15.船の外
ぼくは転校した。隣の校区の中学校に。秋の空は血のように赤く感じられる。ぼくの憂鬱は、ひどくなるばかりだった。カウンセリングに通い、ちょっとした薬を服薬する。それだけで自分が他の子供たちとは違ってしまった気がした。母さんはぼくと一緒にメンタルクリニックに通う。母さんも薬を必要としていたからだ。ぼくは十一月の冷え切った空気をざらついた喉で吸いながら、家に帰る。引っ越しはしなくて済んだ。ぼくは引きこもりだったから、学校側に配慮してもらえたのだ。配慮だなんて、と笑えてくるが、ぼくは学校を訴えもしなかったし先生や中島たちに恨み言一つ言わなかったので、これは当然の結末だった。ぼくは単なる哀れな弱者だった。
「ただいま」
と、小さく言う。多分ドアの開く音のほうが大きかった。母さんはそれで気づいて、おかえり、と言った。もう震えてはいない。母さんは病院の先生に話を聞いてもらい、薬を飲み、どうにか元に戻りつつあった。
「学校はどう? 友達はできた?」
遠慮がちに訊く母さんから、ぼくは目を逸らす。
「転校したばかりだから。ヒロッチも違うクラスだし、そう簡単にはいかないよ」
ぼくの小学校時代の大親友、ヒロッチは、廊下ですれ違ったぼくを見て目を逸らした。多分、ぼくがいじめられていたことや引きこもりだったことは、噂としてとうに知れ渡っていた。期待なんてしていなかったけれど、ヒロッチの視線の動きと表情で、ああ、と一段低い場所に沈み込んだ気がした。
ヒロッチはあか抜けていた。ぼくと仲が良かったころはどっちかというと子供っぽくて、背も低かったけれど、今ではぼくより五センチ近く大きくて、髪型も眉も、流行りに乗っていた。とはいえぼくより大きいと言っても周囲の同級生男子に比べたら小さくて華奢で、ヒロッチが他の男子から軽い暴力を受けながら笑っている様子を見て、ぼくはより一層近づくまいと決意した。ぼくの保身のためじゃない。ヒロッチのためだ。ぼくのように特殊な人間と話したりしたら、ただでさえ危うげなヒロッチの立場が悪くなる。それだったら、ぼくは一人でいい。
そもそも、ぼくは誰かとつるんだりするのが、ひどく億劫だった。
*
「どうですか、学校は?」
優しい口調で、若い女性のカウンセラーがぼくに訊く。狭くて白くて清潔な部屋。小さなテーブルには病院の休日が書き込まれた卓上カレンダーが立っていて、隅に製薬会社の名前が書かれている。きっと製薬会社の営業マンが何かのついでに配ったのだろう。子供が喜びそうなかわいらしい水色の象の人形もあり、ここは色んな子供が来るのだな、と思うが、それがぼくを特殊でなくしてくれる保証にはならなかった。
「勉強は、元々苦手じゃなかったから、どうにかついて行けてます」
「よかった」
カウンセラーは、縁なし眼鏡の向こうから微笑みかける。
「学校では、どんな風に過ごしてる?」
友達はできたか、という意味だろうが、母さんのような直截的な言い方ではなかった。
「本を読んでます」
ぼくは話を逸らす。
「どんな?」
カウンセラーは話に乗ってくる。
「ウィリアム・バトラー・イェイツの詩集とか、読んでます」
「へえ、難しい本を読んでるんだね」
「難しくはないです。夢の中の人が教えてくれたんですけど、読みやすくて、心がすっとします」
「まだ、夢は見るかな?」
カウンセラーは首を傾げた。感情を露出しないように気をつけているのか、何を思っているのかが読めない。
「……見ません。もう、続きを見ることはないと思います」
「そう」
カウンセラーは微笑んだ。ぼくは、体がどこか別のところにあって、今たまたまここにいるだけのような気がしている。
*
三毛は元気だ。ぼくに甘え、すり寄って来たり、一緒に寝たり、猫じゃらしで激しく遊んだりする。ぼくがまざまざとあの夢のことを思い出すのは、このときだ。三毛はひっくり返ってピンクの猫じゃらしを噛んでいる。
はは、と乾いた笑い声が漏れる。
「世界は何も変わってないじゃないか」
何が復讐だよ、とぼくは嗤う。三毛はにゃあん、とぼくを呼ぶ。三毛を抱き、ぼくは歩き出す。自分の部屋へ。
部屋は、夢と同じだ。テレビ、ゲーム機、本棚、箪笥、散乱した漫画本。ただカーテンレールは父さんが直した。三毛を下ろして、自由にする。この部屋がお気に召さなかったらしく、三毛は猫用ドアから廊下に出て行った。
世界は何も変わっていなかった。誰も彼らの憂鬱を背負ってはいなかった。そもそも、あれはやはり、ただの夢だ。ぼくの願望が見せた夢。
世界が粉々に破壊され、蹂躙されることを、ぼくは夢見ていた。
*
父さんは人が変わったように笑わなくなった。母さんとも話さなくなった。ぼくがいると憐れむような視線を向け、母さんを見るとため息をつく。
「友達はできたか」
十二月のある日、父さんは朝食の席でぼくに訊いた。ぼくは目線を合わせず、答える。
「誰もぼくみたいなのとは友達になりたくないみたい」
「ぼくみたいなのって、どういうことだ」
父さんが味噌汁をテーブルに置き、静かに訊いた。
「ぼくみたいな、暗くて変な奴ってこと」
どん、とテーブルを叩く音がした。父さんの目が血走っていた。
「そういう風に、自分を形容するな。お前のことを、父さんと母さんがどんなに大事に思っているか」
「世間の人にとっては、ぼくなんて触りたくもないゴミだよ」
言い終わった瞬間、顔を叩かれた。椅子から落ちるくらいの勢いだ。母さんが悲鳴を上げた。父さんは立ち上がったまま、ぼくを見下ろした。泣いていた。あの、スポーツ万能で、明るくて、音楽が好きで、ギターを弾くのが好きだった父さんは、ぼくを見て、哀れみ、苦しみ、辛い思いをしていた。
「……ごめん」
ぼくはのろのろと立ち上がり、椅子を元に戻し、食べ終わったメニューから順番にシンクに運び、食べ切れなかったメニューは生ごみ用のプラバケツに流し込んでいった。
「母さんがどれだけ苦労して食事を作ったと思ってるんだ。捨てるな。食べろ」
父さんが荒い声で言う。でも。
「ぼく、食べすぎると吐いちゃうんだよ」
ぼくはプラバケツの中を覗き込んだ。残飯と出がらしのお茶と野菜くずが混然となり、まるでゲロだ。ぼくみたいだ、と思った。母さんはぼくを見て、涙を流している。
翌日、母さんは自殺未遂をした。大量の薬と一緒に強い酒を飲んだのだ。幸い最近の薬は飲みすぎても死ににくくできているらしく、薬を喉に詰まらせることもなく、母さんは生還した。
ただ、その日から家にはいなくなった。
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