月のように

いりやはるか

月のように

「あーちゃん」


 ズボンの裾を引っ張られる感覚に目を下ろすと、息子のユウキが不安げな表情で私の顔を覗き込んでいた。息子が言葉に出来る唯一の単語。私も、妻も、彼にとっては「あーちゃん」だ。

 私が「どしたー」と言いながらユウキの脇の下に両手を差し込み持ち上げてやると、心細そうだった顔がみるみる笑顔になっていく。

 ユウキを抱えたままぐるぐると回りながら、私はユウキが死んだ日のことを思い出していた。


 ふわふわと漂うように流れる雪が降る日だった。


 一歳半になったユウキにとってそれは初めて見る雪になるはずで、仕事が休みの土曜日、私は専業主婦の妻にたまにはゆっくりしててよ、と声をかけてユウキと二人で外へ出た。私たちの住むマンションには敷地内に駐車場があり、そこの中であればユウキを好きなように走り回らせるのに都合がよかった。

 案の定足元を覆う柔らかな感触と自分の周りを飛び交う白い物体を物珍しげに眺めるユウキの姿は、さながら他の惑星から冬の地球へやってきた異星人のようだった。

 恐る恐る一歩ずつ踏み出し、さく、さくと自分の足がめり込む感覚に「おー」と感嘆の声を上げて鼻の下を伸ばしながらこちらを振り向いた息子の顔に私は思わず吹き出した。何歩かその場で様子を伺うと慣れたのか、今度はいっきにスピードを上げて走り出す。まだ朝の早い時間だったので、他に足跡の無いまっさらな雪の絨毯の上にユウキの小さな足跡がスタンプのようにぺたぺたと増えていく。

 その時ダウンジャケットのポケットに入れておいたスマートフォンのバイブレーションが震えた。友人からのメール受信を知らせるポップアップが表示されていて、何気なく詳細を確認する。学生時代からの付き合いのある友人だった。春に結婚する、という知らせで返信を打ちかけてからユウキのことを思い出し、顔を上げる。

 いなかった。

 駐車してある車の隙間に入り込んでしまったのかと足跡を追って駐車場内を見て回る。足跡はあちこちで円を描くように小さな輪となっていた。嬉しい時にその場でぐるぐる回るユウキの癖だ。足跡を辿っても、姿が無い。私は静かに焦り始めていた。こんな小さな駐車場で見失うはずがない。自分に言い聞かせても不穏な想像に頭の中が侵食され、冷静さを失いそうになる自分を必死で抑え付ける。

 ふと、まっすぐに伸びる一本の足跡に気がついた。足跡は先ほどまで私の立っていた場所の横を通り抜け、外の道路へ続いている。私が走り出すのと、自動車の急ブレーキの音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。


「あなたが死ねばよかったのに」

 妻は病院で、表情を失った顔のまま私に言った。

 その後のことは今も私の中ではひどく曖昧で、輪郭も表情ものっぺらぼうな記憶ばかりだ。「不幸な事故」という言葉を何度か誰かが言った。保険会社と弁護士がスムーズに示談の話を進める中、通夜の席で義父母は私に「二度と顔を見せるな」と言った。妻は私と会話をすることをやめ、家からほとんど外へ出ないようになった。時折、ユウキの仏壇の前でずっと座っているのを見かけたこともある。私は妻に言葉をかけることも出来ずに、ユウキも、妻も失ったまま日々を過ごした。何を食べても味がせず、誰と話しても言葉を理解出来ず、仕事に支障をきたすようになった。心療内科に通い、休みを取るよう再三促されたが、出勤を続けた。

 他に、私には居場所がなかった。


 通夜から三ヶ月ほど経った頃のことだった。なかなか寝付けず、ようやく浅い眠りについた私は頬の上を這いずり回る感触に覚醒した。薄っすらと開いた瞼の隙間から見た窓明かりがまだ暗いことに舌打ちをし、苛立ち紛れに顔の上の何かに向かって乱暴に手を伸ばした。小さな羽虫か何かが飛び回っているのだと思った。思い切り潰してやろうと伸ばした手が、柔らかいものを掴んだ。と同時に、耳元で小さな声がした。

「あーちゃん」

 目を開いて跳ね起きる。

 私が掴んでいるのは小さな手で、その先にはユウキが不思議そうな顔でこちらを見つめていた。私はただ、戻ってきた、とだけ思った。言葉が出ず、小さな手の感触を確かめながら慌ててユウキの肩を両手で掴むと、そのまま抱きすくめる。少しでも早く抱きかかえなければ、このまま再び消えてしまうと思った。私は自分の胸の中にユウキを無理矢理押し込めた。ユウキは窮屈そうに身をよじりながら小さな声で「あーちゃん」と繰り返していた。


 ユウキの姿は、私以外には見えないようだった。

 翌朝手をつないでキッチンに行き、先に起きてテレビを見ていた妻に「おはよう」と言ってもユウキの存在には全く気がついた様子もないまま、いつもと同じようにただ目の上に映る映像を右から左へと受け流し続けていた。ユウキが妻のもとへ歩き出し、遠慮がちにそっと太ももの辺りを掴む。妻はテレビの方を向いたまま、蚊に刺された時にでもそうするように、ユウキが触れた部分を無造作にぼりぼりとかいた。

