第1話 夢の本
黒髪の少年は
しばらく歩いていると街の中央の噴水広場に出た。いつもはベンチに人が数人座っている程度で賑わいもないその場所に、今日はどうしてか人だかりができていた。彼は好奇心の赴くままに人だかりの方へ近づいていった。
人だかりができていたのは、旅の商人が露店を出していたからだった。
立札には『夢の本、お売りいたします』と書いてある。
夢の本とはなんだろうか。更に商人に近寄って行く。
すると聞き覚えのある声が聞こえた。彼が公園に誘うつもりでいた友達の声だった。その方向を見ると声の主である友人とそのパパが品定めをしている様子だった。
声を掛けようと近づくと、パパは我が子に確認するような動作の後、夢の本を指して短く、
「これを一つ」
とだけ言った。
ワッ! と歓声が上がる。
周りに居る大人たちは皆ステワニのパパの事を称賛し始めた。
流石だ。
凄い。
パパの鑑。
いったいこれはどういう事なのか。それがわからないうちに、少年は友人と目が合う。
「ノンジ!」
友人は少年を呼び、手を振った。艶のある焦げ茶色の髪がつられて揺れる。買って貰った本を持って意気揚々とノンジの方へ歩いてきた。
「ステワニ。ちょうど今遊びに誘いに行くところだったんだ。ところでそれはなんだい?」
「これは夢の本だよ」
ステワニが掲げた本の表紙は革製で、燻された金の縁取りが施されており、重厚感があり、高貴な雰囲気を
「今、パパに買って貰ったんだ。一億円もするんだよ!」
「すげー! でも、なんでこんな本がそんなに高いの?」
「それはね、この本がただの本じゃあないからさ。この夢の本を開けば、夢までのストーリーが始まって、人生はその通りに進むんだよ。僕が買って貰った夢の本のタイトルは『一流企業の社長』。これでこの本の通りにすれば、僕は必ず一流企業の社長さんに成れるんだ。凄いでしょ」
「うん、すごい。でもステワニのパパもすごいや。1億円なんて」
ステワニパパは
「パパは息子の為ならなんだってできるんだよ。死ぬ事だって、生きる事だって。愛しているから。息子の将来の為だったら1億円なんて安いさ。きっと君のお父さんだってそうさ」
ノンジは肩をすくめ、俯く。
「うちはきっと無理。貧乏だから」
そう言った時、人だかりからどよめきが起きた。
三人が同時にそちらを見ると、一人のパパが震える手でお金を商人に払っていた。先程ステワニパパが本を購入した時とはどうやら事情が違うようだった。
「パパ。本当にいいの?」
その子供らしき少年が不安げにパパに問う。
「ああ、いいさ。息子の為だったら借金だってなんだってできる」
言葉を聞く限り、そのパパは夢の本を買う為に借金をしたらしかった。ノンジの位置からではそれがいくらなのか見る事は出来なかったが、商品の値札に記されている最低価格は2500万円だった。本のタイトルによって金額は変わるらしく、最高は5億円だった。
子供の為に借金までするパパを見て、ノンジは純粋に凄いと思った。まるでそれを察したかのようにステワニパパは穏やかな声で語りかける。
「どんなに貧乏でもパパがその気でさえあれば、買えない本は無いんだよ。君のお父さんも確かに貧乏かもしれないけれど、良い人なのは知っている。きっと買ってくれるさ」
ノンジは、パパのその言葉に確かに宿ったステワニへの愛情に、胸を熱くさせられた。
思えばノンジは、今まで父親に何かをして貰ったことがない。お金がないからと言う理由でキャンプに言った事もないし、欲しいものを買って貰った事もない。せいぜい公園へ散歩しに行くくらいだ。スポーツもお金がかかるので薦められない。ノンジは父親の事が嫌いではなかったが、尊敬は出来なかった。この貧乏を作り上げている張本人であることは、幼い少年にも容易に理解できたからだ。それでも今までは貧乏を憎んだりはしなかった。できない事は多くても、その不便の中でできる事を見つけるのは楽しい事だったから。しかし今、目の前でまざまざと見せ付けられる親子愛に、自分の信じていた物が虚構めいて見え、不安に駆られた。
「そう言えばノンジ、遊びに誘いに来てくれたんだよね。行こうよ。公園」
ステワニの温かい言葉に、ノンジは額に影を落とし歯切れの悪い言葉を返す。
「あ、えっと……」
最初はそのつもりだった。しかし状況は変わっていた。目の前には夢の本を売る商人。家に帰って父親を連れてくるか、それとも商人に直接交渉を試みるか。そんなことを考えていたので、上手く答えられなかった。
ステワニパパはステワニの肩に手を置いて穏やかに笑う。ステワニはパパを見た。
「彼は今、それどころじゃあない。何せ将来の事が掛かっているんだ。これは、呑気に遊んでいる場合じゃあないぞと思っているんだよ。友達なら解ってあげなさい」
「あ、そっかぁ」
ステワニはノンジに向き直り手を振る。
「頑張ってね。ノンジ」
「うん。ありがとう」
ステワニ親子は柔らかな風を残して去った。
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