あの子のお産はまだかしら?」

「そうですね、時折お腹が動いていますから、もう少しかかるでしょう。恐らく今日の夜か、はたまた明日か。もう少しかかりそうですよ、姫様」

 人の輪の中では比較的若い、中年の男が答える。マレイカが「大丈夫かしら」と眉を寄せると、男は続けて言った。

「アルーカの出産は時間がかかることもありますから、大丈夫でしょう。ときどき様子を見ますから姫様は安心してお戻りに」

 男は慣れた様子で請け負った。

「お願いね、あの子は私にとても懐いているから、傍に居てあげたいけれど……大事なお客様をお待たせできないわ。突然の願いにもかかわらず、来てくださって感謝します、ターリック様」

「ターリックとお呼びください、姫」

「では私のこともマレイカと。屋敷に行きましょう、ターリック。セイフ、お茶の準備をお願いね」

「分かりました、姫」

 マレイカの影のように控えていたセイフが即座に応える。ターリックに向ける声色と違う、優しい声だった。

 美貌の案内人は、姫に好意を寄せているのだろうか。マレイカは誰からも好かれているようだが、セイフの好意は少し違う。それがどんな種類のものかと思うターリックの手を、不意にマレイカがつかむ。

「では行きましょう」

 陽気な姫に導かれて、ターリックは再び最初に訪れた屋敷に戻る。

「この格好では失礼ね、少し待っていて」

 マレイカが着替えのため部屋に下がり、ターリックはまたセイフと二人きりだ。先ほどの街での出来事のせいで、セイフがずっと近く思える。頑固で静かなだけかと思ったが、可愛らしいところもある……そうか、姫が好きか。

「――何か?」

 セイフが不審そうな目を向ける。

「いや、何でも」

 ターリックはすまして答えた。

 応接用の部屋にはすでに客を迎える用意がされていた。アルーカの毛で織られた絨毯の上には菓子と干した果物の皿がある。セイフが手際よく紅茶の準備をする中、ターリックはマレイカの座る場所の対面に腰を下ろした。直に座った絨毯は充分に厚みがあり、疲れた足に心地よい。そういえば、バスマに着いて座ったのはこれがはじめてだ。思わずほっと息をつくターリックの前に、香りのいい紅茶が無言で差し出された。本当は酒の方が嬉しいが、水が底をつきそうだと聞いたからには、有難くいただくことにする。

「ありがとう」

 感謝の言葉に、セイフは返事をしない。

「人が礼を言っているのだ、軽く笑うくらいできるだろう」

「私は愛敬を振りまくためにここに居るのではない」

 軽くターリックの言ったことに、セイフが即座に突っ掛かる。意外な反応に、ターリックは驚く。

「そんなことを言っているのではない、それがもてなしの礼儀だ」

「うるさい」

 ……なんなんだこいつは。ただ静かだけかと思っていたが、不機嫌だけは表すのか。それとも、集落での出来事の八つ当たりなのか。マレイカがターリックの手を取った時の表情は、まるで恋をしているようだった。セイフには面白くないだろうが、初対面で恋をするなんて、滅多に起こる事ではない。ターリックは物事を冷静に判断できる大人だが、勘違いをしているらしいセイフをからかってやる位には大人気ない。

「嫉妬はみっともないぞ、ガキじゃあるまいし……姫様のことが好きなら、客人はきちんともてなせ」

「うるさい、なんの事だ。姫様に色目を使うな、姫様には立派な婚約者がいらっしゃる」

「色目など使っていない」

「使った」

 お互いにむっとする二人を見て、着替えてきたマレイカがころころと笑った。

「よかった、二人とも打ち解けて」

「……これが打ち解けているように見えるか?」

「ええ、とっても」

 マレイカはターリックの対面に座り、紅茶のカップを両手で包むと、ゆっくりと飲んだ。着替えた服は薄い絹を重ねたもので、マレイカを姫らしく彩っていたが、手は労働を知っている手だ。爪が短く切り揃えられていて、少し荒れている。

「あったかい……」

 湯気に溶けた呟きに、セイフが駆け寄ってマレイカの手を取る。

「マレイカ様、熱が」

「大丈夫よセイフ、ターリックとの話があるの。簡単な話だから、すぐに済ませるわ」

 マレイカはそっとセイフの手をさえぎり、ターリックに向かって口を開いた。

「商人ターリック、売りたいものがあります」

「身体は大丈夫か? 休んでからでも」

「いいえ、時間が惜しいの。……私たちは、このバスマを去ります。アルーカの出産が無事に終われば」

 マレイカの瞳は真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。身を乗り出すターリックに、マレイカは質問を挟む余裕を与えない。

