パッシヴ・インフォメーション
夏木裕佑
第一話
<誰か聞こえるか。ぼくは並木。君の名前はわからない。誰か聞こえるか、聞こえるのなら返事をくれ>
それが彼の最期の言葉であったのか、それとも、今も叫び続けている悲痛な断末魔であるのかを、おれは知らない。
そもそも、助けを求めているのかどうかも判然としない言葉の羅列だった。何がしかの目的があるにしても、カセットテープに録音され、繰り返し再生されているだけなのかもしれない誰かの意思。
この並木という男が生きているのか死んでいるのかは今でも定かではないし、だからこそ、おれはこうして大海原のある島まではるばる飛んできたのだ。
おれは改めて、視野角の限度一杯に広がる光景を眺める。心に刻み付けるように、もしかしたら、おれが踏みしめる最後の土地になるかもしれない場所を。
アリソン・クレーターの中心部は、万古から変わらないであろう透き通った海水が満たしている。あの日を境に様変わりしたこの景色を肉眼で確認することができた人類は、三十三年間で数えるほどしかいない。それは幸運なのか不運なのか。少なくとも後者だろうな、と胸の中で毒づく。
大地はえぐり取られ、沿岸部は円形に切り取られたようだ。大地が沈み込んだ、という表現は間違いで、実際は突入体の衝突による膨大な運動エネルギーが、数十万トンの土砂を辺り一面に吹き飛ばしたのである。つまり、消滅したのだ、この巨大な面積が。インパクトの瞬間には周辺の地震観測施設までもが警報を鳴らしたという。
海面下に生々しく残る傷跡が壮大なスケールを伴って、奇妙な圧迫感に落ち着かなくなる。他の奴らはどうだか知らないが、膨大なエネルギーが残した痕を眺めていると、如何に人間という生物ができそこないで、小さな存在なのかを再確認させられる思いだった。
多くの学問にとって多大な価値のある場所ではあるが、大勢の人間が死んだ土地でもある。忌地となったのは、あのどでかい金属があろうがなかろうが当然の帰結だったろう。多くの科学者がそう言っていた。
だが、輸送機の中で暗視用の赤色灯に照らされた兵器の腹に収まったおれの考えは少し異なる。
誰も近付きたがらないのは、確かに忌避感や悲壮感を思わせる何かがここにあるからで、そしてそれは、三十三年間で終ぞ誰も目の当たりにすることのなかった、突入体そのものなのではないだろうか、と。
同じことを考えている人間とは、世界のどこかしらにいるものだ。流暢な日本語を話すドイツ人のアーダルベルト・フォン・ブラインスベルクに言わせれば「当然の帰結」であるらしい。おれには小難しいことはてんでわかりはしないが、直感と理性が導き出した結論が同一である場合、そこに疑問を挟む余地が皆無であることは理解できる。ふたつの線を交錯させて、その接点が一カ所に限定されれば、誰だってその位置を見て取ることができるだろう。それくらい明らかなのだ。
そして、それは、狭苦しいコックピットに収まって、地面を向いたまま固定されているおれの視界、HMDに映るどでかい突入体が全て引き起こしたことだ。
ハーキュリーズの、古めかしいが核爆発でも壊れることはないであろう、ターボプロップエンジンが太鼓のような音を奏でた。腹の底から響くような爆音だ。エンジンを起動する時くらいしか聞いたことが無いそんな音が、機内格納庫にしばらく響き、直後に振動がおれを揺さぶった。
つまり、爆発したのだ。
攻撃されたのか。何に? 決まっている、突入体にだ。
こいつは
戦闘の気配を感じて緊張するおれの体とは裏腹に、操縦士たちが有線で叫んでいた。
<なんだ。何が起こった。攻撃か>
<いや、索敵警戒レーダーすら照射されていないし、付近に武器らしきものは無い>
<だが、こいつは明らかに戦闘状況だぞ。
操縦士の機内有線が聞こえて来た。応答する、司令部が置かれている第一象限基地の担当官の声が雑音交じりに響く。その間にも、機体は激しく揺さぶられている。おれは舌を噛まないように歯を食いしばるので精一杯だ。
<〇七、こちら一二。滑空できるか?>
<わかっている。おい、松田、フラップを下げるな。くそう、駄目だ、APUがダウンした。どういうことだ、動力系統が軒並み死んだ。突然に、だ>
<落ち着け。下は海面だ。アリソン・クレーターに着水しろ>
<馬鹿言うな!>
あまりにも正直な悪態に吹き出しそうになる。
着水は無理だろう。現代航空機のデジタル・フライ・バイ・ワイヤは電動モーターで操舵翼を稼働させる。
まあ、操縦士が悪態をついたのは、単純にこの呪われた土地で海水浴をする気になれないからだろう。
出番はまだかと気を揉む。操縦桿を握ったり開いたりしていると、今度は一際大きな爆発が起こり、機体が微かに傾くのを感じた。
直後に、再びの有線。
<こちら〇七。一二、〇一だけでも降下させる。聞こえたか、一等陸尉?>
ようやく出番か。おれは操縦桿にいくつか据え付けてあるスイッチのひとつを押し込み、通信回線を開く。
「こちら〇一、聞こえている、〇七。格納庫はこちらでこじ開ける。気圧差に注意してくれ、揺れるぜ」
<了解だ。とんだハプニングですまない。幸運を祈るよ、一尉>
