角砂糖
夜になり、一旦就寝したような
「おばあちゃん、ここに居るの?」
返事はない。やっぱり居るわけないよな。僕は祖母の霊に会いたかったのだろうか。何だかとても寂しい気持ちになる。
冷蔵庫を開けてみると、今夜の晩ごはんのおかずの残りが少しと、卵、牛乳、調味料、麺類や豆腐や納豆、梅干し、ヨーグルト、ゼリー、プリンもあった。祖母亡き後、母と二人のこの家には贅沢すぎる程の充実ぶりだ。たまたま母が買い物をした直後だからなのかもしれないが、祖母が居た三人の家みたいな気分になる。
もう慣れたはずだったのに。そこまでおばあちゃん子というわけでもなくて普通の孫だったのに。
「あれ、こうちゃん、どうしたの。お腹空いた?」
冷蔵庫に顔を突っ込んで、急に降って来た切なさに呑み込まれそうになっていた僕は、慌てて振り返った。眼鏡をかけた母が、マグカップを持って戸口に立っている。
「お母さん」
「プリンとか、おやつみたいなのでよければ食べていいよ」
「いや、お腹空いたわけじゃないんだ。角砂糖が気になって」
「角砂糖?」
「うん、おばあちゃんの角砂糖。今も数が減っててさ。今日気づいたんだ」
母は、思い当たることがあるような顔をした。
「おばあちゃんの角砂糖か。そうだね。ごめん。私が貰ってるの。勉強してると甘い物が欲しくなるんだよね。夜中の甘い紅茶が習慣になってきて、良くないね」
「お母さんが……勉強って、また資格取るの?」
「そうそう。よくわかってるじゃない。今度こそね、ケアマネ」
母は、数年前に介護福祉士の国家試験を受けたばかりだった。必須の研修もあって、休日に組み込んで通い、夜遅くまで勉強していた。
「何だか難しそうだね」
「そりゃあ難しいよ。プレッシャーかけてくれるねえ」
「ごめん。すごいなあと思って。頑張ってるね、お母さんは」
僕は、母に育てられて特に寂しい思いをしたということもなかったし、祖母はあんなふうで穏やかだったし、父のことはまったく知らなかった。離婚じゃなくて、未婚だったらしい。
母が僕を大切に思ってくれていて、出来る限り自分の手で育てて一緒に暮らす為に、日々懸命に働いている姿を見てきたから、僕は何の不足も感じたことはなかった。嘘じゃない。
「ありがとねえ、こうちゃん」
「試験は、いつなの」
「今年の秋」
「もうすぐじゃん」
「だからよ。糖分摂りながら、衰えた頭に暗記項目を叩き込んでるの」
笑いながら、母は祖母の残した紅茶のティーバッグを棚から取り出し、やかんにお湯を沸かし始めた。僕のマグカップも並べて、二人分の紅茶を淹れる用意をした。
「昼間は暑いけど、深夜は
母は、おばあちゃんの角砂糖を陶器の入れ物ごとテーブルの上に置いて蓋を取った。真夜中のお茶会だ。僕は、席に着いて両手を膝に置いて待つ。
香りは弱くなっているけど綺麗な琥珀色の紅茶からはほんのり湯気が立ち、台所の空気をふわふわと暖めた。
母は、眼鏡を外して僕の斜め横に座る。
「おばあちゃんが手の掛からん穏やかな人やったからね、介護したっていう感覚がないんだわ」
母は、誰に言うでもない様子で、ぽつりと言った。
「後悔してないって言ったら嘘みたいなんやけどね」
実の親子では特に難しい問題なのだろう。通院など外出時には、車椅子を使用していた祖母の介助は全て母が一人で行った。僕はまだ子供だし身体が小さいほうだから、
話をしたり聞いたりするのも大事な介護だと母に言われた時、少しだけ自信が持てた。早く大人になって、母や助けを必要としている人に手を貸せるような力のある人になりたい。そして今の弱い立場のこの気持ちをずっと忘れずに、人に優しくなりたい。
「紅茶って美味しいんだね」
一口飲むと、砂糖を入れる前のすっきりとした紅茶は、ちょっと寂しかった真夜中の僕の心に沁み渡るように微かな渋みを伴ってゆっくりと喉を通っていった。
「殺菌力があるから、風邪の予防になるんよ」
母は、介護福祉士らしいことを言って、両手でマグカップを包むように持って熱いまま一息に飲んでいる。
──おばあちゃん、角砂糖を一つ頂きます。
僕は扱いの難しい小さなトングを摘んで、角砂糖を一粒カップに入れてみた。滑らかに溶けてゆく甘味は、溶け残りがキラキラと舞うようにカップの中央で回転して沈殿した。スプーンで掻き混ぜると、またキラキラと渦を巻いて全部溶けた。
ほんの少し紅茶の色が変わったような気がした。気の
甘くなった紅茶はまるで別の飲み物のようだったけど、混ぜているうちに適度に冷めてとても飲みやすかった。
「ああ、砂糖入れても美味しいな」
呟いて目を上げると、湯気の向こうには角砂糖の真ん前の椅子におばあちゃんが座っていて、形のよい白い歯を見せて少女のような笑顔を咲かせたような気がした。
角砂糖の家 青い向日葵 @harumatukyukon
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