「このバスマに在るものであなたが価値を感じたものを、全てお売りしましょう。あなたの言い値で」

 突拍子のないマレイカの言葉に、ターリックは固唾かたずを飲んだ。

 全てを……そんな話は聞いたことが無い。だいたい、この痩せた土地に何がある。出産を控えたアルーカと年寄りたち……ターリックは奴隷商人ではないが、もしそうであったとして年寄りなど誰が買うか。それにマレイカは「私たちはバスマを去る」と言った。そこには年寄りたちも含まれているだろう。もちろん、アルーカも。誰も居なくなったこのオアシスから、何らかの価値を見出せと言うのか。

(セイフがこの地に入った時、確か滅びのオアシスと言ったな)

 要するに、バスマの民はこの貧しい地を捨てるのだ。それで、後始末をお願いしたいと。なんと馬鹿げた話だ。

 からかわれたかとすら思ったターリックの目の前で、マレイカがゆったりと微笑み、そして頼りなく揺れた。絨毯がその身体を受け止める前に、セイフが抱き留める。いろいろと聞きたいことがあったが、商談は一時中断するほかないようだ。

 マレイカの周りに集まる年寄りはおろおろするばかりだ。セイフの細さでマレイカを持ち上げるのは困難だろう。ターリックは立ち上がり、マレイカの身体をそっと抱き上げた。

「私がする!」

「無理はするな、部屋まで運ぼう」

 ターリックの手に伝わる体温は熱い。これはついさっき出た熱ではない。集落で会ったときから、体調はすぐれなかったはずだ。あの時つないだ手も、そういえば少し温かかった。恋するような表情は、熱のせいだったのか……気丈な娘だ。

「ここに医者はいるのか?」

 マレイカを自室の寝台に寝かせると、ターリックがセイフを振り返る。

「侍医がいる。今呼びに行かせた」

 セイフは不安げではあったが、行動は速い。年寄りたちもおぼつか無いながらも、マレイカの枕辺に水を用意し、額の汗を拭っている。

「こういうことは年中らしいな。皆、慣れている」

「マレイカ様はもともと身体が弱い。ここの過酷な環境がよくないのだ。……早く、ゼーネッテへ……」

「ゼーネッテだと?」

 ゼーネッテとは、砂漠を越えて少し行ったところの大国だ。ターリックは行ったことが無い。が、よく知っている。数年前に大きな政変があったからだ。だが今は落ち着いたとも聞いた。

 あんな大国と、この吹けば飛ぶような小さなオアシスにどんな関係があるのか。分からないことばかりだ。

 呼び出された侍医は、よく生きているなと思えるような老人だったが、手際よくマレイカの容体を診る準備をする。

「セイフ……ターリックに休んでもらって」

 マレイカがうっすらと目を開けてターリックを見上げる。

「ごめんなさい、いつものことなの。明日には良くなるわ。でも本当に、売れるものはすべて、引き取って欲しいの。あなたなら、きっといいようにしてくれる。この地に価値を見出して、人々にうるおいを与えてくれるわ」

「それは、予見か」

 マレイカは無理に笑顔をつくる。

「そうよ、私は私の予見に確信を持っているの。私の力は、バスマの人々すべてを幸せにするためにあると思っている。私が選ぶ、最後の商人……バスマはあなたに」

 熱のために潤んだ瞳が、ターリックを真っ直ぐに見つめる。

「任せます」

 少しの沈黙のあと、マレイカが言う。

 そのは息が苦しいからなのか、故郷への思いなのか、ターリックには分からなかった。ただ、マレイカの言葉ははっきりと強かった。

 侍医に拘束されていない方の手が、ターリックに向かって差し出される。ターリックはしばし迷う。――損をするかもしれない。分からないことが多すぎるのに、商談を成立させるのは間違いだ。商人としてのターリックはそう思っているのに、気付けばしっかりとマレイカの手を握っていた。

「承った、バスマの巫女姫よ」

 商談は成立した。自分は確かに、意志以外の力で動いている。

 それが巫女姫の力なのかどうかは分からない。不思議と悪い気はしなかった。噂のような不吉な力とは思えない。

 侍医が邪魔そうにターリックを見ている。慌てて手を放しセイフを探すが、忙しく立ち働く人々のなかに、細い姿がない。いつの間に出て行ったのだろうか。

 ターリックはマレイカの熱が自分の手に移っていのを感じる。マレイカの手を握って元気づけたかったのは、セイフだろうに。

(また機嫌を損ねてしまったな)

