第二話

 こうして、彼女との奇妙な生活が始まった。

 のどかはよく喋った。ともすれば、小鳥が耳元で囀るのと同じくらい五月蝿かったが、これほど心地よいものも無いのではないかと思うくらい、彼女の声は、綺麗だった。拙い言葉を精一杯に使って、おれがどこから来たのか、どんな人間なのか、世界はどうなっているのかを、根掘り葉掘り聞きたがった。

 始めは如何なる機密事項も喋り漏らさないようにと気を張っていたものの、次第に身構えることに呆れてしまうほど、彼女の純情さを目の当たりにした。

 彼女が知りたがったのは、どこから来たのか、おれが誰なのか、どんな人間なのか、ということだ。取り留めも無い会話に思えたが、のどかにとってはまったく真剣そのもので、自身の知的好奇心を満たすべく最大限の努力をしているようだった。

 純朴なのどかの為人とは打って変わり、突入体の内部は異質なテクノロジーで満ちていた。

 例えば「たべもの機械」だ。見てくれは冷蔵庫のようで、壁の一面に他の扉と共に並んで埋まっている。観音開きの扉の前で自分が食べたいものを口ずさめば、何でも都合してくれるという優れものだ。これは驚くべきことだった。三回連続で唱え、数瞬を挟んで扉を開くと、中に出来立ての、本物の食事が皿に盛られて乗っているのだ。どこでどうやって調理しているのかを考えたが、そもそもそんな短時間で調理することが可能なのかを疑問に感じざるを得なく、現実的な説明は何ひとつとしてできなかった。

 壁とも思える場所に扉があり、突入体内部は恐ろしく広い空間で満たされていることと似ているようで、「たべもの機械」の他にも「しょっきあらい機械」、「のみもの機械」などなど、多くの機械が超常現象としか思えない機能で、彼女の生活を助けていた。壁一面に並んだ扉はそれぞれが何らかの機械で、主な生活物資の供給はここから自由に行えた。

 これだけの生活水準を満たしながら、外界とも接せずに生きるということは、如何に人間を真っ白に育て上げるかを、おれは考えたことがなかった。

 社会を経験していないということは即ち、生活できないということで、彼女が如何に大切に――悪く言えば、独占的に――育ったのかは、容易に理解できた。特別な操作や知識が必要ないのだから、彼女は何もしていないことと同じなのだ。

 何も書かれていない本と同じだ。生きていけばページが増えていく。おれたちは悲しいこと、嬉しいこと、感情に左右される千変万化の脚色を出来事に沿えながら、日記を記すように、自分という本に刻み続けている。

  ただ、生きている。それが恐ろしいことなのだと、おれは気付いた。のどかは、今まで、そうしてこなかったのだ。だから、おれという本を開いて、懸命に、そして無邪気に、自らの空白を埋めようとしていた。

 それは、生きているということではないのか。

 そして、これはおれ個人の見解であることを前置きしておきたいのだが、これらのテクノロジーに囲まれて生活を送った経験から感じ取ったのは、どうやらのどかは人間ではないらしい、ということだ。

「ハンバーガー、ハンバーガー、ハンバーガー!」

 高い声で命じると、「たべもの機械」の内部でブーンと羽音のような音がする。それが収まると、彼女はいそいそと扉を開け、まだ熱いハンバーガーが載せられた皿を取り出した。部屋の中央にあるテーブルの前に座るおれの元へとやってくる。

「はい、としひろ」

 もう何度も呼ばれているというのに、彼女がおれの名を呼ぶのは一向に上達しなかった。

 彼女が歩くたびにぽんぽん跳ねるハンバーガーを皿におさえつけてから受け取る。

「ありがとう。君の分は?」

「いま取ってくる!」

 ぱたぱたとたべもの機械に走り寄り、今度は「パンケーキ、パンケーキ、パンケーキ!」と叫んでいる彼女の後姿は、可憐だ。

 この三日でおれは思い知っていた。のどかという女の持つ、引力のような華やかさを。

 おれとのどかが住まうこの部屋には、テーブル以外に壁一面に嵌め込まれたあらゆる機械以外には、特に目につく調度品は置かれていない。殺風景で無機質な部屋だ。室温は二十度ほどに保たれており、壁や床は適度に暖められているために素足でも寒く感じることはなかった。今も黛が鎮座している筈の、外界とこことを隔絶するエアロックとも思えるあの部屋より、格段に暖かい。人が住む空間としてデザインされたらしい。

 隣はシャワールーム、もう一面にはおれとのどかが初日に潜って来た入口がある筈だが、おれが何を命じたところで開きもしなかった。

 彼女に自覚はないが、突入体内部のシステムのプライオリティはのどかを最高位として認識している。つまり、何かあれば排除されるのはおれであって、のどかではない。当然の帰結だが、超技術の数々をもってすれば、人間一人を消し去ることなど容易いように思える。

 どこまでも能天気なのどかと対照的に、おれの置かれた状況はスリリングなものだということだ。

 まったく面白くない。

 のどかはこの部屋から出て行こうとはしなかったから、彼女が部屋を監視しているであろう何かに命じれば出ていけるのかもしれない。彼女はここから出たくないと思っている。理由はわからなかった。ただ単に外界には馴染めないと考えているからかもしれない。それとも、ここ以外に世界があるのだと知らないが故か。