 ユウキは姿や声が私にしか見えないだけで、それ以外は亡くなる前と全く変わらないままだった。同じように笑い、泣き、怒った。

 会社に行く時は妻に聞こえないように「いってくるね」と手を振り、会社から帰ってきては「ただいま」と声をかけた。私がいない間、ユウキがどう過ごしているのかはわからなかったが、自分の姿に気がつかない妻にはどれだけ甘えても構ってもらえないはずだ。昼間、妻と二人きりの家の中で誰からも気づいてもらえないユウキを思うと胸が痛んだ。

 平日、私は有休を取ると、妻には何も言わずにスーツを着てカバンを持ったまま、ユウキの手を取って家を出た。

 ユウキを抱っこしたまま、駅とは反対の方向に向かう。目指す先は、近所にある河川敷だ。

 平日の午前中、河川敷には小さな子供を連れた若い母親と老人たちがちらほらいる程度だった。よく晴れた青い空がどこまでも広がっていた。私はユウキの手を離すと、早速走り出したユウキと一緒になって走った。スーツに革靴という出で立ちで、傍から見れば一人で走り回っている私は異様に映った違いない。

そんなことは、私にとってどうでもいいことだった。ユウキは走り回り、立ち止まってはこちらを振り返って笑い、途中何度か転んで、それでも何とか立ち上がると再び走り出した。走り回るうちに身体が熱くなり、ジャケットを脱いでネクタイをほどいた。革靴を履いた足の爪先が痛んだので、革靴を脱いで裸足になった。ユウキが「あーちゃん」と叫ぶたび、私は胸の内側から何かが削り取られて行くように感じた。


 ある日の夜、私がトイレに入っている間にユウキはキッチンのダイニングテーブルへよじ登ろうとして床へ転落してしまった。

 着地の仕方が悪かったのか、足首を抑えて激しく泣き出したユウキを抱っこしたまま私は途方に暮れた。誰にも見えない存在のユウキを医者に連れて行くことも出来ない。何より、ユウキはもういないのだ、自分の中だけの存在なのだと頭ではわかっていたはずなのに、自分の両腕が感じる確かな重みと、激しく泣き喚く声をただ自分の幻覚と一蹴することも出来ず、私はユウキを抱えて立ち尽くした。戸棚を探し、やっと見つけた湿布をハサミで小さく切ってユウキの足首に貼り付け、上から包帯で軽く巻いた。しばらくすると泣き止みはしたが、歩く時にひょこひょこと軽く足を引きずるようになってしまった。「ごめんな」と足首をさするとユウキは「あーちゃん」と呟いた。


 翌朝起きると、ユウキの姿が見当たらなかった。キッチンへ出ると、既に起きていた妻が「足、ケガ?」と言った。

 私の足首に小さな湿布が貼られていた。

 ユウキはもういないのだと今更ながらに思った。急激に溢れてくる涙を抑えることが出来ず、その場に立ったまま私は泣いた。妻はそんな私の様子を見つめていた。

 ユウキは、そのまま姿を見せなくなった。


 目の前をふわふわとした、羽毛のような白い雪が通り過ぎて行く。

 ユウキが亡くなってからちょうど一年が経った。あの日と同じような雪が降り、私は一人駐車場近くの植え込みに腰掛け、雪が積もって行く様子をぼんやりと見つめていた。

 目を瞑ると、今にも目の前にユウキが姿を表すような気がして、何度も瞬きを繰り返す。小さな足跡が脳裏に蘇る。スタンプのように真っ白な絨毯の上に残されたユウキの足跡。目線を落とした私の耳に、さく、さくという小さな音が聞こえた。顔を上げると、離れた場所で、私に背を向けて歩く小さな後ろ姿があった。

「…ユウキ?」

 小さな影は動きを止めると、こちらを振り返って言った。

「あーちゃん」

 周囲にはいつの間にか小さな足跡がたくさん残されていた。私は慌てて立ち上がると、すぐに部屋へ戻った。半ば引きずるように妻を外へ連れ出しながら私は消えないでくれ、あとほんの少しでいいから姿を見せてくれ、と念じ続けた。

駐車場に戻ると、ユウキはまだくるくると走り回っていた。

「雪の上見てくれ。ユウキが今そこにいるんだ。足跡が残ってるだろう。足跡は見えるだろう」

 妻はゆっくりと目を動かし、小さな輪を描くように残る足跡の軌跡を辿った。

「…嬉しいと、くるくる回ってたよね」

 妻が小さな声で呟いた。その声に気がついたようにユウキが動きを止めてこちらを見る。

 目を細めてにっこりと微笑むと私たちに向かって「あーちゃん」と呼びかけた。

 妻がはっとしたように顔を上げ、声のした方向へ目を向ける。両手で口元を抑えたかと思うと吐き出すように「ごめんね」と呟いた。まるでそれが合図だったようにユウキは姿を消した。ふわふわと舞い落ちる雪の上に小さな足跡だけを残して。

 私は妻と共に、雪の上に残された小さな足跡をずっと見つめていた。

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月のように いりやはるか @iriharu86

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