第9話 紫陽花
雨の匂いを乾かし切らない新緑の優しさが漂う朝日に瞼を撫でられ、俺は目覚めた。
どれ程振りだろうか。これ程清々しい気持ちで朝を迎えたのは。
俺は二人分の弁当を作り、その後で朝ごはんを作り、リズを起こした。
眠り眼でも一口食べたらギアが入るリズの構造が羨ましい。
二人は電車とバスを乗り継ぎ、1時間かけて遊園地へとやってきた。
監視者代行であろうが、中身は子供と変わらない。であれば、遊園地はきっと楽しいと思ってくれるだろう。と言う安易な発想での恩返しである。
今日はとにかくリズが乗りたいと言った乗り物は全て乗せてやるつもりだ。だからあえて土日でもそれほど混まない小さめの遊園地を選んだのだ。ここで年甲斐もなく一緒に
「どれに乗る?」
決めるに決められないと言った表情のリズの手を取って、メリーゴーランドに向かった。
一つの乗り物に乗ってから要領を掴んだらしく、リズは次から次へと乗り物に乗った。
時計の針が正午を告げる頃、俺は高台にあるベンチへリズを誘って、弁当を振る舞った。
笑顔で卵焼きを頬張るリズがとても愛おしかった。
二人で次はどの乗り物に乗るかを相談しながら弁当を食べていると、見慣れた顔の女性が麓のベンチで男性といちゃついているのを見かけた。
倣科さんだった。
彼女から目を離せないでいた所為で、俺が気付いたことに、リズも気付いてしまった。
俺に対してなんと声を掛けていいのかわからないのだろう。リズは
俺は何かリズの気分が高揚するものが無いか見渡してみた。すると近くにお誂え向きに似顔絵を描いてくれる絵描き屋さんが露店を出していた。
「なあ、リズ」
俯いて落としていた視線を俺に向け、首を傾ける。
「お前、絵が好きだろ? 描いて貰わないか」
そう言ってリズを引き連れて似顔絵を描いて貰ったが、リズの表情から暗がりが消える事はなかった。寧ろ俺の方が気分の高揚が抑えられなかった。何せ今まで自分の事を絵で描いて貰ったことがない。何よりプロの絵描きの筆の動きを間近で見る事が出来たのだ。なぜ今まで身近なプロに描いて貰うという簡単な事を思いつかなかったのだろう。物凄く絵の勉強になるのに。もちろん、漫画とはまた違ったタッチになるから、そのままでは自分の作品に投影はできないけれども。
「折角プロの絵描きさんに描いて貰ったんだから、少しは喜んだらどうだ?」
描いて貰った似顔絵をリズに見せるが、リズの表情は変わらない。と言うか、先程までは陰鬱な表情をしていたが、今はどちらかと言うと少し怒気を孕んだかのような。そう、不機嫌そうに怒っているように見えた。
「何か、嫌な事があったか?」
「嫌、と言うか、わしはどうせ描かれるのであれば、おぬしに描いて貰いたいと思ったのじゃ」
「そうやって言ってくれるのは嬉しいけど、これを描いてくれた人の方が絶対に俺よりうまいからなあ。この後に俺が描くのかよ」
「嫌ならば無理にとは言わん。これは要望じゃよ」
今日はとことんリズのいう事を聞こうと決めている。
「じゃあ、鉛筆とスケッチブックが売ってたら」
と売店に向おうとする俺の足を止め、リズはリュックを指さす。俺はリュックを降ろし、ファスナーを開ける。するとそこには入れた覚えのないスケッチブックと色鉛筆が入っていた。先程弁当を出すときには全く気付かなかった。
「いつの間に?」
「昨晩おぬしが今日の為に準備しておることはわかっておった。そのかばんを持っていくことも。じゃから入れておいたのよ」
「なんて用意周到な。それじゃあ描きに行こうか」
俺はリュックを背負いながら、辺りを見回す。近くに絵を描くに相応しい場所を探した。できれば花などあればいいのだが。
「あれはなんという花じゃ?」
リズが指した方には紫陽花が咲いていた。
