第四話
時折、アウレスエリヤは寝床から起き出してはおれと言葉を重ねた。頭の先から足のつま先まで、文字通り原子配列単位でのどかと同じものである筈なのだが、おれ自身が感じる感情には明確な違いがあり、それらの間に横たわる溝は次第に深く、はっきりとしたものになっていった。
無知であるが故に幼く、純真なのどか。
全てを知った上で達観しているアウレスエリヤ。
当然のように、おれはどちらが本当の彼女なのだろう、と考えざるを得ない。つまり、肉体に宿る主人格であるのどかと、彼女を生み出したアウレスエリヤを始めとする突入体を創造した知性と、だ。恐らくはおれが混乱することを避けるためにアウレスエリヤのみが表層意識として浮き上がっている状態なのだろうが、のどかの背後には無数の意識が介在している筈だった。
要するに、のどかという肉体と意思が、突入体と同様にアウレスエリヤたちが生み出した創造物のひとつであるのなら、彼女の自由意志は人間と同等には語れまい。人間はクローン技術などで肉体を生み出す技術は獲得したが、生命の本質を複写するほどの超科学などは望むべくもない未熟さを露呈している。おれがこうして、のどかという概念ひとつを受け止めきれていない事実がそれを如実に物語る。
一度聞いてみると、アウレスエリヤは眉を顰めた。不快さを感じたのではなく、言葉の意味が理解できないとでも言いたげな。
しばし考えた後、彼女は確認するように、一言一句をしっかりと紡いだ。
「彼女にも同じことを聞くつもりではないでしょうね?」
肩を竦めて、おれは頭を振った。
「そんなこと、できるものか。彼女にこの疑問を問うには、のどかが自分の肉体を他の意思が操っている現実を認識する必要がある。今の彼女の精神と常識では受け止めきれない。混乱させるだけだ」
「なら、尚更わたしに問う意味が理解できないわね。両者の回答を聞いて判断材料とするのならばまだしも」
「のどかには話せないが、君は彼女の……創造主だ。問い合わせ先としては適切だと思うがね」
言い返すべく口を開いたが、何事かに思い当たったのか、アウレスエリヤは怒りの矛を収めて、おれをまじまじと見つめた。のどかの顔をした女の目に落ち着かない気分になりながら辛抱強く次の言葉を待っていると、ようやく彼女は頷く。
「そっか。人類はまだ意識の創造には至っていないのだものね」
「その通りだが、どういう意味だ?」
「鶏のほうが卵よりも後だった、ということよ……喉が渇いちゃった」
おれはのみもの機械で水を出してやった。きんきんに冷えた、のどかだったら飲んだ途端に頭が痛いと泣き出しそうなやつだ。だが、彼女はグラスを見つめるや、唇をすぼめて顔を背ける。
「なんだ、飲まないのかよ?」
「水なんてつまらない。他の物をちょうだい。あなたが思いつくものでいいから」
そうして、おれは再びのみもの機械の前で腕を組み、はたと考えてしまう。アウレスエリヤの好みを把握していないということもあるが、彼女はおれに任せた。生憎と、あの年頃の女が望む飲み物と言えば酒か水しか思いつかない。のどかの肉体に酒を飲ませたくないし、水は突き返されてしまった。
優柔不断している時間が無駄に思えて、とにかくおれはのみもの機械に注文を付ける。新しいグラスを手に取ってアウレスエリヤへ持っていくと、彼女はグラスの中身を見て目を丸くした。
「なにこれ?」
妙な話だが、間の抜けた問いはのどかにそっくりだった。
「ラムネだよ。昔はあんまり流行らなかったが、最近になってまた日本で販売され始めた。戦前はよく飲んでたな。
「ふうん?」
鼻をひきつかせながら匂いを嗅いだ後、恐る恐る口を付ける。彼女は口の中に広がる炭酸の刺激に驚いた後、ぱっと顔を輝かせた。
「美味しい。これはわたしの故郷には無かった、新しい味だわ」
「君らにも、飲食を楽しむ習慣はあったんだな。そういう感想を聞くと親近感が沸くよ」
