無念流の剣術家 四話(3)

 翌日になって、兵左衛門さまは唐突に「出立する」と言い出した。かと思えばその日の明朝、彼は本当に上村家を後にしてしまう。

 慌ただしいひと。朝餉も食べずに出て行ってしまうだなんて。

 兵左衛門さまはわたしを見下ろして言った。


「そういえばひつじよ。近いうち、田吾郎と会う機会があるやもしれん。何か伝えておきたいことはあるか?」

「ええと、それでは……」


 わたしは俯いて考え込んで、思いつくとパッと顔を上げる。


「辛子たくあんが逸品らしく、江戸城下の花満商店のものが絶品だとのおばあちゃんが教えてくれました。時間があればぜひ食べてみて下さい、と伝えて下さいますか?」


 一瞬呆けた間をおいてから、兵左衛門さまは大笑した。

 なんだかばかにされているような気がする。おのれ。


「考えた結果それを選ぶのか。まったく、敵わぬなあおぬしらには。相分かった、伝えておこう。江戸城下は花満商店の辛子たくあんだな」

「はい。よろしくお願いいたします、兵左衛門さま」


 そんなやりとりが、兵左衛門さまとの最後の会話。

 小さくなっていく背中を見送りながら、わたしは口の中で呟いてみる。


「まるで嵐のようなひと」


 急にやってきて、急に去ってゆく。

 結局、兵左衛門さまがどんな人だったのか、わたしにはよく分からなかった。あまり良い思いばかりではなかったけれど、でもきっと悪い人ではなかったふうに思う。

 結局一度も振り返ることなく、じきに兵左衛門さまの背中は見えなくなって。

 貴重な学びの機会が減ってしまって、稽古場の門人たちは寂しがるかもしれない。


(わたしには兵左衛門さまの代わりも、田吾郎さまの代わりも務められない……ああ、なんて情けない女)


 ふと西の空を見上げると、雷雲が姿を見せていた。

 じきに雨が降るかもしれない。買い物には間に合うかしら。

 だけれどその前に、まずは朝餉の用意をしなくては。わたしは急いで上村邸に戻ろうとして、そこで……


「失礼、そこの娘さん。こちらは上村の屋敷でよろしいですかな?」


 不意にわたしは、道往く子連れの老人に話しかけられた。

 擦り切れかけた着物を身に纏い、被り傘を自ら外すご老体。その腰には刀が差してあるのが見えた。

 二人は旅装をしているから、兵左衛門さまと同じように流浪の方だろうか?


(入れ替わり立ち代わり。そういう風でもやって来ているのかしら)


 思いつつ、わたしは会釈した。

 痩身のご老人の袖に隠れるように、わたしより少しだけ年下と思しい子供。

 にこりと微笑みかけると、少年はわたしを見て、無邪気に笑ってくれた。


 ◇◇◇


 草木も眠る丑三つ時。

 上村派無念流の師範・上村田吾郎は闇夜に紛れ、刀についた血脂を拭っていた。

 その足元には亡骸が一つ転がっている。


 ――無念流の剣客、森田兵左衛門の亡骸である。


「森田どの……成敗、御免」


 田吾郎は絞り出すような低い声をして言う。その声は震えていた。

 胸をきつく押さえ、田吾郎は泣きそうな顔をしてかぶりを振る。それでも足元の亡骸は消えず、悪い夢が醒めることはない。


「何故あなたが影心兵法の手先と下ったか、問いただす事叶わなかった」


 不徳の致すところである、と田吾郎は眉を歪める。

 けれどその悔恨を払うように額の脂汗を拭い、田吾郎は深呼吸した。


「……残るは一人。……新柊流、柊仙左せんざ


 柊仙左。老体にして技倆ぎりょう衰え知らず、『不抜ぬかずの仙左』とあざなを持つ居合の名手だ。


 田吾郎は自問する。

 ――俺はあと一人、殺めることができるだろうかと。

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幼な妻 上村ひつじ citta×ponta @siroann7

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