16.一年後

 父さんと母さんが離婚した。父さんは母さんのことを愛しているのだと言った。母さんも父さんとおれのことをずっと想っていると言った。けれど離婚した。おれのせいだった。母さんは横浜の実家で静養している。おれが行くと、いつも泣きながら謝る。

 おれは相変わらず中学校に通っている。教室の隅で本を読み、妙な目で見られ、一人、孤立している。孤立は楽だった。小学校のころは友達が多かったおれは、人と関わるのが何よりも苦手になっていた。

 ヒロッチは今年度も別のクラスだ。よかった、と思う。ややこしいことにならずに済む。ヒロッチは相変わらず軽くいじめられていた。突然浣腸をされて慌てふためいているところを笑われたり、突然仲間に置いて行かれたりする。

 ヒロッチもおれも、背が伸びていた。それでも一六〇センチくらい。成長の早い同級生には、女子にも負けることがある。光よりは大きいな、と思う。そして、光を思う。

 彼女の義父は、最近新聞で騒がれていた。区役所職員が痴漢で懲戒免職。同じ小学校だった女子が、きゃあきゃあと騒いでいた。

 光って、こいつと一緒に暮らしてたんだよね。やばーい。だから家出したのかな? 何かされたのかも。

 光は家出したことになっていた。失踪したのだ。最近になって、夢の中での光の本の内容が理解できるようになった。おれは第二次性徴を迎えていた。声変わりもし、大人に近い声が出る。自分の見たくもない欲望を感じて、余計に彼女のことで辛くなる。

 夢だけれど、夢ではないのかもしれない。そう思うようになっていた。


     *


 今日の夕飯の当番はおれだ。早く帰らなければいけない。急ぎ足で商店街を抜ける。

「ユー君」

 マンションの前で、ヒロッチが待っていた。驚いた。慌てて周りを見回すが、誰もいないので安心して近づく。

「どうしたの?」

 自然と、わくわくしていた。ヒロッチと話すのは二年ぶりだ。彼は卑屈な上目遣いでおれを見て、

「いや、どうしてるかなって思って」

 と笑った。おれはにっこりと笑った。久しぶりに、こんな風に笑う。

「おれなんかと話していいの? いじめられない?」

「そんなこと! ちょっと話したかっただけだよ」

 ヒロッチは、そわそわしていた。

「最近変だよな。皆さ、何か憂鬱そうでさ」

 ヒロッチが言ったのは、世間話に向きそうにない、社会現象の話題だった。

「皆自殺したり、人を殺したり、ものを破壊したりしてさ、変だよな」

 ここ一年ほど、自殺率が上がり、殺人事件が急増していた。街は荒れ、シャッター街はスプレーでの落書きで汚れまくっている。おれはうなずいた。ただうなずくことしかできなかった。

「おれの姉ちゃんもさ、彼氏に振られて死んでやるって手首切ってさ、今病院だよ」

「そうなの?」

「うん。あとさ。……光ちゃんの義理のお父さんも、裁判前に自殺しちゃっただろ。あれ、結構ショックでさ」

 光の義父は、裁判が不利とわかるや、自殺した。服毒自殺とのことだった。それを新聞で読んだ瞬間、「やったね、山田さん!」と叫ぶ十三歳のおれの声がした。

「やっぱり、光ちゃん、あの義理の父親に、その、やられてたのかなあって……」

 見ると、ヒロッチは憂鬱そうに目を地面に向けていた。

「ヒロッチ、山田さんのこと好きだったよね」

 彼は、おれの言葉にびくっと肩を揺らした。

「そん……なことは、あるけどさあ」

 彼は首の後ろをぽりぽりと掻いた。

「山田さんはやられる前に逃げたよ、きっと」

 おれは笑った。嘘だと思ったけれど、ヒロッチと、光のためにそうした。ヒロッチは、表情が晴れていた。そうだよな、とうなずく。

 そのとき突然、ヒロッチの携帯電話がバイブレーションで鳴った。ヒロッチの顔が青ざめる。

「いいよ、出て」

 おれが促すと、ヒロッチは携帯電話を慌てて耳に当てた。必死な様子でうなずく。顔に脂汗すら流れている。何かまずいことになっているらしい。

「あの、さあ」

 携帯電話から顔を上げたヒロッチは、卑屈な表情を再び顔に浮かべていた。

「金、貸してくれないかな」

 おれは唇をぎゅっと噛んだ。ずっとそんな気がしていた。おれを避けていたヒロッチが急に寄って来るなんて、そういう理由がなければおかしい。けれど、考えないようにしていた。ヒロッチのことを、友達だと思いたかったのだ。

