14.砂糖細工の胎児

 どこに行くべきか、わからない。光は泣いている。彼女はぼくの手を掴んだまますがるように歩いていた。ぼくは茫然と廊下を歩き、さまよう。散々どこに行こう、と考えても思いつかない理由が、あるときわかった。

 ――ドアが一つもない。

 奇妙なことに、あれほどひしめくようにあったドアが、一つ残らずなくなっていた。ぼくは、ひ、と悲鳴を上げそうになり、隣の光のことを思い出してやめた。彼女が気づくまで、気づかないふりをしたほうがいい。

 住人は、皆砂糖になってしまったのだろうか。つまり船の灯りに。船は、今までにないほどに明るい。天井近くの灯りも、間隔が狭くなっている気がする。

 レッスン室に向かった。光が悲鳴を上げた。砂糖細工のバレリーナがしゃがんで泣いていた。いや、泣いているバレリーナが砂糖になったのだ。それは、ぼくが目にした途端、崩れた。まるでぼくが来るのを待っていたみたいだ。

 ぼくは踵を返した。逃げたかった。逃げて、なかったことにしたかった。そんなことは、不可能だとわかっているけれど。やけになって見つけた階段を上がり、五段ごとに踊り場を作ってジグザクに切り返すのを不快に思う。きっと老人のいたずらだ。何度も切り返す階段を登り切り、ぼくと光は図書室にいた。

 ぼくは知りたかった。船のことを。壊された人たちがどうなるのか。ぼくと光はどうなるのか。図書室には様々な本があった。ぼくの本だってあるし光の本もある。この先のことをその本に書いている可能性があった。そうではない本にも、何かを知る手掛かりがあってもおかしくない。脳腫瘍がいようがいまいが、ぼくの衝動は抑えがたいものだった。

 五階の廊下にも、ドアはなかった。きっとぼくの部屋のドアだけあるのだ。水島に壊されたけれど、船の力で再生して。ぼくは光を連れて図書室の白いドアを押した。

 図書室はこの間と変わりなかった。壁と棚にひしめく多くの本。チューリップ型の灯り。隅にある一人掛けのソファーを見た。誰もいない。図書室には人がいなかった。けれど、人の気配がひどく強く感じられた。それは、この図書館にある住人の本から発しているもののように思えた。人名からなる本が、おびただしいほど多くあった。英語の、ありふれた名前しか読めなかったが、そのようなタイトルと作者名が同じ本が、どこかしこにあるのだった。普通の本もあったが、ぼくには読めそうもない外国語の本ばかりだった。

「本がいっぱい」

 光が初めて声を発した。ぼくはびくっとして彼女を見た。手を繋いでいるのに、存在自体忘れていた。

「ここで何があるの?」

 彼女は泣き腫らした顔をぼくに真っ直ぐに向けた。ぼくは口ごもる。

「知りたくて」

「何を?」

「船のこと」

 途端に、光はくすっと笑った。ぼくは意味が分からず、眉をひそめた。

「本当に坂口君はおじいさんから教えてもらってないんだね」

「うん。……昨日夢で見たときも、ぼくが何度も口を挟んじゃって何も教えてくれなかった」

 光はあははと笑う。

「坂口君らしい」

「ねえ」

 ぼくは光に尋ねる。心の底から不思議に思ったからだ。

「何で笑ってられるの?」

 だって、皆壊れてしまったのだ。姉妹も、松子も、水島も、……千代も。千代は光にとって大事な存在だったと思う。親切だったし、光も自ら仲良くしようとしていた。なのに、光は今笑っている。清々しいとでも言うかのように。

「だって」

 光は笑い止まないまま、答える。

「こんなこと知ったら、坂口君、どうなるのかなって思ったらおかしくて」

 ぞっとした。ぼくは光から手を離した。彼女はぼくが手を放しても、不安そうにはしていない。その辺りの本を手当たり次第に開き、つまらなそうな顔をして戻す。

「何を隠してるの?」

「教えられないよ。おじいさんに秘密にしろって言われてるんだから」

「ぼくら、どうなるの?」

「だーかーらー、秘密。悪いことにはならないよ」

 光は口の端を上げている。心底わくわくするかのように。でも、光とぼくは船に対する感じ方が違う。光にとっての「悪いことにはならない」が、「悪いこと」になることは大いにありうる。

