14.特上マリンシュガー

 翌日の正午。美鈴はフェリーの港にいた。

 残暑の蒸し暑さの中、青いストライプのブラウスと白いパンツ姿で空を見上げる。

 来週、松山に行くよ。

 昨夜の彼の言葉を胸に、また海を隔てて育った港町に帰る。


 フェリーが港から離岸する。彼は見送りには来ていない。今日も暑い中、彼は犯罪を追っている。

 昨夜、抱き合った後に彼がなにもかも教えてくれた。

 突入してきた警察官から、何故、逃げたのか。その理由ももう話してもらえていた。愛媛県警の突入だったが、銃声が聞こえたため、早く来るよう県警に手配してくれたのは、男達を監視していた尊だった。

 あのヤクザ達は、借金で首が回らなくなった民間人をターゲットにして福岡から運び屋をさせていたという。九州からのフェリー、広島からのフェリーも着岸する松山が中継として使われた。広島ではなく、フェリーで愛媛に来て、港町でやりとりをしているという情報の裏付けに、相棒の刑事と一緒に尊は奔走していたという。この港町のあちこちの店に出入りしていることを確認。どの店で取引が行われるのか、見定めていたとのことだった。

 その中の一店に、宗佑の店『Dining cafe Marina』があった。捜査で入ったのに、そこの料理と彼女を気に入ってしまった刑事さん。抑えに抑え、冷徹な職務遂行とざわつく恋心(と食欲)がせめぎあう日を送っていたと教えてくれた。

 トイレから逃げた訳。店内で逮捕されたヤクザに顔を見られたのに、そこで入れ墨まで模している男が警官を目の前に警官だと名乗ると、このような捜査をしていると知られてしまう。だから警官ではないふりで逃走した。尊自身も追われはしたが、県警同士の連携で『あれは広島四課捜査中の刑事だった』との周知が届き追跡を免れた。美鈴の手から離れた黒いジャケットも彼の手元に戻ってきたとのことだった。だから……。彼についての情報が民間人である美鈴には報されなかったのだという。

 さらに、そのあと打撃を受けた店のことも尊は気にしてくれていた。『中年の口に合うメシ屋だから頼む』と、愛媛県警の親しい刑事に食べに行くよう頼んでいたという。美鈴も驚いた。やっと入ってきたあの時の男性二人組は尊の知り合いだった。その後、その刑事さんも気に入ってくれたとのことで県警の中でも口コミで広まり女性警官も来るようになっていたらしい。

 美鈴と宗佑がどれだけ彼に助けられていたかを知った。

 そして、あのヤクザ達が『Dining cafe Marina』によく出入りするのを尊は確認してしまう。だから自分が通えなくなり、ぱったり来ない日が続いた。

 店が取引に使われた訳も尊は教えてくれた。『彼等は、若いあなたと若い料理人の宗佑君しかいなくて、経営に必死になっていて余裕がなさそうな店だったということで、動きやすかったと供述しています』。そう聞かされ、経営者の姉としてショックも受けた。その供述があったこと、尊の裏付けで姉弟の店は被害側と捜査結果を報告してくれたため、家宅捜索を逃れたという。『もう、大丈夫ですよ。県警の刑事たちのいきつけの店になってしまっているんだから。おいそれ近づけないでしょう』と尊が笑ってくれた。この時ほっとしつつも、もっと弟と共にしっかりした店にしていかなくてはならいと深い反省も味わった。

 事件が解決し、尊は仮住まいを引き払い広島に帰ることになったことになった。あの部屋はバディの後輩と一緒に寝床暮らしをしていたという。美鈴を誘った夜は、事件解決後、後輩を先に広島に帰らせてから招き入れたという。そして翌日には解約をして引き払ったとのこと。心残りだった店に拒絶される覚悟を持って、彼は姉弟に最後の挨拶に来てくれた。そして、美鈴が追いかけて来た。彼にとって、思いがけないもの。こんな恋は滅多にないだろう。そう思ってくれた彼も警官だということを忘れて、美鈴を抱くことを選んだと言ってくれた。


 弟さんに挨拶をしに行くよ。


 尊がそう言ってくれた。とにかく、弟にも早く告げて謝りたいといっている。

 でも弟は尊さんが会いに来てくれたら、とても喜ぶと思うと姉としても伝えている。

 弟はあなたに食べてもらうのをとても心待ちにしていた。いちばんの常連様だったのよ。あなたを出入り禁止にしたのも経営者だからの決断で、ほんとうは身分も素性も関係なく食べて欲しかったのよ――だから謝る必要などないと美鈴は言った。