おれは笑みを浮かべながら頭を振った。彼らが謝ることはない。おれに謝罪をする何かがある、いる、とすれば、それは人間ではないだろう。
そして、並木でもないに違いない。
では、誰か。それを確かめるのが、おれの任務だった。
「幸運はおれには不要だよ。あんたらに幸運を、〇七」
マスタースレイヴ方式の操縦桿は、HOTAS概念が取り入れられていて握ったまま各種操作が可能だ。
両手の親指、人差し指、中指のボタンを押し込んで待機状態から戦闘状態へ移行。有線を切断。HMDに投影表示されていた外部映像情報が暗転する。戦闘状況にあることを感知したシステムが機内の仄暗い格納庫を映し出した。
隔壁を赤色灯が照らしているので、巨大な生き物の腹の中にいるかのような錯覚を味わう。死んだ鯨のように海へと落ち込んでいくこの輸送機の中で、おれだけがまるで守護されているように生きていた。今もパイロットの二人は死にゆく鯨を少しでも長く生かそうと、操縦桿を握って格闘しているはずだ。
時間を無駄にしてはならない。
奇妙な感覚だ。腹の底から何かが込み上げてくる。青い空を想いながら操縦桿を引き、あおむけの状態で寝傍っている
APCS、動作正常。常に地球の縦深を示す高精度ジャイロが姿勢を三次元的に補正。操縦者のおれはちょうど椅子に浅く腰掛けるような姿勢で黛の中に在る。胴体内部から上腕、太股へ手足を滑り込ませるような方式で、人型戦術歩行兵器は重心を補正し、震える機内でも微動だにせず直立した。
全てのシステムが正常に作動していることを目視確認して、がしゃがしゃと音を立てながら後部ランプへと向かう。
おれが身に纏っているのは、どこぞの有名兵器会社の製造した装甲戦闘服システム。逆間接型の脚部と細長い腕部、奇妙に前傾した姿勢のこの兵器は全高三メートルほどで、小型の燃料電池を電源に稼働する軍事兵器だ。おれはその胴体部の中にいる。座るような姿勢で、両手足の付け根あたりに四肢を突っ込み、操縦桿を握って四肢を操作するマスタースレイヴ方式だ。武装は七・六二ミリ口径の自動小銃。ボックスマガジンは五十発分に拡張してある。歩兵用のものに照準用カメラを搭載、予備弾倉は千発分あり、背中の武装ラックには今は空挺降下用のナイロン・グライダーを装備していた。特殊任務用途の特注素体だ。こうした、現代兵器の主流を為している装甲服システムは六一式鉄脚、黛。訓練時代から慣れ親しんだ名機だ。
頼むぜ、
首の周りは少しのスペースが確保されており、その中で搭乗者であるおれの頭部にぴったりとはめられたバイザーに全ての情報を投影表示する。HMDは、東部カメラから取り込んだ外部映像を表示。環境表示を表すHUDも投影され、向かって右側のディスプレイは機体情報、左側は戦術データリンクシステムから得られる、衛星経由の任務情報が、背景から浮かぶようにして映し出されている。。
この限られた視界と外部音声を調整して流すヘッドフォンが、おれと世界をつなぐ全てだ。
緊急破砕用のアクセスコードが操縦士から送られてくる。即座に操縦桿を操作して、左面に表示される文字を追って入力。直後に爆音が轟き、正面ディスプレイが映し出す赤い機内が、海と空の青色に染め上げられる。急激な減圧で強風が流れ込むが、
(綺麗だ)
一瞬、おれは、この見渡す限り広がる海に目を奪われた。
このままだと、空の中で機体は目立つかもしれない。機体塗装を青色にすべきだ。帰還したら、整備兵にそう伝えることにしよう。
右足から一歩を踏みだす。次に左足。また右足。そうすることで、人間は今日までの苦しい三十三年間を歩んできた。制御を失って墜落しつつある輸送機から飛び降りるなど、造作もない。いつも通り、やるだけだ。
そうして格納庫の後部ランプ上にまでやってきた時、無線機が鳴った。
<〇七だ。〇一、やっぱりあんたの幸運を祈ることにする>
「
勇気に背中を押され、おれは空へと落ちていった。
装甲服が軋む。HUD上の高度計表示が目にも留まらぬ速さで数字を減少させていくのを見つめていると、こちらの気が狂ってしまいそうだ。
叩きつける風で機体が激しく動揺する。
各種電動・油圧系統がはちきれそうなほどに、雲の上を吹きすさぶ冷たい暴風に揺さぶられている。本任務の性質上、酸素供給などの体のいい装置はないため、外気がそのままアルミ防弾装甲の隙間から入り込んで来た。
凍える程の風を受けて、背筋をぶるりと悪寒が駆け上がる。
既に落下速度は二百キロを超え、高度計は当初の一万五千から一万にまで数字を縮めていた――今、四桁になった。あと七千メートルばかり降下してから、背部の空挺ユニットを展開することになる。
「高度七千五百」
誰へともなく呟かなければいけないのは、この任務中の音声は、すべからく録音されることが規定のひとつであるためだ。何しろ人類で初めて、おれは突入体内部へと足を踏み入れることになる――かもしれない――人間だ。政府の役人や自衛軍のお偉方が、おれの感じる感情からその感覚質まで、全てを把握しておきたいと願うことは当然の成り行きだろう。
