SAYONARA BABY BLUE

いりやはるか

SAYONARA BABY BLUE

 白く細い足が、短い半ズボンからすらりと伸びて、その足の先を瞬足が包み込む。


 あたしの力でさえ、ほんの少しの力を込めて握れば、折れてしまいそうな、生白い、小枝のようなその脚が右、左、右、左とたどたどしく振り出され、アスファルトを踏みしめる。


 あたしは手にした一眼で風景を撮影するふりをして、その白くすべらかな脚をファインダーにおさめる。一度、二度、シャッターを切る。

 ふと顔を上げると、二車線の道を挟んだ向こう側で、黄色い帽子の下で顔をくしゃくしゃにして笑顔を浮かべ、友人らしき男の子の頭を叩くタクミくんの姿が見えた。背負ったランドセルは、去年小学校の2年生になったばかりの彼にはまだまだ不恰好に大きい。

 あたしは腕時計で時間を確認すると、2限の刑法の講義に間に合うよう駅へと急いだ。タクミくんの姿をおさめたカメラをそっとバッグの奥にしまいこんで。


 授業が終わるとあたしはまっすぐ小学校へ向かう。

 校門からこどもたちが吐き出される時間になるまで、近所の公園で待つ。

 学生風情の女が公園で一人でうろうろしているのも目立つので、カメラを持つようになった。日本は若い女がカメラさえ持っていれば、そこにいることすら認識しないほど誰も気に留めない。あたしのような20代の女にとって、カメラを持つことは透明人間になることと同義だ。もしあたしが男で、小学校の近くの公園でカメラを持ってうろうろしていたら、おそらくその日のうちに不審人物扱いされ、三日も続けて目撃されれば通報されてもおかしくない。この国は、そういう国なのだ。

 あたしは適当に何の変哲もない公園の花だの木だのをカメラで撮って時間を潰す。


 チャイムの音が聞こえ、やがて遠くから子供達の嬌声が聞こえてきた。

 一人、また一人とひよこのように黄色い帽子を被った低学年のこどもたちが歩いてくる。ひとりひとりが何をしゃべっているかまでは聞き取れない。ピーピーとまるで本当にひよこがわめいているようだ。おしりにまだ、殻が付いている。

 やがて、タクミくんが仲の良い男子数名と一緒に出てきた。

 校門を出て、左に曲がる。そして、一つ目の交差点で四人中二人と別れ、まっすぐ進み、信号を二つ渡って、次の交差点でタクミくんは一人になる。

 そこから少し歩いた先にあるマンションが、タクミくんの家だ。


 ここまでは幾度となく来た。

 ここからマンションまでの数十メートル、あたしは何度もタクミくんに声をかけようとして、勇気が出ずにそのまま帰った。手を伸ばせば、タクミくんのその紅潮した頰に、柔らかそうな栗色の頭髪に、半ズボンから伸びる細く白い脚に、触れることが出来る距離まで近づきながら、あたしとタクミくんの距離はいつまでも縮まらない。

 今日こそは、声をかけよう。

 そう思って、距離を詰めた。脇の下がじっとりと湿っている。つーっと一筋、汗が垂れるのがわかった。無意識のうちに呼吸も止まっていたようだ。口の中はカラカラで、気道がくっつきそうになるのを無理やり出した唾液で湿らせる。


 あと、少しー


「タクミ!」


 うしろから少年の声がした。

 先ほどの交差点で別れたと思っていた友人の少年が走ってうしろから近づいてきた。心臓が跳ね上がるほど驚いたが、立ち止まったタクミくんの横をそのまま何食わぬ顔で通り過ぎる。

「俺、お前の消しゴム、間違えて持ってきちゃってた!」

と少年の声がする。「別に明日でもよかったのに」とタクミくんの、歳の割には舌ったらずな声。

 くそ、くそがき。邪魔しやがって。

 あたしはくそ、くそと言いながそのまま駅まで歩いた。握り締めた手のひらに指の爪が食い込み、しばらくそのあとが消えなかった。


 「7月1日 今日の王子 下校途中の王子 靴下半分だけ丸まってる!」

 「7月2日 今日の王子 白いTシャツ すそに何か付いてる!給食のカレー?」

 「7月3日 今日の王子 足元は安定の瞬足 運動会の練習のためかな」


 あたしは毎日更新しているTwitterに今日撮影した画像をアップすると、リプライをチェックした。

 