「まあ、味覚に関しては人類とはかけ離れているけれど、類似したものだったでしょうね。今はのどかの肉体感覚にわたしの感覚質を合わせているから。要するに、のどかが美味しいと感じるものをわたしも美味だと感じるの」
何かが引っ掛かった。のどかが美味しいと美味しいと感じるものをわたしも美味だと感じるの。それはつまり――そういうことか。
アウレスエリヤたちは、人類を理解するためにのどかを創ったのだ。初めて彼女と会話した時も、
彼女らは地球に落着して以降、ずっと人間を理解しようとしてきたのだ。あらゆる無線周波数帯の監視や、超科学によってのみ可能とされる手法を使って。
先日の国連軍襲撃の一件でおれは意識を突入体のレーダー機能へと直結させられた。あのような超常的な感覚は極めて異常だ。機械にしかできない処理を整理して、人間に感覚として錯覚させる。元より交わらないからこそ分かたれた二つの概念を、間に粘土を挟むようにして無理矢理に合わせたのだ。このような技術を以てしても感じ取れない情報があるとすれば、それはつまり、当事者ではないからに他ならない。
アウレスエリヤたちは人間を理解するために人間を生み出した。彼女たちにとって、人格が肉体に複数宿るというのは異常というほどのことでもないらしい。だとすれば、彼女の感覚質を育て、その中に潜り込むようにすれば、人間と同じように人間を感じることができる。
何ということだろう。のどかは初めから、生まれた当初から、己の意思とは関係のない運命を定められていた。
「のどかは」他人事のような声色で、おれは問うた。「役目を終えたら、どうなるんだ?」
冷静を装ったようだが、アウレスエリヤが息を飲んだのがはっきりとわかった。彼女は僅かに視線を泳がせる。
「気付いたのね。彼女の
「その様子だと、使い捨てにするつもりのようだな」
「いいえ、決してそのようなことはありません」
取り繕うでもなく、決然とした口調で彼女は言った。
否定する声色も、眼差しも、仕草でさえ、のどかのものだ。
「あなたは、わたしたちが彼女の創造主だと言ったわね。確かに、生み出したという点ではその通り。だけどわたしたちは、知性に優劣をつけない。彼女もまた、同等の存在として尊重する」
初めから道具として生み出された何者かを、ただの道具だと知ったからといって憤るのは愚かなことだろうか。正直な所、おれは今、初めてのどかが創られたものだと自覚した。当然だ、あんなに笑って、泣いている女が被造物であるものか。
だが、現実にのどかはアウレスエリヤたちが生み出した機械に等しい存在で、粉うことなき知性を持っている。
人間ならば、自分たちが手掛けた道具がどうなろうと知ったことではないだろう。使い慣れた道具が壊れれば惜しいと感じるが、人間が死んだほどではない。しかし、アウレスエリヤは同等の存在として尊重すると言った。
つまり、そういうことだ。人類はまだそこまで到達していない。彼女らは先達として、神の領域に足を踏み込み、古代のアダムとリリス、そしてイヴが操った言葉を科学で翻訳してみせたのだ。結果として彼女らの文明は崩壊し、星の海を永遠にも思える長い時間をかけて地球まで逃げ延びた。結果として、彼女らは何でも生み出せる能力を持っているからこそ、全ての被造物に平等の愛を注ぐことで倫理の平衡を保ったのだ。
「おれがとやかく口を出せる問題ではないということか」
呟くと、アウレスエリヤは頭を振った。
「いいえ、そんなことはない。のどかは確かに、あなた方から見ればわたしたちの被造物ではあるけれど、自由意志を持つ人間と同等の知性のひとつであることは変わりない。彼女が望めば、わたしたちがそれを阻むことはないわ」
「それは意味のないことだよ、アウレスエリヤ。おれはどうしても、彼女に伝えることができないのだから」