「駄目だよ」

「あ……え……」

「その金、悪い仲間に渡すように言われてるんだろ。そのために、おれの金を渡せると思う? 父さんが必死で稼いだ金をさ、そういう奴らに渡せると思う? 父さんは将来が悲観されるおれなんかのために、朝から晩まで働いて、おれがメンタルクリニックに行くのについてきて、薬やらカウンセリング代やら、普通の子供だったら必要のない出費に毎月金を出してくれてるんだよ。それなのに、渡せると思う?」

 おれは笑っていた。口の端はひくひくと痙攣し、目はまばたきもできず凍りついている。ヒロッチははあはあと肩で息をしていた。しまいには、ああっ! と叫んでしゃがみ込んだ。

「おれだって嫌だよ。こんなことしたくないよ。でも、村田たちがやれって言うんだからするしかないだろ!」

 それからヒロッチは大声を上げて泣いた。おれは彼に一瞥もくれず、マンションの中に入った。

 料理をする。母さんが得意なロールキャベツ。ロールキャベツは面倒だから、冷凍のをスープに入れて煮込む。父さんが帰って来る。父さんは何も言わないから、ヒロッチはもういないらしい。無言で食事を取る。

 翌日、ヒロッチは飛び降り自殺を遂げ、死んだ。


     *


 何もかも、おかしい。自殺率の上昇も、凶悪犯罪の増加も、家族間での殺人も、世界的な現象だった。グアテマラでは大量殺人が起こり、村が二つ消えたとまでニュースで報じられている。人口の増加が止まったとまで言われている。出生率はどの国も下がり、人々の将来への悲観がその原因だという。

 おれは淡々と中学三年の春を過ごしていた。この中学での同級生は三分の二、生き残っていた。三分の一は、自殺か事故か他殺で死んだ。親に殺された同級生は十二人にも及ぶ。

 桜が舞っている。校舎の割れた窓越しに見ても、それは儚く、美しい。窓はこの間卒業した上級生が割ったらしい。そのあとすぐに焼身自殺を遂げたとも聞く。遺体はなく、多分警察に速やかに運び出されたのだろう。

 おれは生きていた。死ぬ理由はなかった。憂鬱で、死にたいとは思う。でも、おれが死ぬ理由が思いつかなかった。死ぬべきは、おれ以外の人間では?

 どんどん死ね。どんどん、どんどん、最後の人間がいなくなるまで、死んでしまえ。

 おれは世界を呪い、嘲笑していた。

 最後の一人になったらおれも死んでやるよ。

 おれはくすくすと一人笑った。

 あの夢を思い出す。憂鬱を大量に含んだ赤ん坊を世界に溶かした夢。世界は本当に壊されていった。でも、まさかあれが現実だとは思っていなかった。だって、証拠がない。

 根拠もなく、あの夢を事実だとするには、おれは狂うことができていなかった。


     *


 一人でコンビニに入り、チョコレートと炭酸飲料を買う。中央アジア系の店員がおれに丁寧に笑顔を向け、たった二百五十円の代金を受け取る。彼は憂鬱ではないのだろうか。ふと振り向くと、彼は真顔で死んだ目を自分の指に向けていた。そのまま歩き出す。誰かにぶつかりそうになった。大柄な男は、「オー」と外国語訛りに感嘆し、おれは「すみません」と目を合わせないようにして速足で歩き出した。

