燃え殻

いりやはるか

燃え殻

 頭上から降り注ぐ蝉時雨は私の半規管を狂わせる。


 頭の芯がじんと痺れ、今立っている場所が足の裏を軸としてぐるりと反転するような錯覚を覚えて足が縺れる。立ち止まる。髪の生え際から拭っても拭っても湧き出る汗が一筋垂れ落ちて右目に入ると、塩分を強く含むそれが染みて思わず舌打ちを打ってしまう。

 だからこんな場所を通るべきではなかったのだ。

 地面から立ち昇る陽炎の中で、視線の先に見える建物が歪む。むっとした空気は周囲を威圧するように睨めつけながら旋回し、まだ立ち去ろうとする気配は無い。

 八月二日。時刻は午後の二時。

 夏が一日の中でも最も猛威を振るう時間帯だ。彼(彼女だろうか)は一瞬で周囲の風景を呑み込み、その体内で咀嚼を始めたようだった。景色も、私も、今や彼の胃の中で消化されゆく有機物に過ぎない。先程感じた眩暈に近いゆらぎは、さながらその蠕動運動だろうか。

 確かにこの公園を横切ることは大幅な近道になるはずだった。それでも日光を遮るものがおよそ見当たらないこの場所を進むことにした自分の判断を、今となっては浅はかであったと認めざるを得ない。多少遠回りでも建物の影を選んで歩ける道か、それほどの距離でも無いがいっそのことタクシーにでも乗ればよかったのだ。沸騰しつつある脳の、それでもまだ冷静さを保っている部分が未練たらしく出発前の自分の行動を争点として戦犯会議さながら私を責め続ける。

 公園へ来る途中の自動販売機で買った清涼飲料水は早くも手の中で温度を上昇させ、体には人間同様の大量の汗を噴き出させてぐったりとした様子に見えた。無いよりはましと割り切ってキャップをひねり、既に飲料水としての役目を放棄したかのように見えるそいつを口に付ける。

 購入して手に取った時の冷涼な印象は消え去ったものの、口の中に流れ込む水分の感覚はまだ私の意識を現実に繋ぎ止めておくのにおおいに役立つものだった。自分でも冗長に感じるほどの速度で温い液体を飲み下すと、私は再び歩き出した。

 伝えなければならないからだ。このことを。今私に起きているこのことを、あの人に。


 私は進む。

 進行方向に見える人影に気がついた。陽炎の中でその姿はやけにくっきりと立ち上がっている。

 視線は一本の木へと向けられていた。電気傘のような形のベージュ入り帽子を目深に被り、襟元の縒れた白のポロシャツをくすんだ鼠色のスラックスの中に入れ、その上から本来の機能を全く果たしていない、締まりのない細めの茶色いベルトをおざなりに巻きつけている。足元は黒い紐の付いた爪先の丸いスニーカーだ。質感から見て合皮であることがわかる。どこの街の公園にも一人はいる、暇を持て余した隠居老人の類だろう。手を後ろで組んだままじっと動かない。

 蝉を見ているのだろうか。目元は帽子に隠れて確認することは出来ない。

この暑さの中、身じろぎ一つせずに佇む様子はどこか異様ですらあった。老人の立つ場所だけがまるで季節さえも忘れてしまったようにぽつんと取り残されているかのようだ。

 私は構わず老人の後ろを通り過ぎようとした。

「暑いですなあ」

 足が止まる。確かに老人のいる方向から声がした。独り言か、私に話しかけているのか判然としないニュアンスだった。

「こう暑いと、たまりません」

 判断をつきかねて、それでもそのまま立ち去ることも出来ずに訝しげに老人へ不躾な視線を送っていると、もう一度声がした。老人はこちらに背を向けたままだ。周囲には他に人の姿は見当たらない。間違いなくその言葉は私に対して発せられていた。見た目に反して年齢を感じさせない、張りのある低いがよく通る声だった。

 私は無意識に夏祭りの日に聞く和太鼓の音を思い出していた。幼い頃、父親は地域の夏祭りがある度に、櫓の上で太鼓を叩いた。母は私の手を引いて、その父親を見に行こうとよく誘った。櫓の上で太鼓を叩く父は見た目こそいつもと変わらないものの、普段より勇壮に見えたものだ。その和太鼓の繰り返される太く、腹を底から突き上げるような張りのある音が頭の内側でどん、どんと響き、老人の発声に重なっていった。