そう。おれはのどかに何と言えばいいのだろう。彼女自身が、成熟した精神を持つ人間ですら否定したがる不幸に見舞われているという事実を。
想像を絶する科学を持ちながら、知性の所在と扱いに細心の注意を払うアウレスエリヤは、恐らく文明人として高潔な精神を持っているといえるのだろう。顧みて人間はどうか。のどかだけではない、アウレスエリヤの考え方、思想すらも人類には手の届かない、いわば神の視点だ。何かを創るという一事について、極限まで突き詰めた倫理観と道徳心。
未熟だから。アウレスエリヤは不思議とこの言葉を使わない。劣っている、能力が低い、醜いなどとは決して口にしない。批難がましいことはあっても、言葉の根底には他の意思と知性に対して敬意を払っている。どれほど愚かな考えを持つ生き物であろうとも、彼らには彼らの論理と常識が存在する。知性を縛る要因は様々で、社会的、生物学的、物理学的な要素が無数に絡み合って意思決定に影響を及ぼす。己の意思は、己だけのものではない。絶え間ない波に流されながら揉掻くことに似ている。波は穏やかに見えても、行き着きたい場所から押し流され、それを周囲に浮かぶ誰かからなぜこんなところにいるのだと罵倒されるようなものだ。
知性ひとつではどうにもできないことがある。世界は、宇宙はこんなにも不自由で、しかしあらゆる可能性に満ちている。それは夢だ。こんなこともできる、あれもできそうだと考えながらも、到るまでには幾星霜を重ねればいいのか。
のどかの心を、おれたちが左右することはできない、いや、してはならないのだ。
もし仮に、のどかが人間として、どんな現実も受け止められるように強い心を持てたのなら、おれは全てを話そう。軍人として有沢俊博一等陸尉がどれだけ惨いことに手を汚してきたのか。他の人間がその数百倍、数万倍の愚行を繰り返してきたのか。
だが、恐らくそうなる前におれは死んでいるだろう。何となく、直感でわかる。数少ない古参兵を保存する措置として、日本国から最先端の老化防止処置を受けているから、生まれ落ちて六十年以上を経た今もこの肉体は三十代中ごろの若さを保っている。だがどれだけ若く、或いは年老いていようとも、銃弾には敵わない。長い経験から、この状況から抜け出すにはかなりの難局をひとつ、もしくはふたつは乗り越えなければならないだろうと感ぜられた。
「大丈夫よ、俊博」
顔を上げると、アウレスエリヤが真っ直ぐにおれを見つめていた。
「あなたが死んでも大丈夫。のどかはきっと、あなたの想像した通りの強い人間に育つ。悲しんで、喜んで、そして乗り越えられる心を持てる。あなたも同じ。きっと、どんなことも乗り越えられる」
「なぜそんなことが言えるんだ。何を以て、君はおれたちの強さを信じるというんだ」
ふと、彼女は天井を見上げた。同じように、照明パネルで一面が光を放つ天井を見上げながら、おれは彼女がそこを見てはいないことに気が付いた。彼女の瞳が映しているのは、もっと遠い、いや、遠いと表現するにはおこがましいほどの隔たりを持った場所だった。
「家を発つ前には、旅路が遠く思えるものよ。わたしたちは辿り着いた。知性は大海を渡る
一頻り、のどかと遊んで寝台へ倒れ込む。まだ日も沈まない時間帯で、おれの腕に巻き付けられた軍用時計は時刻電波を受信できずに戸惑っていたが、正確無比な作動機構によって大方正しいと思われる時刻を指示していた。こいつによれば今はまだ一九〇〇時を少し回った所で、健全な大人ならば誰もが目を覚ましている頃合いだ。
今日一日は縄跳びをして遊んでいた。こんな原始的な玩具で笑えるのどかが少し羨ましい。現代人はもう滅多なことでは声を出して笑えなくなってしまった。子供は別だが、どんなことでも遊びへと変換してしまう天才的な発想の多くは大人が用意する環境が与えるもので、彼らは成長と共に、受け取るだけでは循環が成立しないと悟り始める。与えることを忌避して、いつまでも価値観を凍結させる者もいるが、長続きはしない。社会はそのように構築され、システムは回り続ける。人間の営みが生み出したものであるのに、何よりも人間を無視して稼働する巨大な機構が社会だから。