「泣いてたじゃないか。あんなに怖がってさ。あれ、嘘泣きだったの?」

 ぼくの言葉に、光は心外そうに唇を尖らせる。

「本当に怖かったに決まってるじゃない。知らない男の人に捕まったり、追いかけられたり、目の前で人が刺されたりしたらさ、誰だってそうだと思うよ」

 何を言っているんだろう。まるで壊されることが何でもないことであるかのようだ。光はぼくを見て微笑んだ。

「わたし、自分で壊そうと思ってるんだ」

「……何を?」

「わたしを。なら怖くないでしょ?」

 ぼくは後ずさりをした。光が何か別の生き物に見えた。彼女は背中までの長い髪を一束すくい、指でくるくる回した。

「どうやって壊そうかな。船から海に落ちると、思い通りにできないっておじいさんは言ってた。首吊りはどうかな。首吊りって苦しい?」

「何で、ぼくに訊くの?」

「だって首のあざ、すごいよ」

 ぼくは慌てて言われた場所に手をやった。でこぼこと、紐の跡がついている。

「坂口君は首吊り自殺かなって思ってた。違うの? まあいいや。首吊りはあんまりきれいには壊れなさそうだしね――」

 さっきまで泣いていた光が、自分を壊す算段をぼくの前でしている。奇妙な光景だった。光は微笑み、楽しみであるかのようにうなずいたり、考えてあごに手をやったりする。

「山田さんはさ、どうしてここに来たの?」

 光が、ふと真顔になった。次に眉をひそめ、さらに次にはまた笑っていた。

「わたしの場合はいつの間にか来てたの。きっかけは特になくて、辛いのが大きくなって、それで来られたみたい。来られてよかったと思う。陸ではきっと今でも辛かったから」

「何か、あったの? 小学校のときはあんなに明るかったのに、中学入ってから友達もあんまりいなくなって、ぼくなんかにも構ってくれてさ……」

「坂口君に普通にしてたのは、別に事情なんてないよ。あるとしたら、シンパシーかな。坂口君、昔から面白かったし、別に嫌いじゃなかったしね」

 シンパシー? 光がぼくに? ぼくは更に訊こうとしたが、光はうるさそうに手を振った。

「もうやめてよー。わたし、何にも話さずに壊れちゃうつもりなんだから。船の他の人みたいに、自分の過去を長々と語ったりしたくない。おじいさんが言ってた。皆語りたがってうんざりだよって」

 ぼくは何も言えなくなった。それでも、この場の奇妙な空気は息苦しささえ覚えるくらいで、不意に三毛が恋しくなった。三毛はどこにいるんだろう?

「図書室では静かに」

 不意に声がして、振り向くとあの一人掛けソファーに脳腫瘍がいた。光がびくっと体を揺らした。初めて見るらしい。

「子供っていうのは常識を知らないんだね。まあ、あたしもこの船に来るまではそんなルール、全然知らなかったけどね」

 脳腫瘍はこの間とは違って穏やかな声をしていた。つぎはぎだらけの不潔なドレス、白っぽい髪、緑色の瞳。彼女はすっきりしたかのような落ち着いた表情をぼくたちに向けていた。手元の本だけが気になった。ぼくの本。それに光の水玉模様の本を持っている。

「あたしたちが最後の住人だ」

 ぼくと光は目を合わせた。

「砂糖細工の胎児に会いに行こう」

 ぼくは身がすくむ思いがした。わけのわからない概念や比喩。それがぼくの砂糖細工の胎児に対するイメージだった。隣の光を見る。目を輝かせていた。

 図書室の床が四角く開いた。隣にあった本棚が、飛び出した本と共に暗い穴の中に落ちていった。

「行くよ」

 脳腫瘍は穴の周りに生えた木の柵を握り、いつの間にかできた階段を、コツコツと革靴を鳴らしながら歩いて行った。光が続いた。ぼくはためらいながら、それでも階段を降り始めた。知りたい。そう思っていたからだ。

 階段は、らせん形を描いていた。真っ暗な中、脳腫瘍が持つランプの光を頼りに降りていく。脳腫瘍は不意に言う。

「これは水島のランプだ。最後まで役に立つね、この男は」

 ぞくっとする。つまり、水島の魂の光でできたランプだ。逃げ出したくなる。でも、いつの間にか天井は塞がれている。

 ぼくのスパイクシューズと光のスニーカーはあまり音がしないけれど、脳腫瘍の靴はひどく響く。一定のリズムを暗闇でずっと聞いていると、気が狂いそうだ。ぼくらは階段を降り続けた。多分、一時間ほど。