それはつまり、「後々になって全てわかるのだから、余計なことは一切するな」と告げられているに等しかった。元より、こちらもそのような大胆不敵な行動に出るつもりはない。自分の行動が引き金になって、万が一にも異種知性体との戦争に発展したらと思うと、考えるだけでぞっとしなかった。
臆病ともいえる慎重さから丁寧に遂行される任務。おれがこの任務に選抜された理由なのかもしれない。
これまでの経歴を鑑みて選抜されたのは素直に喜ばしいことであるかもしれない。だが実際は汚れ仕事だ。おれは場違いなところに来てしまったと感じ始めていた。鉛直下方向の映像はほとんどが穏やかな海面で占められていて、嫌が応にも、視界の端に銀色の美しい物体が目に入る。
適度に余裕を持ちながら、機体の揺れを細かく感じ取る。何か異常があれば、システムが捉えるより早く気付く自信があった。それほど、おれは黛を信頼しているし、使い慣れている。
今回の降下作戦は、米軍の得意とするところのHALO降下ほどきわどいものではない。高高度降下、低高度開傘の必要があるのは、敵地上空や非正規戦……つまりは汚れ仕事に相当する任務の場合だ。おれが行っているのは国連公認の調査活動。正式な国連の大使として、突入体内部の男――並木と接触を図ることとなる。
二次目的ではあるが、並木という男の保護も、おれの任務には組み込まれていた。あまり景気の良い話ではないが、突入体内部の情報を聞き出すと共に、本当に彼が人間であるのかどうかも調査する必要がある。そう、おれの上司は並木が人間ではないと疑っているのだ。
隕石の落着から微動だにしない物体の中で声がしたら、それは幽霊以外の何物であると感ぜられれば良いのだろうか?
この作戦が成功したその先は、知らない。あまり胸のすくような展開とはならないだろうが、まずはここで墜死しないように努力すべきだろう。
迫りくる海面へと意識を戻した。一面が青い海水で覆われているから、遠近感が掴み辛い。計器をが無ければまったく高度感覚を掴めないだろう。どれだけ近付いたのか、あとどれだけの猶予があるのか。
「高度六千。
突入体は総じて十一、地球に衝突した。宇宙空間を秒速七万キロ程度の速度で突き進む、金属で構成されていると思われる細長い菱形の巨大物体を捉えたのは、意外にも欧州連合の宇宙探査チームだった。
膨大な質量を持つ十一の明らかな人工物が、隊形を組んで地球へ接近しつつあり。に十世紀末であれば大混乱に陥ったであろう見出しで報道がなされた。
世界中の天文学、宇宙物理学の有識者が動員され、急速に迫りくる異質なものを明らかとするべく、あらゆる手段が講じられた。その結果、鈍色の物体は全長が三百メートル前後と推測され、質量は最低でも五千トンに迫ることが確認される。さらに、軌道が規則的でなく、重力井戸の関係からも有り得ない方向へ向かっていることから、推進装置で機動する人工物である裏付けが為された。
人々はふたつに別れた。諸手を上げて喜ぶ者と、肩を抱いて慄く者に。
数千トンの質量を持つ金属体が高速で地球に衝突すれば、膨大な運動エネルギーによって、核爆弾数百個の爆発に匹敵する規模の大災害が発生する。質量変換によるエネルギー放出ではないために放射能は発生しない、あらゆる意味でクリーンな大量破壊兵器でもある。
環境、人的に極めて重大な脅威である認識こそあれど、楽観視する声も多かった。人工的な推進機関を搭載しているということは、減速も可能であるということも示唆していた。そのため、物体は最終的に地球の衛星軌道上に留まるのではないか。
観測を主体とした対応が続けられ、人工物の軌道変更が確認された。複雑な姿勢制御を行う様子は確認できなかったが、とにかくそれらは減速しつつ軌道を変更。真っ直ぐに地球への落下軌道を辿った。
そうして三十三年前、突入体と呼称された十一分の一が、ここ、インドネシアはジャカルタへと落着した。
おれは今でも、「弾着、今!」という上官の合図の声を覚えている。テレビ越しでも、その衝撃波はしばらくして日本にも届いていたのだ。空を覆っていた雲は取り払われ、青空へと変貌していく、冬の寒い日のことだった。直前まで軌道変更を続けた突入体は落着地点の確定ができなかったため、人口密集地であったジャカルタでは避難の遅れも重なった。
残されたのが、この巨大なクレーターだ。甚大な経済的損失をも招いた突入体の落着により、世界経済は未曽有の大混乱に陥り、結果として第三次世界大戦を始めとする混迷の時代の端緒となった。
「高度三千。状況開始」
背部、炭素合成繊維製のカバーが発破と共に離脱する。あっという間に遥か上空へと取り残されたそれに一瞬遅れて続くのは、炭素繊維を編み込まれた頑強なグライダーだ。風で展開するように周到な畳み方で、パッケージとしてまとめられて背部に装備されている降下装備。
オリーブドラブの薄い炭素繊維で編まれた帆布が広がり、びん、と音を立てて接続基部との間で緊張した。
身体を固定するハーネスを通して、急激な減速から背骨を引っこ抜かれそうな衝撃が走った。強化されて複数本を束ねたパラコードは黛の重心近くに接続されており、風で煽られる度に手足を動かしてバランスを保つ。