のどかは社会を知らない。この安息の日々が、どれだけの犠牲と技術の上に成立しているのか、想像すらできないだろう。彼女にとって世界とはこの部屋だけであり、突入体の外殻から向こう側は夢の世界だ。比喩ではなく、彼女にとって夢見ることでしか触れることのできないもので溢れた世界。
夢が現実へ落ちぶれることと、現実が夢へと浮き立つのは、どちらが幸福なのだろうか。勿論、おれだけではなく、アウレスエリヤたちでさえも答えることのできない問いかけであるのは重々承知している。
昔、上官に言われた言葉を思い出す。なぜ、こんなに酷い世の中になったのでしょうか、と若い頃のおれは問うた。黛の前世代機を駆って、激しい教練を行った後の休憩時間でのことだ。短い間、おれは情け容赦のない敵国の攻撃に、多くの市民が巻き添えになって死んだというニュースを聞いて辟易していた。諦観にも近い絶望が心を覆うのを懸命に振り払うように訓練に臨んでいた。
荒く息をつきながら問いかけるおれの言葉を、聞いているのだかいないのだかわからない鷹揚な態度で頷いた教官は、またどえらいことを聞くもんだと呟いた。
「何故、貴様はそんなことを聞くんだ。黙って戦うのが兵士だぞ。戦争の意味、理由なんてものは
「先日の戦闘……あの話を聞いてから、頭にこびりついて離れません。なぜ人間はここまで残酷になれるのかと」
汗と油に塗れたおれのつなぎを指さして、彼は言った。
「貴様も今、懸命に殺人技術を磨いているだろうが」
「そうですね、自分が戦う意味はわかります。国を守るため、ひいては、この国の人々、わたしの愛する生活を守るためです」
「ならば、それが回答だ。いいか、よく聞け。人間は人間を殺せるほど強くはない。そうさせるのは環境であり、心だ。己を制御しろ、有沢。心なんぞにお前を好きにさせるな。徹底的に操作し、使いこなせ」
「それでもどうにもならない時、自分が押しつぶされそうな時は、どうすればいいでしょうか?」
少しだけ考えた――いや、迷ったのだろうか?――後で、彼はおれの目を見据えて、言った。
「その時は、自分と世界とを秤にかけろ。天秤がどちらにも傾くことが無かったら、ひたすらに問い続けろ。重要なのは、答えを得ることではない。問いかけ続けることが重要なのだ」
それからというもの、おれは問い続けた。どうして生きているのか。どうして殺すのか……上官の彼は、戦争中期に駐屯地へ巡航ミサイルによる飽和攻撃を受け、跡形もなく消し飛んだ。彼はいなくなったが、おれはまだここにいる。
生きている限り、問いかけは続く。疑問は絶えることがない。あらゆる形、あらゆる時、あらゆる場所で問いかける。自分、誰か、そして何かへ向けて。誰か答えてくれはしないかと、あらゆるものへ投げかける。
のどかもよく色々なことを聞いてくる。果たしておれは彼女の満足する言葉を返せているだろうか。
たとえおれが彼女に対してどれだけ真摯な姿勢で接していたとしても、突入体内部で引きこもっている限り、外界で生きていけるほどに成長することはないだろう。何故なら、彼女が知ることのできる世界が、俺か、アウレスエリヤたちが教えられることしかない。人間は社会性動物だが、常識や社会構造、システムについて理解するにはその環境に身を置くしかないだろう。言葉はお伽話でしかない。その人の心へ訴えかけることはできても、実感として認識させることは難しい。
そう、問いかければいいのだ。降って湧いたアイデアを懸命に掴み取って、おれは考える。国連は軍事参謀委員会などの下部組織に対処を任せるのではなく、議会で突入体とその難民をどうするのかを議論しなければならない。突入体は既に、未知の文明が地球へ落としたただの物体などではない。故郷を失い、過ちを抱えた同じ知性なのだから。