「あれは紫陽花だ」
「綺麗じゃの」
本来俺は紫陽花があまり好きではない。6月の粘っこい空気を思い出すから。陽射しが乾かし切れなかった
しかし、リズが綺麗だと言うなら、俺の趣向は置いておこう。
「あの花の前で描くか」
頷き、俺の手を取って走り出すリズ。
紫陽花の前に着くと、リズを花の前に立たせて、適当な場所に座った。
高台から空までは一直線で、遮るものが何もない。
リズの足元には新緑が美しいクローバーが生え渡り、後ろには紫色の紫陽花が2株両側に置かれ、その奥には水色の空、更に奥には積乱雲。初夏の美しい部分だけを切り取ったような情景が目の前にあった。そこには咽ぶ程息苦しい空気はなく、陰鬱な曇天もなく、ただ只管に色彩豊かな夏の始まりがあった。
俺が描き甲斐があるロケーションに胸を躍らせている中、リズは浮かない顔をして虚空を見ていた。
「描くからこっち向いてくれ」
「あ、ああ」
我に返れば必然笑顔を取り戻すかと思ったが、そうではなかった。
「表情が硬ぇよ」
「そ、そうか?」
「緊張してるのか?」
「そうじゃの。どうしておればよいのやらわからぬというのはある」
「描くのは俺なんだからお前は自然にしてくれてればいいよ。笑えっていうのも変だが」
「そうか」
そうは言っても神妙な面持ちなのは全く変わらない。俺に描いて欲しいと言ったのに。折角の風景なのにモデルがこれでは勿体無い。しかし恐らくリズは先程の倣科さんの事を考えているのではないだろうか。それで俺になんと声を掛けてやればいいのかと考えても答えが出ないから、延々と考えてしまって、それが表情に現れ出ているのではないだろうか。
俺は仕方なく、風景から描き始めながらリズに話し掛ける。
「倣科さんの事考えているのか?」
リズは目を丸く見開き、こっちに寄ってこようとする。それを俺は手で制して元の位置に戻らせる。
「モデルが動いたら描けないだろ」
「すまん」
「リズが俺の事で思い悩む必要はないぞ」
「しかし、のう」
「気まずいのもわかるけど、そうするしかないと思ってやってくれたんだろ? 俺は大人げないし心も狭いからな。お前が思う通りの行動や発言が出来なくて申し訳ないけどさ。感謝はしているんだ。見たくもない悪夢であったとしても、真実を教えてくれた。それは
「そうか」
モデルとして成立するべく、一点を見つめている。俺の顔は見ない。
「あと、本当の事を知って、悲しい気持ちにはなったけど、彼女に対して怒りや憎しみは無いんだよ。不思議と」
背景はぼかさないで描こう。なるべく写実的に。遠近感は薄れるが、パキッとしてわかりやすい風に仕立てたい。
「倣科さんは俺には嘘を吐いていないんだよ。ただ俺が倣科さんの事をちゃんと聞いていなかっただけで、ちゃんと聞いたら教えてくれたかもしれない。それだけ俺が彼女の事を考えずに、弱い自分を慰めてもらう事しか考えてなかったんだ。お前が言うように、散々甘えてきたから。だから、俺が倣科さんを好きな気持ちは多分変わらない」
風がざわついた。頬を撫でて麓へと下って行く。
リズは少しだけ目線を下に向け、戻した。
「俺が傷ついて苦しくて悩んでいる時、彼女が傍に居てくれた事実は変わらない。例えその後他の男の元に行ったのだとしても」
陽光がリズの顔に影を作り、表情はわからない。
「でも、これからは甘えないようにするよ」
リズの目線が俺の目線を捉えたのが分かった。俺はと言えば空を見ている。
「俺が甘えてばっかいるから、倣科さんだって本当の事を言う機会がなかったんだと思う。相手の事をちゃんと見てお互いが知り合おうとすれば、今よりも良い関係が築けると思うんだよな。人を見る目があるリズなら分かると思うけど、倣科さんは基本いい人だから。これはリズが持ってきた真実と言う名の悪い知らせが