「八週目くらいだと思います」

 背が低く顔の丸い医師は、根拠も無く見た目で柔和な印象を持たれることを拒否するかのような、角張ったレンズの周りに銀色の細いフレームという眼鏡を掛けている。こちらの方への視線を投げる際には極力目と目が合わないよう、人の顔の下から三分の一程度の場所を見ている。それが彼なりの気遣いなのか、単純に人との会話が苦手だからなのかはわからない。

 私は産婦人科の意外なほど小綺麗な診察室で、そう告げられていた。その時の自分がどのように思っていたのか、ほんの少し前のことだというのにうまく思い出せない。強いて言えば、ああそう、というところだろうか。それ以外の言葉を当てはめるとするならば、やっぱり。まあね。だと思った。

 頭の中には先ほどから見せつけられたエコー画像が焼き付いていた。腹に塗りたくられたジェルの感触がもったりと皮膚の上に薄く残ってて気持ちが悪い。小さなモニター画面の白黒のドロドロとしたまだら模様の中に、何やら小さな黒点が見えた。それが「人」なのだと言う。まるで、うたた寝をした時にうっかり見てしまった悪夢のようだった。私は昔興味本位でレンタルビデオショップで借りたデビッド・リンチの「イレイザーヘッド」という映画を思い出していた。あの映画の中に登場する若い夫婦の元に産まれた奇形児のことが脳裏を過ぎり、気分が急激に悪くなるのを感じた。

「次回は一ヶ月後に来てください、それまでに気になることがあれば、いつでも電話してくださいね」

 医師は最後まで本当にそう思っているのかどうかわからない口調で、最後に病院の電話番号が書かれた名刺大のカードを渡してくれた。デフォルメされた猫の親子がこちらを向いてにっこり微笑んでいるのが見えた。


 待合室には私と同様見た目では妊婦とわからないような外見の女や、間も無くという感じの腹の突き出た見るからに苦しそうな女、年齢不詳のカップルなど多種多様な人間が自分の順番を待っていた。緊張感は微塵もなく、むしろ生まれてくる子供達を迎え入れようとする強い陽性のパワーが満ちているように感じられた。室内は冷房が効いて体感的にはひんやりしているはずなのに、親たちのそのエネルギーからか、どこかほかほかとした炊きたてのご飯のような熱気があちらこちらに漂っている。私はその居心地の悪い熱気に追い立てられるように会計を済まし、外へ出た。

 産婦人科を出ると強烈な陽の光が私の瞼を貫いて容赦無く瞳孔を狭めてくる。

鋭い刃物を刺し込まれたような痛みに近い知覚を感じ立ち止まった瞬間、視界の端にこちらへ近づく一台の車が入り、私は反射的に両手を腹の上に重ねて、道路側へ背を向けた。

 車は減速し、私の横を大きく距離を空けて通り過ぎて行った。車の気配が無くなってから自分自身の行動が馬鹿らしくなって鼻白んでしまう。一体自分は何を守ろうと言うのか。この、何の感情のやり取りすら無いまま、自堕落に互いの利害のみで偶然生を受けてしまった存在に?「母親役」を私は引き受けようとしているのか?誰の代役として?この舞台の主演女優は一体いつ降板してしまったのだろう。あるいは、初めから主演女優のいない、脇役だけのストーリーだったのかもしれない。誰にも見られることの無い舞台。一人芝居。

 太陽の熱が私の帽子も日傘も忘れたむき出しの髪の毛をじりじりと焦がさんばかりに照らし続けても、私はそのまましばらく動くことが出来ずにいた。


「見てるんです、蝉を」

 声がした。

 たじろぐほど湿気を多く含む熱気と異様な程の蝉の声が耳元で蘇る。ハッとして顔を上げると、数メートル先で老人が微笑んでいた。私はこの暑さの中、自分がほんの一瞬ではあるが周囲の風景が見えなくなるほど記憶の底に沈んでいたことを知る。