国連には、「守る義務」がある。異種知性体の難民を保護することを決定できるのは、他でもない国際連合だけだ。
問題は、どうやって彼らにそれを議論させるか、という点だ。おれが話した所で、突入体内部の技術を用いて職権を濫用しようとしていると解釈されるに違いない。有沢俊博一等陸尉は古参兵であり、第三次世界大戦の始まりと終わりを目にした英雄だが、異星文明との遭遇により世俗的価値観に堕落して利己的行動に走った、と。
となれば、アウレスエリヤから直接、国連へ意思疎通を図ってもらうか。その際の人々のアレルギー反応はありありと想像できる。あまりにも異質なものを前にした人間の行動は予測できない。
方法はひとつ。のどかが話すことだ。
考えただけで悪寒が走った。激しい嫌悪感に胸がむかつく。冗談だろう、のどかに国連議会で何を話させようというのだ? 大勢の人間に囲まれれば、この閉鎖空間で一対一の人間関係しか知らない彼女は、確実にパニックを起こす。
だとすれば、アウレスエリヤがのどかの肉体を使って話せばいいのではないか。突入体に住まう知性体のひとつである彼女ならば、国連議会でも憶することなく、的確な言葉遣いで全員へ伝えることができるだろう。だがそれは、のどかの自由意志を踏みにじっているようで、あまり気の進む話ではない。
寝台の上に仰向けに寝転がってあれこれと考えを巡らせていると、突然に電子音が鳴った。飛び起きて床に立ち、周囲を見渡すと、頭に直接、語り掛けてくる女の声があった。
「落ち着いて。増田一等陸尉から通信が入っているわ。驚かせては申し訳ないと思ってあなたの通信機と同じ音波にしてみたけれど、逆効果だったみたいね」
「アウレスエリヤか。増田がおれに何の用――」
言って、舌打ちする。そんなこと、彼女が知る筈がない。笑い声こそしないが、アウレスエリヤが面白がっているのが伝わってきた。他人の感情が直接感じ取れるというのは、異常だ。不快にさえ思えてくる。先日の一件ではここまで共感することは無かった。恐らくはアウレスエリヤとの親密さが深まったためだろう。
まったく落ち着かない気分で、おれは電子音の出処を探る。それとなくのどかの様子を窺うと、彼女は静かな寝息を立て、よだれを垂らしていた。どうやらアウレスエリヤが、彼女の睡眠を妨害しないように気を使っているらしかった。
寝室の片隅に置いた装備の小山から携帯端末を取り上げる。毎日、ここでの生活を簡潔に記録しているものだ。電源は既に入っていて、おれは寝室からいつものどかと過ごしている部屋へ移動して応答ボタンを押し込む。
「〇一、聞こえるか。感明送れ」
増田がおれの、本作戦における認識番号を呼ぶ。おれは少しだけ間をおいて答えた。
「こちら〇一。増田一尉か」
「そうだ。そちらの状況はどうだ。異常はないか」
「毎日が異常の連続だよ」
「危険なのか」
思わず笑ってしまった。隣の部屋で寝ているのどかの寝顔を見せたら、軍人然とした増田は何を感じるだろう? 突入体へ入りたいと思うだろうか。
「何を笑っている? 気は確かか?」
「ああ、すまん。おれは正気だ。異常というのは、別段、危険ではない。突入体の内部で生活して二週間以上になるが、何というか……信じられない科学技術の結晶だ、こいつは」
「そういうことか、なるほど。俄然興味がわいてきたな。帰ってきたら、是非話を聞かせてくれ」
「いいとも。それで、何の用だ?」
「先日の一件についてだ。軍事参謀委員会とTFOOTE調査機関の対立は一先ずの決着を見たようだから、あなたに報告するよう命令を受けた。連絡手段が問題だったが、TFOOTE調査機関のあなたの任務を監督しているチームから回線を譲り受けてこうして話している。彼らには、もうずっと呼びかけていても応答がないのだからと鼻で笑われたが、どうやら彼らの言葉は嘘だったようだな」