昏がりの中でも笑ったのが分かった。
「そうじゃな」
風がそよいだ。この時期にしては珍しく心地の良い風だ。
リズの輪郭を捉えながら、話を続ける。話題を変えて。
「リズはこれからもずっと俺の監視者でいてくれるのか?」
「そうさな。わしは結局のところ代行じゃからの。正式な後任が決まるか、或いはムノキスケが復活でもすれば、わしは元の場所へ帰るだけじゃ」
「リズが正式な後任になることはないのか」
「有り得んな。そういう立ち位置にはおらぬ故」
「そうか。寂しいな。折角仲良くなれたのにな」
「なに。そう不安がる事ではない。わしが離れてもまたすぐ会える。と、わしは信じておるがの。それはおぬしの決める事じゃから、これ以上踏み入る事は出来ぬが」
「そうか。そうだな。もしもリズが監視者じゃあなくなったら、監視者じゃないリズに会いに行けばいいのか。簡単だな」
「そう。簡単じゃ」
まるで達観したような眼差しを向けるリズを俺はそのまま描いた。
到底子供にはできない表情。大人が子供の服を着てそのまま縮んだかのような違和感。だがしかし、その違和感、表情こそがリズがそこに居るという証にもなり得た。だから笑顔になるまで待っているような小狡い真似はしなかった。
描けた絵をリズに見せると、ぴょんぴょんと跳ねながら抱きついてきた。
嬉しそうな顔。俺も嬉しくなった。
暖かい柔らかな手。俺の胸もポカポカする。
そして不意を突くように訪れたあの郷愁。
一度に色んな感情が流れ込んできて、景色が滲んだ。
その時だった。
突然地面がなくなって、同時に周りの景色もなくなった。そこは空だった。気付いた時にはもう落下の途中で、眼下には湖。間もなく湖に着水。勢いはそのまま浮力に負けず底へと墜落していく。重力に押し付けられているというよりは引力により曳きつけられているようだった。湖底に当たると思った瞬間、土は俺を呑み込んだ。泥の中息を止めたまま、ぬるぬるという感触を肌に残しながら、されど落ち続ける。茶色く濁った泥の中で、瞼を貫く程の強烈な光りを見た。恐る恐る目を開けると、そこには泥のカーテンを霧散させる程に輝く物体が在った。帯状の発光体は泥の中揺蕩っていた。手で触れてみるとそれはどうやら漫画の原稿のようだった。更に目を凝らすとそこには見慣れた人物が見慣れたタッチで描かれていた。これは、俺が描いた漫画だ。新人賞に応募して落選した漫画だ。あの日破り捨てた夢のガラクタ。有意義と無味の混在。空から見た時は湖底の奥にこれほどまでに輝く物体が存在することなど夢想だにしなかった。しかし在ったのだ。今なお、泥を裂く程強烈に光り輝いて。その光の帯を手繰り寄せて全てを抱きしめた時、光は俺の中に入ってきて、周りは暗闇に閉ざされた。
そして瞼を開けるとそこには先程の風景。紫陽花が立つ丘の上だ。下を向くとリズが心配そうに見上げている。
「おぬし」
リズが次にいう言葉がなんとなく予測できた。
「泣いておるのか? どこか痛むのか?」
だから俺はまたリズにも予測可能な言葉を返す。
「埃が目に入ったのかもな。どこも痛くないから気にしないでくれ」
俺は鼻を啜って、深呼吸をした。咽返るほどに濃い空気が、肺の底まで満たして、脳が痺れた。
結局絵を描くのに夢中で、あの後アトラクションはそれほど乗れなかった。まあ、リズは絵に大満足してくれたのでそれで良しとしよう。
水色の空は柔らかく薄らぎ、徐々にオレンジに染まって行った。空のカクテルを窓枠に嵌めて、電車は俺たちを時速100キロで街まで運んだ。
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