第三話
翌朝。時刻も定かではない状態で目を覚ますと、すぐ隣の寝台でのどかが寝ているのが見えた。どうやらいつの間にか、うつ伏せの状態で眠ってしまっていたらしい。
のどかは微かに口を開き、瞳を閉じていた。だらしなくよだれまで垂らしているのに苦笑いがこぼれる。長い睫毛がぴくりと動いた。夢を見ているのだろうか。のどかが見る夢は、恐らくおれが話した世界の夢だろう。そう考えるだけで、この娘に嘘をつかなくてよかったと心から思った。他人の嘘で塗り固められた夢ほど、残酷なものはないから。
ぼんやりと寝ぼけた頭で、のどかの顔を見つめる。
まるで人間みたいに眠るのだな。
今までのどかをどう捉えていたのだろう。突入体内部に生じた人間以外の何者か、だ。しかし人間的な美を感じずにはいられないのも、また事実だ。人間でないと頭で理解しているのに、人間だとしか思えない。彼女を生み出した創造主は、恐らくは「たべもの機械」なんかを製造した高等技術を保有する知性体なのであろうが、それらを神様と呼ぶのも、また違う気がした。
不意に催したので、もそもそと寝台から這い出る。薄暗い室内は辛うじて床や調度品――といってもほとんど何も無い――が判別できる程度には明るかった。ひんやりとした床の上を裸足で歩くのは辛いので、おれは寝る前にスリッパを「たべもの機械」で生成しておいた。幾分軽やかな気持ちでそれに爪先を突っ込む。
床と擦れる音を響かせながらも、出来る限り静かに足を運んで寝室を出る。
いつも、おれとのどかが話す部屋は何と呼べばいいのだろうか。単に、いつもの部屋だ。四日間を過ごしただけなのに、おれは純真すぎる少女を見て、自分が生きて来た世界の汚さを痛感してしまっている。
そして、きっと、おれ自身の情けなさも。
手洗いに入って用を足しながら唸る。
彼女は世界から離れた存在だから、この地球に蔓延っている、他のどんな人間とも違う、純潔ともいえる人格を保っている。それは並木誠二が、彼女を突入体という小さな世界の中に押し込んでいたからだ。彼の意図は、彼女の精神が汚らわしい俗世的な汚れに塗れてしまうことへの恐れに違いない。何故なら、おれもそう感じているから。今も任務終了へ向けた記録を音声でつけることは忘れずに行っているが、正直なところ、生きている内にこの空間から出られるかどうかわからない。ここで一生を終えるかもしれない。そもそも、突発的な疾患などに襲われたらどうすればいいのだろう。風邪ひとつひいたところで、タオルケットにくるまって寝ているくらいしか措置が思いつかない。いや、薬程度ならば「たべもの機械」でも生成できそうだ。だとしても医療知識が無いから、機材があったとしても適切に処方できるかどうかは疑問が残る。
勿論、そうした事情はのどかにも同じことが言える。彼女の場合は危惧を察知することもできていないから、よりきわどい立場で生きている。生存のために有利な情報が、彼女には与えられていない。そもそも、「たべもの機械」や「せんたく機械」などの、あの超科学の結晶を彼女が使役するのも並木誠二の存在があってこそだ。思えば、当たり障りの無いネーミングなのも、並木がそうした大人が持ち得る価値観や倫理観を排除した結果だと思えてきた。
しかし、どうにも腑に落ちない。手洗いに据え付けの簡素な水道で手を濯ぎ、おれはいつもの部屋の、自分でも驚くほど見慣れてしまった景色の中で腕を組んだ。
どうして並木が消えてしまったのか。おれの素性を考えれば、のどかと相対する時、必ず彼が立ち会わなければいけないだろう。軍人は汚い職業だし、ここまで外界の影響を排除した空間の中へとおれを招き入れた意図もわからない……そろそろ回答が欲しいところだ。
「ごきげんよう」
反射的に右腰から下げている拳銃を探るが、寝間着にしている白い長袖シャツとスウェットだけなのを思い出した。舌打ちを漏らしながら部屋の隅から隅へ目をやる。
のどかが立っていた。黒い瞳に長い茶髪。身に着けているのは、さっき寝台の上で寝息を立てていた時と同じ、白いワンピースだ。彼女は寝る時も生活している時もこれを着用し、汚れたり、シャワーを浴びる時に新しいものと取り換えている。
いつもと変わらぬ部屋。いつもと変わらぬ彼女ではあったが、その佇まい、威厳に満ちたぎらぎらとした眼差しは、普段とはまるで別人だった。
両腕を胸の前で組み、きっと鋭い視線をおれの顔に射込んでいる。口元は真一文字に引き結ばれ、苛烈さよりも、冷たい意志の強さを窺わせた。
明らかにのどかであるが、のどかでない誰かへ向けて、おれは身構えた。近接格闘の経験は腐るほどある。華奢な女一人、相手に出来ない筈がない。
と。彼女を見つめている内にあることに気が付いた。
左側頭部あたり、こめかみから垂れるひと房の髪が、寝癖でひねくれ曲がっていた。身体の下に巻き込んで、ずっと寝ていたのだろう。いかにものどからしい、愛嬌のある寝癖だった。
思わず、今の彼女の気配の鋭さと、間抜けな――いや、純真な外見の差異に破顔してしまう。
のどかは顔を顰めるでもなく、ただ真っ直ぐにおれを見つめたままだったが、激しい興味関心を抱いていることは目の輝きから知れた。
「何を笑っているのです?」
「いや……別に大した理由じゃない」
「ああ、これですか」
おれの視線を追って、のどからしい女は自分の寝癖を手櫛で梳かした。素晴らしい毛並みの彼女の髪は、素直に元の状態へと戻る。少しばかり名残惜しいが、これでおれも真剣に彼女と相対できそうだ。
ちょうどテーブルを挟んで反対側に立っている彼女は、やはりのどかではない。
「君は誰だ」
女は小さく首を傾げると、ああ、と声を漏らした。
「わたしはのどかです、有沢俊博」
「真っ赤な嘘だ。のどかはおれを単に俊博と呼ぶ。君はそう呼ばない。つまり、君はのどかじゃない」
「それはあなた方の常識で考えた場合でしょう。厳密に言えば、あなたにとってわたしはのどかではないのかもしれないのですが、わたしはのどかのつもりです」
そこでおれは初めて、のどかの身体が、のどか以外の意思によって動かされていることに思い至った。それと同時に、超科学を保持しているとはいってもそのような横暴が許されるものかという怒りがカッと胸の奥から湧き出る。だが、のどかに対してそうできるというのに、おれに対してできないという保証はどこにもない。ここは刺激せず、相手の出方を見るしかないようだ。
内心で舌打ちする。おれはここ数日間、相手の出方を見ることしかできていない。
女は椅子に座ろうとする素振りすら見せず、真っ直ぐに見つめ返して来た。真っ直ぐすぎて、この目が蒸発してしまうのではないかと思えるほどだ。こんな目ができるのだから、やはり、この女は人間ではない。その確信が得られればじゅうぶんだ。
もしかしたら、並木誠二をどこかへ消し去ったのはこの女かもしれない。とすれば、突入体内部に入り込んで初めての戦闘状況というわけか。