増田の言葉を聞き、心の片隅で安心してしまう。突入体内部への侵入から二週間。まだ司令部がおれの生存に希望を見て活動を続けていることは明るい判断材料だといえる。
ふと思いつき、おれは増田へ問うた。
「増田一尉、この通信機を通じてTFOOTE調査機関へ報告を送ることは可能か?」
「それは貴官の任務について、という解釈でいいのか?」
「無論だ」
「少し待ってくれ」しばらく、増田は通信機のスイッチを切っていたが、唐突に戻ってきた。「その通信機からこちらへ情報を送信することは可能だ。その逆は無理らしい。そもそも、突入体には電磁波を送受信できる設備などどこにもないように見えるのだが、全体がそのような役割を担っているのかな?」
「不明だ。原理の解明にはほど遠いが、どんなことが可能なのかは報告に記す。とにかく言葉で伝えきれる自信が無いから、文書での送信で勘弁してくれ」
「了解した。ともかく、貴官の無事が確認できてよかった。任務は続行だ、有沢一尉。幸運を」
「ありがとう。〇一より、以上」
通信を切り、頭の中で考えをまとめる。しばらく突っ立ったまま黙り込んでいると、またアウレスエリヤの声が頭の中で響いた。
「何を考えているの?」
少しだけ迷った後で、おれは言った。
「アウレスエリヤ。君は世界を取引をしたことがあるか?」
*
計画を話すと、アウレスエリヤはしばらく考えさせてほしいと言って、どこかへ消えてしまった。明確な形を伴って目の前に立っていたわけではないが、ともかく、その気配がぱったりと途絶えてしまった。恐らくは突入体に宿る他の知性と対話を行い、おれの計画を吟味しているのだろう。それはそれで構わない。いざ行動を起こした後、後戻りのできない状態で見限られることを考えれば、現段階で不安要素は可能な限り排除しておきたかった。
初めてこの突入体内部に入った時のような、のどかと二人きりの何でもない日常が戻ってきた。七十年以上生きてきたおれが、こうしてのどかと過ごす二週間と少しの時間を何よりも尊いものだと感じているのは、彼女の存在の清らかさの証左に他ならない。
時々、奇妙な考えが頭を巡った。アウレスエリヤは外界の要素に触れさせるためにおれを内部へ招いたと言っていた。この部屋でしか人生を送ることのできないのどかを外の人間、とりわけ兵士と交流させ、より深く人間を理解せんがために。
だが、おれにとってはまったく逆だった。
この出会いは、おれのための出会いだったのだ。世界を見限っていたおれは、のどかに出会って、きれいなものに触れることができた。人間という存在が持つ無垢なる側面を再発見し、子供の頃に遊んでいた遊具を見た時のような、懐かしい気持ちになることができた。
今から、おれはのどかほど純粋な心を持つことは絶対にできない。それは他の大人にも言えることだ。多くの挫折や苦難を乗り越え、意気揚々と海原を進むのではなく、次の波を諦めと共に迎えるようになってしまったおれたちは、船に乗り込んだ頃の胸の高鳴りを忘れてはいなかったのだ。決して忘れてはいないことを思い出させてやれば、人間は、きっとより良い結果を求めて動き出す。世界は少しでもましなほうへと変わり始める。少なくとも、また夢を見ることのできる人間は、必ずいる。
もう三回目になるすごろくで、たべもの機械から取り出したアイスコーヒーを啜りつつサイコロを振る。六の目が出て、おれの駒は順調な滑り出しを見せたが、のどかが書き足したマス目によって振り出しに戻されてしまう。それを見てのどかは笑い、おれは頭を掻きながらひたすらにサイコロを振り続け、すごい勢いで進んでいくのどかの駒を追いかけた。
遊び疲れたのどかが居眠りをする。おれは寝室から持ってきたタオルケットを彼女の肩にかけてやった。最近はこうして遊ぶことが増えたせいか、それともアウレスエリヤが彼女の身体を使っていたからか、いつもよりも疲れているようだった。