 「かもしれない」。おれはこの言葉を胸中で大量に呟く羽目になった。

 自分の分のパンケーキをテーブルに載せ、のどかはうきうきとした様子でナイフとフォークを握る。元が美しいだけに、背筋を伸ばしてマナーよく食器を振るう様を見ていると、イギリス王室の大公女でも相手にしているかのようだ。あの国は十年前に既に一度灰となったが、そうした、気品を第一とする気高い精神から律せられる体の動きは、見ていて飽きない。

 美味そうにパンケーキを口へと放り込んでいくのを見つめながら、おれは戸惑いを隠せなかった。今後、どうするべきなのか、行動指針がまるで立てられずにいる。

 一応、携帯端末にテキストファイルでレポートを記入してはいる。音声記録も続行中で、主たる記録媒体はこちらの予定だ。あらゆる無線周波数でハッキングされたとしても、内部で物理的にストレージを隔離してある防諜式の端末で記録を行っている。

 名目上はここに並木という人物を救助しにきているわけだが、彼女からは聞きだすことができずにいた。少なくとも、ここには一人の男がいた筈であり、その彼が姿を見せないとなると、悪い想像が頭をよぎる。最悪の場合、おれも「いたはずなのにいなくなる」ことになりかねない。おれの失踪は考え得る限り最悪の展開で、何としても生きて戻る必要がある。

 いつの間にか食事を終えたのどかが、首を傾げながらこちらを見た。長い髪の毛がぱさりと頬にかかり、口の端についたメープルシロップがお茶目だ。

 おれは「ようふく機械」から出て来たナプキンで、彼女の口元を拭ってやった。子供のように、のどかは自分の顎をつんと前に出し、嬉しそうに目を細めた。

「俊博、食べないの?」

「うん? ああ、考え事をしていたんだ。ちゃんと食べるさ」

 冷めたハンバーガーに手を伸ばすと、のどかは微笑み、自分の皿を片付けに走った。

 おれが身に着けていた装備一式は、BDU、グローブ、各種ポーチを据え付けたデューティベルトだけだった。今、それらは部屋の隅に洗濯されて畳まれており、俺はベルトから下げたホルスターだけを身に着け、後は用意された白いシャツとスラックスに袖を通している。これも「ようふく機械」からのどかが出したものだった。

 ハンバーガーを食べ終わる前に、のどかはテーブルに戻って来て、両肘を卓上についた。その上に顎を乗せ、唇をつんと出す。

 自分の顔がさっぱりと綺麗になると、のどかは椅子に座ったままぶらぶらを足を揺らした。

「今日は、なにをお話しする?」

 話す。

 そう、話すことだ。

 おれは今日まで、彼女と話してきた。外のこと。おれのこと。黛のこと。驚くべきというべきか、当然というべきか、のどかは地球について何ひとつ知らないに等しかった。

 「純粋なんだな」とおれは呟いたことがある。すると彼女は「純粋ってなに?」と問い、「混じりっ気のないことだ」というときょとんとこちらを見つめて、「わたしが何と混ざるの?」と聞いてきた。

 それほど、彼女は、モノを知らない。だから、おれたちは、様々なことを話し合った。だけどのどかについては何も話していない。これは不公平だ。だが、おれがそれを彼女に伝えたところで、また同じような会話の連続がやってくるだけだろう。

 他者との比較をして、人間は初めて己を知ることができる。他人と自分はどう違うのか、という点から、立ち位置を知る。星を見て方角を定める砂漠の旅人のように。

「そうだな、今日は何を話そうか」

 彼女は嬉しそうに微笑み、おれは少し迷った末に、持ったままのナプキンで額を拭った。

 そろそろ、のどかについて知る時だろう。避けて通れる問題ではないし、時間もどれだけあるのか、わからないのだ。

「上手に食べていたじゃないか。誰かに教えてもらったのか?」

「うん」

「ということは、ここには君以外に誰かがいたってことだよな」

 それとなく聞いてみると、のどかは何でもない風に答えた。

「そうだよ。誠二がいた」

 やはり。

「誠二って?」

「並木!」

 唐突に目当ての情報が彼女の口から飛び出して来て、おれはしばらく呆けていた。

 興味深い。確かに並木はここにいたらしい。しかし彼女とおれの生活の中で並木の「な」の字も出てこなかったし、姿を見せないとなると、もう既にここにはいないということだろう。

 やはり、何らかの手段で消滅させられたのだろうか。異星の超常的なテクノロジーを仄めかしている「たべもの機械」を見やり、あれが並木を飲み込んだのだろうか、と想像する。他にも機械がある。どれも似たようなものだ。しかし用途ごとに分けられているところを見ると、それほど応用の効くものでもないのかもしれない。どちらにしても、無の状態から熱々のハンバーガーやパンケーキを皿ごと、即座に構成するだけの技術には舌を巻くどころか足を向けても寝れないといったところか。

 こうしてハンバーガーをぱくつくのも、半ばおっかなびっくりだ。十把一絡げに物事を言うのは気が引けるが、どれも”本物”だっただけに、その製造方法が気になって仕方がない。

 もしかしたら、並木の死体が食糧に変換されているのかもしれない。不吉な想像が脳裏をよぎるが、それではこの機械群の説明をしたことにはならない。人肉を口にしているとしても、恐らくこれは、違う。

