第4話 リンゴ

 明くる日、ノンジは気だるげに起きて、ろくすっぽ朝食も取らず、アラガネの元へ向かった。


 アラガネの露店にはまばらに客がいる程度で、昨日ほどの盛況ぶりはなかった。

 元気のなさそうな彼を見るなり、アラガネは事の顛末を予想した。


「その様子じゃあ、ダメだったようだ」


 うんと言う言葉の代わりに腹の音がぐうと鳴った。


「ほら」


 アラガネはリンゴを拭いてノンジに差し出した。

 ノンジは真紅のそれを手に取り、逡巡しゅんじゅんの後かぶりついた。

 汁が垂れて顎を伝い首を伝い、服を汚すのをお構いなしにむしゃぶりついた。思い返せば、夕食を取った記憶がない。


「有難う。ご馳走様」


 言って、続けざま父とのやり取りを話した。


「まあ、そう気を落としなさんな。君のお父さんは極めて聡明そうめいな判断をしたと俺は思うよ。とはいえ、どうするね。このままじゃあやはり君に本を売ることはできないが」


 そう言われても、ノンジには代案を立てるほどの気力も知力もない。大人しく引き下がる他ないのだが、それはできなかった。


「お父さんの話ももっとももさ。何が欲しかったのか聞かれて答えられなかったんだろう?」

「僕は、何かに成りたい訳じゃあないんだ」

「何に成りたい訳でもないのに本が欲しいのかい?」

「僕は兎に角、未来を変えたいんだ。お父さんの言う通りが僕の人生の顛末てんまつなら、変えなくちゃいけない。僕は、僕の愛する我が子に夢の本を買ってあげたいんだ」


 ノンジの真剣な眼差しを受け、アラガネはしばらく宙を見て考えを巡らせた。

 蒼天はどこどこまでも青く、雲一つない。ノンジの心の中とは真逆の清々すがすがしさで、世界を綺麗に磨いていた。


「未来を変えると言ったね」


 アラガネは目線を宙に向けたまま呟く様に言った。


「未来を変えるには今を変える必要がある。今を変えるにはそれ相応の覚悟が必要だ。大事なものを失ったり、辛い思いをしたりしてしまう可能性がある。それでも未来と今を変えたいというのかい?」


 アラガネはゆっくりと顔を下げ、白い太陽をバックにノンジを見つめた。ノンジは目を輝かせて頷いた。その目の輝きを見て、アラガネは気だるげに溜め息を吐く。


「どんなことでも耐えると約束すれば、ご褒美が貰えるという甘い考えを巡らせてはいないかい? 君が想像するよりずっとずっと辛くおぞましい事を君はする事になる。楽観をしてはいけない。しっかりとした思考を巡らせるんだ。子供じゃあない。君としての脳みそを使ってね。その上でもう一度聞く、覚悟はあるかい?」


 グッと更にアラガネはノンジとの距離を詰め、帽子の影から三白眼さんぱくがんをぎょろりと覗かせる。それにも動じず、ノンジは口を堅く結び直し、頷いた。


 アラガネは元の姿勢に戻り、辺りを見回す。

 客も居なくなっており、近くで二人の会話を聞いているものは居なかった。それを確認してなおアラガネはノンジの耳に口を近づけ、囁く。


「なら、お父さんを殺しなさい」


 その一言から発せられた衝撃が脳を撃ち、ノンジは眩暈めまいに襲われた。

 しかし商人の凍てついた吐息の所為せいで首筋が凍り、身動きが取れなかった。


 一瞬遅れて心臓が止まったのを感じた。


 永遠にも思われる一瞬が何千秒も流れて、ようやく心臓は脈を打ち始め、耳元で血管がバクバクと喧しくなってきた。


 生唾を飲み込むと、焼けた咽喉のどがびくびくと痙攣けいれんし、さっき食べたリンゴが少しだけ上がってきた。ノンジはそれを呑み下し、深く息を吸った。


「理由を聞かせて」


 ノンジの瞳は死んでいなかった。

 驚いて倒れそうになったが、しかし根幹にある意志はまるで揺れ動いていないようだった。


 アラガネは懐から本を取り出す。


「開いて説明はできないが、これは孤児みなしごだけが開けられる夢の本なのだよ。だからこの本を開くにはまず孤児にならなければいけない。天涯てんがい孤独にね」


 孤児になる為に、父親を殺さなければいけない。世の中には生まれた時から親が死んでいて、望まざるも孤児になる子供がいる。しかしながらノンジは、父親がいるにもかかわらずそれを自ら捨てて孤児にならなければいけなかった。未来を変える為に。自分の子供を救う為に。


「もしもそれを実行できたのなら、黄昏が終わる頃、街外れの湖のほとりに来るがいいよ」

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