 こちらを向いた老人の目元は深く被った帽子のつばに隠れてよく見えない。しかし、その下に見える口元はこの陽光の元で見ると異様なほど青白い。

「よく鳴きます。こいつは産まれて二日目か、三日目ってとこですかな」

 蝉。

 成虫になるために土の中で何年も耐えて、地上に生まれてきて七日ほどでこの世を去る生き物。蝉の一生を人間に例えれば成虫になってからの二日目や三日目は十代の終わりから三十代の前半というところだろうか。ちょうど今の私と同じくらいなのだろう。

 人間と同じだ。この年頃は好き勝手なことばかりをして、好き勝手に鳴いている。周りの迷惑など構うことなく。


「どうしてほしいってことかな」

 妊娠したと話すと、男は初めからすべてお見通しだったと言わんばかりの態度でそれまでテーブルの上に乗り出していた身体を後ろへ逸らした。そのままいつものように煙草に火をつけようとするだろう。私は数秒後の未来を予測してみる。男の手が胸ポケットからキャスターを取り出して私の予測は的中する。もっと先まで未来を予測していればよかったのだ。この男と出会うことを、出会ってからこうした関係になることを、関係を持つことによって自分がこの男の子供を身籠ることを。

「どうしたらいい?」

 私は問う。何の希望も持たないまま。

「君の好きにしたらいいよ」

 男のごつごつとした指がひしゃげた箱から煙草を取り出して、火を付ける。私は煙草を吸わないが、男が吸う煙草の煙が時々甘く匂う瞬間だけは好きだった。

「産むなという権利は俺には無い」

 芝居がかった台詞に辟易する。この後に及んで、この男はまだ自分こそが悲劇の主人公であると信じているのだろうか。

「何それ」

 金曜日の夜。地下にある創作料理の店で私は男と向かい合っていた。

落ち着いた店内。抑制の効いたインテリア。耳触りのいいBGM。控え目な従業員。主張しすぎない料理。

 一年半前、この男と始めてこの店に来た時、私は雰囲気に当てられ、まさに盲目になっていたに違いない。自分より一回り近く年上のこの男が眩しいほど大人に見えた。今考えれば何て淫靡な店だろう、と思う。雰囲気も何も、この店自体が地下にある上に全席が個室で、要は隠れて人と会うには好都合なだけだ。それすらも当時の私にはわからなかった。

「私は、あなたの何なの」

 傍目に見ればこれほど安っぽい光景は無い。今時昼間に流れるドラマでもこんな場面を見かけないだろう。控え目な従業員たちは先ほどから私たちの間にそこはかとなく漂う雰囲気に気がついているのが、必要最低限のサーブ以外はこちらのテーブルの周囲には極力近づかないようにしているように見えた。きっと、彼らにとっては日常茶飯事に違いない。この店に来るカップルの七割はきっと私たちと同じ関係性だ。

「今になってそれを言うかね」

 唇の端を歪めるように吊り上げて男が言う。それは彼がそれなりの誠意を持って作ろうとしている笑顔であることを私はこの一年半で知った。今はその表情が不快で堪らない。悪魔のようにさえ見える。私は小さく息を吐き出す。その時、自分が随分と長い間呼吸をしていなかったことに気がついて長い距離を走り終えたあとのように息遣いが激しくなる。動悸がする。


「出来ないんだよ、子供」

 男はベッドの上で体勢を替えると、サイドテーブルの上に置かれた煙草から一本取り出して火をつけ、小さなスチール製の灰皿を手に取った。私は煙草を吸わない。灰皿は男が部屋に来る時の為に買った百円均一の店のものだ。壁紙が黄ばむし、部屋の中のものに匂いがつくから部屋にいる時は吸わないで欲しいと何時言っても聞く耳を持たなかった。

「不妊治療してるんだ」

 私は先ほどまで自分の身体の上にあった男の年齢の割には引き締まった、滑らかな皮膚の感触を思い出しながら声のする方角へ意識を向けている。

「あなたが?」

「俺じゃない。嫁の方だよ」

 彼の奥さんは保育士だったはずだ。今は退職して専業主婦になったと言っていた。

「何年も保育士やって、子供の世話見るのは得意だって言ってたんだけど、肝心の子供が出来ないんだよ。準備は万全なんだけど」

 そう言うと唇を歪めて煙を吐く。

 頭の中にたくさんの子供に囲まれている彼の奥さんの姿が浮かぶ。とても楽しそうなのに、寂しげな表情をしている。そしてこっそり自分のおなかに手を当てて、時々薄く目を閉じている。どうか、赤ちゃんがやってきますように。