 一先ず、おれは並木について、のどかから聞きだすことにした。

「並木って、どんな奴だ」

「それより。俊博、喉、かわく?」

「ああ、そうだな。何か飲み物があったら嬉しい」

「わかった」

 再び立ち上がった彼女がアイスコーヒーを持って帰って来て、おれはまた問うた。

「それで。並木って?」

 のどかは自分の分のレモネードが入ったグラスを両手で包んだ。物憂げに垂れた睫毛の隙間から、黒瞳が液面を見つめる。

 レモネードの揺れが収まった頃、彼女はぼそりと呟いた。

「消えちゃった」

 悪い予感が的中する。思わず額を押さえそうになるのを堪えた。

 慎重に、その経緯を聞きださねばならない。この瞬間から、これはおれの安全に関わる問題になった。同時にそれは、任務の成否にも関わる最重要事項だ。

 第一、おれはこんな所で、死にたくはない。国連はおれの生死すら不明として扱うだろう。あの世でもこの世でもない、どこか別の場所へ行った人間として記録されるわけだ。それは、我慢ならない。

 だからといって、落ち込んだ彼女を励ますのは何かが違う気がしたし、何よりも、そんなことは構っていられなかった。たかが女一人が落ち込んだからといって、どうだというのだ。こちらは生死がかかっているというのに。

「どんな風に、消えたんだ。君はその場にいたのか。どうして消えてしまったんだ」

「わからない」濡れそぼった鳥が雨を払うように、彼女は頭を振った。「朝起きたら、消えてた」

「先に聞いておきたいんだが、並木のことを話すの、嫌か?」

「嫌じゃない。けど、悲しい」

 余程、彼女は彼に入れ込んでいたのだろう。おれが知っているのは彼の声、会話にもならないほど短い単語の羅列しかないが、素直なのどかを見ていれば彼が如何なる人物であったのかが手に取るようにわかる。少なくとも、粗暴で厳しい人物ではなかった筈だ。そうであったのなら、彼女が悲しむことはないだろう。いなくなって清々した、とでも言いそうだ、彼女なら。酷薄さと純粋さは紙一重なのだ。

 ――誰か聞こえるか。ぼくは並木。君の名前はわからない。誰か聞こえるか。

 頭の中で繰り返されているあのフレーズを思い起こす。

 無線機越しにでもわかる温厚な声。他者を傷つけることを知らない、優しさと思いやりに満ちた言葉遣い。きっと筋金入りの偽善者か、善人を気取った愚か者だったに違いない。

 おれは生まれてこの方、並木のような男、ましてや、のどかのような善人になど出会ったことはなかった。

 欧州、アメリカ大陸、ユーラシア。突入体が破壊した土地や人々から波及した経済への影響は、不況と呼ぶには生易しい貧困を世界にもたらした。大気中に散った塵で地球全域の気温が二度前後下がり、地球温暖化と相まって世界各地に異常気象が巻き起こった。

 困窮した人々は先を争って武器を取り、崩壊したパワーバランスには軍事力という重りを載せられ、暴れ馬のように世界という名の天秤を振り回した。平和な世界に胡坐をかいていた人々は天秤の皿から容赦なく振り落とされた。およそ十八年にも及んだ第三次世界大戦の終結と共に、世界人口は半分以下に落ち込んでいた。

 気付けば、誰しもが手を汚して生きていた。多くの場合、国家と国民の困窮を救う手立てとして、戦争が用いられた。世界中に林立していた慈善事業は影も形も消え失せ、膨れ上がった軍事費と人命の損失に、市民は喘いだ。多くの国々が突如として訪れてしまった情け容赦ない時代に生きるべく、人間を殺しまくり、少しでも自分達が生き残る余地を増やそうと躍起になった。

 急激に減退していく人類社会が正気を取り戻したのが十五年前。なぜ大戦が終わったかというと、それは単純な話だった。人口が減ると同時に技術革新が進み、老化防止処置や効率のいい食糧生産方法など、社会の基盤を支える技術群が確立されたのだ。

 つまり、戦争をする理由がなくなったからだ。

 だが、問題は、平和を手に入れたその後だった。

 生きるために銃を手にし、その果てで生き残ってしまった者は、自分達の手が赤く汚れていることに茫然とした。不幸中の幸いというべきか、大量破壊兵器を用いた終末戦争がやってくることは遂になかった。人類は多くの同胞の骸を足下に埋め、血染めの手で握りしめた鍬を手に、荒れ果てた土地を耕し始める。

 おれは今年で五十一歳を迎える。五十年前なら既に初老と言っていい年齢だが、人の寿命が百五十年ほどまで伸びた昨今、まだまだ若造と言っても差し障り無い。外見も二十代後半であるし、頭が禿げあがるのもまだ当分先のことだろう。これだけは、世の中の良い点だ。頭の毛を心配しなくていいのだから。

 おれも大勢をこの手にかけてきたが、どうってことはない。皆死んだ後だ。奇跡的に戦いを生き残った軍人は、そのまま軍事的パワーバランスと治安の維持のために必要とされた。誰しもが軍役に就き、今も細々と人を殺し続けている。

 日本は特に、隣り合う東アジア各国にとっては海洋進出のために取り除きたい障害でしかない地政学的な理由から、国際紛争は絶えなかった。北はロシア、それらを太平洋の奥に押しとどめておきたいアメリカの意向もあって、幾度となく想像を絶するほどの戦闘が繰り返された。

 戦後世代は、子供を国家の財産として守ることに必死な政府によって守られ、順調に育っている。戦争の傷跡は塞がれつつあり、新たな経済体制や世界秩序が構築され、人々は元通りに、なんとか生活をしていける程度に回復し始めていた。