 「クソロリコン女 しね」

 「おまわりさん こっちです」

 「ショタ最高 もっとくれ」

 「特定班解析頼む」

 「一応学校名とかモザイク入れてるみたいだけど、知ってる人が見たらわかるんじゃない?これは完全アウト」

 「おちんちんは?おちんちんはないの?」


 そんな言葉が並ぶ。これが、自分のしていることの、世間の反応だ。

 

 顔も知らない他人に言われずとも、そんなことはわかっている。

 タクミくんの画像で埋まったハードディスクの残り残量を見ながら、あたしはこれからのことを考えている。


 レンタカーで借りた軽自動車を最寄りのパーキングに入れて、いつもの交差点で待った。タクミくんは友達と別れると、こちらへ向かって歩いてくる。今日は学校の工作で作ったらしい、ロボットのようなものを持っている。学校で遊んだのか、すでに壊れかかって顔が取れそうだ。

 あたしまであと数メートルというところで、何かに気がついた様子のタクミくんが手前の細い道に入っていった。あたしも急いでそのあとを追う。

 タクミくんは駐車場の入り口でしゃがみこんでじっと何かを見ている。

 通りには誰もいない。

 今しかない。

 そう思ったあたしは、声をかけた。

「…何してるの?」

 警戒心を抱かせないよう、優しい声を出したつもりだったが、緊張からか、私の声はひどく嗄れて低く、魔女のようだった。

 タクミくんはキッとこちらを向き、大きな目で私の顔を数秒見てから、

「ねこがいたの」

 と言った。とりあえず、彼のなかで危険人物として認識されたわけではないらしい。

 彼の視線の先を見ると、確かに自動車の下に入り込んでいく黒猫の後ろ足としっぽが見えた。

「…ねこちゃんなら、さっき別の駐車場にもいたよ」

「ほんと!?」

 タクミくんが立ち上がる。

「うん、おねえちゃんと見に行く?」

「行く!」

 あたしは歩き出す。その横にタクミくんが少し離れて歩いている。

「…手、つないでいこっか」

「うん」

 タクミくんが、思いの外しっかりとした力であたしの手を掴む。あたしはその手を握り返す。


 借りた軽自動車がある駐車場まで来ると、タクミくんが「ねこちゃんどこ?」と探し出した。

 「ねこちゃん、ちょっと遠くに行っちゃったみたいだから、探しにいこっか?おねえちゃん、車運転できるんだよ」

 というと、タクミくんは「ほんと?おねえちゃんすげえ!」と興奮した。

 ドアを開ける、助手席に乗り込んだタクミくんは、いつもそうしているのか慣れた手つきでシートベルトを締めた。

 もう、これで言い訳できない。

 いいんだな。

 どこかであたしに問いかける声がする。

 エンジンのスタートキーを押す。視線を前に向けた時、こちらを見つめる目に気がついた。自転車にまたがった、制服警官だった。

 柔和な笑顔を浮かべているが、目元だけ冷ややかにこちらの表情を伺っている。

「こんにちは」

 警官が自転車をひいて、こちらへ近づいてきた。

 心臓が身体を揺らすほど激しく打ち始める。頭の中はすでに真っ白になっていた。私は、私は何をしているのだろう。

「おかあさんですか?」

 警官の言葉は親しみを込めているが、「おかあさん」という単語を強調する話し方だった。タクミくんは不思議そうな顔で警官を見つめている。あたしは前を向いたまま口を開けない。

「おねえさんですか?」

 不意に、あたしの目から涙が溢れてきた。

 この子が好きだった。好きで、一緒にいたいと思っていた。

 側にいて、声を聞いて、同じ空気を据えればいいと思っていた。

 ただ、それだけだったのに。

 手を伸ばし、タクミくんの手を握った。タクミくんの手は温かく、汗ばんでいた。小さくて、やわらかかった。タクミくんは何も言わない。ただ、こちらをその大きな、少し茶色がかった瞳で見つめてくるだけだ。

 「おねえさんですか?」

 こちらへ静かに近づいてくる警官の声に硬さが混じる。

 響く革靴の音に、あたしはどこかで安堵を感じている。



 

 

 

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SAYONARA BABY BLUE いりやはるか @iriharu86

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