「脳腫瘍、さん」

 不意に出した声は自分のものとは思えなくて、途端に怯えた。脳腫瘍は冷静に否定した。

「あたしはメアリー。脳腫瘍っていうのは老人がつけたあだ名だよ。いつも図書室にいる悪人だからだってさ。どっちが悪人だか! ――図書室を脳に例えて、あたしを悪い腫瘍だってことにしてるんだ」

「メアリーさんは、どっちなんですか? 老人の、仲間?」

「仲間なもんか! あたしもあんたと同じで呼ばれたのさ。そのころは、この船も小さくて、箱舟のようだったけどね。老人と二人きりでいたんだ。ときどきあいつは消えたけど」

「最初の住人ってこと?」

「そうだ」

「そんなに昔の人なの?」

 ぼくの質問に、メアリーは舌で唇を湿らせる音を出した。

「大昔だって思うだろう? ところが老人の考えではこの船に呼ぶのは英国の産業革命以後だっていうんだ。そのころと今とは人間の思考が地続きで、互いに理解し合えるとあいつは思ってる。理解し合えるのかねえ、本当に?」

 ぼくは答えずに質問を続けた。

「メアリーさんは、その時代の人なの?」

「そうだ。大体、一八九〇年ごろだろうか。それくらいに生きていた。ロンドンの、裏路地にある貧民街で暮らして、花や林檎を売って生計を立てて……」

「まだ、十代に見えるけど」

「十代でも働くんだよ! 七歳でクレソン売りをする子もいる。あたしの年頃だと自分を売ってる女もかなりいるんだ。結婚だってしてる。教会で誓いを立てた、本当の夫婦ではないけどね」

「結婚、してたの?」

「してないよ。あたしは女しか愛せなかった。だからアンナと暮らしてた」

 どきっとした。けれどメアリーは構わず続けた。

「アンナも花売りだった。自分をも売ってた。でも、あたしと暮らすことにして、自分を売るのをやめて花や果物だけを売る仕事に戻った。でも、アンナはいなくなった。貧乏暮らしに耐えかねて、あたしを置いて男と暮らし始めたんだ。これは痛かった。

 しばらくして、自分一人じゃ暮らせなくなってきた。あたしは街角で物乞いをして暮らすようになった。表通りの、賑やかな街の隅でね。あたしは馬車に乗ってステッキを振り回して歩く紳士が大嫌いだった。あいつらはあたしの操を軽く見ていた。男なんて……。とにかくあたしは絶対に自分を売らなかった。ただ、紳士たちの行いで、本を読むという行為がとてつもなく羨ましかった。たまに本屋を覗いた。中には入れなかったけれど。

 ある日、たまらず中に入った。変な匂いでいっぱいだったよ。インクの匂いだと、あとでわかった。あたしは店主が目を向けていないのを見て、白と深緑の色をした、きれいな一冊の小さな本を盗んだ。そっとショールに包んで、そっと店を出たけれど……。店主に見つかった。泥棒、と叫ばれた。逃げたよ、大慌てで。この辺りじゃ物乞いできなくなるな、なんて思いながら。泥棒、の声はまだ続く。頭に激痛が走った。あたしは転んだ。本が落ちた。あたしは紳士にステッキで滅多打ちにされていた。読めないくせに、この乞食は……そう言っていた。

 あたしは字が読めなかった。だけど、本が読みたかった。でも、あたしには本を読むことすら許されないんだよ。そんな人生だった。もう、終わりにしていい。死にかけて――船にいた。

 やあ、と老人は言った。そのときは老人の姿じゃなく、本当の姿だったけれど。あたしは全ての言語を理解する力を与えられ、本を読み、そのあとでできた図書室に入り浸るようになった。図書室にはあの本も置いてあるよ。イェイツの詩集だった。とても素晴らしかった。さあ。着いたよ」

 老人の本当の姿? 訊こうとして、次の瞬間には忘れていた。下から光が差す。段々まぶしいほどになり、真っ白になり、そこから出ると――老人がいた。船の形に広がる真っ白な床に、ぽつりと立って、笑ってこちらを見ている。