 そこにきての並木の通信だったわけだ。

 今まで無視できていた突入体の内部から、人の声が聞こえたというだけでも、元の姿を取り戻した国連は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。人類同士の内戦が終息し、曲がりなりにも平和への道を歩き始めたばかりだ。敵か味方かもわからぬ異星知性体らしきものの相手をする余裕はなかったし、正直、また戦争に発展する可能性だけでも、目障りで仕方が無かったのである。

 おれは手を伸ばしてのどかの手を握ろうとしたが、やめた。悲しそうに俯いている彼女を慰めたかった。だけど、おれになんて声をかけることができるだろう。

 子供の純情さが大人の胸を打つことがある。しかし、汚れた大人が子供に与えられるのは、失望と虚しさだけだ。

「のどか」しばしの沈黙の後で声をかけると、彼女は薄らと涙を浮かべた瞳で顔を上げた。「君を悲しませようと思ったわけじゃない。すまなかった。謝るよ」

「いいよ」

 なんという児戯だ、と思わずにはいられない。口から転がり出そうになる悪態を閉じ込めるべく、力を籠めて唇を噛み締めた。

 おれはいつから、こんな純情を身に纏って言葉を吐くようになったのだろう。のどかに比べれば、おれは常識という、現代人に与えられた免罪符に縋らなくては生きていけない、情けない人間だというのに。

 そこで浮かんだ疑問に、おれは動きを止めた。

 そもそも、のどかは人間なのだろうか? 人間であるはずがない、と思い込んでいた。何しろ、ただの人間が突入体で厚遇される道理がわからないかっら。

 始めに抱いても不自然ではない疑念が鎌首をもたげ、背筋を悪寒が駆け上がる。実は外見を似せているだけで、のどかこそが、本当の異種知性体なのではないか。少なくとも、彼女の周囲にある、人類の技術水準から遥かに進んだ利器を使役している様子から、様々なことが推測できる。

 疑念には理由がある。この部屋に据え付けられている機械だ。仮にだが、この機械群が、例えば生物を生成することも可能であったとしたら、どうなのだろう。TFOOTEが知る限り、突入体内部に人間がいるなどという兆候は一切存在しない筈だから、内部にのどかのような見るからに人間様をしたものが存在していること自体が不自然だ。そもそもが秒速数十キロで大気圏に突入した物体の中で、生物が生存しえる筈がない。そうした人智超越的な現象の果てに、並木からの通信があって、おれはここへ来た。

 目を細めて、もう何日も前になってしまった出来事に思いを馳せた。あの輸送機のパイロットたちは生きているだろうか。そもそも、輸送機のシステムをダウンさせたのはのどかなのだろうか? ありえる、しかしありえないだろう。のどかがその気になれば、恐らくはこの外に出ることも、人類に戦いを仕掛けることも可能だろうが、彼女にはその意志は無い筈だ。

 何より、のどかは外界を知らない。知らなさすぎる。自分と並木以外に、人が存在していること自体に驚いた筈だ。だから、彼女は、「ヒトの中から、ヒト?」と口にした。あの時の彼女の問いかけは、「だれ?」ではなかった。それは、おれの考えが正しいことを示唆している。

 いずれにしても、のどかが外界を知らないのは確実だ。仮に人間の社会があると知識として蓄積しているのなら、彼女はどうとでもして、体験しようとするに決まっている。こうして面と向かって話すだけで、その大きな瞳を喜びに輝かせているのだ。もっと、とならない筈がない。

 他にも彼女の潔白を証明する根拠は他にもある。仮にのどかが輸送機を墜落させようとしたのならば、おれに謝るのが自然だ。のどかは、言ってしまえば、そういう女性だからだ。どこまでも純朴で優しいことが彼女の本質であると、おれは理解しているし、確信している。だとすれば、彼女が輸送機を話題に出さないのは、単に知らないから、と考えるのが妥当だ。

 何かが輸送機を撃墜した。それは間違いないところだろう。手段は、何もない空間に物質を具現化させたり、消失させたりできるのだから、こちらの考えが及ばない力を行使したと仮定して相違ない。しかし、それはのどかではない。ともなれば、のどか以外に輸送機を落とした意志が存在するということだ。

 そして、おれはもう一人の、意志を持った人間を知っている。

 並木だ。直感的に悟り、掌にじっとりと汗が滲む。

 並木が、輸送機を墜としたのならば、全て説明がつく。のどかは、並木が消えたと言った。朝起きたら、いなくなっていた、と。それは、彼が、のどかには報せたくないことに手を染めてしまったからだとは考えられないだろうか。おれは、信じられないことに、のどかの前では殺人を犯すことはできない。

 そう、兵士で人殺しの、おれが、だ。のどかの言う、平凡で温厚な並木は彼女を前にして、どう思ったことだろうか。

 それでも問題はある。輸送機が撃墜され、並木が消えたのは、同時ではないということだ。むしろ、並木が姿を消したほうが時間としては早い。だが、もし並木がプライオリティに反しない限り突入体の機器を操作する方法を見つけたとしたら、時限式に、あるいは受動的に撃墜プロトコルを作動させることも可能だったろう。

