煙草

 祖母が急逝して、硝子の扉に閉ざされた角砂糖の壺は残り三分の一程の量を変えずに放置されていた。四角の角も削れない代わりに、新しく補充されることもない。賞味期限のない砂糖という甘味の漂白された白さと光を反射する艶が中途半端なルーティーンの過程で時を止めていた。

 僕は、程なくして角砂糖の存在さえ忘れかけていた。砂糖を使うどころか家族は誰一人として家の中でティータイムを過ごすことはなく、祖母の残したインスタントコーヒーも紅茶のティーバッグもそのまま手をつけずに置かれていた。

 来客でもあれば出番を迎えるのかもしれないが、大抵は煎茶か麦茶で対応してしまうから、その出番はいつまで経ってもやって来ない。

 香りを失った古いお茶なんか捨ててしまえばいいのに、と子供の僕ですら思っていた。今ここに祖母が居たらすぐに捨てているだろう。安くても何でもいいけれど鮮度だけはうるさかったことを思い出す。

 はっとして祖母の部屋に行き、ベッドサイドの置き台を見てみると、洗って磨かれた灰皿の横には開封した煙草の箱がそのまま置いてあった。


「やっぱり」


 紺色の箱に白いロゴが何というか既に懐かしい。Peace、確か、平和という意味だ。


「昔はね、子供でも自販機で煙草を買えたのよ。よくお使いに行かされた。その頃はもっと安かったんだけどねえ」


 母は、何度も値上げされた煙草の値段に毎回文句を言いながら、祖母には内緒だと言って、いつもカートンで買っていた。僕が祖母に煙草を買ってきてくれと頼まれる度に、母は買っておいたカートンから一箱出して、僕に渡した。僕は、何食わぬ顔でそれを祖母に渡す。


 数々の病気を持っていた祖母は医学的見地から言えば禁煙するべきだったのだろうが、年齢や情緒的な理由から、母はこっそり喫煙を許可していたのだ。多分正解だったんじゃないかと思う。美味しいものを沢山食べて嗜好品に耽っている祖母は、いつも穏やかに笑っていた。

 そんなささやかな愉しみさえも奪われてしまったら、生きる喜びとは何かという深刻な問題に直面せざるを得ないから。余命がカウントダウン状態になった高齢者に、そんな抑圧は要らないだろう。僕も、そんなふうに思った。

 尤も、害のある煙草をやめてお酒も程々の量に抑えていれば、もう少し長生き出来たのかもしれない。僕らの思いは親孝行だったのか、単なるエゴだったのか、或いは殺人だったのか。永遠に答えを出すことは出来ないと知りながら、時々考えてしまう。


 話が逸れたが、角砂糖である。最後に僕が見た時には陶器の入れ物の三分の一程残っていて、角が削れたところは少なく来客に対応可能な程度の形を保っていた。間違いない。

 ところが久しぶりに見た角砂糖は明らかに数が減っていて、僅かに角の丸みが進行しているように感じられた。誰が角砂糖を使っているのか。この家で角砂糖を使う人は、祖母しか居なかった。


「おばあちゃん?」


 思わず、僕は台所で呼びかけていた。突然の死を自覚出来ていない祖母の魂が、まだこの家で彷徨っているのではないか。不思議と、当たり前のようにそんな考えが浮かんだ。

 だけど返事が聴こえるはずもなく、僕は夜中にもう一度、気配を待ってみることにした。

 信じるか信じないかの真ん中あたり、僕は怖いとは感じなかった。あの穏やかな祖母が、僕に対して化けて出ることもなかろう。

 角砂糖の謎を解明したい。ずっと管理人のように関わってきた角砂糖だ。何となく僕にも責任があるような気がした。

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