「やあ、こういう形で会うのは初めてだね」

 ぼくは警戒しながら後ろを見る。らせん階段はない。光はきょろきょろと辺りを見回す。メアリーはぼくと光の本を抱えたまま、黙っている。

「砂糖細工の胎児は?」

 メアリーが訊く。老人はくつくつと笑っている。

「三人もいるんじゃね」

「誰か壊れてほしいのかい?」

「そうだ」

「じゃあ、あたしが壊れよう」

 そう言った瞬間、メアリーは手に拳銃を持っていた。こめかみに当て、ぼくと光が恐怖した瞬間、引き金は引かれ、パン、と乾いた音が鳴り、メアリーは自ら壊れた。白く、崩れていく。ぼくと光の本は、そのまま床に落ちる。老人は、にこにこと満足げに笑う。

 ぼくは、怖かった。老人が何をしたいのか、何をするのかわからないし、どうして皆自ら壊れていくのかわからない。明らかに、それぞれの住人にわざと偏った情報を伝えていた。千代はこういうことを知っていたかもしれない。あの様子から、そう思う。でも、姉妹は? 松子は? 彼女たちは知らずに壊されていたように思う。

「どうしてぼくらは壊れなくちゃいけないの?」

「ああ……。それは君にはあとで伝えたい」

「今教えてよ。そうじゃなきゃ、ぼくは何もしない」

 老人はひげの中で笑った。にゃあん、と猫の声がした。ぼくははっとして辺りを見回す。にゃあん。見ると、老人の白いローブの中から三毛が出て来た。ゆっくり、ゆっくりと、三毛はぼくに近づいてくる。親しげに、嬉しそうに。ぼくは心から救われた気になって、三毛を抱き上げた。三毛がいないと、ぼくは不完全であるような気がする。

「どこ行ってたんだ!」

 三毛はぼくの腕の中でごろごろ鳴く。光があとずさりした。

「三毛は、坂口君の何なの?」

「決まってるだろ。三毛はぼくの一部で――」

 笑い声がした。老人が、腹を抱えて笑っているのだった。

「君はわかってるのかわかってないのか、はっきりしないことを言うよね」

「何を……」

「さあ、最後の一人になってもらわないと、砂糖細工の胎児は見せられない」

 老人の声は、突然鋭く冷たいものとなった。ぼくと光は目を見合わせる。ここで、壊し合えということだろうか。光を壊す? そんなこと、できない。光も、ぼくを壊す気にはなっていないようだ。青ざめてぼくと老人をそれぞれ見る。

「さ、砂糖細工の胎児なんて、見なくていいじゃん」

 ぼくが言うと、光は悲しげな顔をした。

「見ないと、わたしはずっと憂鬱だよ」

「これは夢なんだ」と、ぼくは久々に自分の考えていたことを思い出した。「夢だから目覚めればいい」

「何言ってるの?」

「だから、目覚めるんだよ。現実の、日本の家で、家族に会って、今まで通り……」

「変なこと言わないで。家に戻るなんてこと、言わないで!」

 光はヒステリックに叫んだ。顔をしかめ、耳を塞いで、半分泣きながら。

「どうしたんだよ、山田さん。何かあったんだろうけど、ぼくら起きなきゃ……」

「やだ! もういや。そんなこと言うのやめてよ!」

「山田さん……」

「家に帰ったら……わたし……」

「ぼくら、現実に生きなきゃ駄目なんだよ。これはあくまで夢で、ぼくらはどんなに辛くても生きていかなきゃいけないんだ。現実を見なきゃ。ぼくら現実でちゃんと生きなきゃ」

「いや!」

 光が白くなり始めた。ぼくは目を見開き、目の前で起こっていることが信じられなかった。光は砂糖になりつつあった。肩や頭のてっぺんから砂糖がさらさらと落ち、涙を流す目以外はほとんど白い。

「千代さんも言ってた。辛いことや悲しいことのない魂は偽物だって。でも。わたし。偽物でもいい。辛いことや悲しいことを全部捨てて、幸せになりたい」

「山田さん、ごめん。ぼく、前言撤回する。壊れないでくれよ」

 ぼくは懇願する。一体、どうしてこうなったんだろう。ぼくはいじめられ、首を吊って、船をうろつき、人を大勢壊して……。一体何が起こっているんだろう?