 これは、彼の行方を探すことが最優先目標となってきた。尤も、おれの任務は彼との接触だったわけだから、国連司令部からの命令上、何も問題は無いわけである。

 のどかは手の甲で目を擦ると、弱々しい笑みでおれを見た。

「もうだいじょうぶ。俊博は、他に聞きたいことはない?」

 おれは迷った。何を迷ったのかは、わからなかった。ただ、彼女がまた涙するだろうということを考えた時、どうしようもなく人間的な罪悪感がおれへ問いかけたのだ。

 これで満足か、と。

 腰にかかる拳銃の重みを意識しながら、おれは自分が軍人であることを思い出す。

「あるよ。けれど、それは並木に関することなんだ。だから、のどかが答えたくないなら、聞かない」

 予想は裏切られた。のどかはテーブルに視線を落とすと、毅然とした表情で顔を上げた。驚かなかったといえば嘘になるだろう。少女が唐突に女の顔を見せたのだから。

 改めて、のどかは純真無垢な”大人”なのだと思い知らされる。常識に穢されていないというべきか。おれのように俗世的なものの考えや、相手の腹を探るといったことを一切しないのだ。おれが何かを言葉にしてぶつければ、彼女はそれが真実だとして疑おうともしない。

 やりにくい相手だ。こちらが嘘を言えば、間違いなく非があるのはおれということになってしまう――

「いいよ」のどかは、言った。「聞いてみて、わたしに」

「いいのか?」おれはおずおずと尋ねた。

「うん。俊博は優しいから、お話ししてあげる」

 おれは優しくなんかない。そう言おうとして、何とか飲み込んだ。

 くそ。のどかと話していると、自分の汚さだけが浮き彫りにされてしまう。

「……わかった。じゃあ、聞くぞ。並木は、いつ、消えたんだ?」

「ええっと……四回寝て、起きた、まえ」

 つまり、四日前。おれがここへ来る前日に、並木は姿を消した。偶然にしてはできすぎている。彼は、三日前の出来事を予知でもしていたのだろうか。

 それとも、彼の意志であの事態を引き起こすつもりだったから、消えたのだろうか。

 これは非常にまずいかもしれない。超科学の結晶で構成されている突入体だ。未来予知ができたとしても不思議はない、のかもしれない。

 並木は、輸送機がおれと黛を載せてアリソン・クレーターへと飛来するのを、知っていたのだ。どういった物理法則の下で行われているのかは想像することもできないが、時間が物理現象であることは確かなことから、そこから逸脱することも不可能ではないだろう。おれ個人の見解は、そうだ。だからといって、そうかもしれない、と結論付けてしまうのは、傲慢というものだが。

 TFOOTEが飛ばしていた無線電波を傍受し、解読したとしても、厳密な日時までは把握できなかった筈だ。そうした諸々の連絡は、地上で顔を突き合わせて、あるいは有線環境で行われ、無線通信は作戦時に限られている。室内には突入体外部との連絡が行えそうな設備は一切無いし、その形跡も見られなかった。突入体というハードウェアそのものでない限り、そうした接触コンタクトを図ることは不可能に等しいだろう。

 もしかしたら、並木はいなくなったのではなく、この突入体と一体になったのではないか。

 それは恐ろしいことだ。身震いすると、のどかが心配そうにこちらを見やり、立ち上がって、隣の部屋へ姿を消した。おれが初めて目にするスライドドアだ。シャワールームと入口以外にそんなものがあるとは露も知らなかった。何もかも知らないことばかりというわけだな、とおれは思い、心細さに鼻を啜った。

 独りきりになった部屋の中で、おれは舌打ちする。くそ、と声に出してみても鬱憤は晴れない。

 情報は不足している。今、身の回りを取り巻いている出来事の端々しか認識できていない。イカの足先だけを見せて、全体を絵に描いてみろと言っているようなものだ。できっこない。だが考えることをやめてしまえば、そこでおれはここにいる意味も、権利も放棄してしまうような気がした。TFOOTEに編入されたおれの身分に課された任務に縋るしかない。そうでもしなければ、気が狂ってしまいそうだ。

 この漂白された突入体内部では、全てが浮き彫りにされてしまう。白い内壁を見つめているだけで、あれやこれやと人生の疑問が浮かんでは消えていく。極め付けはのどかだ。彼女のせいで、おれは、おれを否定してしまう。あんなにきれいなものになれたらどんなにいいだろうかと、想像せずにはいられない――

 頭を振って煩悶を振り払う。とにかく、まだ生きている。生きていれば、何かができる。何かができるということは、事態を打開できるということだ。焦ることはない。差し当たって命の危険はないのだから。

 のどかが、白い毛布を手に取って戻ってきた。そっと、おれの肩にかけて、抱き着いてくる。暖めようとしているのだとわかった。

 のどかが出てきた部屋はリネン室だった。



 話し尽してしまうと、話題は自然、のどかのことに移った。

 彼女は自分のこととなると、とても無関心だった。まるで、世界の内と外は自分の肌で分かたれているものであり、内界に向ける関心など持ちようがないと、頑なに信じているようでもあった。

 目は外へ向けられるものであり、耳は外を聞くものである。

 自分など知らずとも世の中を渡っていけるのは確かだ。世界から与えられる入力に対し、己の出力を適切に返せばいいだけのこと。だがそれは、ただ息をしているということにすぎない。世界と対等に、自分の意思を認めさせていくには、自己を知り尽くしていなければ不可能だ。己を知ることは決して無駄にはならない。