その時になって、〇七がどうなったのかを首を回して確認した。右面のディスプレイ上では、〇七の項目はLOST。後に尾を引く煙だけが辛うじて見えた。操縦士の二人は脱出できたのだろうか。気にかける猶予も無い。一際強い振動がコックピット内殻を揺るがし、黛にしっかりしろとひっぱたかれたようだった。
使用している落下傘は、各国の特殊部隊が用いる空挺降下用のエアグライダーを拡大したものだ。軽量機動兵器である黛程度の重量ならば、問題なく目的地へと滑空して送り届けてくれる。左右の人間が引っ張って操作していた翼端結合部は電動モーターへと繋がれており、操縦桿を微かに倒すだけで任意の方向へと機体を導く。
それもこれも、横合いから吹き付ける猛烈な風を想定していなければの話だ。
無重力状態から重力下に戻ったまではいいものの、なんとか方向を修正するために悪戦苦闘する。黛は重心が人間とは異なる上、風に晒される面積も、空気抵抗までもが遥かに異なる。さらには右腕部に固定された自動小銃と弾薬が、カタログスペックよりも大きなずれを起こしていた。
非常にまずい。このままでは突入体まで辿り着けない可能性がある。そもそもが想定外の位置からの降下であったために、余裕を持った降下計画の降参が外れた。
頑強な構造で、一世紀近く運用されているハーキュリーズの事故率は極めて低い。ともすれば、突入体が何がしかの働きかけをしたのかもしれないが、水没してしまっては元も子もない。
眼下には青い海に浮かぶ、クレーター上の土地がある。突入体が深々と突き立っており、半ばまで土に埋もれたそれは、とても細長くせり上がったピラミッドのようにも見えた。中心部で垂直に、見事に佇立している。周囲を円形のクレーター外縁が囲み、すり鉢状の剥き出しの大地は海抜が低いようだ。インパクトの瞬間に放出された膨大なエネルギーが想像できる。
元は海底のため土壌には塩分が多く、植物は繁茂していない。この縁を取り囲むクレーターの一部が崩落すれば、怒涛の勢いで海水が流入し、辿り着いたとしてもおれは命を落とすだろう。
HMDの表示を信用するのなら、直線距離でおよそ二キロ近くを滑空しなければならない。南東から吹く強い海風を考慮しても、辿り着くには厳しいかもしれない。
細かく、操縦桿を操作して何とか機体を直進させる。飛行速度はなかなか早い。時速五十キロほどだろうか。徐々に視界の中で大きさを増していく突入体を、おれはまじまじと見つめた。思えば、これほど間近で突入体を目にしている人間は、歴史上に数えるほどしかいない。
並木は、中にいるようだが。
任務の主要目的だというのに、おれは並木という男の生存をまるっきり信じていなかった。
人智超越的な科学技術の結晶。海という地球最大の自然の中で、突入体だけが背景から浮かんで見えるほどの異質さを放っている。
あれほど巨大な爆発の中にあったのに、脆そうな金属体の表面に損傷は見られない。細長く伸ばしたダイアモンド型の、最も膨らんでいる真中の部分より少し下のところから先は地面に埋まっていて見えなかった。三十三年間、潮風に当たりつつも錆ひとつ見えない、この金属の材質は何であるのだろう。なるほど、科学者たちが執着するわけだ、おれでさえ不思議に思うのだから。
多くの人々から関心の的になりつつも、突入体の調査は積極的に行われなかった。その理由は経済恐慌からの第三次世界大戦と、いくつかの現象に起因する。
十一の突入体のうち、六までは海中に没した。そして意外なことに、大陸に落着したもののうち二つはインパクトと同時に爆発四散した。残骸は発見できず、ここ、ジャカルタのものと、アフリカはケニアに落着したもの、さらにカナダ中部とロシア西部にあるものが、現存する全てと考えられている。
クレーター内部の熱が収まり、放射線その他の人類に有害な影響がないことを皮切りに、国連は幾度も調査部隊を編成して現地へと向かわせたが、如何なるテクノロジーか、調査団の人間は突入体の周囲に展開しつつも目立った成果を持ち変えることもできなかった。
溶接、薬品。どのような加工技術が相手であっても、突入体には傷ひとつ付かなかった。それだけでなく、金属の表面を眺めているだけで、人々は腹の底から何かが押し上げられるような圧迫感を感じ、長期間の調査活動にも支障が出る程だった。それだけでなく、重症の者は皮膚がぴりぴりしたり、頭痛を訴えることもあった。
何がしかの力場が作用しているのではないか、という説を唱える以外、科学者たちにはどんな説明をすることも不可能な事象が渦巻いていた。無人機を派遣しても、人間と違って効率的な作業ができるわけではないから、月面探査以上の調査は行えない。
おれも今、圧迫感を感じ続けてはいるが、不快なものでは決してない。むしろ昂揚感に近かった。オカルトを信じる性質ではないが、進みすぎた科学とは、得てしてそういうものだろう。恐らくは太陽系外から飛来したこの人智超越的な物体が、尋常なものである筈がない。
おれが今まで見て来た世界の外からやってきたモノ。
尤も、成功すればの話であるが。
折から無線が入った。
<こちら一二。〇一、送れ、送れ>