久方ぶりの緊張感に頭が冷える。思考が戦闘用に切り替わる。あらゆる状況が未知である以上、全てに対して全霊を傾けて対処しなければならない。
少し考えてから、おれは言った。
「君はのどかと別の人格でありながら、のどかだと言い切っている。論理が矛盾しているだろう。たとえば今のおれが別の誰かの人格に切り替わったのだとしたら、君はおれを有沢俊博だと認識するのか」
「お互いに異なる前提に立って言葉を交わしているというのに、対等な意味合いを投げつけあってどうなるのかしら」
「少なくとも、互いを知ることはできるだろう。相互理解だ」
「そもそも、言っている意味がわからない」
「どういう風に?」
「同一の肉体に複数の人格が宿るからといって、何か不都合があるの? そもそもわたしはこの身体に始めからいたのに、あなたは先日まで普通に、のどかとして接していた。ということは、わたしが存在しようがしまいが、あなたはこの肉体をのどかとして認識しているということでしょう」
「それは語弊がある。表出している人格しか感じ取れないのは、人間として当然のことだ。知りながら意識しないことと、何も知らないから気付かないことは決定的に違う。存在自体に寄与しないとしても当事者には明らかな差異をもたらす。今のおれと、君のように」
「人間の認知領域にいちいち干渉するのは骨が折れるわ。別の視点から物を見ている誰かに、ある現実の側面を説明することがどれだけ困難なことか、あなたには理解できていて?」
おれは彼女の次の言葉を待つふりをしながら、必死に考えを巡らせていた。
”人間の”認知領域、だって? ちくしょうめ、そいつはまるで――
「まるで、君は人間ではないような物言いだな」
女は声もなく笑った。やめろ、とおれは叫びそうになる。
のどかは、そんな笑顔を見せない。彼女はもっと楽しそうに笑う。本来、人間とはそういうものだ。楽しい時、嬉しい時に、笑う。この女の笑顔は、その衝動が生まれる根本がのどかと異なりすぎている。
やはり、この女はのどかではない。そんな存在が、彼女の肉体で人間かぶれのままごとに興じている。
思わず睨み付けてしまっていたらしい。名も知らぬ女は真顔に戻った。
「今までがどうであれ、わたしは人間であるあなたと同じようにして意思の疎通を図ろうとしている。つまり、人間でなければ、あなたとは会話できない」
「支離滅裂だな。会話が成立するのは人間だからではなく、言葉が思考を媒介するからだ」おれは腕を組んで首を傾げる。「わからないな。君はこの物体に乗り込んで地球へと飛来した何かなのか?」
「確認なのだけれど、この物体とは、あなた達が突入体と呼ぶもので間違いないのよね」
「そうだ。いちいち確認する必要があるのかよ」
「もちろん、あるわ。あなた達はどう見ても同じ何かを、別の呼び方で別のモノにしようとする癖があるみたいだから」
とんだ皮肉だ。それも、この女が人間でなければ意味を為さない言葉であるが。
いずれにしても、ここで彼女の正体を問いただすことができれば、のどかが何者であるのかもわかるような気がする。異種知性体だとしても、突入体を送り込んだ者であるのか、それとも突入体内部で誕生した何かなのかが重要だ。確定的な情報をおれは持ち帰らなければならない。彼女の言葉を聞いた後、すぐにここを立ち去ってもいい。交渉次第では任務の達成も間近と見れるだろう。
軍人なのだ。任務を果たさなければならない。
「それで、どうなんだ」
「簡単なこと。わたしは、ここよ」
ひとつ間を置いて、おれは小首を傾げた。
「どういう意味だ」
文字通りの疑問だ。
女は細くしなやかな指で周囲を示した。
「この突入体――このほうがしっくりくるのでしょう?――のことを言っているの。わたしはあなた方の言葉で言えば、複合知性体というものかしらね。厳密に定義された個人の名前は持ってはいないの。わたしたちは対象が『誰か』ではなく、『何』であるのかを重視するから」
「君達の考え方は、必ずしも個人に収束するものではないということか。集団で思考するのか。個よりも群れを重視するのなら、地球上にも似たような生命体は存在する。理解できない概念ではない」
「語弊があるのは理解しているけれど、あなた方の言語で言うのならばわたしはわたしであると同時に
「そんなことがひとつの意識領域だけで可能なのか。にわかには信じ難い話だ」
「信じることと理解することは違うわ。あなたが信じられないのは理解できないというだけ。人間は他人が何者であるかも理解しきれないまま信じることができる。それは計算でも、ましてや脳内に湧きおこる直感に導き出されるものでもない。心で感じたありのままの感触を信じている、それだけの話でsちょう」
おれは顔を顰めた。顰めざるを得ない。この、明らかに人間離れした言葉を操る女に、人間の中でも歳を食っているおれより達観したことを言われているのだから、面白い筈がなかった。
言うなれば、それだけ彼女――彼女らは人間を研究しているということだろう。この突入体内部に存在する知性がどのような形態であれ、人間を研究しているという事実は非常に興味深いだけでなく、危険だ。現に、こうして目の前にしているのどかのような現象が、普通の地球人類に生じないとも限らない。人間の意識を封じて肉体を操るだけでも相当な脅威となるだろう。
ふと、おれはあることに気が付く。今ののどかのように、何者かに肉体を乗っ取られるのならば、自分の意識はどこへ向かうのだろう。そもそも、彼女の意識や認識はどこから生じているものなのだろうか。こうして自律した知性として活動をしているのならば、世界を認識する主体が存在するはずだ。それがどこにあるのか。個であるのか集団であるのか。ネットワーク化されて接続された意識というのはどのような感覚なのだろう。
おれの考えを見透かしたように、女はフッと笑みを漏らした。
「いくら考えてもわかりっこないわ。人間の言葉は、人間が認識できるもの、想像できるものしか扱えないもの。レトリックとして存在する模様を、実際の概念に照らし合わせるポインタが言葉なのよ。だからこそ、不完全な言語を補完するために人間は表情や声色、仕草といったものまで用いて意思疎通を図る。人間の言葉というものは、だからこそ厄介だわ。互いに同じ音、文節、認識で話し合っているのに、いつの間にかお互いの抱いた感慨、認識する概念には開きが出ている。それは逆説的に言葉の不完全性を演出したものだけど、それ故に予測が不可能で、学び取るには相応の時間がかかってしまう」
「この三十三年間を黙して過ごしてきた君達の感想はそれだけか。人間は恐ろしく未熟で、だからこそ理解に時間がかかった。君達ほど完成された知性体ではないから、我々を滅ぼすと?」
「早計にすぎるわね。だからこそ殺し合うのではないのかしら」
尤もだと頷きかけた寸でのところでおれは無表情を保った。彼女は軍人として生きてきたおれの人生と価値観を慎重に測りにかけて、奇妙な納得感から懐柔しようとしたのだろうか。あなたの気持ちはわかっている、だから歩み寄りましょう、というように。
