第10話 虹

 駅から家に着くまでの間に夕食を済ませた。家に着いてから俺がやる事は決まっていた。


 俺は漫画を描きたい。


 絵を描くのは楽しい。こんな当たり前をもう一度気付かせてくれたリズに報いたい。

 リズとのこの不可思議な出会いを描きたい。

 例え新人賞を受賞しなくてもいい。

 周りに見下されてもいい。

 世間がクスリを配布してきたら、今度は喜んで飲んでやるさ。毒素が体を犯しても問題ない。なんたって今から俺が漫画を描くという事は、すなわち解毒剤を調合するようなものだ。

 成功者とその群れが寄って集ってクスリを飲ませてきても、俺はそいつらに知られず解毒剤を飲むことができる。


 死ぬまで不死だ。


 その解毒剤を見て気持ち悪いと言う奴も居るだろう。しかしそんなことは知らない。気にする必要がない。

 そんな周りの目よりも十分大切と思えるものがあるから大丈夫だ。

 何より俺は、思い出を残す手段をこれ以外に知らない。

 だから描くのだ。


 早く描きたいという思いが先走って、いつの間にかリズを置いてきぼりにしていた。


「リズ。悪い、歩くの早かったな」

「いや、おぬしの歩行速度の問題ではない。わしがちとよそ事をしておった故」


 そう言って、リズはスマフォのようなものを見せる。旧式の携帯電話とも違うが、最近のスマフォには見ない、変な形をしたものだったが、メールなどの送受信ができるのは変わりないらしい。リズはその文面を見て気まずそうな表情をしている。


「悪い知らせか?」

「いや、良い知らせじゃ」


 ではなぜ表情が暗いのか。


「ムノキスケが甦った様じゃ」

「それって、つまり」


 リズが監視者から離れるという事になる。


「でも、今すぐにってわけじゃあないよな」

「それはわしにも皆目見当もつかぬ。とりあえずはおぬしと一緒に居ようと思うが、向こうの準備ができ次第、わしは去らねばならぬ」

「そ、そうか」


 俺は動揺を悟られないように、踵を返す。ともあれ家に帰ってからだ。リズの手を取り歩き出す。リズは俺の手を強く握り返し、俺に遅れないように小走りに付いてきた。


 部屋に上がり、リズにジュースを振る舞い、俺は収納スペースにしまっておいた画材を引っ張り出した。


「何をしておるのじゃ?」


 最近の物から昔の物まで、今見返すと恥ずかしくなってしまうような設定資料集などもあった。


「漫画を描こうと思ってな」


 中には中学生時代に描いたものまで。恐らくここが出発地点だった。


「そうか。楽しみじゃの」


 初めて描いた、いや描こうとしたがストーリーも思いつかないで、キャラクター設定だけ描いてあるものだ。


「お前のおかげだよ。リズ」


 そこには二頭身のキャラクターが居た。


「絵を描くのがただただ好きだったあの頃の気持ちを思い出せた」


 そのキャラクターはフードを被っていた。


「ありがとうな」


 名前の欄には「RIZ」と書いてあった。



 ……リズ?






 俺は跳ね上がった。

 その拍子に画材の色鉛筆が床に散らばった。


 何もかも合点がいった。

 あの神出鬼没さ。名前を尋ねた時の態度。有り得ない戦闘力。どこで培ったかわからない語彙。何よりも時より押し寄せるあの郷愁。

 そうか。そりゃあそうだ。

 昔描いたことがあるキャラクターなのだ。懐かしいに決まっている。

 今までなんで気付かなかったんだ、って仕方ないだろ。美し過ぎる。

 漫画が実写化して、全然違うと思う時があるが、それと同じだ。何せフードを被っているところ以外、全然違うのだから。中学生の画力で成形された素体が、現実の世界に顕現するとこんなにも違いが生じるのか。


 俺はリズの正体を知ったことをすぐさま伝えたくて、リズの方を見たが、リズは居なかった。

 台所には先程渡したはずのジュースが飲み掛けで置かれている。


「リズ!」


 6畳の部屋に声が反響するが、その呼び掛けに応える者はいない。


「ようやくわかったんだ。お前の正体が。今までわかってやれなくてごめんな。初めて会った時名前を聞いてごめんな。迷子だって言ってごめんな。美味いもの食わせてやれなくてごめんな。会って一瞬だけでも話したいから出てきてくれないか!」


 俺の声だけが虚しく響く。

 俺はリュックからスケッチブックを取り出した。これだけはリズに渡さなくてはと思った。スケッチブックを開くとそこには積乱雲があり、水色の空が広がり、紫陽花が両脇に立ち、クローバーの上に立つ子供の姿がある。しかしその子供の表情は、


「なんだよリズ。ちゃんと笑ってるじゃねーかよ」


 達観した表情などではなかった。無邪気に夢を見る子供の様に、底抜けに明るい笑顔で俺を見ていた。


 そうだ。

 漫画を描くんだ。

 リズも言っていたじゃあないか。

 会えるかどうかは俺次第だって。

 監視者じゃなくなったリズに会いに行くよ。

 そう、簡単だ。

 指先はまだリズを覚えている。

 憎たらしさも、笑顔も、強さも、優しさも郷愁も。

 リズが残していったありったけを細胞全てが覚えている。

 どんなストーリーがいいだろうか。

 正義の味方が卑怯者を倒す物語がいいだろう。

 ともあれまずは飛び切り美味いものを食わせてやろう。

 そしたらあいつは満足そうに笑って旅に出る。

 夢破れて生ける屍となった青年の元へ。

 じめじめとした梅雨を抱え途方に暮れる青年を助ける為に。

 世間という卑怯者から青年を助け、成功者しか生き残れない苛烈な世界で、敗北しても無様でも生き抜く術を教えてやるのだ。

 そして別れの際には青年が抱えていた陰鬱な梅雨さえも連れ去って、雨上りの空に虹を見せるのだ。


 ちょうどこの床に散らばった色鉛筆みたいな虹を。

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ヒーローショー、雨天決行 詩一 @serch

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