ほとんど雑音ではあったが、その向こう側にある言葉の意味をどうにか理解した。通信妨害か。これが上層部の言っていた力場の影響なのかもしれない。ECCMをONにするも改善されることの無い雑音へ答える。
「一二、こちら〇一。送る。どうだ」
<聞こえるが、ノイズが酷い。〇一、どうなっている。状況を報せ>
「無線状態は最悪だが、こちらの任務経過は良好だ。○七のトラブルにより想定より早く降下したが、何とか目標まで辿り着けそうだ」
<一二より〇一、了解した。作戦継続に支障なし、だな>
「ああ、そうだ。〇七は」おれは考えるより早く問うていた。「あいつらはどうなったんだ。無事に不時着できたか?」
微かな間を置いて、司令部は答えた。
<墜落したが、脱出装置は作動した。現在、
「よかった」
<まったくだ。任務を続行しろ、〇一。貴官の幸運を祈る>
「了解。これよりアリソン・クレーター内部へと着地を試みる」
<〇一、こちら――>
一際高く鳴った雑音に、システムが聴覚への負荷を考慮して無線を切った。自動処理も時には気の利いたことをする。
高度計表示の数字が、穏やかに減少しつつある。追い風がさらに強くなり、機体が理想的な速度で流されていくのを感じた。かなり余裕を持って到達することができそうだ。
高度千まで下降したところで、突入体の周囲を旋回する軌道に乗った。マニュアル操作だが、これは士官学校でしかめっ面をしている、人をいびってくるために軍服を着たまま生まれた教練担当軍曹にも褒められそうなほど上手くいっている。海原を吹きすさぶ風も低空に向かうにつれ許容範囲内の強さとなり、おれはしばらく、金属の塔と周囲に広がる青い世界を楽しんだ。
目前まで近付いた突入体の表面が、ただの一面から、視界一杯の壁にまで拡大されていく。
そこで気が付いてしまった。まさか、おれは追い風に煽られているのではなく、この物体に引き寄せられているのではないか?
五分後、高度が百メートルを切る。五十、二十五……そこでシステムが言った。
<
微かな振動と共に、ロックされていたグライダーと機体の接合部が外れる。足下を高速で流れていた地面へと、最後の減速入力で浮かび上がった五メートルほどの位置から、黛は解き放たれる。この一瞬を使って、システムは空挺降下モードから通常モードへ。
着地した。逆間接の脚部に内蔵されたショックアブソーバーがダンパー一杯にまで収縮し、衝撃を吸収する、教科書通りの動きで
圧力弁が開放、甲高い音色が短く鳴り響く。意気揚々と舞い降りた鳥が鳴いた。
<接地完了>黛が言った。
「当然だ」
おれは録音されていることも忘れて、言ってやった。
空を見上げると、グライダーがあらぬ方向へと風に吹かれて飛ばされていった。じゃあな、と口の中で呟きながら、給水管を口に差し込んで戦闘糧水を飲み下す。乾いた唇を舐め、黛を傍に聳える突入体へと正対させる。
すぐそばで見る突入体は、正に見上げるような大きさだ。これほど肉薄人間も、この星に数千とはいまい。幸運なのか悲運なのか。この中に足を踏み入れなければならないともなれば、それもまた一興だが。
ともかくも、おれは所定の作戦計画に則って宣言する。ここからがおれの任務だ。
「一一三一時。これより『走り書き作戦』を開始する」
一先ず、右足から一歩を踏み出し、地面の感触を確かめる。剥き出しの岩や柔らかい土が散在していて、地形としては最悪の部類に入る。歩兵ならまだしも、主力戦車や歩兵戦闘車などの装軌車輛でなければ、走破することはかなわないだろう。装輪車輛ならば、自重で埋もれてスタックしてしまう
PGTASと呼ばれる装甲戦闘服システムは、このような悪路、あるいは装甲車輛の侵入が望めない市街地での機動を主眼に置いて開発された。三十三年前のあの日――突入体が世界中に灰と熱をまき散らし、世界中が生き残るために、同じ人間を殺し始めたあの時から、人間は自らの武器にさらに磨きをかけたのだ。
軽く頭を振る。今は任務に集中すべきだ。幸い、いつも茶々を入れてくる司令部からの通信はない。理想的な任務環境だ。
そう。正に理想的だ。このくらい、達成不可能な想定を吹っ掛けられた演習よりよほどやりやすい。
いつの間にか目の前に迫った突入体へと、黛の空いた左腕を伸ばす。金属の表面は黛へ向かって上方へと斜めに伸びている。細長い菱形の膨らんだ真中の部分が、屋根のように頭上を覆っていた。
突入体の表面に手を付けると、遠い場所から何かが聞こえて来た。
(なんだ? こいつは)
頭で考え、ハッとして声に出す。ボイスレコーダーとは、また面倒くさい代物だ。
この時、おれは突入体に近接した諸々の人々が実感した忌避感などは、まるで感じていないことに気付いていなかった。それよりも、意識は聞こえてくる旋律へと集中している。
「何かが聞こえてくる。これは……歌のようだ。それとも悲鳴かな。ボイスレコーダーには記録されているのだろうか。交響曲とエレキ・ロックを同時に聞かされて、隣にいる誰かがリコーダーを吹いているような……多くの情報が載せられているように感じる。そうだ、これは言語だ。おれは語り掛けられている。たぶん、そうだ」