「もう同い年だから今年で四十になるし、そろそろ覚悟決めようかなと思って」

「覚悟って?」

「子供諦めるってこと」

「いいの?」

「いいも何も。出来ないんだからしょうがないじゃん。あ、代わりに産んでくれる?」

 そういうと男は笑顔のまま私の上に覆い被さってきて、そのまま強く抱きすくめた。

 こういうことを言える神経にむしろ感心してしまう私は、やはりどこか人間としての軸がずれているんだろう。

 腹立たしいという思いは感じなかった。彼の言葉と言うよりは、私自身の感情の欠如に自分自身が寂しくなった。


「蝉はいい。一生懸命でしょう。わかっているからかもしれませんね。自分の最後を」

 老人は続ける。

「誰にも知られずに産まれ、誰にも知られずに死んで行く。そんな風に出来たら、一番いいのかもしれない」

 呟くように言って頷く。

「でも、そんなの寂しいです」

 私の声を私は驚きを持って自分で聞く。声はどこか遠くからぼんやりとした輪郭のまま響く。

「自分の最後をわかっていて叫び続けているのは、助けを求めているんじゃないですか。一日でも長く生きたいと」

 汗が次々にこめかみから頰へ、頬から首筋へと伝い、胸元へ流れ込むのを感じる。じっとりと湿ったTシャツの重く濡れた感触が堪らなく不愉快だ。それでも私は、私の口は話すことをやめない。

「死ぬ為に生まれてくることほど残酷なことは無い。誰にも知られずに死んで行くことは、始めから生まれていないことと同じじゃないですか」


 己の腹の中に見知らぬ他人がいる。

 それも、今まさにその姿が形成されつつある。

 自分が望む望まないに関わらずオートマチックにその作業は進められ、一年も経たないうちにその完成型がこの世に放出される。

 そうして自分と同じように動き、飯を食い、排泄し、言葉を話し、再び生殖活動をし、やがて自分と同じように何者かの親となる。

 それが何千年、何万年も前から繰り返されてきた人間という動物の営みであり、自分はそうした系譜の中に存在する一通過点であると考えると急激な吐き気に襲われ、私は食べたばかりの豆腐を流しに勢いよく戻した。

 産婦人科で妊娠を告げられてから、食欲は目に見えて減っていた。数日しか経っていないにも関わらず、体重は三キロ減少した。連日の暑さもあいまって、体が食べ物を全く受け付けない。それでもこのままでは仕事にも支障をきたすと思い、何とか豆腐の上に潰した梅干しを塗して海苔を散らしたものだけは食べるようにしていた。それも今日、受け付けなくなってしまったようだ。

 ステンレスの流しの上にぶちまけられた吐瀉物はまだもとの状態そのままで、豆腐は白く、梅干しの赤も鮮やかだった。そのまま掬い上げてもう一度食え、と言われれば抵抗なく私はそうするだろう。目の前で無残な姿と化した豆腐と梅干しが滲む。唇の淵に付いた胃液の苦さを感じながら、もうつわりが始まったのかとうんざりした気分になった。

 振り返ると台所のテーブルの上には「はじめての妊娠 」と書かれた文庫本くらいのサイズの冊子が置かれている。産婦人科で会計を済ませた際に、妊娠を我がことのように嬉しく感じているのか、やけに馴れ馴れしい看護師が手渡してきたパンフレットだった。椅子に座って、冊子を捲る。「はじめに」という最初のページに「未来のお母さん、そしてお父さんへ ある日突然「おなかに新しい命が宿っています」と告げられ、あなたは今どんな気分にいるでしょうか?」と書かれている。この文章を書いた人間は、妊娠をした女には必ず父親がいて、妊娠をこの世で最高の幸せであると感じるものだと信じ切っている。その視野の狭さに私は抗議文を送りつけたくなった。