「待って、待って」

 男はおれを追ってきた。おれは走り出した。

「坂口優君、待って」

 ぎょっとして、足を止めて歩みを止めた。振り向くと、三十代半ばほどの白人男性が立っていて、穏やかな笑みを浮かべておれをじっと見ていた。


     *


 おれとその外国人は、うちの近所のうらさびれた喫茶店の席にいた。向かい合って、男はにこにこと、おれは上目遣いに互いを見る。

「わたし、アメリカから来ました。ジェイムズ・スミスと言います」

 スミスは、日本語はうまいがあまり使い慣れていない感じだった。目の横のしわが、本当に嬉しい気持ちをうかがわせ、意味が分からなくておれは体をすくませた。

「坂口優君! 会えて嬉しい! わたし、あなたに会いたかった。ずっとあなたのことを考えていました」

「あの、おれに何の用でしょうか」

 おれに外国人の知り合いはいなかった。こんなに喜ばれる理由も全く思いつかない。スミスはけらけらと笑った。

「そうでしょうね! あなたはわたしのことを知らない。いいえ、知っていますが、あなたはわたしの顔を知らない。――船の外での生活は、どうでしたか?」

 びくっと体が揺れた。船? あれは夢で、ただのおれの願望の現れたものだ。

「何ですか? 船? 最近船に乗ったことなんて、なかったですけど」

 手が汗で湿る。スミスは笑った。

「嘘ばっかり! わたしは知っていますよ。あなたはわたしの『証拠』だから」

「証拠?」

「わたし、あなたを船がこの世界にある証拠として外に出しました。船は赤ん坊を海にリリースしました。赤ん坊、海に溶けました。一年くらいして、その結果が出ました。みんな、憂鬱になり、スーサイド――自殺、でしたか?――して、人を殺して、何もかもが嫌だと思うようになりました。でも、証拠がなくてはそれは証明されない! わたし、船の最後の住人を外に出しました。結果が出てから、最後の証拠として確認するために――」

 おれはいつの間にか立っていた。目の前のアメリカ人はおれを見上げてにこにこ笑っている。この男は、この若い男は、あの老人だ。

「怖い顔をしないで! 座って」

 男はおれの腕を引っ張った。おれはそれを振り払い、こう叫んだ。

「お前のせいで――」

「わたしのせい? こうなったのは、皆のせいです。わたしたち、虐げられました。なのに、人々はますますわたしたちをいじめました。無視して気づかないふりをした人もいます。わたしたちのような存在を知らず、ただただ幸せに暮らしていた人もいます。彼らのことを、わたしは許せない」

 スミスは表情を硬くした。

「わたし、っていうけど、あんたは救世主なんだろう? 苦しんでいる張本人だってこと?」

「そうです! わたし、大変苦労して日本まで来ました。わたし、殺人の容疑がかかっていましたから」

 ぎょっとする。でも、スミスは構わず続けた。

「わたし、日本人の妻いました。日本でも結婚式しました。羽織袴、着ました。アメリカでも挙げました。友人や家族を皆集めて。

 わたし、日本で働く気で日本語勉強していました。日本の漫画が好きだったので。そんな中、妻と出会いました。大学で一人ぼっちの妻に、わたし声を掛けました。それが出会いです。

 妻、わたしと結婚してアメリカで暮らすようになりました。わたしはアメリカで働くことにしました。それが一番きちんと生活できるやり方でしたので。妻、満足そうでした。

 妻は美人なんですよ。わたし、愛していました。妻はわたしのことをそこまで好きではないみたいでした。大人しいわたしは少し物足りないらしくて。

 妻は妊娠しました。わたし、嬉しいというよりも怪しく思いました。彼女は親しい男友達がいたので。

 わたし、妻を問い詰めました。妻、言いました。そうよ、デイヴの子よと。

 わたし。わたしはどうしたのかわからない。気づいたら妻は倒れていた。わたしが殴ったのらしい。

 デイヴは明るくてハンサムなわたしの友人。わたし、とても怒っていた。妻はわたしを恐れるようになった。デイヴは、わたしに忠告ばかりするようになった。

 ある日、妻はデイヴと一緒に死んでいた。銃で撃たれていたのです。わたし、驚いて通報した。でも、わたし疑われてしまった。

 仕事もうまくいかなくなり、わたし家でふさぎ込んで過ごした。その間、思いついたのが白い船です。

 砂糖の白い船に、わたしのような辛い人たちを呼び、一緒に慰め合って過ごそうと思った。そしたら、脳腫瘍を見つけた。脳腫瘍はわたしのことが嫌いで、悪口ばかり言った。だから別の人を呼んだ。次の人は塞いでばかりで会話ができなかった。だからわたし次の人を呼んだ。――こうしてわたしはたくさんの人を呼んで、船に住ませ、船を大きくしていった。わたし、決めた。わたしはこの人たちを救う。救世主になる。

 わたしたちの武器、赤ん坊を完成させるために、わたし、たくさんの砂糖を使うことにした。これなら人々の憂鬱を取り除けるし、一石二鳥ですねー。何人かにクラッシャーになってもらい、早く、思い切りよく憂鬱を回収できるようにしました。