 あなたたち、姉弟はすごいですね。ヤクザのふりをしていた俺を受け入れていただなんて。俺、美鈴さんにも惚れていたけれど、宗佑君には胃袋掴まれちゃったかな。彼が笑った。

 肌を愛しあった後、彼の自宅でシャワーを浴びてホテルに送ってもうことになった。彼がシャワーを浴びている間、ベッドルームで身支度をしている時に見つけてしまう。本棚には沢山のトロフィーに表彰状が飾ってあった。中国地方の射撃大会で優勝とあって目を瞠る。だから、あんなに素早く的確に相手の拳銃だけを撃ち落とせたんだと納得した。それに壁に掛けてある警官の制服も見つけてしまう。夏の青いシャツにスラックスだった。

 いつ着ているのかしら。私服の刑事のようなので、美鈴に見せてくれるのはいつだろうかと見上げていた。

 ホテルに送ってもらい、別れ際に言われた。『弟さんに会いに行くよ。ご挨拶しなくちゃね』。もう結婚前提でいいよな――と再度聞かれ、美鈴はもちろん頷いた。

 すごく気持ちが走って、また彼の自宅まですっ飛んで行ってしまって、ほんとうにこれで結婚していいのかな。またそんな自信なさげな自分がもたげてくる。

 でも美鈴は、ホテルまで届けてくれ背を向けて帰っていく彼を見て思う。やっぱり嫌。二度と会えないなんて嫌。それだけ気持ちが走ってしまった男性(ひと)。これが本物なんだと痛感した。

 私達には恋人のような期間がなかった。でも、わかるの。本当の恋は、もうその時に身も心も墜ちている。あの人がお店に来て、品良く食べてくれ、いつしか言葉を交わして、また彼が来るのを待っている。彼も私を見つけて、私を遠くにしながらも拠り所にして会いに来てくれていた。私達はすこしずつ、惹かれて恋に墜ちた。それで充分。

 だからもう怖くない。彼が広島から離れられない刑事でも、危険な仕事が多くても、美鈴もすぐに広島には行けなくても、それでも二人一緒に会える場所があるならなんとなかる。そう思っている。彼もきっと、美鈴がいるところに帰ってきてくれる。


 今日も瀬戸の空は青く、島の緑は清々しい。

 潮の匂いに包まれ、美鈴はひとり港町に帰る。

 でも、身体の中、心の中、いっぱいに彼がいる。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 彼が制服を着て現れたのは、美鈴が待つ港町に再び訪れた日。

「え、制服……着てきてくれたの」

 道後温泉のホテルから店の駐車場までレンタカーで行くよと伝えてくれていた尊を迎えに行って、運転席から降りてきた制服姿の尊に美鈴は見とれてしまう。

 夏の水色のシャツに紺のスラックス、制帽までかぶってきてくれた。袖には県警のワッペンがついている。

「休暇だけれど愛媛県警の上の方に会う用事があって制服を着て行きました。そのままこちらに来ましたけれど、まず宗佑君に本物の警察官だと信じてもらいたくて」

「そこまでしなくても、スーツでも良かったのに。もう宗佑も香江さんから聞いて知っているんだから」

「亡くなられたご両親へのご挨拶もあるから、きちんとしてきたつもりだよ。そのあとここで着替えさせてください」

 厳つい顔をしているけれど、尊はそこはかとない品格があった。妹の香江も上品な奥様だったから、きっとお育ちがよいのだと思う。

「妹がもう大騒ぎで。昨夜も俺のマンションに押しかけてきて、甥と姪と食事を一緒にしようといいながら夜遅くまで入り浸って、あれこれ俺に結婚とはねと説教を……」

 まだ蝉の鳴き声が残る熱風が吹く港で、彼が制帽のつばを少し抓んで目元を隠す。ちょっと怒った顔が、出会った頃の彼を思わせた。なのにその怒っている顔が、妹さんがすることに困り果てての表情だと思うと美鈴はちょっと笑いたくなってくる。