旋律は、耳にする音としては遠くで甲高く唸り声を上げるタービンエンジンだろうか。それは最も近しいという意味合いでしかない。この現象は、多くの科学調査チームから抽出された事前情報には記載されていなかったし、ブリーフィングでも通達は無い。情報奪取を防ぐためにこちらへは最低限の情報しか知らされていないが、いずれ体験する事柄について口をつぐんでも仕方がないだろう。
つまり、こいつはおれが人類で初めて経験するものだ。人類初。その言葉に浸りながら数分間、その音を聞いていた。
不思議と飽きない音色だ。遠ざかるかと思えば近付いてくる。右に行くかと思えば左へ移る。掴み所のないいくつもの感情が沸き起こっては消えていき、入れ代わり立ち代わりに胸の内を満たしては空にしていく。
埒が明かない。こちらから何かを語り掛けたいくらいだ。
そろりと後ずさって、黛の右マニピュレーターを持ち上げる。腕部固定式の自動小銃の銃口を外殻へ突きつけた。外部スピーカーをオン。この内部から電波を発信している並木という人間を救出する。それが表向きの理由であることを忘れてはならない。
「国際連合、TFOOTE調査機関の有澤俊博だ。並木、聞こえるか。君を助けに来た。聞こえているのなら、何かしらの合図を送ってくれ」
我ながら、銃を突きつけながらする話ではなかった。
沈黙が内殻を満たす。指向性マイクを突入体へと向けてみるが、意味を持った音色のほかには何も聞こえてこない。
TFOOTEも予測していたことであるが、並木は実在しない人物である可能性が高い。苗字だけでは特定しきれないため、顔も、髪型も目の色も、友人知人ですらもわからない声色のみ実在する、人間未満の情報として扱われている。
しかし、声だけなら合成も可能である。人類の言語を学習するために必要な材料には事欠かないだろう。無線による連絡はそれこそ数限りなく行われたはずであり、傍受すれば肉声の合成程度は容易だ。人類の技術力でも可能なことが、突入体に潜む知性に不可能なはずがなかった。
言語の解読には膨大なサンプルが必要だが、三十三年分の多種多様な会話は、教材としてじゅうぶんすぎるほどだろう。星間航行を行っていたと思われる物体を建造する科学技術は極めて高い水準にある。
たっぷり三分間を待ったが、何も反応はない。こうしている間にも唯一の作戦機材である黛の燃料電池はエネルギーを費やしている。
多少の強硬手段も止むを得ない。まずは先方からの反応を引きだすことが先決だ。拒絶であれど、意思表示には変わりない。
「威力偵察を開始。発砲する。マスターアーム、オン」
右手に把握している操縦桿の人差し指に当たるボタンを押し込む。ガチリと、大型自動小銃の安全装置が解除される音が響いた。HUDに、MA/ONの表示。
「何かしらのサインを出すなら、十秒以内にくれ。十、九、八……」
引き金に指をかける。ボックスマガジンの中は弾丸が最大まで充填されている。下手な軽装甲車輛の装甲板すら貫通するこの小銃ではあるが、調査団のあらゆる破壊手段をも耐え抜いたこの突入体に効果があるとは思えない。無駄とは思うが、あらゆる手段を講じるべきだ。
「五、四、三――おっと」
傍若無人な――メディアが軍人らしいと騒ぐような――一手は、相手方にとっても予想外だったのか、変化は唐突に現れた。
黛が正対している壁の、高さ五メートル、幅四メートルほどの四角形に溝が走り、ランプのようにこちら側へ開いた。潰されないように黛を跳躍させ、十メートルばかりを数歩で後退し、銃を構える。照準は中央に、たとえ主力戦車が出てきてもじゅうぶんに対応できる構えだ。開いた途端に滑腔砲をぶっ放されては敵わないが。
大昔のサイエンス・フィクションに出てくるような、スムーズな無駄のない動きで静かに扉が開く。
内部は、外殻と同じ鈍色かと思いきや、白く染め抜かれた四角い空間が見えた。一辺が七メートルほどの部屋で、家具らしきものは何もなく、迎えに出てくる人影も、こちらに奇天烈な形の銃を向けるエイリアンもいない。埃のひとつすら散っておらず、一見したところ、罠に見える物体や突起なども見当たらない。
拍子抜けしたが、どこか安堵している自分がいた。今のところは、まだ戦闘状況まで発展せずに済みそうだ。
心臓が早鐘を打つ。おれは乾いた唇を舐め、声が平静なものになるように全霊を傾ける。
不思議なものだ。言葉が通じるかもわからない、いるかいないかも不明な相手に、見栄を張るというのは。
「入るぞ」
ランプは地面に倒れ込み、傾斜路となったまま動かない。おれはそれを承諾と解釈した。そもそも、立ち入って欲しくなければ開かなければいいだけの話だ。
そこで気付く。
(くそ。こいつも人類初ってことか)
黛が進み、一歩をランプの上に踏み出した。金属と金属がぶつかり合って嫌な音を奏でるかと思いきや、内部侵入を考慮して合成ゴム製の轍を踏ませているのに気が付く。整備兵からの通達には入っていない。しかし、いい配慮だ。
何故、これほど情報が伝達されないまま作戦に投入されたのか。元より人道的見地から国際的体面を保つための作戦ではある。いわば予算の無駄遣いだ。そこに陸上自衛隊から派遣された武官が任務実施の全てを担当するのだから、軍事参謀委員会としては面白くないのだろう。