 つわりは妊娠二ヶ月頃から次第に始まり、三ヶ月頃をピークとしてその後落ち着いて行く。

 カレンダーを見て頭の中で逆算してみる。

 多分、あの日だ。

 自分が妊娠のきっかけを作った日のことを思い出した。その日はあの男の誕生日で、あいつは地方の出張だと偽って私の家に泊まりに来ていた。二人で小さなケーキを買って食べた。安いワインで乾杯をして、二人ともいい具合に酔ったところでベッドに移動したのだ。酔っていたからか、私自身にどこかでそうなることを望むところがあったのか、その日に限って避妊をせずセックスをした。普段より短く、作業に近い性交だった。終わると男はすぐに鼾をたてて寝始めた。四十歳の誕生日で、今更何を祝うことがあるのか。今になるとそう思う。


 五感の中で最初に気がついたのは嗅覚だった。

 どこかで嗅いだことのある匂いが雑踏で鼻先を掠め、私は小鳥の声を聞き取った空腹な野良猫のように全身を殺気立てた。

 私の中の警報機が赤い色のランプを点滅させていた。心が目の荒いやすりでゆっくりと削り取られて行くようなざらざらとした感覚を感じたまま、周囲を見渡す。交差点を通過中であった私は、道路の真ん中当たりで立ち止まっていた。後ろから携帯音楽プレーヤーに繋いだヘッドフォンをしたままスマートフォンに目を落として歩いて来た女子高生が背中にぶつかる直前で進路を転換し、すれ違いざまに舌打ちをして行った。視覚と聴覚を閉ざしたまま社会で生きていくと言うのは、どのような気分なんだろうか。彼女の肩まで伸びた茶色い傷みの激しい髪の毛が彼女の歩くスピードに合わせて不満げに揺れていた。ヘッドフォンを引っぺがして耳元で囁いていやりたい衝動に駆られる。目の前すら見ずに歩いていると、運命の人を見間違えるかもしれないよ。私みたいに。

 私は点滅を始めた歩行者用の信号をぼんやり見つめてから、速度を早めて横断歩道を渡り切った。

 どこかにいる。あの男が近くにいる。

 妊娠を告げた翌日から、男とは連絡が取れなくなっていた。携帯電話は着信拒否にされていたし、アドレスは変えられたのかエラーで返信があった。もともと会社は同じではあったものの、昨年の人事異動で同じ都内とは言え別々の営業所で働くようになった私と彼に今や接点はほぼ残されていなかった。男は私に自宅の住所を教えようとしなかった。会う時は私のマンションか、ホテルだったからだ。もちろんその気になれば、何らかの理由をつけて人事から住所を聞き出すことも出来ただろう。ただ、私がそうしなかっただけだ。住所がわかったところで、何が出来ると言うのだろう。彼の奥さんに、自分は一年半前からあなたの旦那と不倫をしていて、しかも今お腹の中にはその不倫の末出来た子供がいるんです、ただ彼はあなたと別れて私と一緒になるような気はないみたいですから安心してください。奥さん思いのいい旦那さんですね、それじゃあと言って帰ればいいんだろうか。そして、最も情けないのは私がそうしないであろうことをあの男はきっとわかっているということだ。どこまでも私のことを見くびっていた。要領の悪い子供を見守る親のような表情で私を抱いた。

 週末の商店街。人々は慌ただしげに行き交っていて、街全体がどこか浮ついた印象を受ける。私はその中で意識の先端を鋭くさせる。

 人と人の群れの合間に男の姿を見る。その隣には華奢な女性が一人いる。その顔はこれ以上無いというほどの多幸感に満ちていた。切なくなるほど美しい顔だった。ただ一つわかったことは、その女性は彼の妻ではない、別の女であるということだった。

 顔がかっと熱くなるのがわかった。

 私の足は男のもとへ向かっていた。先ほどまであれだけ避けて通ることすら至難の業だった雑踏が全く視界に入らなかった。私の視線の先には、あの男の顔しかなかった。顔は内側に血液が充満して外側へ噴き出すのではないかと感じるほど相変わらず熱かったが、頭の芯の部分は冷え切っていた。男まであと数メートル、というところで彼は私には気がついて、目を剥いた。まるで、死んだ人間が不意に枕元に現れたとでも思っているかのような表情だった。隣にいる、どう見ても二十代前半くらいの若い女は何もわからない様子で男の顔を見上げてにこにこと微笑んでいる。

