私の嫌いな人

無月兄

第1話

「千夏は誰か好きな人っているの?」

 隣にいる茜が聞いてきた。高校の教室で、それはよくある定番の質問だった。だけど、私、河野千夏こうのちなつの答えはいつも同じだ。


「いない」


 我ながら素っ気なくて何の面白みも無い答えだとは思う。案の定、その場にいた数人がノリが悪いとブーイングしてくる。


「嫌いなやつならいるけど」


 そんな言葉が洩れたけど、声が小さくて皆には聞こえていない。聞かせようと思って言ったわけでもないのでそれで良い。話は続いたけど、私は聞き流しながら教室の風景に目をやる。そこでアイツの姿を見つけた。


 クラスメイトの雪村直哉ゆきむらなおや。さっき口にしかけた、私が嫌いな相手だった。


 視界に入って来るのが嫌いだった。笑っている姿が嫌いだった。そして、何度も忘れようとした記憶を、顔を見る度に思い起こさせてくる。そんなアイツが、私は大嫌いだった。






       ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆







 それはまだ私が小学生のころ、私が『加島千夏かしまちなつ』だったころの話だ。

 その日私は近所の公園で遊んでいる途中、転んで膝を擦りむいてしまった。


「チナ、大丈夫?」

 私をチナと呼び心配そうに見つめていたのは、一緒に遊びに来ていたナオ君だった。


 ナオ君と初めて会ったのはいつだっただろう。家が近所で同い年ということもあって、私達が物心付いたころには、家族ぐるみで付き合うようになっていた。そして私にとっても、ナオ君はとても大好きな男の子だった。


「家に戻って手当てしようよ」


 ナオ君がそう言って私の手を引っ張った。さっきまで膝が痛くてたまらなかったのに、それだけで痛みが消えていくような気がした。


 公園の近くにあるナオ君の家に着くと、庭へと向かい、リビングに続くサッシを開く。

 ナオ君のお母さんは私達が帰ってきたことに気づいていないのか、家の中は静かだ。

 ナオ君は薬箱を探すけど、どこにあるのか分からないのか、なかなか見つけられない。姿の見えないお母さんを探そうと二階へ続く階段を上がっていき、私もそれに続いた。


 ドアの先に、ナオ君のお母さんはいた。


「直哉、千夏ちゃんと一緒に公園で遊んでくるんじゃなかったの?」


 ナオ君のお母さんは私達を見て驚いたようだったけど、私は別の事が気になった。


「お父さん?」


 そこにいたのは私のお父さんだった。お仕事に行っているはずのお父さんが、どうしてナオ君の家にいるのだろう。それに――


「何でナオ君のお母さんとキスしてたの?」



 その一言が全てを壊した。私の父とナオ君のお母さんの不倫は、その日のうちに互いの家族が知ることとなった。父は離婚だけは避けようとしていたらしいけど、母はそれを許さなかった。泣きながら分かれてくれと迫っていたのを覚えている。結局両親は離婚し、私は母に引き取られることになった。


 それに伴い私の名字も『河野』へと変わり、それまで住んでいた家も離れた。もちろん、仲の良かったナオ君ともお別れ。もう二度と会うことも無いはずだった。


 なのに高校に入学したその日、彼、ナオ君こと雪村直哉は私の前に姿を現した。あれから何年も立っていて顔つきも変わっているというのに、顔を見ただけですぐに彼だとわかった。