この女は人間をよく見ている。まるで、シミュレーションプログラムを眺めるように、冷淡で感情を排した瞳がおれの爪先から頭の先までを観察している。今、こうして相対している瞬間でさえも。
反射的に言葉を返してしまったが、彼女が言うように、人間は言葉だけで意思疎通を成立させている訳ではない。ターンテークに分類される仕草や態度といったものから相対的に相手の意図する思考を読み取る能力がある。
時には言葉が拙すぎて追いつかないほどの情報量を、おれたちは言葉以外でやり取りしている。しかし補完された情報伝達があるとしても、完全な意思疎通を図ることは不可能だった。人間が抱く感情とは、個々人で決定的に異なるものだからだ。当然ではあるものの、他人はどこまでいっても他人なのだという認識が、人間自身にとって不足している面があるのは否めない。結果として、戦争や政治などの駆け引きが生まれる。あまり快く思われない負の部分だ。おれたちは言葉の不完全性に頼ることで高度な意思疎通を可能としているが、同時に自らの首を絞めているといえる。
悪いことに、おれたちは他人の中でも、身近にいるある個人に対して過度の情報量を得てしまう。例えば、顔を顰めている人間がいるとする。普通に通り過ぎるだけなら、何か嫌なことでもあったのだろうかと、ふと頭の片隅で思い浮かべる程度だ。
しかしそれが友人や家族であったらどうだろうか。顔を顰めていれば、体調が悪いのだろうか、それとも何か悩んでいるのか? と、より深い部分まで想像することができる。表情から相手に自分の感情、事情を想像させることで、他人に感情を伝えることが、人間にはできる。
あることに思い付き、おれは得心した。
「会話というものは、独りではできない。君がのどかの……意識を鎮めて自らを浮上させたのは、おれと話すためなのか」
女は微笑み、拍手する仕草をした。外見がのどかそのままであるからだろうか、あまり不快には感じなかった。
「その通り。始めは
「ちょっと待て。始めは、と言ったな。のどかとおれを会話させて、彼女を一端の人間にするのが目的なのだとしたら、その前に君が試行したことと言うのは、並木か。奴は、君達が生み出した疑似人格だったというのか」
「察しの良い男は好きだけれど、少し穿ちすぎね。わたしたちにとって、人格とは肉体と対を為すものではないのよ?」
思わず心臓が音高く跳ねた。彼女の顔から眼を逸らし、中央に置かれたくすんだ鈍色のテーブルへと視線を落とす。
どうもやりにくい。のどかは――こんな風には喋らないのに。別人が操る肉体。人格は異なるもの。そこには性別すらも存在しないに違いない。
「君が……並木誠二なのか?」
「そうでもあり、そうではないとしか言えない。並木誠二と名乗っていた人格はわたしらしいのだけれど、持っている記憶はのどかのものだから。記憶は人格を象る。だからわたしは、あなた達の感覚ではもう並木誠二ではない。のどかであり、のどかでない誰か。その中間に位置しているのかも」
彼女はふらりと歩き出した。おれは顔を上げて身構えたが、彼女は手をひらひらと顔の前で振る。
「そう固くならないで。もうあの子の起きる時間だから、寝床に戻るだけ。自分が隣の部屋で起きたと知ったら、きっとあの子は一日中あなたにそれを話すわよ。それでは辛いでしょう」
「辛いだと? 何故だ?」
彼女は動きを止め、おれを見た。
「つまらないでしょう、同じことを繰り返されては。違うの?」
「おれは兵士だ。つまらないとかそういう次元でこの場所に来たわけではない」
言い訳じみた返答を聞き、彼女は顔を顰めた。
初めて見る、のどかの嫌な顔だった。
「わたしは人類の多くのことを学んできた。ここからは動いていないから、
彼女は寝室への扉を開き、その真中で振り返った。冷淡な眼差しは、鋭いナイフとなっておれの心を切り裂く。
「わたしは嘘が嫌い。悪い嘘は許せる。そこには純粋な利益があって、個人にとっては重要な場合もあるから。でも、良い嘘は欺瞞でしかない。いつだって自分の感情を、事実を伝えるのに、意図して相手を騙すことに意味があるとは思えないから」
それじゃあ、また明日。彼女はそう言い残し、扉を閉じた。
独り部屋に残されたおれは、もう一度トイレに向かってから寝室へ戻った。
寝台の上では、のどかがよだれを垂らして寝ていた。
*
「不思議な夢を見たの」
やや大人びた口調でのどかが言う。おれは一瞬、どちらの彼女なのかわからなくなって、厳しい目で彼女を睨んでしまった。のどかは怯えたようにびくりと体を震わせる。
ターンテークだ。この目が、彼女に要らぬ情報を伝えたのだ。なるほど、意思疎通とはかくも難しい。
意を決してのどかが切り出したのが昼下がり。既に時刻は正午を回っていて、いつも通りテーブルの上で昼餉を摂っていた時である。のどかは明太クリーム、おれはペペロンチーノのパスタを啜っているところだった。
取り澄まして、フォークをパスタの小山に突き刺した。考え事ばかりしているせいか、やけに腹が減る。
「すまない。ええと、どんな夢を見たんだ?」
「うーん、よくわかんない」
そりゃないぜ、と目玉をぐるりと回して見せると、彼女はころころと笑った。
「すっごく不思議な夢なんだぁ。わたしがわたしじゃないみたいな」
「でも、夢を見てるのはのどかだろ。ということは、それは君じゃないのかい」
「何とも言えない。あんまり覚えてない。ねえ、としひろ」
唐突に話題が変えられるのにはもう慣れた。生返事を返しながらパスタを巻くおれに向けて彼女はあどけない笑顔を向ける。気になって仕方がないという、好奇心に満ちた眼差しが、残酷におれの心に抉り込んだ。
「としひろは、好きなひととかいないの?」
彼女はまた怯えてしまう。おれが動きを止めて、真っ直ぐにのどかを見つめていたせいだ。あまりにも長い時間が一瞬に感じられて、もじもじと落ち着かなげに身体を動かした彼女に気が付く。
視線を落とし、再びパスタを巻き取る作業で時間を稼ぐ。どう答えたものかと思案する前に、おれは、おれ自身に彼女が発した問いを投げかけ、自問せねばならなかった。
他人を愛する余裕なんて、おれには皆無だった。それよりも、圧倒的に憎む場面のほうが多かった気がする。戦争は人間性を奪い去るし、仮に大切なものを全て抱えようとしたならば、当事者の生命まで根こそぎ奪っていくだけの現実を備えている。何よりも自らが生き残るために、その他大勢を切り捨てる必要があった。
恥ずかしながら、おれは自分ひとりが死んで他が助かればいいという気高い価値観の下で戦い続けてきたわけじゃない。殺す理由はいつも、命令だから、仕事だから、だ。一殺多生など考えたこともない。ただ目の前の誰かを殺せと言われて、こいつは死ぬべき人間なんだな、と、良心と一緒に壊してしまう。
やがて、おれは問うた。
「どうして、そんなことが気になる」