「うちも、同じ。弟の妻、義妹の莉子が心待ちにしているの。初めて会うでしょう」

「うん。もうすぐ出産らしいね。彼女があの銃撃の時、二階にいてくれて良かった」

「自分だけ一度も尊さんに会ったことがないとずっと拗ねていたの。今日は弟と一緒に尊さんが来る来ると朝から大騒ぎなの」

 行きましょう。美鈴は彼の手を引っ張った。でも、彼は立ち止まったまま。

 凛々しい制服姿で、潮風の中『Dining cafe Marina』を見上げている。

「また戻ってこられた」

「そうね」

「宗佑君のうまいメシに、美鈴さんの綺麗な声と笑顔。捜査で入ったとはいえ、俺の帰りたい場所になっていた」

「うん……。ありがとう。気に入ってくれて」

「気に入る? どっちにも心底、惚れたんだよ」

 どっちも? 今日もエプロン姿の美鈴は制服の彼を見上げる。制帽のつばの影から、彼の優しい眼差しが注がれる。

「美鈴にも、宗佑君にもね」

「え、もしかして私を気に入ってくれたのは、宗佑の料理ありきだったの?」

「まあ、確かに。宗佑君の料理を先に気に入ったのは確かだけれど」

 彼がちょっと意地悪そうに笑う。そんな冗談も言えるの。ちょっと美鈴は戸惑ったけれど、でももう一緒に笑っていた。

「今日は道後温泉のホテルにダブルベッドで予約したんだ。美鈴さん、来てくれるよね」

 勝手にそんな予約までしていて、びっくりしたけれど。もちろん、美鈴もそのつもり。

 水平線で揺れる蜃気楼の中、今日も貨物船やタンカー、漁船にフェリーが航行するのが見える瀬戸内海。店のすぐそこにみえる港をふたり一緒に見つめる。

 彼がそっと美鈴の手を握った。

「俺も香江も、母はいるけれど、頼れる両親はいません。美鈴さんと宗佑君も莉子さんも、三人若い力だけで頑張っている。一緒に頑張っていきましょう」

 頼もしい夫と出会えたことに、美鈴の目に涙が滲む。

「私、尊さんが帰ってきたいと思うような家にするからね」

「美鈴さんの綺麗な声のいってらっしゃい――はかなり効くからね。それにこうして彼女が待っていると思うと、よりいっそう頑張れるものだな、絶対に帰ってこようと思えるんだと知ったよ」

 警官姿の彼が、制帽のつばの下から美鈴を見つめて言う。

「絶対に美鈴のところに帰ってくる」

「うん」

 そのまま唇を近づけてきそうな雰囲気になって。

「あ、姉ちゃん。尊さん、来たんだ!」

 店の二階、自宅玄関の階段から弟の姿が見えた。

 美鈴はぱっと彼から離れる。

 尊が二階を見上げた。久しぶりに宗佑と目が合ったようだった。

「マスター、お久しぶりです。また食わせてください」

「もう、マスターじゃないっすよ。義理弟になるんだから。そうでしょ。義兄さん」

 尊が満面の笑みになる。え、え、どうして弟にはそんなとてつもない笑顔になるの? 初めての笑顔も宗佑にだったし、胃袋も宗佑に掴まれちゃっているし。

「弟ができて嬉しいよ。男兄弟がいなかったもんだから」

「それは俺も同じ! 兄さん、これからいくらでも俺の料理食べていいから。もう客じゃないからな! ほら早く入って。メシ、作ってあるから」

「いや、嬉しいな。宗佑君の料理がこれからずっと食えるだなんて」

 もしや最大のライバルは弟かと思ってしまう!

「初めまして、莉子です」

 お腹が大きな莉子とも初対面。莉子も制服姿の尊がお兄さんになると大喜び。

「尊さん、私、パティシエの卵だから甘いものいっぱい作ってあげます」

「ほんとうですか。俺、甘いものも大好きなんですよ。これまた嬉しいな」

 甘党の尊も大喜び。その彼が玄関で靴を脱ぐ前に、美鈴と宗佑と莉子に敬礼をする。制帽の脇にびしっとした敬礼の手。

「自分は、愛しい妻と美味いメシを作ってくれる弟と甘いものを作ってくれる妹ができて幸せです」

 厳つい男の幸せそうな笑顔は、そこにいる誰をも笑顔にしてくれた。

 今日は特上マリンシュガーな日。


 

◆ マリンシュガーブルー 完 ◆

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マリンシュガーブルー 市來 茉莉 @marikadrug

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