 光はそこだけ砂糖になっていない黒い瞳から、涙を流す。

「ミシ、ミシ、って聞こえて、ドアが、開いて……無言で……わたし、死にたくて……誰も、気づかない……助けてくれない……助けてって言えない……わたし……わたし……あの世界ではもう生きたくない」

 とうとう、光は人の形ではなくなった。ぼくは手を伸ばし、光に触れようとする。砂糖の塊は、ぼくを避けるかのように次々と崩れて、小さくなり、床に吸い込まれてしまった。

 無言で、三毛を抱き直す。三毛はにゃあ、と鳴く。

「何でだよ!」

 ぼくは叫ぶ。

「何でだよ。普通の、当たり前のことを言っただけなのに……。正しいことを……」

「正しさは人それぞれだ。正しさに正解はないんだよ」

 老人が言った。ぼくは、三毛をますますきつく抱いた。

「本を読んだら? せっかく脳腫瘍が持ってきたんだから」

 ぼくはそろそろとメアリーのいた場所に行き、水玉の本を手に取った。砂糖は一粒もついていない。ぱっと開いて、真ん中辺りのページを見る。

「今日も思い出してしまった。ミシ、ミシ、という音。ミシ、ミシ。階段を上がってくる。ママは寝ている。パパは起きている。ドアが開く。常夜灯の明かりで、誰が来たのかを知る。息を吸って、吐けなくなる。ドアはゆっくりと閉じる。わたしは、ベッドにいる。上に重いものが乗って、痛くて、死にそうに痛くて、呼吸なんかできなくて……。

 朝、わたしは何事もない顔で学校に行く。友達と話す。わたしの新しいパパがかっこいいと、友達は言う。わたしはおどけて笑う。

 家に帰ると、ママが怒っている。生理になったんなら早く言いなさい。染みになるでしょうって。あのとき痛かったから、血が出たのだ。わたしはごめーんとおどけたように謝る。おどけてばっかりだ。ママはいらいらしたようにため息をつく。

 次の日も、また次の日も来る。わたしは先生に言おうかと迷う。ママには言えなかった。ママがわたしを汚らわしいと思うかと想像すると、怖かった。国語の中田先生に向かって唇を開く。先生は女性だし、優しいし、わかってくれるはずだ。でも言葉が出てこない。保険の先生の前でもそうだ。言葉は凍りついて出てこない。」

 ぼくはあまり意味がわかっていない。でも、大変なことが光の身の上に起きたのだということはわかった。光の毎日が憂鬱に包まれ、色彩を失い、現実味を失っていった過程が描かれたその本は、最後にぼくを突き刺した。

「坂口君ならわかってくれると思ってたのに。『ぼくら現実でちゃんと生きなきゃ』だなんて、そんなこと、どうして言えるの? 坂口君だって、中島君や秋山さんにひどい目に遭わされて、自殺までしたのに。わたし、生きたくなんかない。あんな家で、気持ち悪いことをわたしにする人と暮らして、イケメンのパパができてよかったね、なんて言われて笑っていたくない。死んだほうが、いい。でも、この船で笑って暮らせるんなら、そっちのほうがずっといい。ああ、だけど、わたし、壊れてもいいと思ってた。でも、すごく痛い。辛い。壊れるのは、痛い!」

 ぼくは本を取り落として黙っていた。老人がそれをじっと見ている。

「ぼくは、何でこんなに、壊して……」

「そりゃあ君は不安や恐怖や悲しみを、外づけにしているからね」

「外づけ?」

 ぼくはぼんやりと老人を見る。老人は口を片方だけ上げて得意げに言う。

「君は健康そのものだよ、坂口優。君は不安や恐怖や悲しみ、ありとあらゆる負の感情を、ここに来たときから外してるんだ。パーソナリティーを壊さない程度にね。だから不安でナイーブになっている船の住人たちにとって、君そのものが凶器になったのさ」

「ぼくの負の感情は、どこに……」

「今持ってる」

 ぼくはぼんやりとしたまま、老人の指さすものを見た。ぼくはそれを抱いていた。それはぼくと目を合わせて、にゃあん、と鳴いた。

「ないと不安になるのはわかるよ。君の一部だからね」

 老人はくつくつと笑った。ぼくは、ひっと声を上げてそれを取り落とした。それは、床に着地すると恨めしげにぼくを見上げてにゃあ、と鳴いた。

「本物の三毛は、君の家にいる。どうだ? よくできているだろう?」

 三毛は、ぼくの一部。確かにそうだったのだ。三毛は、ぼくの負の感情を集めたもの……。ぼくは、確かに健康だった。明るく、すっきりとした気分だった。

 老人は、話題を切り替えるかのように「さて」と言った。

「砂糖細工の胎児を見せようか」

 さっと床が透明になった。ぼくは驚いて尻餅をついた。船の底が全体に見える。今まで行ったことのない、見たこともない船の底。水で満たされたそこは、何もなかった。白い巨大な塊を除いて。