「なんでだろう。なんていうか、としひろにも好きな人がいるのかなって、そう思っただけ。誠二は、人間は二人で一人になれる生き物だって言ってた。誰かを好きになる。それが生きることだって」
「並木が言っていたから、気になるのか、ええ?」
少し棘を含んだ口調で言ってしまう。しまったとばつの悪い顔をしてのどかを見ると、意外にもけろりとした眼差しがおれを迎える。
「としひろ、もう一回聞いてもいい?」無言の抵抗は、彼女の好奇心の前に容易く打ち砕かれた。「誰か好きなひとは、いるの?」
「……ならおれももう一度、なんだってそんなことを聞くのか、理由を訪ねてもいいか?」
お互いに質問ばかりし合っている不思議な会話の中で、のどかは照れくさそうにはにかんだ。それから、ふと我に返ったように自分の長い髪の毛を手でいじり始める。
「としひろは外から来たんでしょ? 外には、もっとたくさんの人がいるんだよね」
「ああ。何十年も戦争をしても絶滅しないくらい、人間ってのは地球上に存在している。それこそ天文学的な数だ。よくもここまで数を増やしたものだと思うよ」
「なら、一人くらいは、としひろも好きな人ができた?」
さて、どうだっただろうか。おれは首を捻って、自分の人生というやつに思いを馳せてみた。
おれは五十一歳になる。のどかが何歳かは正確に判明していないが、おれの半分も生きてはいないだろう。
十八歳の時、故郷の日本だけでなく、世界中が大騒ぎをしていたものだ。何しろこれほど質量のある物体が十一も地球への落下軌道に入っていたのだから無理も無い。落着による衝撃とそれに伴う気候変動、津波、衝撃波などの被害は想像を絶したし、当時の天体観測技術ではどこに落着するかの正確なことも判らなかった。人々は自分達の頭の上に突入体が降って来ないことを祈るばかりで、できることは何も無かった。
それから始まる第三次世界大戦。自衛隊に入隊したおれは、各地を転戦した。世界は冷戦期のようなきれいさっぱりとした対立構造ではなく、地域ごとに再燃した歴史問題、領土問題、エネルギー問題と、考えつく限りの口実を並べ立てて隣国を攻撃した。だから、強いて区別するなら攻撃した国とされた国という違いしかなかったように思う。とにかく全てが混沌としていて、明日には昨日の味方と銃を向け合っていることなど日常茶飯事だった。
果てしない消耗戦は永遠に続くかと思われたが、各国が遂に核兵器を使用するかどうかと迷い始めたところで沈静化の傾向が見られ、機能を停止していた国連に紛争調停を求める声が多く上がった。これを機に力の残った国々がどうにか組織をまとめ上げて、紛争をひとつひとつ潰していった。
その結果が、今の平和だ。国々は疲弊して、地形が変わるほどの激戦で人口は激減した。今や、この地球上に住まう人間は三十億を少し上回る程度。全盛期には七十億以上がいたというのだから俄には信じがたい。
しかし戦争は終わっても、問題は減るばかりか増える一方だった。歴史的な領土、歴史問題には一応の決着が付けられたものの、エネルギー問題や水資源の確保は深刻なレベルにまで達している。国連は今もありとあらゆる資源と人員を総動員して世界の立て直しを図っており、いくらか安定してはいるものの、まだ援助する国とされる国の格差が大きいのは否めない。
結果として、人々は事態を打開する方法として未知へと手を伸ばすことを決めた。即ち、突入体を分析して新技術を得ようというのである。
人を殺すことで己を生かす社会の中、自衛官として戦い続けたおれに好きな女の一人や二人がいると思っているのだろうか。
これまで意図的にのどかに戦争や殺人の話をすることを避けて来た。彼女は純粋すぎて大きなショックを受けてしまうだろうし、何より、のどかを脅かすようなことを口にすることは憚られた。
でも、本当は?
おれは、彼女に自らが人殺しだと告白できただろうか。
だから、おれは苦し紛れの答えを口にした。好きな人がいるのかという、少女の純朴な疑問に、大人らしい欺瞞を投げつけた。
「そんな時間は無かったから、今まで誰かを好きになったことは無い。でも、敢えておれがいちばん好きな人を選ぶとしたら、きっとのどかを選ぶ」
驚きに目を見開いている彼女が満面の笑みを浮かべるまで、それほど時間はかからなかった。のどかは「なんで?」とか「どうして?」などと問い返すこともなく、おれの言葉を真実のものとして捉え、心の底から喜んでいた。
その時になって気が付いた。のどかは誰かを好きになることは無かった。それは今まで、並木という人格のみを相手にしていたからだ。好きな人間がいれば嫌いな人間もいるということで、単一の並木という人間しか知らなかった彼女にとってみれば、誰かを好きになることはなかったのだ。それは一転して、嫌いになることもないということ。
誤魔化しの言葉を聞き、彼女が自分を好いてくれる人間がいる、その喜びと安堵を見出したのならば、おれはどうすればいいのか。自身の過去を詳らかに話して、嫌われればいいのだろうか。正直に話すほうが、彼女に礼を尽くしているといえる。そうなれば彼女はおれを嫌うだろう。たった二人しかいないこの
人を殺すよりも苦しいことがこの世に在るなんて思わなかった。そのことにようやく気が付いた時、この手から零れ落ちていったものの数に背中を寒いものが走る。
それでも。
おれは照れ隠しに微笑んでから、首を傾けて怒鳴った。
「コーヒー、コーヒー、コーヒー!」
「突入体内部には特殊な
電子音が鳴る。携帯端末の表示を見ると容量不足の表示。耐水性のある頑丈な液晶ディスプレイが声高に、自らの窮状を訴えかけてくる。電源を切って寝台の上へと端末を放り投げ、寝室の床に腰を下ろした。スウェットを挟んでも冷え切った床の冷気が伝わってくる。
薄暗い照明に照らされた寝室の、寝台しかない殺風景な風景も見飽きて来た。突入体内部に侵入して三週間が過ぎようとしていた。そろそろ空の色が恋しくなってくる頃合である。この程度で気が滅入るような自分ではないが、現状は一方的な消耗戦を強いられているに等しい。戦闘状況としては極めて不利だ。
集中していなければならない。これは任務であり、戦闘だ。ここは戦場なのだと思い込もうとする。
だが、その度にのどかの記憶がおれを引き戻した。暴力的なまでに温和な彼女の表情をどうして忘れることができようか。
軽く頭を振って寝台へと横たわり、自分で口にした記録の続きを考えてみた。
口では違和感と表現したものの、それは問いかけに等しいものだ。答えは決まっているのに、本当にそうなのかとしつこく問われているような。居心地が悪いのも当然だ、こちらは息つく暇もなく回答せざるを得ないのだから。
唐突に保証された平穏の中で浮かび上がったのは、他でもない己自身。これまでお前は何をして、どのような過去を築き上げてきたのか。これまで流した血を贖うだけの人生を歩んできたのか?
突入体が問いかけてくるのはある意味で漠然としていて、しかし真理に至る問いかけだ。つまり、自分自身の
お前は本当にこれでいいのか?
もっと他になれた自分がいたのではないか?