 おれはそう教え、じゃあ教えて、とのどかは言った。

 おれはのどかに、のどかを教えてやった。彼女は、おれや外界の話とは打って変わって無関心そうな、しかしどこか聞き捨てられないといった様子で言葉に耳を傾けていた。

 幼い心の収められた胸の内でどのような思いがせめぎ合い、頭の中にある思考の渦を見ることができたのなら、それは素晴らしいことだ。無論、そんなことは人間である限りは不可能で、頭をぱっくり割って見せたってできっこない、究極の理解の形態だろう。それができないのなら、言葉で伝えるしかない。たとえこの世界にあまねく言語を収集したところで、自分の感情、考え、思想を完璧に相手に伝えることは不可能だ。物理的に無理であり、言葉はまだ完全なものではないから、それを用いたコミュニケーションに齟齬が出ることは必定だとおれは思う。

 それでも、言葉しかないのだ。身振り手振りを交えたりして、必死に言葉の欠落を補完しながら対話をする。

 彼女へ向けて、自分でもどうかと思うくらい熱心におれは話していた。

 のどかはとても美しいこと。

 のどかは声がきれいなこと。

 のどかは優しいこと。

 自分でも驚くほどに、有沢俊博は彼女を見ているのだと気付くのに時間はかからなかった。まるで情報を流し込まれる人工知能のように、のどかは身じろぎもせずにおれの言葉を聞き、時折、相槌を打った。長い長い茶髪がその度に揺れ、黒瞳は静かな光を湛えたまま、物憂げに卓の表面とおれの目とを往復する。

 話し疲れて少し休憩していると、のどかは椅子の上に膝を抱えて座り込み、体を揺らしていた。白い質素なワンピースから羽が生えていれば、間違いなく天使に見えただろう。そうだ、のどかは天使に違いない。こんなに美しくて、実際に、空から落ちてきたのだから。

 そんな風に考えたところで、ここにいるのは一組の男女だけであり、おれの任務にはいささかの進展も見られないのが実情だ。

 様々なことを話したが、結局、並木の出自すらもわからなかった。本人に問いたいが、もういない人物についてあれこれとぶつける質問を考えても無駄なだけだと思い、おれはのどかが出してくれたアイスコーヒーをストローで吸い上げる作業に没頭する。

 突入体について知ろうとすればするほど、のどかの重要性は指数関数的に増大した。今も椅子の前で貧乏揺すりをしているこの女性を理解することが、身を取り巻く奇怪な状況に説明を付けるきっかけになる、と直感する。この判断は間違っていないだろう。突入体と、おれとの間に存在しているのがのどかなのだ。だから、おれは彼女がこんなつまらなさそうにしていると我慢がならない。

 立ち上がると、のどかがぴたりと動きを止めた。大きな瞳がこちらを見上げてくる。

「のどか。紙と、書くもの、あるか?」

「かみ?」彼女は自分の髪の毛を掴んで、持ち上げた。そして微笑む。「たくさん、あるよ。としひろよりも」また、笑う。

 軽く笑い返しながら顔の前で手を振った。

「違うよ、髪の毛じゃない……まあいいや、やるだけやってみよう」

 おれは「たべもの機械」の前に立った。

 これまでのどかがこの機械を使ってきたのを見る限り、恐らくは内部で物質を分子レベルで構成する機械なのだと推測できる。対応している物質の範囲が広すぎるのだ。突入体内部にレタスの栽培農場があったとしても、新鮮で、かつ味の良いものを瞬時に出すには限界がある。突入体内部には、人間の、おれの理解が及ばないテクノロジーが技術基盤として用いられているのは疑う余地もない。その点に思いを馳せることは、よそう。

 重要なのは、これを使えば、おれが求めるものがなんでも構築される可能性がある、ということだ。

 しかし、思えばこれはこっぱずかしいことではないか。いつものどかがやっていることを、おれはやろうとしているのだ。

 ええい、やってやる。息を吸い込み、思いっきり叫んだ。

「ボールペン、ボールペン、ボールペン!」

 のどかが口を開けておれを見ている。顔が赤くなるのを感じた。いい歳をして何をしているのか。まったく馬鹿げたことだ。こんなのは子供の遊びと変わらない――そんなおれの思いをあざ笑うかのように、ブーンという音が「たべもの機械」から響き、我ながら驚いた。

 起動には成功したようだ。いつものように数瞬を待って、蝶番が片側に着いた扉を開く。電子レンジを開く感じだ。

 中には、おおよそ一般にボールペンと呼ばれて差支えない棒状のそれが置かれていた。小さな空間の中に、ぽつんと。手に取ってみると、ずっと昔からそこにあったかのように冷たく、透明なボディから透かし見れる、並々と充填された黒いインクが頼もしかった。

「わぁ」と、のどかが声を上げ、おれが取り上げたそれを好奇心に満ち溢れた目で見つめた。「これ、なに?」

「ペンだ。ああ、食べちゃダメだぞ」

「不味い?」

「美味いとか不味いとかじゃなくて、食べ物じゃないんだ。食べ物じゃないから、食べれないだろ?」

「噛んでもだめ?」

「ダメだって! それは文字を書くものだ。ええと、紙、紙、紙!」

 今度は真っ白なコピー用紙が生成された。これもまた、のどかは花の咲くような笑顔を見せ、おれはテーブルの上にそれらを並べ、四角と矢印を描いてつなげていく。

 思い通りに物質を構成したことから、やはり推測は正しかったとみるべきだろう。あれらは食べ物や無機物を区別せず、あらゆる物質を生み出すものなのだ。新品同様のこのボールペンにしても、異星種族が考え出したテクノロジーの産物だ。必要ならば、物質としてこの宇宙空間に存在し得るものならば、どんなものでも顕現させることができるだろう。

