痛いよ

いりやはるか

痛いよ

 夕暮れ時の涼しい風が僕を追い抜いて、交差点で空回りした。


 帰り道に買うものはメモをしてあったので、忘れる心配は無い。

 牛乳、インスタントコーヒー、トイレットペーパー。

 駅前のドラッグストアと、あとは持って歩くのが面倒なので家の近くのコンビニで済ませてしまえばいいだろう。事前に駅前スーパーの会員カードを渡されてポイントを貯めるようには言われていたが、それに従わなかったからと言ってどうにかなるわけでもない。あとで一言謝っておこう。

 千春さんは何でもストックする癖がある。

「だって、気がついた時に無い!ってなるの嫌じゃない?」

 仕事先から帰ってくるなりジャケットを脱ぎ、ストッキングを放り投げ、髪をほどきながら冷蔵庫から買い置きしてあったコロナビールを取り出した千春さんが言った。

「何でも買う時は最低2本、余裕があるときに3本」

 そう言って微笑む彼女の目尻に浮かぶ小さな皺を僕は見ている。仕事用のばっちりメイクは彼女を実際の年齢よりも10歳近く若く見せる。僕は彼女の仕事ぶりを見たことがあるわけではないが、きっと有能な営業なのだろう。二人でいる時も彼女の携帯はひっきりなしに鳴った。時にベッドの上でも。

 僕が動きを止めると彼女は「やめないで」といたずらっぽい表情を浮かべて、そのまま通話を始めたこともある。彼女は僕とつながったまま完璧な営業トークをしてみせた。

「常にストックは持ってないとね」

 彼女の目が僕を捉える。

 僕も。

 僕も君にとって、ストックなのかな。

 そんな言葉が行き場を失って冷蔵庫の中で冷やされていく。


 紫陽花が無駄に咲き誇っている路地裏で、懐かしい自転車を見かけた。

 小学生の頃の僕が乗っていたのと全く同じデザインのものだった。近所の自転車屋で老店主にぶちぶち言われながらも一時間近く粘って選んだ、一万円もしない赤い自転車。周りのみんなの自転車には標準装備だった四段階も五段階もある変則ギアも、ペットボトルケースも、走行距離メーターも何も付いていない自転車。どこへ行くにも僕はその自転車に乗っていた。

 捨てた覚えは無いのに、いつの間にか無くなっていて、僕は今先輩から安く譲ってもらった中古のマジェスティに乗っている。


 あの赤い自転車は、どこにやったんだろう。


「就活始めないの?」

 学食で席に着くと、良香はまずそう切り出した。

 まあ、始めてないわけじゃないよ。

「説明会行ったり?みんなリクナビとか今のうちからもう登録してるんだって」

 そうなんだ。

 食欲が無くて、一番安いかけそばを選んだ。160円。でもやっぱり箸を付ける気は起きなくて、僕はお茶を一口飲んだ。再生紙を煮詰めたらきっとこんな味になるだろう。壁に備え付けられた大型ビジョンで「バイキング」が流れていた。小学生の頃はいつも「笑っていいとも」を見ていた。日曜日の増刊号まで律儀に見ていた。タモリはいつも変わらない。「タモリ」と言う職業があるなら僕はなってみたい。どんなに倍率が高くても、狭き門でも、死に物狂いで頑張れるような気がする。

「武田君とかは去年から何かバイトで出版社の雑用みたいのやってんだって。でそのまま正社員になれるように先輩とかに言ってんだってさ」

 武田ね。誰だっけ。そんなんで会社入れんだったら苦労ねえよ。

「聞いてるの?」

 ああ、聞いてる。

 まだ食欲は無かったが、朝も何も食べずに家を出たので少しは何か口にしておいた方がいいだろう。観念して僕はそばをすすった。湯で加減は思ったより悪くなかったが、つゆの味は濃すぎだった。

「最近話してるとなんだか何も聞いてないみたいに見えるよ?やっぱりうまくいってないんじゃない?」

 大きなお世話だよ。

 言いかけて言葉をそばといっしょに飲み込んだ。

 そんなことないよ。ただ、何か最近頭がしっかり働いてないんだ。一日中寝起きみたいな。

「大丈夫なの?医者に診てもらえば?」

 病気とかじゃないよ。昔から時々こうなるんだ。そのうち治るよ。

「・・・あの人とまだ住んでる?」

 うん。

「そっか。だって、まだ別れてないんでしょ。向こうの相手」

 みたいだね。

「いいの?それで?」

 いいの?それで?