 最後に、これらは本当に現実に起こることなのだろうかと思いました。白い船は本当に太平洋に浮かんでいるのか? ここで起こることは現実なのか? なのでわたしは、一人選んで一度現実世界に戻し、証拠になってもらうことにしました」

「それが、おれなの?」

 おれは、茫然と彼の言葉を咀嚼していた。いくら考えても現実のことだとは思えなかった。でも、船があった証拠は、おれの目の前にもいた。スミスは、船のことを話す現実の人間だった。

「そうです。あなたはわたしの証拠。わかりましたか?」

「おれのこと、どうするの?」

「それはあなたが決めること。あなたは現実世界で生きると言いました」

 スミスはにこにこと笑った。

「まさか本気だとは思っていませんけどね……。あのときは、わたしもあなたを外に出すために演技をしていただけですから」

 急に、胸がわくわくし出した。船に戻れる。あの、憂鬱を抱えないで済む状態に戻れる!

「姉妹は元気です」

 スミスは微笑んだ。おれはぽかんと彼を見た。

「松子も、水島も、千代も、そうそう、バレリーナも元気です。皆あなたを待っている」

「山田さんも?」

「そうですよ。いつもにこにこ笑って。彼女は本来あんなに明るい女の子だったんですねー」

 どきどきする。早く船に戻りたい。船に戻って、すっきりした気持ちでこの世界を見下ろしたい。破壊されていく世界を眺めるのは、どんなに気持ちがよく、清々しい気分になるものだろう。

「考えてください。わたし、あと一日日本にいます。あとは船に乗り、船の住人になります。現実世界には、――いいえ、ただの陸ですね――陸には戻らない気持ちです」

 気持ちが高揚していた。早く、早く、乗りたい。――でも、両親のことはどうする?

 不意に憂鬱が戻ってきた。両親を置いて、この世界と別れるのか? そんなこと、できるのか?

「わたし、本当は妻とデイヴ殺しました」

 スミスが不意に言った。

「証拠を残さなかったのです。そんな人間を信用できるなら、是非来てください」

 彼は笑い、立ち上がった。おれはぽかんと、呆けたように彼を見、彼が鈴の鳴るドアの向こうに行ってしまっても、見続けていた。


     *


 三毛がおれにすり寄る。「おれが船に乗ったら、お前とも本当にさよならかなあ」なんてつぶやく。三毛は構わずおれの人差し指を甘く噛む。不安と希望が行ったり来たりしていた。

 家では父がなかなか帰って来ず、おれは一人で食事をした。三毛も食事を終え、寝る準備を始める。

 電話が鳴った。

 どきりとして、立ち上がって駆け足で電話機のところに行った。固定電話のプラスチックの外装を撫でながら、受話器を耳に当てる。

 電話は、警察署からだった。両親が神奈川県の海岸で、見つかった。多分、心中だ。

 ああ、と声が出た。受話器を取り落とす。おれは、全部壊した。全部、台無しにしてしまった。この世界を壊したのもおれ、友人を、家族を、壊してしまったのもおれだ。

 おれはパーカーを着た。猫用のバッグに三毛を入れる。外に出て、駅に行き、電車に乗り、横浜を目指す。がたん、ごとん。電車が揺れる。世界が、存在を不確かにするかのように、揺れる。

 真っ暗な、いや、真っ黒な海岸に着き、することがあった。両親が見つかった場所を探すのでも、警察署に向かうのでもない。携帯電話を手に取り、電話をする。

「スミスさん?」

 電話の主は、嬉しそうに「オー」と言った。

「おれも乗る。今すぐ乗せてよ。今度は本物の三毛と一緒にさ」

 彼は、満足そうに笑っている。もちろん、三毛も一緒にいいという。人間でなければ大丈夫だそうだ。

「もう、おれ疲れちゃった。早く、ここから逃げたい。皆を呪うのも、憎むのも疲れた。おれは、一人ぼっちに向いてない。だって小学校のころは友達がたくさんいたんだもんな。山田さんや、千代さんと一緒に、そっちに、行けたら――」

 気づけば煌々とした光がおれを照らしていた。浜辺を照らしているのは、沖にある白い船だった。乗っている人たちが、皆で手を振っている。おれに向かって。

 おれは、足を踏み出した。海水がちゃぷ、とスニーカーを濡らした。全てがまばゆかった。音楽のような美しい調べが、耳の中で鳴っていた。それは笑い声だった。おれは、白い光の中にいた。

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