 相手もすぐ私と気づいて、互いに無言のまま見つめ合う。その時私は何を思っただろう。


 かつて『加島千夏』は『ナオ君』のことが大好きだった。けど今の私は『河野千夏』。彼もまた幼馴染の『ナオ君』でなく、私の家族を壊した奴の子供、『雪村直哉』だ。

 なら私が彼に抱く感情は一つ。私は憎しみのこもった眼で、じっと彼を見据えた。






       ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆







「千夏、千夏ってば!」

 名前を呼ばれ我に帰る。昔のことを思い出していたせいで、話しが入ってこなかった。


「ごめん。ボーっとしてた。何だっけ?」

 何を考えていたかなんてとても言えない。平静を装いながら話しに戻る。


「やっぱり聞いてなかった。今日の放課後、操が告白するって話」

 いつの間にかそんな話題になっていたんだ。他の皆が口々に操を応援し、背中を押す。


「相手って誰だっけ?」

 操に聞こえないよう、そっと茜に尋ねる。


「それも聞いてなかったの。薄情だな」

 流石にこれは申し訳ないと思う。茜は苦笑しながらも、私に耳打ちした。


「うちのクラスの雪村君だよ」

 その名前を聞いて、私は血の気が引いていくのを感じた。雪村と言うとこのクラスには一人しかいない。当然アイツのことだろう。


 雪村直哉。心の中で再びその名を呟いた。





 私が帰ると家には誰もいない。母は近くの工場で働いているけど、帰るのはいつも夜遅くだ。女手一つで私を育てるにはそうしないと金銭的に厳しいのだろう。

 父から養育費は振り込まれているはずだけど、母はそれには一切手をつける気はないようだ。いかにも潔癖な母らしい。


 母が帰ってきたのは夜の十時をまわった頃。相当くたびれていたようで、リビングに着いたとたん着替えもせずに座り込んだ。


「お母さん、こんな所で寝たら風邪ひくよ」

「そうね。でも十分だけ寝かせて」


 母はそう言ってスヤスヤと寝息をたて始めた。私は溜息をつき、毛布を持ってきて掛ける。母の仕事は体力を使うようで、この調子では今に体を壊さないか心配になる。


 母が起きる前に簡単な夜食を作る。母の仕事が忙しい分、家事は私がやることにしている。母は無理にやらなくても良いと言ってくれるけど、私はそれを苦に思った事はない。それよりも助けになれる事が嬉しかった。

 母は毎日忙しくて、私とは一日中ほとんど顔を合わせない事もある。だけどそれは全て私に苦労をかけまいと思ってやっていることだ。私はそんな母が大好きだった。


 それだけに、母をあんなにも泣かせた父の事は許せない。もちろん浮気相手の女もその家族もだ。聞いた話では雪村家はうちとは違い離婚には至らず、今も家族三人で暮らしているらしい。人の家庭を壊しておいていい気なものだ。そう思うとまた怒りが湧いてくる。


 クラスに雪村直哉がいるという事は母には伝えていない。言っても母が辛い顔をするだけだとわかっているので、これからも伝えるつもりはない。クラス名簿を見て知っているかもしれないけど、何か言われた事はない。


 目を覚ました母は食事をすませ、使い終わった食器を流しへと運ぶ。


「あとは私がやっておくから、お母さんはもう寝て良いよ。疲れてるでしょ」

「でも、あなたの方こそ平気なの?最近あまり寝てないじゃない」


 たしかに、つい先日までテストがあって遅くまで勉強していたから最近は寝不足気味だ。


「私もこれが終わったら寝るから」


 そう言って洗い物を始める。母は私もやろうかと言ってきたけど、大した量じゃないのでそのまま寝室に行かせた。

 洗いものを終え、私も自分の部屋に戻る。電気を消し布団に入ったけど、体は疲れているのに一向に眠くならない。代わりに今日学校での出来事が思い出されてきた。昼休みに聞いた、操が雪村直哉に告白するという話だ。


 操は放課後に告白すると言っていた。私には関係の無い話なのに、もしそれでアイツが付き合う事になるかと思うと、なぜか胸の奥がたまらなく苦しくなった。


 







 眠い目を擦りながら教室に入る。席に着くと、隣に座っていた茜が声をかけてきた。


「おはよう千夏。眠そうだけど大丈夫?」


 昨日は殆ど寝ることができず、今はかなり眠い。大丈夫と言ったけど、崩れるように机の上にうつぶせた。少し頭が痛い。続くようなら保健室に行った方が良いかもしれない。


「千夏、ちょっと良い?」

 茜がなおも話しかけてきたので、首だけを向けて聞くことにする。


「操、昨日雪村君に告白したけど、断られたんだって。雪村君、好きな人がいるって」

「そう……なんだ」


 一気に眠気が飛んだ気がした。それでも興味の無いふりをしながら少しだけ上体を起こし、茜の話に耳を傾ける。


「雪村君の好きな人って誰だか知ってる?」


 知るわけが無い。高校に入ってから一度だって言葉を交わして無いというのに。


「どうして私にそんなこと聞くのよ?」

 苛立ちながら言う。茜は少し迷うそぶりを見せた後、改めて口を開いた。


「千夏って雪村君のことよく見てるでしょ?」


 茜はじっと私を見た。茜の言う通り、確かに私はアイツの事をよく見ていたから、誰かがそれに気づいたとしても不思議は無い。だけど、それを指摘された瞬間、体が炎をまとったみたいに熱くなっていくのがわかった。


「もしかして雪村君の好きな人って――」

「違う!」


 続くはずの茜の科白は、私の声にかき消された。いつの間にか自分が立ち上がっていたことに気づく。そんな私の様子に茜は言葉を無くしていた。


「ごめん。気分悪いから、保健室行ってくる」


 茜の返事も聞かず、教室を後にする。周りの音が一切聞こえてこない代わりに心臓の音だけが激しく響いている。


 茜はあの後何を言おうとしたのかは想像に難くない。だけどそれは全くの見当違いだ。アイツは私にとって憎むべき相手だし、アイツにとっても私は家庭を壊した奴の身内だ。きっと私のことを憎んでいるはずだ。