おれの命は捨て駒ということだ。たとえ死んだとしても、陸自、TFOOTE、軍事参謀委員会にはどのような被害も無い。
吸音ゴムのくぐもった足音を響かせながら、三メートルの人型兵器が部屋の中央に立つ。装甲板に囲まれたカメラアイがカバーの下から覗き、周囲を走査。さらに小型のモスボールが顎から飛び出して索敵。頭部側面のアンテナはあらゆる周波数帯の電磁波を収集するも、表示される時系列グラフには雑音しか混じらない。
「周辺環境を走査中。今の所、如何なる生命反応も探知されない。外で聞こえた音色も止んでいる。この静けさはまるで……神殿だ」
外殻から内部に入ると同時にあの音は収まり、黛の低いモーター音と足が床と擦れる摩擦音が響く。銃を撃てば、いつまでもこの部屋の中で発砲音が反響するだろう。振り返ると、音もなく入口は閉じていた。開いた時と同じ、音もない開閉だ。
静謐な空間だった。天井は全体が発光パネルで、屋内の通常照明と同じ明度の明かりが室内に投げかけられている。足下の影は四方から投げかけられる照明で、ぼんやりとした黒い染みに見える。
四方の壁は白く、微かに湿っているような光沢がある。触れる気にはなれないが、どこにも入ってきたランプのような溝は無い。壁や天井の継ぎ目には隙間が無く、通風孔のようなものも無いため、このままでは窒息死の可能性があった。黛は内燃機関を持たない固体高分子形の燃料電池駆動だが、人間一人の呼吸でもかなりの酸素を消費する。
不安は募る一方だが、この程度の負荷ならば戦場では普遍的なものだ。数時間後の窒息死より、頬を掠める銃弾のほうが明確な脅威といえる。
だが何よりもおれの心を追い立てるのが、経験したことのない静けさだった。
何も無い空間では、そこに存在するだけで、五月蝿すぎる。おれは自分の命を感じた。
どちらにしても、これで帰れなくなった。かといって前に足を進められる訳でもない。完全に閉鎖された空間で、何とか半狂乱にならずに、おれは意識して引き金から指を引きはがした。ここで乱射しても誰も責めないだろうが、こうなれば見栄を張ることでしか正気を保っていられない。
外気を確認する。NBC防護が適用されている黛のセンサーが、地球の大気と何ら変わらない成分が周囲に存在していることを示している。システムの故障ということもあり得るが、まず信用していい数値だろう。他に気圧、気温までをも記録。全ての数値は、おれが出撃した基地や、墜落したあのハーキュリーズよりも快適な環境がここに構築されていることを示している。
(危険を冒す者だけが勝利する、か)
意を決して、目の前に設置されている筈のマイクへ向けて音声入力を行った。
「コマンド。頭部ハッチのみ開放」
ピッ、という命令受諾を示す電子音と共に、ヘルメット様に頭部を覆っている装甲が開く。
ちょうど人間で言う鎖骨のあたりが上側に開き、顔面が外界に晒される。
おれは驚くほど冷たい内気に肌が冷えるのを感じた。汗が程よく引いていく。任務の緊張感で火照った顔の表面を、汗が一筋、流れ落ちていった。
そして、次の瞬間には肝を冷やすことになった。
真正面の内殻に、人ひとり分が通れるほどの幅と高さの溝が出現し、向こう側、突入体の中心部へ向けて、陥没した。まったく音もせず、どう動いているのかもわからないところからして、内部に入った時と同じテクノロジーだろう。まったく同じ文明が作ったであろうこの内部にいるのだから、当然ではあるが。
その扉らしきものが、陥没を止めて、天井へとスライドしていく。
おれは右腕を動かし、自動小銃の銃口を開き始めた空間の中心に向ける。どんな風体の輩が出てくるかは知らないが、おれをここへ招き入れたのだから、攻撃をしてくることはないだろう――そう楽観視したがる自分を抑えつけて、最悪の状況を覚悟した。
最初に見えたのは、細い足だった。そのままスカートの裾らしい布が大腿から上を隠し、膨らんだ胸と、その前で組まれた手が現れ、最後に女の顔がこちらを見つめているのが、見えた。
そこにいるのは、人間だった。
陽射しの遮られた金属体の内部にいる人間にしては、やけに肌が健康的な色をしている。黒瞳は怯えて瞳孔まで開いており、茶色い髪の毛は腰に届かんばかりまで伸びきっている。前髪は真中で分けて耳に引っ掛けてあり、華奢な体躯は極めて魅力的だ。
顔立ちはシャープで、あどけなさの残る表情が覆い隠してはいるが、美形だった。どこか西欧の
生憎と神の存在を信じない程度には、おれは人の死を見すぎていた。
彼女は動かない。揺れた小銃ががちゃりと立てる金属音が室内に響く。
その反響が収まった時。
「だあれ?」
女は囀った。おれは銃を向けたまま、黛の左足を前に出す。彼女は進んだ分だけ後ずさりした。
「君は何者だ。どうしてここにいる」
「そのまま、あなたに返す」
おれは彼女のゆったりとした白い――本当に真っ白なワンピース姿から、こちらを害する銃器を持っていないとみなした。どの道、黛を装着したままでは通路の中には狭すぎて入っていけない。並木を探さなければならないため、彼女に案内させることを鑑みても、黛は、邪魔だ。