 超科学を用いて、おれはなにをしようとしているのかと、呆れずにはいられない。

 物質とは宇宙創成時の膨大なエネルギーが結実したものであるから、物質の存在は即ち、エネルギーと同義となる。どれだけ小さな原子であろうとその存在が無視できないのは、一重にエネルギーだからだ。これを逆転させればそのイメージを抱くのは容易い。人類にとっては幸福なことに、核兵器など大量破壊兵器は、遂に第三次世界大戦では用いられなかったが、原子ひとつを崩壊させた爆発的な被害と放射能の灰は人々を震撼させた。その威力は絶大すぎて、実際に原子爆弾を落とされた被爆国の市民たちでさえ、正確に感じ取れていない。核兵器の恐ろしさを真の意味で知っているのは、爆発に飲まれて消えた、広島や長崎の被爆者たちだけだ。

 身震いと共に目の前の「たべもの機械」を見つめる。

 こいつは、電子レンジのような大きさでありながら、そのまったく逆のことをやってのけている。エネルギー変換は決して不可逆なものではない。物質が持つ他の性質と同様に、凝縮と放出は繰り返される。その場に在り続けることが安定的だという理由だけで、科学の分野へ物理学を引きずり下ろした時点では、エネルギーと物質の間の状態遷移に垣根は無い。あらゆる物事は想像されるが故に実現されるのではなく、実現されうるがために想像される。人間の想像力は論理の集積だ。そこには自らの知識と世界の法則を示し合わせた仮想空間が広がっている。

 しかしここは想像の世界ではない。現実である。おれは今、魔法を目の当たりにしている。想像できようが、無意識下の思考である想像すらも間に合わない、人間の能力の先を行く技術だ。誰かに「たべもの機械」を渡したところで、その潜在能力を全て引き出し、有効に扱えるだろうか。

 思考に埋没しているおれが紙上にペンを走らせている前で、のどかはおれが集中していると思っているのか、何も言わずに作業を見つめている。やがてできあがった世界の縮図に、彼女は手を伸ばした。おれは止めなかった。これは故郷に古くから伝わる娯楽だ。中心へ向けて首を捻りながら、やけに真っ直ぐに走るナメクジが進んだ跡のように入り乱れた経路図を、彼女の細い指がなぞり、大きな瞳が文字を辿る。

「のどか、文字は読めるのか?」

「うん。誠二におしえてもらった」

 子供のように文字を習う女性を思い浮かべ、思わず笑みを浮かべていた。

 仕上げに、おれは再び「たべもの機械」で賽子を作り、余ったコピー用紙で「の」と「と」と書かれた駒をふたつ、指でちぎった。それらを「ふりだし」のマスに載せる。

「これ、なに?」

「いいか、これはのどかの『の』だ。それで、これはとしひろの『と』。つまり、のどかと、おれってことだよ。この盤面上では、こいつらがおれたちの代わりに動く駒になる」

「コマ? 回るやつ?」

「違う違う。まあ、身代わりみたいなもんだ。依代というか、分身かな。ともかくサイコロを振って、出た目の数だけ駒を進めて、マス目に書いてある指示に従う。ゴールに辿り着けばあがりだ。早くあがった方が勝ち。オーケー?」

「でも、このマス目、何もかいてないよ?」

「今から書く。全部に書くとつまらないから、所々に散りばめるのがコツだ」

 きらりと、のどかの大きな瞳が煌めいた。

「何をかけばいい?」

「たとえば、このマスに駒が来たら、その駒は振り出しに戻るとか、そういうのだ。逆にこのマスに乗ったら二手進めることができる」

「わたしも書いていい?」

「もちろん。君の手で書くんだ」

 それから、おれが隣で見ながら古典的なすごろくを完成させていった。

 のどかは全てのマス目に書きたがった。まるでそうしなければいけないと脅迫観念に駆られているようだった。そうすればゲームが崩壊してしまうので、おれが口を出して押さえてやらねばならない。

 時折、彼女は不思議そうに盤面全体を見つめることがあった。長い睫毛を震わせることもなく、じっと、見えない妖精が紙の上を飛ぶのを見るように、眼球だけが動いている。これまで無表情の彼女を見たことはあれど、何かに集中している真剣な眼差しには出くわしたことはなかった。

 彼女は彼女の、おれはおれの、自分の興味の対象に食い入るように没頭し、そしてひとつの物を完成させていくという不可思議な作業にのめり込んでいった。

 長い髪が机の上にしな垂れ、ペンの先で傷付くといけないので、おれは「たべもの機械」からヘアゴムを出して、簡単に結ってやった。長い前髪とこめかみから伸びるひと房はどうしようもないが、大部分の髪は後頭部から背中に流れる形だ。彼女は大いに喜んだ。ほどなくしてすごろくの盤面は完成した。

 完成したので、早くやりたいと騒ぎ出すのかと身構えたが、意外にも沈黙を保ったまま、のどかはすごろくを見つめている。ボールペンを手放し、食い入るように、紙の四隅から中央へ向けてとぐろを巻いている盤面を覗き込む。