 私は男から数メートル離れた場所で肩をいからせて立ち尽くしたまま、何も言うことを思いつかずにただ彼の顔を睨み続けていた。

 男は美容院にでも最近行ったのか、私が最後に見た時より前髪が短くなっていて、それが男の年齢をより不詳なものにしていた。

 かっこいいなあ、と思った。アーモンド型の大きな、でも少し垂れていてちょっと眠そうな目も、すらりとした高すぎない鼻も、引き攣っても形の良さがわかるやや下の方が厚めの唇も、少しだけ生やした顎の髭も、大きめの耳も、今こうして見ても全部が好きだと思えた。

 ふと、この人は私に何を言われたところでどうとも思わないのだろうな、という確信に近い予感がした。

 今この場で私は何を言うつもりだったのだろう。何をするつもりだったのだろう。男の頬に一発張り手でも食らわせて、女にこんな男やめとけとでも言うつもりだったのか。急激に冷静さを取り戻しつつある頭で考えた。

 おかしな空気にやっと気がついた若い女が私の方を訝るように見つめてくる。私は一人だけ日にちを間違えて行事に参加した 小学生のような気分になって恥ずかしくなり、踵を返すとそのまま走り出した。

 私は何をしているのだろう、と思った。今までだってずっと間違えてきたのに、また新しい間違いを繰り返してしまった。私は何度間違えれば躓かずに歩けるようになるのだろう。

 最初からこうなることなんてわかっていたじゃないか。

 私は一人で生きていかなければならないと思っていたし、今も現に一人だ。


 思い出すのは金曜日の夜のことだった。

 週末になると私達一家は必ず揃ってホットプレートで焼きそばを作って食べた。炒めるのは普段料理をしない父の役目で、私は不器用ながらも麺を炒める父親の様子を見るのが好きだった。

 ある金曜日の夜。私は母に言いつけられた通り皿を人数分用意したり、ホットプレートをキッチンに手配したりして、あとは父の帰りを待つだけという状態になっていた。普段なら父は遅くとも七時までには帰って来るはずだった。

でも、一時間待っても、二時間待っても父は帰ってこなかった。

 ダイニングのテーブルに座ったまま時計を見つめる母の横顔は見えそうで見えなかった。というよりは、そこにいるのにまるでいないかのようだった。そのまま向こうが透けて見えそうだった。

 十時を過ぎると母が私にもう寝なさい、と言った。

 私はまだ眠くない、と言ったが母は譲らなかった。ベッドに入ったまま眠ることも出来ずに毛布の中でぐずぐずしていると、玄関から鍵を開ける音と、扉がチェーンに阻まれて開閉を止める冷たい金属音が響いた。しばらくするとそのまま静かに扉は閉められ、やがて玄関からは何の音もしなくなった。毛布の中で私は息を殺して耳をすませていた。体全体が耳になってしまった様だった。ベッドの右横にある窓の外からは小さく、でも確かな雨音が静かに聞こえてきて私はそのまま眠りに落ちた。

 朝目が覚めると、父親はいなかった。

 食卓にはいつもと同じような朝食が用意され、母はこちらに背を向けたまま流しで洗い物をしていた。お父さんは、と問うと母は、お父さんは帰ってこなかったわよ、と言った。父は帰ってこなかった。そのまま両親は離婚をし、私は母親に引き取られて育った。私が小学校に上がる年の、春先のことだった。


 父は真面目な男だった。

 何の仕事をしていたのか、幼い私にははっきりわからなかったが、家の中には辞書や百科事典など、分厚い本や出版物が溢れていて、その一つ一つまでは覚えていないものの、家の中で常に漂っていたインクの匂いだけは今でも思い出すことが出来る。規則正しい生活をしていたので、出版社ではなかったと思う。印刷関係か、あるいはそうした本のセールスでも行っていたのだろう。

 いつも朝の七時半に家を出て、夜は六時に帰って来た。私や母の誕生日には少しだけ早めに帰ってきては、用意しておいたプレゼントをもらう本人よりも嬉しそうな顔をして渡してくれた。

 父親がいなくなる少し前の日曜日の夕方、私たちが三人でテレビを見ていると、チャイムが鳴った。母が応対に出ると、玄関から耳にするだけで胃が重くなるような、母親の低い声が聞こえてきた。会話の内容まではわからない。私と父は顔を見合わせて玄関へ向かった。玄関には表情を失い血の気の引いた顔でぼうっと立っている母親と、向かい合わせにして立つ若い女がいた。父親が何かを言ってその女性を外に連れ出した。私の記憶はそこで途切れている。あの時聞いた母親の、地鳴りのような低い声と蝋燭のような白い顔を思い出すと、私は今でも胃が重くなるのを感じる。