 グラリと視界が歪んだ気がした。さっきから続いている頭痛もますます酷くなっている。寝不足か、それとも興奮したためか、いずれにせよ本当に保健室に行った方が良さそうだ。


 だけど今日の私はよほど運がないのだろう。そう思ったのは階段を降りようとした時だった。目の前にアイツの、雪村直哉の姿があった。何人かと一緒に階段を上り、私との距離が縮まる。こんな時に鉢合わせしなくても良いのに。そう思いながらも視線は勝手に彼の方に向く。そして彼もまた私を見ていた。

 目が合ったのはほんの一瞬。互いに言葉を交わすことも無い。その代わり、心臓の音だけがさらに激しさを増した。


 とうとう耐えきれなくなって、避けようと横に移動する。その時、再び私を強い頭痛が襲った。その拍子に足が滑り、気がついたときには世界が揺れていた。遅れて、自分が階段を踏み外したという事に気づく。

 踏み留まろうとしたけど力が入らない。ちゃんと寝ておけば良かったなどと間の抜けた考えが頭をよぎり、気付くと目を閉じていた。

 ところが、いつまでたっても衝撃が伝わってこない。代わりに私を呼ぶ声が聞こえた。


「――――チナ!————チナ!」


 随分と懐かしい呼び名だった。最後にチナと呼ばれたのはずっと前。彼だけが私をそう呼んでいた。


「ナオ君」


 目を開くと思った通りの顔があった。彼が私の事をチナと呼ぶものだから、私もつい昔と同じように呼んでいた。ナオ君は倒れそうになる私を、手を伸ばして支えてくれていた。






 保健室に運ばれた私はベッドの上で横になる。どうやら睡眠不足による貧血らしい。

 ベッドの隣には、私をここまで運んできた雪村直哉の姿があった。


「もう、平気か?」

 彼は心配そうな顔で私を見る。


「平気じゃない。気持ち悪い。だから早く出て行って」


 背を向け、顔も見ないでそう言った。他に人がいたのなら、私の態度に眉を顰めているだろう。助けてもらったというのにいくらなんでも失礼だ。だけど私は改める気なんてない。コイツへの言葉なんてこれで十分だ。

 なのに、なぜ私は今泣いているのだろう。


 私を支える彼の顔を見て、何だかずっと張りつめていた糸が切れたような気がした。抱きかかえられた腕の中で目の奥が熱くなるのを感じ、運ばれて来た時には涙が零れていた。それに気づかれるのが嫌で、顔を見られないように背を向けた。


「助けないでよ。迷惑だから」

 またそんな言葉を言い放つ。


「ああ」

 彼は簡潔相に相槌だけを打つ。背を向けているから、どんな顔をしているかは分からない。


「私はもう、加島千夏じゃないのに」

 あの頃とは何もかも変ってしまった。名字も、家も、二人の距離も。かつて大好きな男の子だったナオ君も、今は憎むべき相手だ。


「知ってる。俺も、河野千夏とは関わらない。そう決めていた。だけど今は……今だけで良いからあの頃と同じチナでいてくれ」


 そう言ってナオ君はそっと私の手を握った。私はハッとして、彼の方へと振り返る。


 ナオ君は寂しげな表情を浮かべ、それでも真っすぐに私を見ていた。顔つきも手の大きさも、私の知っているナオ君とは違う。でも、伝わってくる温もりだけは同じ気がした。


「今だけだからね。ナオ君」


 そう言って私はその手を握り返す。かつて私が大好きだった男の子の手を。


 今だけは一緒にいたかった。子供のころのように、ずっとこうして手を繋いでいたかった。自分の気持ちを素直に言えたあの頃に戻りたかった。だけど時は戻らない。始業ベルが鳴り、二人の時間に終わりを告げた。


「…………時間よ。『雪村君』」


 そう言って、繋いでいた手を離す。


「それじゃ、お大事に。『河野さん』」


 彼もただそれだけ言って保健室を後にした。手を開くと、まだ微かに彼の温もりを感じる。


 次に会う時はもう私達はチナとナオ君じゃない。ナオ君のことは今でも好きだ。けれど、彼が雪村直哉である以上、自分の気持ちを認めることは許されない。


 認めてしまったら、壊れるものがある、悲しむ人がいる。かつて母が流した涙を、私は忘れてはならない。


 だから私はこれからも、本当の心を隠しながら、彼を憎み続けていく。




 私の目を奪って離さないのが嫌いだった。もう私に笑顔を向けてくれない所が嫌いだった。そして、どれだけ憎もうとしても、その度に胸を激しく締め付けてくる。そんなあなたが、私は――

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