ちくしょう。やれるものならやってみろ。
「コマンド。ハッチ開放、全てだ」
<了解。第一待機態勢へ移行>
空気の抜ける音と共に、黛が逆間接を折り曲げてしゃがみ込む。前部装甲板が開き、ベルトで四肢を固定したおれの、緑色の迷彩色が施された戦闘服姿が露わになる。
操縦桿から手を離してベルトを外す。ごとん、と音を立てて、おれはブーツで床を踏みしめた。
床は固かった。汗ばんだ戦闘服はすぐに乾燥し始め、冷たい空気にぶるりと身が震える。拳銃に手をかけたおれの背後でハッチが閉じ、人型の装甲兵器がその場で、人間へ向けて首を垂れた。
女は驚いたようで、「ええっ」と口を開けたまま声を上げると、歩み寄るおれと黛の装甲板を交互に見比べる。
「ヒトの中から、ヒトがでてきた」
「なんだ、こいつを知らないのか」言ってから顔を顰める。この女が何を知ることができる? こんな閉鎖された空間で。「これは人間じゃない、ただの機械。君は何者――」
どういう訳か、この純粋無垢な女性を見ていると、「自分の方から名乗らなければ失礼」という、もはや三葉虫のように古めかしい日本のしきたりを思い出した。
足を止め、思わず眉を潜めてしまう。そして腕を組んで、ううむ、と考えてしまった。
そもそも、おれは外殻へと自己紹介をしてからここへ入って来たのだ。それは、並木がそれを聞いて承諾したからではないのだろうか。出迎えに出て来たとも取れるこの名も知らぬ女は、明らかに並木ではない。彼ならば、おれがTFOOTEの特使だと認識するだろうが、事前に聞いた彼の肉声と彼女の声には雲泥の差がみられる。
しかし少なくとも、この女が嘘をついているようには到底思えない。見るからに、外界を知らないのであろう、世俗的な嘘や計略からはほど遠い思考回路を持っている。黛を目にして度肝を抜かれるのは自然な反応と言えるだろうが、兵器を見る一般人の興味津々さではなく、異端者を目にした敬虔なクリスチャンのそれだ。彼女は驚いているのではなく、圧倒されているのだ。
――愚かなことだ。外見や雰囲気だけで人を判断しようとするなど。
腰にさした護身用の拳銃を意識した。少なくとも、こちらには自衛手段がある。生物化学兵器を使用されてはひとたまりもないが、これも軍籍に身を置く人間に必要な危険のひとつだ。これしきで狼狽えているようでは、ここまで生き残れなかった。
実績と運が、この自分にはある。おれは自分自身を奮い立たせて、とにもかくにも、名乗ることにした。
「おれは国際連合TFOOTE調査機関、日本国陸上自衛隊第一空挺機兵連隊所属、有澤俊博一等陸尉だ。君の名前は? 年齢は? なぜここにいるんだ」
「てぃー……ふーと? なにそれ?」
「Things From Out Of The Earth、つまり突入体――おれたちはこれをそう呼んでいる――を調査するために作られた組織だ。国際連合に加盟している日本国から代表してやってきた。こちらに戦闘の意図はない」銃を携えた人間が何を口走っているのか。「君達と
女は眉を潜めた。どうも理解に苦しむらしい。
「名前は、有沢俊博だ。姓が有沢、名が俊博」
わざわざ言ってやると、女はぱっと笑みを浮かべ、頷いた。これは通じるのか……
突入体内部に住まう女。内部では外部の無線電波などを傍受し放題であっただろうから、言語を習得していることは特に不思議ではない。しかし、こちらの常識や知識は通用しないだろう。習慣や価値観というものは、人間関係の中で会得していくものだ。社会に適合した結果、常識という法則に身を任せることができるようになる。ヒトとは、そういう生き物だし、そうしなければ生きていけない。人間は、食って、寝て、糞をするだけで生きられる生き物では、もうなくなってしまったのだから。
しかし、地球外からもたらされたこの物体の内部にいた生物が、外見からして同じ人間だとは落胆させてくれる。腕が何本もあるサイエンス・フィクションの知性体相手に、血みどろの銃撃戦を繰り広げたかったわけではない。おれたちはどこか、異種知性体というものに必要以上の幻想を抱いてしまっているようだ。
と、彼女が近付いてきた。おれは後ずさりしそうになるのを何とかこらえ、女がひたりひたりと床に足を着ける音を聞いていた。黛ほど大きくもなく、どこかそっぽを向いていれば聞こえなくなってしまいそうなその足音は、おれの聞き慣れぬものだった。
拳銃にかけた右手をゆっくり下ろし、太股に押し付ける。
相手側に、こちらから先制攻撃をしかけたなどという大義名分を与えるわけにはいかない。ちくしょう、それならばおれはこの女に殺されても文句は言えないんだ。
やがて一メートルほど前にやってきた女は、おれの顔を覗き込んでくる。身長がおれよりも十センチほど低く、清潔な石鹸の香りが漂ってきた。美しい面差しと呆けたように開いたままの唇が歪み、微笑みを形作る。
「わたしは、のどか。よろしくね、としひろ」
言いにくそうに、彼女はおれの名を呼んだ。
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