 セイフの無愛想な表情の下には、実は子供っぽい独占欲や嫉妬心が隠れているのかも知れない。ターリックは肩をすくめた。



***



「さて、売り物があるかどうか」

 年寄りに案内された部屋には、アルーカの絨毯が敷かれている。ターリックは座り込み、そっとその表面を撫でた。先ほどの応接間のものもそうだが、手触りが心地よい。織られた模様も独創的で美しい。

(……これなら、高く売れるだろう)

 ターリックの目が商人の目になる。そうだ、調度品なら。絨毯もそうだが、水差しも燭台も細工が緻密ちみつなのに、使いやすいつくりになっている。

 旅の疲れも忘れて、ターリックは地味な作業に夢中になった。売れるもの、売れないものと、すっかり部屋の中をり分けてしまうと、我に返り寝台に身を投げ出し仰向けになる。

「結構楽しいものだ」

 やはり、自分は根っからの商人だと思う。

「宝石や美術品の勉強も無駄ではなかったかもしれないな」

 ターリックは胸の巾着をとり出した。中に入っているものを取り出し、窓からの明かりにかざす。陽光はいつの間にか弱々しくなっていて、ターリックは夜が近いことを知る。

「父さん、俺はこの仕事が向いている」

 ターリックが人差し指と親指で持つのは、持ち主の瞳よりも淡い緋色をした石だ。ぼやけた紅い色の石は、夕陽を溶かして鮮やかな緋色に輝く。身に着けた知識ではこの石の正体を見破れないでいるが、古美術商の真似事は充分に果たすことができた。

 手に入れた時はところどころ尖っていた石は、持ち主の胸で時を経るうちに角か取れ、いびつな丸い形になっている。材質も分からない。宝石と言うには濁っているし、ただの色のついた石と言うには脆かった。

 不思議な石は、放恣ほうしに寝台に身体を投げ出したターリックを過去の記憶に誘う。

 父はターリックに商才を見出し、幼いうちから商いに同行させた。商品を買い入れ、値を付けて売る。時には値を巡って取引相手と激論を交わす。ターリックは父の仕事を継ぐことを誇らしく思っていた。そんなターリックを、父はよく褒めたものだ。母を早くに亡くしていたターリックにとって、父はすべてだった。

 この石は父の形見であり、不幸の象徴でもある。ある時、父とこの砂漠に商談に赴いた。場所までは覚えていない。砂漠ははじめてではなかったが、その時の父は厳しい態度だったことを覚えている。ターリックをオアシスの宿で待たせ、商談相手と出て行ったかと思うと、何日か後の夜中に帰ってきた。そして小さな巾着をターリックに渡し「なんだと思う?」となぞなぞを仕掛けてきた。いつも冷静な父は、まるで少年のように浮き立ってみえた。

 ターリックは次々と宝石の名を挙げたが、父は嬉しそうに首を振った。なんとしても当ててやろうと躍起になる我が子に目を細めてから、父は口元に人差し指をあてた。いかめしい口元には不似合いな仕草だった。

「大事に持っていなさい、危険があったら迷わず捨てなさい。ターリック、約束だ。この石は幸も不幸も呼ぶ」と何度も念を押すから、ターリックも何度もうなずいてみせた。

 父は「大きな商いになる、今までと比べ物にならないくらいに」と言った。父の顔にはいつもの厳しさが戻ってきていた。父は休む間もなく隊商をたたき起こし、取引先へと出発した。

 流通の激しい砂漠の行路は、夜のとばりが下りると恐ろしい道となる。隊商を引きつれ道を急ぐ父とターリックに、夜盗らしき集団が襲い掛かった。戦いに慣れた夜盗たちは、矢で隊商を分断し、混乱する人々を容赦なく斬り捨てた。

(だめだ、思考を止めろ)

 この先を見たくはないのに、ターリックの思い出は止まらない。今バスマに居て呑気に寝ている大人の自分こそが夢ではないのかと思うほどの現実味を帯びて、白日夢はターリックをさいなむ。

 剣戟けんげきの音、怒号、悲鳴……惑い混乱するターリックは父と駱駝の背に居た。逃げようとする父の正面から矢が飛んでくる。父の額は貫かれ、息子にまわされていた腕から力が抜けた。泣く子を抱えるようにして、父は駱駝から落ちた。落ちる瞬間に、執拗な盗賊の矢が父の身体を何か所も貫き、そのうちの一本がターリックの右目を掠めた。