「これが、わたしたちの砂糖細工の胎児。船の住人の負の感情――悲しみ、怒り、恐怖、恨み、憂鬱等々――を集めて育てたわたしたちの大事な赤ちゃんだ」

 塊は、確かに大きく育った胎児の形をしていた。目も手も足も、どこもかしこも白い。時々、動く。へその緒は、船の側面に繋がっている。

「これを、どうするの……?」

 ぼくが訊くと、老人は何でもないような顔で言う。

「海に放つのさ」

「そんなことをしたら……」

「ん? 何か問題があるのかい? ただ海にこの胎児が溶けるだけさ」

「溶けたりしたら!」

「全世界がどうにかなるだろうねえ。わたしたち皆の負の感情を、海、川、食べ物、飲み物、雨、雪、霧、ありとあらゆる水分から吸ってね。わたしは全世界の人間にわたしたちの代わりにその憂鬱を引き受けてもらおうと思ってるんだよ。彼らはそれだけのことをしたんだ」

「そんなの」

「君は憂鬱を外に持っているからいけない。だからわたしたちの気持ちや考えが理解できないんだ」

「不健康だよ。ぼくらはちゃんと生きていかなきゃ。辛くても悲しくても、いじめられても……」

「そうか」

 老人は黙っていた。ぼくが不気味に思うくらいに。やがて口元を笑う形にして、ぼくに言った。

「君はそれでいいのか?」

「それで、って……? ぼくは現実でちゃんと生きて、大人になって、あんなことがあったなあって気持ちになるものだと思ってるんだ。自分の負の感情を他人に押しつけるなんて……」

「ああそうかい!」

 老人の声が響いた。彼は怒っていた。

「君は聖人君子の上に強い意志と精神の持ち主だと見える。わたしたちとは相入れないな!」

 ぼくは黙って彼を見つめている。

「君には陸に戻ってもらおう」

「それでいいよ。ぼくは陸で、普通に生きていくから」

「自信満々だな! じゃあそうすればいい」

 気がつけば、ぼくの体が浮いていた。ふわりふわりと、老人の前で浮遊する。三毛の形をしたものと共に。

「三毛を返そう」

 それはぼくに近づき、飛びつくようにやってきて、――ぼくと溶け合って消えた。途端に、ぼくの体はぐったりと疲れたような、重苦しい存在となる。

「現実に戻って、『普通に』生きればいいよ」

 老人は笑い、ぼくに近づいて、とん、と押した。するとぼくはすごい勢いで進んだ。空中を飛び、壁を抜けて――そこは海だ――溺れることもなく、突き進む。濁った海。冷たい、とか目が海水に染みる、とか、そういうことを一切思わない。

 船が遠ざかる。と言っても船底しか見えない。見ていると、船底は割れ、するっと巨大な胎児が出て来た。泳ぐように船から離れ、ぼくを見て、白い目で笑った。笑い声さえ聞こえた気がした。胎児は――もう胎児ではなく新生児だろうか――次第に透明になり、溶けていった。


     *


「目を覚ました!」

 誰かが叫んだ。バタバタと、走っていく。

「先生、先生。優が目を覚ましました!」

 ぼくは目の前の天井を見ていた。初めて見る、白い天井。砂糖細工の船に、戻ったのだろうか? バタバタと、足音が増してぼくのほうに近づいてくる。

「ああよかった! やっぱり目を覚ましてる!」

 それは母さんだった。母さんの、取り乱して青ざめた顔だった。ぼくを見て、心底嬉しそうな、悲しそうな顔をしていた。医者がぼくに近づき、脈を取る。指の数を数えさせ、うん、とうなずく。

「息子さんはもう大丈夫でしょう」

 ここは病院の個室だった。ぼくは自分の部屋で首を吊り、母さんに発見され、ここに運ばれてきたのだ。一週間ほど、意識を失っていたらしい。母さんは泣きながら父さんに電話をしている。

 ぼくはぼんやりしながら、母さんをこんなに泣かせるようなぼくは、やっぱり死んだほうがいいのではないか、と思っていた。

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