風待ち

いりやはるか

風待ち

 テレビを消した後も目を閉じる気になれず、近所の古本屋で一冊百円で買った文庫本を読み始めた。

 暑さに耐え切れなくなって家を出た。

 クーラーは去年の夏から壊れている。来年までには新品に買い換える金も貯まるだろうとのんびり構えていたら、夏は意外に早く僕のところまでやって来てしまった。行き先は特に無かったが、図書館ならもう冷房が入っているはずだ。自転車を漕いで必死の思いで図書館まで辿り着くと、休館日だった。


 定期でいけるところまで行こう。

 これが僕にとって、ここのところ最大の娯楽だった。しかし、その定期も来月の七日で期限は切れる。親の仕送りを家賃に当てるとしても、諸々の生活費はこれから何とかしなければならない。先月は電気を止められそうになったし、つい最近までガスは完全に出なかった。


 三ヶ月続けたレンタルビデオのバイトは、昨日やめた。

 店長の中年女性とどうしてもそりが合わず、他の店員にも馴染めないまま一ヶ月ほど悩んだ挙句僕が切り出すと「いつ言うのかと思ってたわよ」と、店長は笑った。その日は勤務が残っていたが、僕はそのまま帰った。事務所のドアを思い切り閉めてやろうとしたら、ストッパーが付いていてやり場を失った手で鼻を掻いた。

 学校からの帰り道、駅のフリーラックに山積みになっている無料の求人情報誌をそこにあった4種類全部持ち帰った。何はともあれ生きていくためには稼がなければならない。学校はしばらく休んで、少しでも時給の高いバイトしよう。場合によっては日当系をしばらく続ける必要もあるかもしれない。とりあえず今の僕にとってはその日その日に飯を食う金がいるのだ。

 家に着いてドアを開けると、締め切った部屋に閉じ込められていた熱気が一気に噴き出して、僕の体に焼きついた。むせ返るような熱気。行きに窓を開けて出ればよかった。どうせ取られてこまるものなど、ありはしないのだ。そもそもこの玄関の鍵自体、閉めていようがいまいがプロにとっては変わりないものなのだろうが。

 カーテンを開けると、窓には鳥の糞がこびりついていた。



 山手線に乗ったままぐるぐる回っていたら、新宿まで戻って来てしまっていた。二周目。これで今日も時間は十分に潰せたはずだ。

 求人情報誌を読みながら鼻息も荒くあれもこれもとマーカーで丸やら三角やらを付けていたが、二件ほど電話をかけてもう定員になったのでいい、と言われてしまい、出鼻を挫かれた様な気分になって結局そのまま寝てしまった。

そうして今日は朝からすることも無いので定期を使ってあちこち文字通り「回っていた」訳だ。

 さっきからまさかとは思っていたが、僕のちょうど向かいに座っている同じ年くらいの女の子はさっきから眠ったまま僕と同じ分山手線に乗り続けている。恐らく眠ったまま駅を通り過ぎてそのままずっと気付いていないのだろう。可哀想に思ったが、自業自得だ。何より彼女のその平和そうな寝顔がひどく気に障った。こっちは明日食う飯の金にも困っているのだ。

 僕が降りようと立ち上がると、それまで眠っていたはずの彼女もぱっちりと目を開けてすっくと立ち上がった。僕は驚いて思わず彼女の方を見てしまった。彼女と目が合う。思ったよりずっと幼い顔立ちだった。僕より二つ三つ下かもしれない。

 彼女は目を逸らして動揺している僕のところまでやってくると、言った。

「あなた、わざと二周乗ったでしょ?」


 彼女はやっぱり僕より二つ下だった。今年大学に合格して上京してきたのだと言う。生まれは九州、今住んでいるのは笹塚。

「山手線にぐるぐる乗って、何してたの?」

「それはこっちの台詞でしょ」

「ひまつぶし」

「あたしもそう。ひまつぶし」

 言葉の端には微かにだが東京のものではないイントネーションが含まれていたが、僕がそれを指摘すると彼女は大袈裟に恥ずかしがった。

「でも、いいなあ」

「何が」

「笹塚。俺も住んでみたいよ」

「ああ。そうでもないよ」

「でも、クーラーはあるだろ」

「ある」

「夏の間だけでも、部屋交換して欲しいよ」

 そういうと彼女はぱっと表情を変えて身を乗り出してきた。

「いいね、それ面白そう。さすが東京生まれは考えることが違うね」

 そういって彼女はしばらくすごいなあ、さすがだなあと鼻を鳴らしていたが、今思うとあれは彼女がぺろりとたいらげてしまった、800円のチーズケーキを奢らせる為だったのかも知れない。


 彼女の家は京王線の笹塚駅から歩いて5分もしないところにあった。1K、バス・トイレ別。新築、オートロック。僕からしてみれば夢のような場所だった。

エレベーターに乗っている間も、自分のような人間がこんなところで寝泊りしていいのかとずっと自問自答を続けた、何より、電車の中で声をかけられただけの素性もよく知らない女の家と自分の家を交換してしまうという自分の大胆さに、僕が一番驚いていた。

 彼女の部屋は驚くほど殺風景で、何も無かった。折りたたみ式の机と本が数冊だけ入った本棚。パイプベッド。それだけだ。

でも、クーラーはあった。リモコンでスイッチを入れると、ややあって生ぬるい風が流れ始めた。クーラーはあるけど、テレビがあるとは確かに言ってなかったな。

 そう思って僕は苦笑した。

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風待ち いりやはるか @iriharu86

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