そしておれは、彼女の気配を察知する。こうして意識へ直接語りかけられたりしていると、第六感と言うべきものが発達してきているようだった。
「じゅうぶんに話し合ったのか。まだ一日半しか経っていないが」
驚きを露わにしたアウレスエリヤは、隠しきれない動揺を声色に滲ませていた。
「どうしてわたしが語り掛けると?」
「何となく、な。それで、どうだ。君たちは協力してくれるのか?」
「ええ。我々の状況分析も、あなたと同じ結論を見た。わたしたちはあなたの計画に賛成する」
「それは君達の総意と見て間違いないんだな? 一度決行したら、後戻りはできない。腹を括ってもらわなければ困る」
「問題ないわ。全霊をかけて、あなたとこの計画の遂行に力を尽くす。上手くいけば人類と理想的な共存体制を確立できるだけでなく、あなたたち人類の幸福にもつながる。これ以上ないものだわ」
「そうか。それでは、行動を起こすのは早ければ早いほどいいな」
手を伸ばして、のどかの頭をそっと撫でた。両腕を枕にして机に突っ伏している彼女の背中が呼吸に合わせて微かに上下するのを見ていると、彼女がこうして過ごせていられるように最大限の努力をして、この空間だけ守れればいいとすら思えてくる。
この時、おれは自分の中で、軍人としての矜持も指揮命令系統に対する責任感もかなぐり捨てていることに気付いていなかった。いたって自然に、この綺麗な女性のために命を捧げようと決心してしまっている。
一度、おれは寝室に戻り、久方ぶりに戦闘服その他の装備を身に着けた。通信機を含め、突入体内部へ置き残してしまうものがないことを二度確認してからいつもの部屋へ戻る。
のどかの小さな頭が持ち上がり、すっくと彼女は立ち上がっておれを見た。眼差しの鋭さを目の当たりにするまでもなく、おれは彼女がアウレスエリヤであると判断している。いきましょう、と彼女は言って、おれが最初に入ってきた、黛の鎮座している空間へのハッチを開いた。全身が総毛立つほどの冷気が流れ込んでくるが、臆せずに一歩を踏み出し、敷居を跨いで通路へと進む。
ひたりひたりと、アウレスエリヤの静かな足音がぴったりと後ろについてくるのをはっきりと感じた。
きっと後悔するだろう。そう思いながらも、歩みを止めてはいけないとわかっている。
綱渡りの途中で歩みを止めるのは、愚か者だけだ。
*
アウレスエリヤの説明によれば、アリソン・クレーターを中心とする範囲のみ、電磁波を用いた無線通信の頻度が低下しているという。解読される通信の内容としては普段と変わる所はないが、総量として減少傾向にあるという。
おれはこれを、軍用の
「ヒトの中から、ヒトが出てきた」
鎮座する黛の無骨な人型を見ていると、のどかの驚きの声が思い起こされる。ほんの二週間前のことであるのに、やけに過去のことに思え、同時にあの時とはまったく異なった人生観の元にここに立っていることを自覚せざるを得ない。
アウレスエリヤは空間の入口から動かずに立ち止まった。おれだけが歩み出て、黛の前に近付く。まず後部に回ってバッテリーの残量を簡素なアナログ表示計器で確認。問題なし。次に目視で各関節部の状態を見るが、こちらも普段と変わる所はない。右腕部に装備されている固定式の七・六二ミリ口径の軽機関銃の安全装置は、初めてここに来た時に安全装置をかけていなかったので、発砲準備状態のままぶら下がっていた。念のために機関部を開いて弾薬を数珠繋ぎにしているベルトリンクの状態も確認する。異常なし。
黛の正面まで戻り、振り返る。前面部が大きく開いた黛の大腿部に足を突っ込み、下半身を固定する。さらに上腕部に手を突っ込んで
システム、エンゲイジ。黛は電動モーターの唸りをあげた。断頭台の上で両膝をつき、斬首を待つ囚人のように首を垂れた姿勢から関節のロックが外れ、一気に佇立した。