 それから私が父のことについて母に聞くことはなかった。それは子どもながらに聞いてはいけないことと、頭よりも体で理解していたし、何より自分自身がそれ以上知ろうとは思わなかったからだ。私には生物学上の父親という役割を果たした男がいた。その事実だけがあれば十分だと思った。

 最後まで母は焼きそばが作れなかった日のことと、女が訪ねてきた日のことについて私に話すことはなかった。母は今年、年が開けるとすぐに実家で一人で食事を取っているときに倒れ、そのまま意識を取り戻さずに亡くなった。五十歳の誕生日を迎える、前日だった。

 私は一人になった。


 男の家の住所を探ることなど造作ものないことだった。

 総務部にいる同期に暑中見舞いを出すから男の住所を教えてくれ、と言うだけだった。私の住む町から東へ電車で一時間ほどの場所にある新興住宅地が彼の住まいだった。

 平日水曜日、私は有給を申請した。

 最寄駅まで電車を二つほど乗り継ぎ、スマートフォンの地図アプリを頼りに歩いた。

 その中で近道と判断し、この緑地公園を突き進むことにしたのだ。この公園を避けて通ろうとすれば外周をぐるりと回らなければ男の家に行くことは出来ない。

 彼の奥さんが今日家にいるかどうかさえわからなかった。それでも、私は自分自身の衝動に従って導かれるようにこの場所まで辿り着いていた。話す内容も決めていない。ただ、伝えたかった。私の身に起きていることと、あの男のことについて。


 辺りはいつの間にか燃えるようなオレンジ色に染上げられていた。

 蝉の声は聞くだけで汗が吹き出しそうなジリジリとした音から、かなかなと鳴くひぐらしのものに変わっている。

 焼けた空の淵を彩る赤色は、堪え難い悲しみにも似た目映いばかりの劣情にも見える。

 老人の姿との距離感を測りかね、目を瞬く。

「あなたは仰いましたね。誰にも知られずに死ぬことは、始めから生まれていないことと同じだと」

 蝉の声が不意に止む。

「でも、それは違う。誰にも知られない死はあっても、誰にも知られない生は存在しないからです。私を産んだ、母のように。それと、これからあなたが母になるように」


 高校生の頃、学校からの帰り道で私は男に襲われた。

 夏に入る少し前の事だった。空気の中に梅雨時特有の湿った、生乾きの洗濯物のような匂いが混じっていたから、六月かそれくらいの頃のことだと思う。

部活の練習を終えて、帰る途中だった。部活帰りにファミレスに寄って友達と喋るのが楽しくなり、気がつけば八時をいくらか過ぎていた。普段なら家で夕飯を食べ終えてテレビでも見ている時間だ。母に電話をすると、近くまで迎えに行く、と言った。いいよ来なくて、と言ったが母は何があるかわからないから明るいところで待っていなさい、といつになく強い口調で言った。

一緒にいた友達は彼氏がバイクで迎えに来るから、とか自転車で来てるから、とさっさと帰って行き、私は一人になった。

 今思えば、そのままファミレスで待っていればよかったのに、そこで母の到着を待つことが、小さな子供が親の言いつけを守っているように感じて恥ずかしくなり、友達を見送ると、そのまま私は携帯電話の画面を見ながら家の方向へ向かって歩き出した。

 予兆は何も無かった。大通りから一本横道に入り、最初の街灯を通り過ぎたタイミングで私はいきなり後ろから羽交い締めにされた。口元を抑えられ、そのまま引きずられるようにすぐ近くにあった駐車場へ連れていかれた。耳元でごうごうと風が吹くような音がしていた。頭に血が昇る音だ、と思った。その音の向こう側で低く念仏を唱えるような声がしていた。鼻先に生臭く湿った空気が漂ってくる。不意に突き飛ばされ、私はアスファルトの地面に転がった。すかさず仰向けになった私の上に大きな犬がのしかかってきた。犬と思ったのは真っ黒な服を来た男だった。男は右手で私の胸のあたりをまさぐり、左手でスカートをたくし上げようとしていた。力はとても強く、恐怖や羞恥よりもまず痛い、という感情が勝った。頭は冴えていたが、感覚は鈍かった。身体全体が自分のものでは無くなってしまったようだ。私に見えるのはどこまでも暗い夜空だけで、時折視界の隅に男の顔がちらちらと見えた。男の念仏はまだ続いていた。音像がやがて耳を通じて脳内で形を結ぶ。男はずっと「俺の子供を産め」と繰り返していた。どれくらいの時間が経ったのかわからなかった。実際にはほんの数分であったのかもしれない。不意に体がふっと軽くなった。