そう考えてしまうきっかけはもちろん、のどかだ。最近になって、のどかの中にいるというもう一人ののどかが言っていたことを理解し始める。
恐らくだが、のどかは白紙の人間として創造されたのだ。生命を生み出すという人智超越的な偉業に関してはこの際、何も触れないでおく。のどかはあらゆる人間のベースとなる素養を持った人物として必要とされ、突入体内部の――あるいは入り込んだ人間と関係を持つことで比較、学習が行われる。
彼女は言わば純粋無垢な子供のような存在だから、相対する人間は己の汚れを自覚するわけだ。おれの場合は、軍人として人を殺したこと、多くの悲惨な戦場を目の当たりにした記憶が彼女と退避されてしまう。それは総じておれ個人に収まり切る出来事ではないから、人類とのどかの対比として脳内に描かれてしまう。
それが彼女の存在理由。清らかなものを前にして、お前は今まで何をしてきたのだ、と問いかけること。
寝台の横に置いてあるサイドボード上のカップを手に取って一口飲む。冷め切ったコーヒーのひどい味が感じられるが、思考を明瞭にするには好都合だ。
のどかについては朧気ながら理解できてきた。ともなればいちばんの謎はやはり、突入体内部に存在するであろう異種知性体の目的だ。
三十三年前。突入体は世界に十一が落下した。ここ、アリソン・クレーターにある個体もそのひとつで、これは落着時に凄まじい運動エネルギーを放出し、地球環境の激変とそれに伴う第三次世界大戦を引き起こした。あの参事が彼女らの企図したものであったのかどうかを確認しなければならない。そのためには面と向かって問いかけるのがもっとも有効だ。
おれはダメ元で声に出してみた。
「並木。聞こえているのならば寝室へ来てくれないか。聞きたいことがある」
しばらく、沈黙が流れる。それはそうかと寝返りを打った時、唐突に扉が開いた。薄暗い寝室に、明るい居室からの明かりが差し込む。目を細めながら、均整の取れた人影を目を細めて見やった。
「どうして聞こえるとわかったの?」
大人びた女性の口調は、間違いなくあの日の女性のものだ。並木の人格が記憶を置いてけぼりにして生成されたものなのだから、おれにとっては並木だ。しかしのどかを並木誠二として扱うのは気が気でない。
おれは寝台の上で胡坐をかいて、眉を顰めた。やはり、のどかのような純朴さではなく理知的な輝きの灯る眼差しが癇に障る。
「もしかしたら聞こえているんじゃないかと思っただけだ。ダメ元ってやつだよ。論理的帰結では決してない」
「それは人間の言う勘というやつかしら」
「あてずっぽうってのが正しいな。勘も何も、試したみたというだけだ。それはそうと」
「何かしら」
「聞きたいことがある……と、その前に君の名前を聞いておこう」
彼女は何を言っているのか理解できないという風に顔を顰める。
艶めかしい唇が動く前におれは畳みかけた。
「君はのどかだ。だが彼女自身とは別の人格であるのなら、区別するためにも名前を知っておきたい」
「のどかというのがわたしの名前なのだけれど」
「人間でも多重人格者は各々の名前を持っている。これくらい許容してくれ。第一、同じ名前の二人をどう呼び分ければいいっていうんだ。それに、君がのどかとは別の知性だというのなら、識別のために別の
ふわりと伸びた前髪が彼女の目に垂れる。それを鬱陶しそうに掻き上げながら、並木誠二であった人格は唇を引き結んでいた。
唐突に長い沈黙が舞い降りる。どうしてそこまで悩むのかと思えるほどの時間を、彼女は黙考に費やした。さすがにおれも居心地が悪くなり、寝台の上で身じろぎした時だった。
のどかがぴくりと頬をひきつらせ、素早い動作でおれに向かって左側の壁を振り返った。白いワンピースの袖から覗く美しい絹の肌に包まれた細腕が翻り、サッと宙を薙ぐ。
数秒の後、おれは驚きに身を固くして”空中”に座っていた。
意識だけがどこかに飛んでいったようで、視点は空に近い遥か高みにあった。どこまでも透き通る青空と、綿あめのような雲。水平線の彼方から立ち上る入道雲を、今は見上げてはいない。ほぼ同じ高度から、首を傾けることなく眺めている。
あまりにも高い場所に来たせいで、足から力が抜けていくのを感じた。高高度からの空挺降下には慣れ親しんでいるが、何の装備も無しに地上数百メートルの場所にいるのは生きた心地がしなかった。おれはこれまで築き上げた自信が、単なる科学技術を信頼し、裏切られていないというだけの結果に過ぎないと思い知った。
慌てふためいているおれを、遠くからのどからしき女の声が呼ぶ。
(見える? あれはあなたの仲間でしょう)
「なんだって? そもそもこいつはなんなんだ。空しか見えない」
(落ち着いて。あなたはまだあの部屋にいる。視覚だけをわたしの目とつないでいるだけ。さあ、よく目を凝らして御覧なさい)
一度、目を閉じて呼吸を整える。確かに足の裏や肌の感触は元のままだ。体も落下しているような感覚は無い。姿勢も座ったままのようである。そうとわかればすぐに落ち着くことができた。おれの感覚が彼女に操られている件はひとまず置いておくとして、彼女が見せようとしているものを知るほうが先決だ。
改めて目の前に広がる青空を見る。おれにとっては、かれこれ三週間ぶりの青空だ。かなりの間をのどかと二人きりで過ごしていたのだと感慨に耽る間もなく、それは唐突に現れた。
あまりにも現実とはかけ離れた感覚だが、まだ影も形も見えないのに、どこにいるかが手に取るようにわかる。細かい物体の形状や詳細な情報は判断不能だが、とにかくその位置だけはわかる、という奇妙な感覚に、おれは戸惑いを隠せなかった。少しして、それは電磁波を用いたレーダーによる索敵情報が、ダイレクトに脳へ流れ込んでいるのだと並木が教えてくれた。
機数は四。接近速度は時速二百五十キロ、高度は千メートルといったところだ。この視点からではルックダウンしていることになる。飛行物体は間隔を保ったまま、真っ直ぐにこちらへ向けて空を驀進している。接近しつつある編隊は輸送ヘリと攻撃ヘリを組み合わせた強襲部隊なのではないか、と容易に想像がついた。人類の持つ機器でこのような特性を示すのはそれくらいだし、突入体付近を飛び回る航空機など軍用機以外には有り得ない。
わからないのが、ここへ軍がやってきた理由だ。どこの所属かは知らないが、突入体の調査は定期的にも行われていない。得られる情報があまりにも少ないし、周辺には人を寄せ付けない特殊な力場が発生しているからだ。おれが近付けたのは、並木が救助要請を出してそれに答えたからにすぎない。
だが、並木の今の反応からして彼女自身はこの強襲部隊を招かれざる客として認識しているようだ。そうなると、おれと同じように並木が呼び寄せたのではないと想像がつく。
考えられる可能性は三つだ。一つ目は、国連が唐突な突入体攻撃に踏み切ったということ。だが、攻撃のタイミングを今と定めた理由が思いつかない。よしんば突入体内部へと消えて通信途絶状態のおれを救助するためだとしても、為す術がないことは彼らも重々承知しているはずだ。力場が消えているとしても、分厚い特殊金属の外殻を破ることは戦車砲でも不可能なのだから。
二つ目に、攻撃ではなく対話を試みるためにここへ来たという仮説。先述したように、国連としてはおれこと有沢俊博が突入体に拉致されたと考えていても不思議ではない。救出という大義名分を振りかざして、何とか意思疎通を図ろうとしているのかもしれない。
三つ目は、望みの薄い調査のためにやってきたということ。これは最も可能性として低いものだ。既に基本調査は三十年前に終了しているし、目当たらしい進展もない。
だが、万が一突入体を攻撃するために派遣された強襲部隊ならば、並木はどのように彼らを扱うのだろう?
その時頭を過ったのは、おれがPGTAS、黛と共に乗り込んでいたハーキュリーが謎の力の干渉を受けて墜落した場面だ。この突入体には、軍用機を超常的な力で撃墜する能力がある。
「並木!」
(それはもしかしてわたしのことかしら?)