 チャイムが鳴った。

 いつの間にか学食はがらがらになっていて、もうすぐ3限が始める時間だった。

「やば。3限村田取ってんだ。授業あるっけ?」

 ううん。これで帰るよ。

「じゃあ、またね」

 良香はトレーを持ってばたばたと出口に向かった。

 僕は誰にも気付かれないくらい小さな溜息をついて鞄から煙草を取り出した。

 良香は同じゼミの友達の一人だけど、やたらと僕のことを気にかけてくれる。それは嬉しい反面、どこか息苦しく、一種の後ろめたさも感じさせた。

 先に彼女に会っていたら、もっと何もかもうまく行っただろうか。

 それとも。


 赤い自転車を買う前に、僕は3歳年上の姉の自転車に乗っていた。

 サンリオのキャラクターが所狭しとプリントされており、タイヤにいたるまでベースカラーはすべてピンク。乗れるのは女児か林家ぺー・パー子夫妻だけだろう。

「これでいいだろ!これ乗っとけ」

 自転車が欲しいとわめく僕に、父親は不機嫌そうにそう言って狂気のピンク自転車を押し付けた。

 このままじゃ乗れないよ、バカにされちゃうよ。

 僕が言うと父親はしょうがねえな、と言いながら物置から黒のラッカースプレーを持ち出し、玄関先で自転車に吹き付け始めた。

 数分後、ラッカースプレーでべたべたに真っ黒になった自転車がそこにあった。赤い自転車を買ってもらうまでの間、僕はその偽物の黒い自転車に乗って街中を走り回った。黒く塗ってはあったものの、その異様な姿は逆に友人たちから「ゴキブリ自転車」とバカにされる原因になってしまったのだが。

 外見を取り繕って見せても、中身の幼稚さはばれてしまう。

 背伸びをして大人に見せても中身が子供。

 若く見せても中身は大人。

 ラッカースプレーで塗りつぶした自転車は、もしかしたら今の僕と千春さんと似ているのかもしれない。

 

 アパートには誰もいなかった。

 彼女の持ち物もすべて無くなっていた。ホームドラマみたいに書置きがぽつんと机の上に置いてあって、それだけが虚構と現実の間を首の皮一枚で繋いでいるように見えた。

 家に戻ります。ごめんなさい。

 こんな字、書くんだな。

 ぼんやり思ったのは、それだけだった。


 ベランダを開けたままにしておいたのは正解だった。

 夕暮れ時は風が部屋の中を吹きぬけていって、部屋の中に満ちていた彼女のクロエの香水の匂いを少しづつだが、確実にさらっていった。

 ベランダには唯一彼女が忘れていった―残していった僕は名前も知らない花の鉢植えが置いてある。小さな花が、長い茎の上に申し訳なさそうにちょこんと付いている花。

 何だか、彼女と一緒に暮らしていた頃の僕みたいだ。

 或いは、彼女もそう思ってこの鉢植えを買ったのかもしれない。何の前触れも無く、彼女はこれを買ってきた。


 赤い自転車は僕が捨てたんだ。

 唐突に僕は思い出した。

 早く新しい自転車が欲しくて、盗まれたといって河川敷の草むらに捨ててきたのだ。あの赤い自転車を捨てたのは、僕だ。捨てても自転車は買ってもらえなかった。失うことが、必ずしも新しい何かを手に入れるための条件では無い。僕は小学生の時にすでに学んでいたはずだった。


 遠くで選挙カーの演説が聞こえる。

 僕はこんな時どんな風に泣けばよかったのかを、ゆっくりと思い出す。

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痛いよ いりやはるか @iriharu86

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