 それまでずっと上を見続けていた視線を下に向けると、男が私の傍らでもぞもぞと蠢いていた。その隣に立っている足が見える。誰かが来てくれた。そのことを理解するだけの気力はまだ私に残されていた。立っているほうの人が男に向かって何かを投げつける。鈍い音がして男が小さく呻いた。私は全身に力が入らない、麻酔を受けたあとのような状態だったが、目の筋肉だけを最大限に動かして、その人影を見ようと目を見開いた。

 母だった。

 街灯を背にして立つ母は手にどこかで拾ったブロック塀を持ち、そのブロック塀を何度も、何度も男の頭や背中や脇腹に向けて振り下ろしていた。そうする度に母は聞こえるか聞こえないくらいの声で、死ね、と呟いていた。

もういい、もういいよ、死んじゃうよその人。

 私はそう言おうと思ったが、口は全く動く気配はなかった。

 何度目かの打撃で男の体が大きく仰け反り、小さな痙攣を何度かすると、そのまま静かになった。


 そのあとすぐに私は入院した。

 幸いと言えるのか、男が直接的な行為を行う前だったため、実質的な被害には至らなかった。それでも全身をまさぐられ、生臭い息遣いを感じながら体中を舐めまわされた感覚は消えない。最初に駐車場に連れ込まれた時に抵抗していた為か、全身に擦り傷や打撲の跡もあった。

 母にひどく叱られると思っていたが、その日のことについて、母は全く私に何も言わなかった。

 男に跨られた時、私は殺してくれ、と何度も思った。死んだ方がましだ、と思った。

 それでも病院へ連れて行くために私を何年ぶりかに抱きかかえた母の首筋の匂いを感じた時、私は確かに幸せだと感じた。私には、私を守ってくれる人間がいる。私は愛されている。強烈にそう思った。

 自分は生きている。生かされている。この人のもとに生まれ、生かされている。私は、この人の為に生きている。


 私は思う。

 あなたに会えて本当によかったのだと。過ごした時間は無駄ではなかったと。

だから、だから奥さんだけは大事にしてほしい。そう伝えたかった。

あなたとの間に愛情の結晶としての子供を望んでいる女を、私や、私以外の女と一緒にしないで欲しい。

 産まれてから今まで自分の言葉を伝えられずにやり過ごしてきた。伝えることが出来るのだとすれば今しかないと思った。

 母になるということは、誰かの親になるということだ。

 私に守るべき存在ができるということだ。

 親も、子供もその存在を選ぶことは出来ない。だとすれば私のもとへやってきてくれた存在を、私は守るべきだ。この子がたよることが出来るのは私しかない。そして、私が守ることが出来るのもまた、私しかいないのだ。


 気が付くと私の両手は自分の腹部を包み込むように重ねられていた。

 老人の姿は無く、辺りにはまた蝉の声だけが満ちていた。

 手の上に熱いものが落ちて汗を拭おうとすると、目元からも汗とは違うものが流れていることがわかる。

 私は自分の奥底から湧き上がった衝動に身を任せて咆吼した。嗚咽に混じって言葉にならない言葉が喉の奥から押し上げられてくる。

膝をつき両手を広げて四つん這いになっても私は泣き続けた。蝉に負けまいと、私自身も今こうして生きている意味を、存在を主張するためにも、私は泣くことをやめるわけにはいかなかった。

 涙が枯れて、やがて私の生きた証が乾き果てても、この世に生を受ける私の子供がまた泣き叫んでくれるだろう。

私は、一人ではない。

 蝉の鳴く声と、私の泣く声が陽炎に揺れた。

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燃え殻 いりやはるか @iriharu86

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