「そうだ。もしかして君は、あのヘリを全て墜落させることができるんじゃないのか。おれが乗っていた輸送機を落としたように、何がしかの力を発生させて」
(結論から言えば可能よ。でもそれは何も特別なことではないわ)
「どういうことだ」
(
「それは無理だ。核爆発によるEMPさえ防御できる水準の対電磁防護が施されている。それこそ、放射線領域のガンマ線などを照射すれば物理的に破壊できるだろうが、ただの電磁波では、電子的な破壊はほぼ不可能だ」
と、微かな苛立ちが伝わってきた。並木の感情だろう。その後で、ぶっきらぼうな彼女の声が聞こえてきた。
(自分の信じるものと事実と、どちらが信用に足るのか考えてもみなさい。あなたの輸送機を墜落させたのは忘れたの? あの時はターボファンエンジン周辺の回路を集中的に狙ったから、あなたは無事に降下できた。その事実を忘れてはいないと思うのだけれど)
つまり、同じことを向かい来る強襲部隊にも実行することが可能ということか。
ここで突入体が強襲部隊を撃墜したとしても、それは正当防衛の範疇に何とか収まるだろうが、国連は黙ってはいまい。下手をすれば、突入体と人類の間で戦端が開かれてしまう。
「ちくしょう、並木。おれは彼らを死なせたくない。君は彼らを撃墜するつもりなのか?」
(それは彼ら次第。今までは黙っていたけど、これ以上わたしたちに危害を加えるつもりならば容赦はしない)
最悪のパターンだ。極度の緊張状態に陥ったおれは脳からアドレナリンが分泌されるのを生々しく感じ取り、かえって頭が冴えてくる。
とにかく、近付いてくる強襲部隊の所属と目的を問いただすほうが先決だ。
おれは頭の中で文言を考えながら問うた。
「並木、彼らと通信がしたい。できるか」
(問題ないわ。この素体はあらゆる電磁波を発信できるから。今すぐ通信する?)
「頼む」
(では、どうぞ)
自然な流れで言われたので、一瞬、もう準備ができたのかと硬直してしまった。すぐに気を取り直して、近付く機影へ話しかける。
「アリソン・クレーターへ接近する回転翼機部隊に告ぐ。こちらTFOOTE、日本国陸上自衛軍の有沢俊博一等陸尉だ。貴隊の来訪目的と所属、指揮官の官姓名を報せよ」
応答は無かった。めげずに何度も誰何を繰り返す。こちらの所持している可能な限りの情報を出して説得するが、部隊からは何の返信も無い。
特殊作戦中なのだろうか、という疑問が唐突に頭の中に降って湧いた。これが国連の実行した強襲作戦であり、特殊任務部隊が作戦に従事しているのならば、近距離用無線を含めた全ての通信機器を無線封鎖状態に置いている可能性もある。少なくとも、数機のヘリコプターならばレーザー通信による秘匿開戦を確保することは可能だ。
三十三年前ならいざ知らず、突入体の調査や接触の試みを図る研究母体がTFOOTEに移ってからは、近隣への接近はもちろん、軍による攻撃任務など行えない法整備が整えられた。第三次世界大戦の引き金となった十一の突入体に少なからぬ怨嗟を唱える国もあるにはあるが、最新鋭の戦車砲でも傷を付けられない特殊な外殻を持つ突入体に、何をできる筈も無かった。さらには、異星文明の産物にむやみやたらと熱核兵器を投射する訳にもいかず、その準備だけが熱心に整えられたに留まる。
現状は非常に緊迫している。突入体の戦闘力が不明なだけではなく、初めて遭遇した知性体と戦闘に発展するなど、人類史上最大の汚点となるだろう。事は人類内だけでない、知性体としての尊厳に関わる問題だ。
唐突に憤怒が沸き起こった。いったいどこの馬鹿者がこの攻撃命令を下したのか、腸の煮えくり返る思いで誰何を続ける。
相対距離が百五十キロを切った時点で、おれはもう一つの航空機が遠方から接近するのを見た。高速で飛来するステルス爆撃機だ。この速度だと十二分後には攻撃が開始される。一連の先制攻撃の後で、歩兵部隊がこちらにヘリで乗り付けるのだろう。どのような攻撃手段を持つか知らないが、とにかく突入体内部への侵入を試みる筈だ。
おれは少し考えた末、次の一手に出た。無線封鎖をしているのならば、それをこじ開けてやるまでだ。
「並木、頼みがある」
(何かしら?)
「接近する回転翼機に搭乗していると思われる兵員と直接交信したい。兵員が装備していると思われる個人携帯無線に電磁波を照射するんだ」
(構わないけれど、軍用暗号によって遮断されると思う。それに、先方が電源を切っていたらそれまでよ)
「非常時の公開通信周波数を使う。それに、無線は送信だけが封鎖されていると考えられる。受信のみならば誰にも悟られないからな。どうかおれの声を彼らに届けてくれ。頼む。君を傷付けさせたくないんだ」
並木は押し黙った。茫洋とした沈黙の向こうから、彼女の怒りが漠然と感じられたが、おれは譲るつもりはさらさらなかった。自分が口にしているのが詭弁で、相手の尊厳を逆手にとって自分の大事なものを守るために利用しているだけだとしても。
沈黙は長く感じられた。接近する二つの部隊を見つめながら、永遠とも思える数分を耐え忍ぶ。
(わかったわ。今……繋いだ)
やがて、彼女が言った。すぐに回線が接続されたため、例を言う暇もない。それは彼女なりの配慮であっただろうか、それとも自尊心故の行動であっただろうか。
「アリソン・クレーターへ接近する強襲部隊へ告げる。こちらTFOOTE、日本国陸上自衛軍所属の有沢俊博一等陸尉だ。こちらが接触した知性体は、突入体への攻撃があり次第反撃の用意があると宣言している。小官にはこの攻撃を止める術はない。作戦の成功する可能性は極めて低いと言わざるを得ない。直ちに作戦を中止されたい。繰り返す――」
今度は反応があった。
<こちら陸上自衛軍特殊作戦群第一小隊、
「増田一尉、おれは今、突入体内部で任務を遂行している。TFOOTE主導の並木誠二救出任務だ。当人との接触も果たしているが、あまりにも複雑な状況のため説明はできない」
<貴官は如何なる方法でこちらの通信に接続しているのか。完全な無線封鎖、EMP防護も完璧な強襲ヘリだぞ>
「突入体はあらゆる電磁波を目標に投射することができる。これはたった今判明したことだ。増田一尉、爆撃機がこちらに向かっているのも感知している。攻撃が敢行されれば、突入体内部の知性体は貴官らに宣戦を布告するらしい」
<先ほどとは微妙に表現が違うな。反撃されるだけで、戦争状態になるとは聞いていない>
「なら彼女の言葉をそのまま伝えよう。『今までは黙っていたけど、これ以上わたしたちに危害を加えるつもりならば容赦はしない』。彼女は本気だが、こうしてあなた方を説得する機会をくれた。頼む、攻撃を中止してくれ。間違いなく、これは悲劇に直結する」
<状況は理解したが、有沢一尉、君が生存していることにより攻撃は確実なものとなった。わたしの権限ではどうにもできない>
「どういうことだ。このままだと、突入体内部の知性体と戦争状態に陥るぞ。アリソン・クレーターだけではない。世界に散らばる十個の突入体とこの突入体が連動していないとは限らない」
<わたしの権限ではないのだ、一尉。この作戦は国際連合決議に則っている。取り消すためには国連議会の承認を得るしかない。さらに言えば、これは君が殺害もしくは拉致された件に対する我々の回答なのだ。君を救出することも戦術目標に含まれている>
「ちくしょう、増田一尉。おれはおれの命なんて惜しくはない。おれのために戦争を起こすなんて詭弁を使わないでくれ」
<考えろ、一尉。突入体を攻撃することは既定路線だ。何とか中断できる理由を捻り出せ>
