エピローグ

 坂口優がやってきた。女性たちは大騒ぎだ。光も、千代も、絹子も繭子も、彼を取り囲む。デッキはちょっとしたパーティー会場で、人々でひしめいている。

 船の明かりとして眠っていた人々は、坂口優が船を出た瞬間に目覚めた。明るい表情を浮かべ、生まれ変わったかのような楽しげな笑顔で、言葉を交わし合い、陽気な人たちに至っては互いに踊る。部屋は以前のようにある。ドアが無数にあるのは相変わらずだ。

 松子が坂口優の元に近づく。優はにっこりと笑って三毛を差し出す。松子は満足げにそれを抱き締める。三毛は少し迷惑そうだ。

 バレリーナが皆の前でちょっとした余興を見せる。優が拍手すると、彼女は嬉しそうにくすくす笑う。

 水島はイギリス人と会話を楽しんでいる。彼は元々優しい穏やかな性格で、人から好かれるタイプのようだ。

「わたしたちの部屋に来ない? 新しい薔薇の砂糖漬けを作っているの」

 繭子が誘うと、優は光と千代を見る。あら、と絹子が心外そうに言う。

「わたしたちがその人たちを連れてくるなと言うとでも思った? そんな意地悪だと思われているなんて、考えてもみなかったわ」

 それから姉妹はくすくす笑う。それにつられて、優たちも笑う。

「あたしはね、この人たちは気取った嫌な人たちだと思ってたんだよ」

 千代は、目をおたまじゃくしのような形にして笑う。

「でも、そんなことはないね。本当はいい人たちだ」

「ねえ、坂口君」

 光が優に声をかける。優は不思議そうに彼女を見る。

「大きくなったね! 背比べしよう」

 嫌がる優を、光が無理矢理立たせ、背中合わせになる。

「優のほうが高いじゃないか」

 千代がけらけら笑う。優も、ほっとしたように笑った。光は、大笑いをする。今まで見せることのなかったような表情で。

 陸は暗く、まるで何もないかのように明かりがなかった。ちんけでつまらない陸。わたしたちはあそこからおさらばをしてきた。満足感は別にない。憂鬱を取り去ってしまえば、あそこで何があったかなんて、どうでもいいことだ。

 わたしはその足で図書室に向かった。廊下で出会うたびに、誰も彼も、わたしに「スミスさん、ありがとう」と笑いかける。わたしは手を振り、図書室のドアを開く。脳腫瘍は、隅の一人掛けソファーに座っていた。

 エメラルドグリーンの派手な新品のドレスを着、小綺麗になっていた。清潔に整えれば、彼女も立派なレディーだ。彼女がしていることは、砂糖を捨てる前から変わらないことだ。それは、読書。

「面白いかい?」

「まあね」

「何読んでるの?」

「うるさいね。……『悪童日記』だよ」

 わたしは彼女の後ろに回り込み、本の内容を盗み見た。簡易なフランス語を重ねて綴られた小説は、フランス語が初級レベルのわたしにも何とか読めそうだった。

「わたしも読もうかな」

「勝手にしな」

 わたしは図書室を見渡した。おびただしい数の本。これらの多くは砂糖を捨てる前の人々の人生が綴られている。それを提案したのは、脳腫瘍だ。わたしたちが彼らの人生を読める状態にしておけば、わたしたちはより理解し合い、溶け合い、共に暮らせるだろうと彼女は言った。わたしは一冊の本をぱらぱらとめくった。ジェイムズ・スミスの本。くだらなくて、つまらなくて、また元に戻した。

 人生とは捨てていくものだ、なんて格言ができてしまいそうに、わたしたちは幸福だった。わたしは不意に思いつき、脳腫瘍の頭にキスをした。彼女は忌々しそうにわたしを振り払い、また読書を開始した。

 全てが完璧だった。わたしたちは、屍の上の幸福を、舌で転がし、味わっていた。

                                  《了》

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砂糖細工の船 ―The Despiteful Ghosts― 酒田青 @camel826

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