 先ほどから何を気にしているのだろう。こらえきれなくなって問いを放とうと口を開いた時、電撃的に理解した。

 彼女には見えているのだ。

「のどか」

 おれが話しかけると、彼女はこちらを見た。微笑み、盤面のスタート地点、「ふりだし」を指さす。

「ここから生まれて」捕捉白い指が中央の「あがり」へと移り、「ここで、死ぬ?」



 遊び疲れた彼女はシャワーを浴びてくると言って席を立った。

 のどかはまるで人のこと、自分のことを知らないのだが、常習的な生活習慣には律儀に従っているようだ。それらを教えたのは並木であろう、と、おれは見ることも触れることもできない人物を曖昧に思い浮かべる。いかなる思惑であれ、彼はのどかを真っ当な人間に仕立て上げたかったに違いなくて、おれは彼のそんな行いに困惑せざるを得ない。

 テーブルに座ってコーヒーを啜った。ただのコーヒーだ。それ以上でもそれ以下でもない。これがどれだけ重大な意味を持つことか。

 彼女の放った言葉が頭を離れない。

(ここで、死ぬ、か)

 いい歳をした大人が、子供の嘘偽りない、まったく意味の無い言葉に気付かされることがある。そんなものは人生経験を咀嚼しきれていない愚か者の言葉だ。そう思い込んでいた自分を置き去りにして、なるほど、と頷いてしまうほど、のどかの言葉は刺さった。

 記録装置を作動させて、端末に向けて今日の記録を音声で付け始める。

 のどかは、なぜここにいるのかはわかっていないが、自分がいつか死ぬとわかっているようだ。それはとても重要なことだろう。この無機質で、生命の気配というものが全て遮断された空間の中で、生命の生まれて死ぬ宿命、輪廻を意識できるのだ。人間というものが生まれてから死に向かう、つまり生きていることも理解している。これもまた、並木が教えたのだろう。閉鎖的な空間で漫然と生活するだけでは、到底、人生とは言えない。恐ろしい話だが、自分で気付くことは絶望的なのだ。

 時折、食い入るように盤面を見つめていたのも、自分の手ですべてのマス目に何かを書きたがったのも納得がいく。のどかは、すごろくを人生ゲームとして見ていたのだ。本能的に、自分の人生は自分で決められるものだと信じているからこそ、盤面の全てを掌握したがった。彼女にとって今回の一件は、仮想の人生を描き、それを生きるというものだった。このおれとは根本的に異なった視点に立って、ゲームに臨んでいた。遊戯などでなく、生きるか死ぬかをかけた、文字通りの人生。盤面上の駒を、彼女は正に自分自身のように感じていたに違いない。

 おれはのどかという女を、畏怖せずにはいられなかった。

 彼女のゲームの捉え方というものを理解しているからこそ、彼女の異常さは身に染みてよくわかる。人生を賭けて彼女はゲームをしていたにも関わらず、あがるたび、彼女は笑った。生き切った、という達成感からか、それとも単純にすごろくが面白かったからなのか。どちらでもないだろう。

 だとすれば、どうしてか。

 のどかは、笑って生きていくのが普通だと思い込んでいる。

 明日というものを希望で満たそうとするその姿勢。真っ直ぐに見据えられた瞳は真剣に、彼女自身の人生を思い描いていたのだ。こんな閉塞的な空間で生活をしていても、彼女は世界というものへ真摯に相対し続けている。この世界の誰もが放棄して、目もくれずに捨ててしまった理想ゆめというやつを、彼女は追い求め、実践し続けているのだ。

 そんなものは、甘さだ。

 人生はそれほど甘くはない。

 もうじき五十二になるおれにとって、のどかの人生観、世界観は未熟なものに感じられた。青すぎるリンゴを見て、これはまだ食べられないな、と判断するように、誰の目から見ても明らかなものだろう。

 そこに唯物論的な合否の価値判断は介入する余地はないし、事実として、そんな人間はまともには生きていけない。現実という巨大な循環の中で、人々は居心地よく生きるために、より数の多い妥協に従って生きている。自分の判断基準を常識へ委ねることで、代償として群れの中の安寧を得る。のどかの生き方や価値観は、取引対象となる常識から隔絶された世界で育まれたものであるから、当然、世間知らずと謗られる。無垢でありのままの人間の価値観を目の当たりにしたことが無いから、幼稚に感ぜられた。

 まだ世界を知らないのどか。この世の全ての出来事が、自分の思い通りになることはないと気付いてはいるようだが、世界そのものが人間に対して優しくある筈がないという不条理をその身に感じたことは無い。世界があって人間があるのであり、その逆は決して成立しない。彼女の世界は、都合よく住みやすい突入体の内部だけ。人間が創るものは社会で、枠組みを錯覚することでどうにか世界を操作できると思い込める。

 本当にそうだろうか?

 のどかならなんて言うだろう。気付けばそう考えていた。

 彼女の優しさ、純朴さはおれの心を溶かしていく。少なくとも、彼女がここにいる限りは、世界はこの部屋のままであり続ける。ここが彼女の全て。そして、ここにいる人間こそが人類の縮図足り得ている。つまり、おれの行動が彼女の他人に対する価値観を決定づけてしまいかねない危険を孕んでいた。

 それは並木にとっても同じ、のどかと接する上で意識しなければならない問題であったことは疑いようもない。おれも、今、こうして悩んでしまっているのだから。

 ますます、この突入体内部におれが入りこめた理由がわからない。のどかに会わせる人間は厳密に選定されなければならないのだ。おれのような職業軍人が――人殺しが、彼女の相手などしていていいのか。

 溜息とともに、おれは立ち上がり、寝室へ向けて歩き出した。

 空から降ってきた宇宙には悩まされてばかりだ。三十年経っても、おれたちは何も知らない。

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