顔も知らない同階級の男から言われ、おれは怒りを爆発させそうになった。この男は何を言っているのか。恐らくは自分ほど歳を食ってはいまい。第三次大戦の煽りから、自衛軍では平均年齢が下がったままだ。どこの国家軍隊でも言えることではあるが、若いということは経験が少ないということである。
どうするべきか。とにかく考えに考えた。何度か強襲ヘリや爆撃機の動力源に作用して威嚇することも考えたが、作戦行動中の特殊任務部隊に対して示威行為が効果を示すとは思えないし、一歩間違えば命を奪う危険もある。そうなれば国連の攻撃には歯止めが利かなくなるだろう。
そう、攻撃は今回だけではないのかもしれない。おれは背中を冷たいものが走るのを感じた。
今後も国連軍に攻撃を躊躇わせるだけの合理的な理由が無ければならない。その場しのぎで増田一尉らを追い払ったところで、事態は好転するとは限らなかった。
非常にシビアな状況だ。おれは絶望的な気持ちで、残りのタイムリミットが六分程度に縮まるのをなんとなく感じていた。
そもそもおれは任務中なのだ。任務中であるのに、どうして味方から攻撃されねばならないのだ。国連軍の攻撃があるのならば、TFOOTEは始めからおれをここには派遣しなかっただろう――
そこで気が付く。打開策は急速に形になり、頭の中を浮上してきた。
おれは少しだけ考えを整理してから、また増田一尉に呼びかけた。
「増田一尉。おれは今現在、TFOOTEの指揮下にて突入体内部の並木誠二の救出任務、及び突入体に関する調査任務を帯びてここにいる。もちろん、おれ自身も突入体の内部だ」
<理解している。だからどうしたというんだ>
「つまり、貴官らの攻撃はTFOOTE調査機関の業務遂行を妨害するものとみなされるだろう。第三次大戦後、国連の基本条項に学術的任務を軍事的脅威、または武力行使によって妨害並びに中断させてはならないと明記されている。軍事参謀委員会がまだ仕事をしているかどうかは知らないが、これは立派な条項違反だ」
無線機の向こうで増田一尉が押し黙った。おれは畳みかけるように矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「増田、すぐに引き返すんだ。そして司令部へ連絡しろ。貴官らの作戦行動は国際連合の設立理念、並びにその意義に対して重大な違反を起こすものである、と。今ならまだ間に合う」
少しの間、沈黙が降りた。また何か言うべきかとも思ったが、おれは焦る自分を制して待ち続けた。
そして、変化は唐突に現れた。突入体からの電磁波投射により探知していた爆撃機が進路を変え、帰投コースに乗った。ヘリボーン部隊は速度を緩め、緩やかな子を描いて元来た位置へと機首を向ける。
ややあって、増田一尉から連絡が入った。
<有沢一尉……驚いたな、そんな離れ業があったとは>
「世辞はいい。どうするんだ」
<わたしがしばらく通信を切っていたのは、司令部へ連絡するためだ。結果から言うと、攻撃は無期限に延期された。現在、全部隊が回れ右をしている。司令部ではわたしからの報告が入るなり、派遣されていた国連特使が大慌てで作戦中止を命令したそうだ>
胸をなでおろすと同時に、大きな疲労が体にのしかかってきた。悲劇的な戦争を何とか食い止めたのだという安心感と達成感がないまぜになり、ヒステリックな笑いが込み上げてきた。
「ありがとう、一尉。どうなることかと思った」
<わたしもだ、有沢一尉。君はまだ任務中なんだな?>
「そうだ。今は事情があり帰還できないが、必ず帰ってみせる」
<それは誰かとの約束なのか>
「約束、だ? なんだってそんなことをしなければならないんだ。おれはおれにできることをする。今は、この突入体についてがおれの関心の全てだ。任務はやり遂げる」
<なるほどな。君と、一度会って話がしてみたくなってきたよ>
「仕事が終わったらな。〇一より、以上」
通信が切れると同時に、ぶつりとコンセントが抜かれたテレビのように視界が元に戻る。
見慣れた白い寝室の壁がすぐ目の前に出現し、地平線の彼方から唐突に壁が間近まで移動してきたかのような錯覚を覚えた。びくりと肩を震わせてから大きく息を吐きだし、額に浮かんだ汗を服の袖で拭いながら力なく床面に座り込んだ。
上気した体を冷やすにはちょうどいい。突入体内部の冷たい空気が服の中へと静かに浸透してきて心地が良かった。自分はやりきったのだという達成感と安堵に胸をなでおろしながら、隣に立っておれを見下ろしているのどか――並木を見上げる。
彼女は両腕をぴたりと体の脇に垂らして、おれを見つめていた。のどかは幼いくせに、身長は平均以上あるから、座り込むおれを照明を背にして上から覗き込む格好だ。
しかし、そこに威圧感など欠片もなかった。どこか親しみすら感じさせる沈黙を纏いながら、並木は静かにおれを見つめていた。
ある疑問が頭に浮かぶ。
そもそも、突入体の超常現象とすら錯覚する
今回の彼女の言動には、人間であるおれですら理解しがたいものがあった気がする。たとえば、攻撃されれば反撃するという意思表明だ。厳密に言えば、彼女はおれではなく、あらゆる無線周波数帯でその類の声明を放送すればよかったのだ。結果的にはおれが増田一尉の無線機へ直接語り掛けることを考案しはしたものの、突入体の能力的限界については並木のほうが造詣に深い筈だ。
疑問点はまだある。そもそも攻撃されても、突入体には傷ひとつ付かないだろう。戦車砲と誘導爆弾では破壊力の規模が違うが、そもそも滑腔砲を受けても傷ひとつ付かない外殻が爆撃ごときでどうにかなることは想像できない。それほど、現代の戦車砲は凄まじい貫徹力を誇っている。
そうした懸念が怒りに転嫁されていく様子が顔に出ていたのか、彼女は少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「その様子だと、気が付いたみたいね」
「やはり、君はわざとおれにやらせたのか。こんなに苦しいことを?」
「わたしは人類と接触するわけにはいかないの。わかってちょうだい、俊博。我々が言葉を交わすことを許されたのは、あなただけだから」
「どうして、おれとしか話せないんだ。突入体への人類が試みた意思疎通が悉く失敗してきたのは、君達自身の制約だというのか」
また少し黙り込んだ後、並木は決意の光を瞳に宿し、話し始めた。
「我々はもとより、この星の知性体ではない。この地球へやってきたのは、まったくの偶然なの。わたしたちの住んでいた故郷の星は、わたしたちの科学技術を以てしても修復できないほどの戦乱の果てに放棄されることとなった」
彼らは争いを繰り返し、その果てに辿り着いた超科学を用いて、刻々と破壊されゆく惑星からの脱出を試みた。そこで問題となったのが、あらゆる個人を選別して特定の知性だけを宇宙へと逃がすのか、それとも尊厳などかなぐり捨てて全員が共存する道を選ぶか。
おれは彼女の懺悔にも似た独白を聞きながら思った。どうしてその二者択一なのか。他にも選択肢はなかったのだろうか。そして、どちらの結末を選んだから、彼女はここにいるのだろう、と。
彼女曰く。彼らは長い戦乱から争いや対立という概念を拒むことを選択した。
これ以上、誰も傷付けないようにしなくてはならない。それは彼らの間だけではなく、他の惑星に芽吹いているであろう知的生命に関しても平等に実施されねばならなかった。究極的な非暴力こそが彼らの獲得した進化であり、そのための措置が講じられることとなった。