 激痛の中、ターリックは父の身体の下で歯を食いしばった。体中の血が右目から出ていくと思った。ターリックは息を止めた。震えも止めた。そうやっているうちに気を失った。

 次に目をあけたのは、ターリックの家だった。隊商の生き残りたちは父を慕っていた。父の死を悼み、今度はターリックに仕えると言って泣いた。ターリックは父に助けられたのだと思った。少年は父と右目を失い、遺された石は形見となったのだ。

(馬鹿だな俺は、幾度この記憶を繰り返す? もう忘れろ、お前はひとかどの商人となった。父さんも喜んでいるはずだ、この石を追う必要はどこにもない)

 外から砂の流れる音がする。からからに乾いているのに、どうしてこんなにやさしい音をたてるのだろう……。


「――寝ていたのか」

 ターリックは現実に戻った。旅の疲労が幾分楽になっている。いつの間にか小机に食事の用意があった。手の中に在ったはずの石がない。微睡から抜け切れないままに探すと、寝台の下に落ちていた。

 喉が乾きすぎて引きつれている。水差しの水を直に飲むと、土の匂いがぷんと鼻につく。このオアシスの水が枯れるということを思い出し、ターリックは口元から流れた水をすくい、しずくを口にいれた。貴重な水だと思うと、土混じりでも美味しいと感じる。

 食事は客に出すにしては簡素だった。このオアシスの状況をいくらかでも理解したターリックは黙って食べる。ふと、この食事を用意したのはセイフではないかと思う。スープにはまだぬくもりが残っていた。セイフと話せば、この分からないことだらけのオアシスの事情も少しは知れるだろう。あの強情で無口なセイフが、簡単に話すとも思えなかったが。

(セイフはどこにいるのだろうか)

 ターリックは石をもう一度見つめ、懐にしまい直しながら立ち上がる。忌まわしい思い出の石。父の形見ならほかに幾らでもある。本来ならば捨てて忘れてしまえばいいのに、なぜかそれが出来ずにいる。

(この石の在りかは、砂漠だ。それだけは間違いない。随分探したのに、いったい何処にある)

 この謎の石が大変な富を生むことを、ターリックは手に入れた時から直感で知っている。根っからの商人なのだと、ターリックは自分を笑い、心の中で父に詫びた。



***



 屋敷の中を歩き回ったが、セイフの姿は見つからない。夜のバスマは昼よりも更に静かだ。生き物の気配がない。何処からともなく砂の流れる音が聞こえる。通りかかった中庭から城塞の中を見渡すが、黒い闇だけが広がっている。目に慣れた建物の影が、あまりの暗さに波のようにうねって見える。よくよく目を凝らすと、頼りない明かりが見えた。

「あの方角は、アルーカの小屋のほうか」

 誰かが出産の近いアルーカを看ているのだろう……それはセイフのような気がした。ターリックは身支度を整え、外へと急ぐ。

「どこへ行くんだ」

 外に出たターリックに、後ろから声がかかる。顔に見覚えがある。昼間、アルーカの様子を看ると言っていた男だ。後ろにアルーカが一頭ついてきている。

「もう仔を生んだのか?」

「そんな訳ないだろう。これは違うアルーカだ。セイフが姫の熱が高いと言うから、水場から水を運ぶのをこいつに手伝ってもらった。セイフがやろうとしていたのだが、あの細腕じゃあ時間がかかるからな。こいつの活躍で、姫も良くなってきたよ。アルーカの事は、代わりにセイフが看ている」

 男がアルーカの首を撫でる。夜目にも白い獣は心地よさそうに目を細めた。

「水場はそんなに遠いのか」

「ああ、集落の外れに……ここは水の質が悪くてね、全部が飲めると言うわけではない。水量が減った今となっては、とてもここの住人全部を潤せないからな。アルーカの出産までは持ったから、よかったよ」

