グッドバイ

いりやはるか

グッドバイ

 無職になって知ったのは、少なくとも心情的には仕事をしているときよりも豊かになる、ということだ。


 朝は7時に起きる。

 無職なりたての頃は無駄に昼過ぎまで寝たりもしてみたが、すぐに無意味さに気がついた。何より30を過ぎると、いつまでも横になっていられない。腰が痛み、何度も寝返りを打って時間が経つのを待っているうちに、起き上がって動いた方が身体が楽なことに気がついた。


 自炊はする。

 口に入れるものは買ってきたものばかりだと、結果的に自分が苦しくなる。外食でも惣菜でもインスタントでもなんでもそうだが、毎日毎日三食出来合いのものを身体の中に入れていると、どういうわけだが体力が足りなくなってくる。

 インスタント食品を続けていたころ、腹一杯食べているつもりなのに体重が減り始め、外を散歩しているだけで息切れがするようになり、電柱につかまって休んでいたところ、80過ぎくらいと思しき老婆に「大丈夫?」と声を掛けられた。悲しかった。それ以来、三食自炊。体重も戻った。


 朝起きてまずストレッチと軽い筋トレ。始めは体力を取り戻す目的だったが、今では習慣化している。それから朝飯を自分と、横溝さんの分つくる。

 俺は、横溝さんという、67歳のおっさんと同棲している。


 無職になり、家賃も払えなくなりそうな頃、出会ったのが横溝さんだった。

横溝さんは単発のバイトで、俺が東雲のクソでかい倉庫の中でPC関連パーツのピッキング作業を深夜やっていた頃出会った。横溝さんも同じバイトに派遣会社から回されてきた人で、こんなおっさん深夜帯に回すなんて酷な派遣会社だな、と思ったものだ。とはいえ横溝さんは見た目は少なくとも10歳は若く見えるし、髪も染めているのか黒々としていて、何より体格ががっしりとしているので、体力が必要な現場でも大丈夫だと思われたのだろう。

 

 休憩時間、横溝さんから俺に話しかけてきた。

「君、一度うちに来てみない?」

 身構えた。何かで聞いたことがあった。「バイト先で出会いを求める中高年ゲイ」が多い、ということを。初対面に話しかけるワードとしてはあまりにも数段階超越している。横溝さんは一瞬悲しそうな顔になったが、表情を硬くする俺に続けて言った。

「もちろん、そう思う気持ちはわかるよ。だけど…まあ、こんなことを言うと余計に気味悪がられると思うけど、僕はね、わかるんだよ。君と僕は同棲した方がお互いのためになる。それと、君もそう望むようになる、ってね」


 2週間後、俺は横溝さんの住むマンションに少ない家財道具を運び入れていた。使っていないと言われた部屋にいくつかの家具と本を入れると、引越しは完了した。

「初日くらいは、食事でもどうだい」

と言われ、近所で飲んだ。

 横溝さんの言う通りになった。横溝さんには、これから起こることが、わかった。あくまで、大体。


 「いつか、ここは君一人で住むことになると思うのだけど、それまでは共同生活になると思う。だけど、特に気にすることはない。僕はほとんどこの家に帰らないし、好きに使ってほしい」


 横溝さんはマンションに僕を誘った日、そんな風に説明した。

もちろんそんなうまい話に騙されるほど、俺も馬鹿ではない。何度も断ったが、横溝さんは熱心だった。その熱心さは、己のためというよりは、どこか誰かの為であるという切迫さを感じさせるものだったので、俺はその熱に押される形で話を受けることにした。早い話、家賃の都合で次の月には今のアパートを出なくてはいけなかったので、背に腹は変えられなかったのだが。


 マンションにはほとんど何もなかった。

清潔とか、潔癖とかというのとは違う。初めから何も置いていないのだろう。深夜の派遣バイトをしている人間とは思えないレベルのマンションで、部屋数は多く、それなのに各部屋に上等そうな照明が一台ずつ置かれていた。

 俺にあてがわれた「使っていない部屋」にだけ照明がなかった。


「横溝さん、バイトだけで食ってるわけじゃないですよね?」

俺は興味本位で尋ねたが、すぐに踏み込むべきではなかったと反省し、語尾が尻つぼみに小さくなった。

 大体の先が読める横溝さんは笑いながら

「別にやばい商売してるとか、変な趣味があるとかじゃないから安心して。本当に犯罪には加担してないし、君に迷惑をかけることはない。どちらかというと、君にとってはラッキーなんだと思う。私の親がちょっとした資産家でね。脛をこの歳になっても齧っているというだけさ」

と言った。俺はそれですべて納得することにした。それ以上の説明など、必要ない。


 横溝さんは俺が朝起きるといつもいない。

 居候させてもらうからには家事だけでもしようと願い出たところ断られたが俺は強引に横溝さんがいるときだけは家事をすることにした。

 食事をつくり、洗濯と掃除をするくらいだったが、横溝さんは朝はほぼいないし、夜も帰ってくるのは午前過ぎだ。帰りの遅い日は次の日の朝は起こすのが憚られ、外出して戻ってくるともういない。完全にすれ違い生活だった。

 もちろん縁もゆかりもないおっさんと会いたいわけではないので、それはむしろ俺にとっては好都合なはずだったが、どうにも落ち着かない毎日だった。

 掃除をしようにも部屋にものはないので汚れることもなく、横溝さんはいつ洗濯しているのか、そもそも着替えをしていないのかわからないが、洗濯物は絶対に出さなかった。


 ある時、夜遅くまで俺が起きていると、いつのまにか帰ってきていた横溝さんが部屋のフロアライトをつけて、その明かりをぼんやりと見ていた。


 「どうしたんですか?」


と聞くと


「そろそろだねえ」


と言って、寝室に入っていった。


 次の日、横溝さんはいなくなっていた。

各部屋に一台ずつあった照明もなくなっていた。

 出会った初日に聞いた携帯電話の番号は普通になり、マンションの管理会社に確認したところ、この物件は既に支払いが終えられており、所有は俺の名義になっているという。


 俺は今でも深夜の単発バイトを続けている。

ときどき横溝さんのようなおっさんを見かけることはあるが、皆一様に全てを諦めた表情をしており、背は曲がり、体格は貧弱だ。

 横溝さんにもう会うことはないのだろう、と思う。それでも、出会うことがあったらあの日の夜、何が「そろそろ」だと知ったのか、この先のことがわかる横溝さんに、やはり聞いてみたいと思うのだった。

 



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グッドバイ いりやはるか @iriharu86

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