彼らはまず、ノアの方舟となる船を作った。科学の粋を集めて建造された十一の船は素晴らしい性能を持っていて、数十光年の彼方にある惑星までの航行でも何ら支障はないほどだった。高度な自動修復機能と自律航行機能を併せ持ち、動力源は小型の固定重力波源、つまり制御可能なブラックホールだ。半永久的に生じる空間の
これだけの方舟を建造しながらも、問題点はまだあった。つまり、減少したとはいえ膨大な人口をどうやってこの十一の船に乗り組ませるかということだ。
おれが見た限り、突入体内部にはさほど大きな空間は広がっていない。体積のほとんどが機関部や力場発生装置などで占められているためだ。並木の話では生命体が存在し得る空間はおれとのどかが生活する寝室などの、有体に言えばおれのよく知る空間のみだ。
だが、並木たち異星文明は、斬新なアイデアでこの問題を解決した。
定員の制約は物理的なものだ。ならば、形而上の概念へと自らを昇華させ、情報体としての知性を保持すればいい。
計画は躊躇なく行動に移された。しかし肉体を棄てるということへ反発を抱く人々に対しては、必ずしも強要はされなかった。滅びゆく惑星に残り、同じ生き物として責任を取って故郷と運命を共にするという者も少なからずいた。彼らは一人一人の意思を強靭な忍耐強さで尊重し、やがて精神体となった人々は、惑星に残る仲間の手で打ち上げられた。
そうして、並木たちの長い旅が始まった。
月日にしてどれほどの時間が経過したのかはわからない。重力波を制御しているために突入体の推進は自由落下状態で慣性ははたらかず、限りなく光速に近い速度で航行するために外部と内部の時間経過には顕著な差が出たためだ。
気の遠くなるような年月を、彼らは話し合いに費やした。これまでの自分たちの行い、歴史を鑑み、肉体すら捨てた精神体となってまで生き延びた彼らは、もはや生命の輪廻から外れたといっても過言ではなかった。寿命という概念は消え失せ、どこまでも広がる無窮の海原を、彼らはそれなりに充実した時間と共に通り過ぎて行った。
しかし、旅は終わりが定められていた。彼らはオリオン腕の外腕部から銀河系中心部へ向けて旅を続けていたが、その進路の先にはひとつの豊かな恒星系があり、以前から居住が可能な惑星が存在すると調査結果が出されていたのだ。
その星系の名は太陽系と言った。
新たなフロンティアへの期待は膨らむばかりで、彼らは大いに胸躍らせていたのだという。何しろ、肉体さえ取り戻せば彼らは文明を再興できる。そのために必要な場所は既に見つかっており、遠からぬ未来、そこへ辿り着くことが確実とされていたからだ。
だが、そこで予想外の出来事が起こった。
始めは、太陽系から不自然な電磁波が発信されていることだった。極めて微弱で、注意して観測していなければ見逃すほどのものだったのだが、どうやら有意味なものであるらしかった。
これには彼らも冷静ではいれらなかった。自分達の目指す惑星には、既に文明が栄えているらしい。電磁波の存在が確認されているということは、原始的な生物ではなく理性に象られた知性体である可能性が極めて高かった。非暴力だけでなく不干渉もその信念としていた彼らの中では、この文明との接触を避けて別の惑星へ避退するべきだと声を上げる者が出始めた。
しかし、彼らは行き先を変えることができなかった。突入体内部の重力波源が小刻みに振動を開始しており、他の星系へと移動するために酷使を続けるには、一度、抜本的なメンテナンスを行う必要があった。
選択の余地はなかった。彼らは地球へ向けて驀進を続けた。途中、指数関数的に増大する電磁波が地球文明の隆盛を報せてはいたが、終ぞ通信が送られることはないまま、彼らは地球の大気圏へと突入していった。
結果として巻き起こったのが、地球環境の変化と第三次世界大戦だ。
おれは並木たちの話を聞き終えた後で、恐る恐る問うた。
「では、君以外にもこの突入体内部には知性が存在するということか。君が一人称を我々としているのも、それが理由なんだな」
並木はゆっくりと頷いた。
「本当に申し訳ないと、我々は思っている。けれど、そんな言葉や感情で許してもらおうなんて思っていないし、懺悔なんてすることもおこがましいわ。わたしたちは、己の身可愛さで最悪の選択をした。本来、生命とは星と共に潰えるものなのよ、俊博。どんなに大切に想っている誰かが、どれだけ自分の周囲にいようとも、踏み越えてはならない一線がある」
「精神体になったのが、その線のひとつだったというわけか。君達はおれたち人類にしてしまったことをずっと悔いてきた。なら、さっきのはやはりはったりだったんだな。人類を攻撃する意思は無かった、と」
「そうするのが、彼らを止めるのに最もいい方法だと思ったから。人類であるからには、人類にしか説得できないし、伝えられないことがある。わたしとあなたはこうして会話をすることで、多少の信頼関係を築いてきた。だけど、他の人間とわたしの間にそれはない」
「利用された訳だ、おれは」
拗ねた風に言ってみせるが、おれにも彼女の言いたいことは十二分に理解できていた。
どちらにしろ、はじめに攻撃してきたのは人間のほうなのだ。確かに、突入体の落下によって、地球人類は決して癒しようのない傷を負った。敢えて言えば、それはチャンスだったのだ。おれたち人間が、争いをやめて対話と協調により世界を築くための、またとない機会だった。
彼女らの落下によって十数年以上を戦争に費やしてきたおれがこんなことを言うのもおかしいのだろうが、決して並木たちを憎むことはできなかった。何故なら、彼女たちの立場に自分達が置かれたら、彼女たちが取った選択肢以外を選ぶことはできそうにないからだ。
おれは立ち上がり、自分の寝台に腰掛け、仰向けに寝転がった。かなりの疲労感が体にのしかかるが、それでも彼女と話すことはやめられそうもない。
寝台の端に並木が腰掛けるのを感じる。おれは天井の一点を見つめながら、彼女がおれの膝に手を置くのを感じていた。
「正直に言うと、あなたはもう少し野蛮に事態を解決するかと思っていたわ。でも、そうはしなかった。双方にとっての未来を見据えて、最高の結果が得られるように努力した。そしてわたしのことを知ったからといって、怒り狂うわけでもない」
「おれが腑抜けだと言いたいのか、君は」
「その逆よ。本当に強い人。あなたにならわたしの名前を教えてもいい」
思わず状態を起こし、母性的な微笑みを浮かべた彼女の顔を見た。
「なんだ。やっぱり、並木が名前じゃなかったんだな」
「厳密には、わたしは並木誠二ではなくのどかなのだけど、あなたは他の名前で呼びたいようだから。わたしの以前の名前は、アウレスエリヤというの」
「そうか。うん、綺麗な名前だな」
おれは視線を彷徨わせて、柄にもないことを口走った。彼女――アウレスエリヤは微笑みながら頷いた。
「ありがとう、俊博。ちなみに、この名前は『静かな者』という意味を込められているの。その辺りは、あなた方と変わらない風習ね」
「意外に共通点が多そうだ。きっと、おれたちは仲良くできるよ」
「そうできれば、本当に素晴らしいことだわ。だから、俊博。あの子に色々と話してあげてちょうだいね」
約束よ、と言い残して、アウレスエリヤは静かに瞳を閉じた。
揺らいだ上体を慌てて抱き留めた時、既に彼女は眠っていた。
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