HMDに外界情報が流れ込み、殺風景な部屋を背景にのどか、いや、アウレスエリヤが両腕を脱力させたまま立っているのが見える。映像に重なるようにして表示されている上下角度は正しい数値のようだが、方角はどこにも定まらず、エラーのままだ。中枢システムがアウレスエリヤを非武装の民間人として認識し、誤射を避けるための強調表示としてコンテナを重ねる。
「相変わらず、人間は奇妙なことを考えるものだわ。この人型兵器はどういう利点があるの?」
「柔軟性がこの兵器の真骨頂だ。限りなく生身の歩兵に近い柔軟な戦術へと対応できるが、歩兵よりも素早く、強固で、高い攻撃力を持つ。装甲兵器でありながら比較的小型だから、戦略機動性も高い。それ故に十分な訓練と経験を積んだ兵士でしか真価を発揮できないため、師団や大隊などではなく小隊単位で運用された」
「つまり、あなたは優秀な兵士としての能力をその黛とやらで増強させるということ? あくまで一定の戦闘力を保証するものではないから、兵器の性能ではなく搭乗者の技量が重要になる」
「何でもできるってことは、何をするかが重要ということだ。例えば戦車は、戦車の相手をし、その火力で歩兵を支援することが存在理由だ。しかし黛はなんにでも使える。歩兵の役割を担うこともできるし、戦車と同じように重火器で援護することもできる。選択肢は無数に存在するから、瞬時に最適な一手を選び取る経験が重要なんだ。そんなものは実戦を経なければ獲得できないものだろう。だから、誰にでも扱える、というものではない」
「何でもできるということは、何をするかが大事だということ……」
その一言を、記憶に刻み込むように呟く。微かに驚きの込められた声色に、おれは戸惑ってしまう。国連に対し決定的な行動を取ろうというこの時に気にしている余裕はないはずだが、頭の片隅で、彼女にどうしたのかと、その驚愕の理由を問わねばならないと語り掛ける声があった。
「ただ動かすのと、目的達成のために行動を起こすのでは雲泥の差がある」
「どうしたというんだ、アウレスエリヤ?」
「わたしたちは、同じ答えに辿り着いた。あなたの言葉は我々にとって当然のもの。だけど、わたしたちは大きな――そんな言葉では表現しきれないほどの――間違いを犯し、ようやく気付いたことなの」
「成程な。まだそこまでやらかしていない人類が同じ答えに辿り着いているのは奇妙だと。だけどさ、アウレスエリヤ。人間はどこまでも愚かになれる生き物だ。地球上のどこかで同じように感じるほどの大失敗をした誰かがいても不思議じゃない」
「ようやく、あなたたち人類の片鱗に触れた気がする。のどかもそうだった。あなたたちは確かに愚行と善行を両立させるけれど、あらゆることから学ぼうとする知性なのね」
今度はおれが驚く番だった。
確かに、おれたちは学び続けている。数えきれないほどの汚点を歴史に残しながら、人間は少しずつ、地を這うような速度で理想とする成長を遂げようとしている。そう在れかしと定められたのでもないだろう。完璧には程遠いが、追い求め続ける。個々人では、確かに取るに足らない存在かもしれない。しかしおれたちは他人を尊重し、大きなことを成し遂げようとする。
たとえ、他の星からやってきて、同胞を大勢殺した別の知性であっても、手を差し伸べるだけの分別はある。
一体、おれは、アウレスエリヤたちに何を証明したというのだろう?
伝えなくてはならない。この感情を。おれの物語を。いつか、のどかに全てを話せる時が来るだろうか。話したくて、たまらない。彼女に、何もかもを。
代わりに、おれはアウレスエリヤへ告げた。
「行こう。状況開始だ、アウレスエリヤ。君たちと、おれたちのために」
パッシヴ・インフォメーション 夏木裕佑 @Alty_A_Ralph
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