 姫は優しい方だ、と男は続ける。

「このバスマを出るときは、みんな一緒と笑いなさる。そこには当然、この子らも含まれているのだ」

 男の手を、アルーカが舐める。

「では、アルーカの出産が済んだら、皆この地を離れるということか。そして行き先があの大国だと」

「ゼーネッテから、もうすぐ迎えがやってくる。足に自信のあるものは先に行った。年寄りや姫はあとだ。この辺りは砂漠の中でも過酷なところだからな」

 ゼーネッテから迎えが……あの大国から、このちっぽけな貧しいオアシスに。理由は気になるが、それはセイフに聞けばよい。

 小屋に向かおうとするターリックに、中年の男は何か言いたそうな顔をした。男の持つ明かりが、持ち主の表情に親しみを加えている。いや、明かりのせいではない。男の雰囲気はぽつんと灯る蝋燭の明かりのように、柔らかい。

「何か?」

「ターリックと言ったか。お前も選ばれたのだ、マレイカ様に」

 俺は四番目の商人だ、と男は言った。ターリックは噂話を思い出す。『バスマの巫女姫』に選ばれ、行方知れずの商人。

「どうりで行方知れずだ、バスマから帰らないのではな」

 ターリックは笑う。今も噂は信じないが、何となく生きてはいまいと思っていた。

「私は怯えてここに来たが、ターリックは違うのだな。この地に入ってきたとき、見ていたぞ。堂々とした商人ぶりだ、若いのにたいしたものだ」

「噂はあまり信じない質でね、だが、話を聞いて安心した」

「少しは怖かったと?」

「少しだが」

 二人は短く笑った。だが男はすぐに笑いを収めてしまう。

「私は商人に向かなくてね。親のあとを継いだが口下手が災いして……得意なことと言えばアルーカの世話くらいだ。挫折しそうになるといつも、呑気にアルーカの放牧する夢を見たもんだ」

 夢が別にあったせいか商売に身が入らなくてな、と頭を掻く商人は、満ち足りた顔をしている。

「貧乏商人でどん底だったから、巫女姫に魅入られてもいいかと思ったんだが。姫は、私の夢をかなえてくれた。アルーカの面倒をみて、刈った毛を売って欲しいと。来てよかったよ。貧乏は変わらないが、ここは良いところだ」

 過酷な地を『良いところ』に変えるのは、マレイカの人柄か……ターリックは大人しく話を聞いていたが、セイフの事が気になっていた。そんな気持ちを読んだのか、男が行く手をやんわりと阻む。

「ターリック、お前は選ばれた商人だ」

「だからどうした。私は姫と商いの話をした。することは商人としての当たり前の買い付けだ」

「なら、セイフは放っておけ。そんな暇はない筈だ。バスマの終わりはもうすぐだ。それにセイフは、この土地を出ないつもりだろう。あの子は――」

 男が話すのを、ターリックはさえぎった。

「セイフに事情があるなら、本人から聞くことにする。これ以上嫌われても面倒だからな。それより早く姫に水を持って行ってやるといい」

「おっと、そうだった」

 男は慌てて屋敷に入って行く。ターリックは小屋に向かう。本来ならマレイカのほうを心配するべきだ。彼女は契約を交わした客である。なのに、ターリックが気にするのはセイフの事だった。一見静かなくせに、すぐに怒る。

(――あれは顔に出ないだけだな)

 本当は子どものように分かりやすい感情を持っている姫の従者。セイフが姫について行かないなら、自分のところで働かないかと誘ってみようか。

 四番目の商人の言う通り、セイフは確かにその小屋に居た。枯草の敷かれた中、アルーカがうずくまっており、セイフはしゃがんでその背をゆっくりと撫でている。壁に掛けられた蝋燭の橙色の光が、セイフの細い身体の輪郭を照らす。横顔が厳しく見えるのは、微かな風に揺れる明かりのせいだろうか。

「……寝たのではなかったか」

 ターリックの気配を感じて、セイフが振り返る。

「早くに眠ってしまったせいか、目が冴えてしまったよ……どうだ、様子は」

 ターリックに答えるように、アルーカが苦しげに鼻を鳴らす。

「出産が、はじまったようだ」

 セイフが不安そうな顔をする。大人びた綺麗な顔に、幼さがにじんだ。

「心配なら、あの男を呼べばいい」

 出ていこうとするターリックを、セイフが慌てて止めた。

「それは駄目だ。マレイカ様の熱が下がるまでは。水場はこのオアシスの端にしかない、アルーカで運んだ方が早い」

 セイフは少し迷ったようだが、力なく首を振った。

「マレイカ様に何かあったら、私が嫌だ」

 何故、それほどに……とターリックは思うが、セイフの表情を見ると、口に出せなかった。アルーカが口をすぼめて高く鳴く。悲鳴めいたその声は、頼りない二人に向かっての抗議に聞こえた。

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