カラノオリ
ささはらゆき
カラノオリ
「なあ、あんた、透明な猛獣ってのを知っているかい?」
飲みかけのビールをコップのなかで転がしながら、彼は本気とも冗談ともつかない調子で言った。
まだ夏には早い六月の夕方。けだるい空気に支配された裏路地の立ち飲み屋で、僕らはいつものように
僕より早くから飲み始めていたせいか、彼はもう出来上がっているようだった。
「いえ、初耳です」
「そいつはよ、見えねえんだよ。でも、いるんだ」
「見えないなら、どうやっていると分かるんですか?」
「そりゃ、閉じ込めるための檻があるからよ」
得意げに言って、彼はひひひと嗤った。
「猛獣は見えないが、檻は俺にも見える。俺の部屋にちゃんとあるんだぜ」
「まるでおとぎ話ですね。あの、バカには見えないという――」
「俺がバカだって言ってんのか?」
凄みを増した彼の目に、僕は慌てて首を横に振る。
素性を尋ねたことはないが、四十がらみの彼は、あまり堅気者には見えない。怒らせると厄介な相手なら、先に謝っておくに越したことはない。
そんな僕の様子がよほどおかしかったのか、彼はくっくと忍び笑いを漏らしている。
「それなら、あんたには見えるかどうか、ちょいと試してみようじゃないか。あんた、大学生なんだろう? 俺のアパートはすぐ近くだよ。ついでにそのへんで酒でも買って飲み直そう」
男やもめに蛆が湧く――僕らの世代にとっては死語だ。
それでも、独り暮らしの男の生活が荒むのは、いつの時代も同じらしい。
薄暗い部屋に一歩足を踏み入れると、つんと鼻をつく悪臭が漂ってきた。
「ゆっくりしてってくれよお」
ここに来るまでに缶ビールを何本か空けた彼は、だいぶ酔いが回っているらしく、顔はほとんどゆでダコみたいになっている。
「檻というのはどこに?」
「ああ、そこ――」
投げやりに言って、彼は部屋の片隅を指差す。
雑多なゴミに紛れるようにして、それはあった。
七十センチ四方の鉄の檻だ。
僕はおそるおそる近づいていく。ただの与太話と思っていたが、まさか本当にあるとは。
さほど大きいとも言えない檻も、狭く散らかった部屋のなかに置かれていると、本当に猛獣を閉じ込めているような気がしてくる。
なにかやばい動物――輸入や飼育が禁止されているもの――じゃないか?
透明な猛獣というのは一種の符号で、僕は事件に巻き込まれているのでは……。
僕は湿った畳に膝をついて、鉄格子の隙間を覗き込む。
しばらく檻のなかをじっと見つめたあと、僕はほっと安堵のため息をついた。
「なんだ――なにもないじゃないですか」
「だから言っただろう。見えねえって」
彼は腹を抱えて笑っている。
ああ、やはり一杯食わされたのだ。酔っぱらいの言葉を真に受けた僕はたしかにバカだった。
「それにしても、なんでこんなものを部屋に?」
「ああ、それはな……押し付けられたんだよ。金やるからもらってくれって」
「誰に?」
「初対面の奴さ。俺も金がもらえるなら断る理由はねえからよ。二つ返事で引き受けたんだが、ちょいと妙でな」
彼はふいに神妙な顔つきになった。
「なにがあっても絶対に檻を開けるな、ってしつこいくらい繰り返しててよお……」
「猛獣が逃げるから……ですか?」
「そいつには見えちまってたのかもな。バカには見えねえ猛獣がよ」
彼はげらげらと笑いながら、こめかみの横で人差し指をくるくると回してみせる。
僕もつられて笑いながら、へなへなと尻餅をつく。安心したところで、急に酔いが戻ってきたらしい。
そこから先のことは、よく覚えていない。
部屋の不潔さや悪臭はしばらくすると気にならなくなった。
酒を飲みながら相変わらず下らない話に興じたあと、彼のほうが先に寝入ってしまった。
いや――よく覚えていないというのは、嘘だ。
帰りしな、僕は例の檻の施錠をすこし緩めていった。
一杯食わされたことへの仕返しでもあり、彼を驚かせてやろうというちょっとした悪戯心だった。
どうせ何もいやしない。空っぽの檻のなかには、空気だけが閉じ込められているのだから。
僕はほろ酔い気分のまま、上機嫌で家路についた。
翌朝。
二日酔いの頭を抱えて、僕は駅に向かっていた。
なんで一限目の講義なんか入れたんだ。悔やんだところで仕方ない。
足早に進みながら、僕は道沿いに人だかりが出来ているのに気付いた。
パトカーと救急車が停まっているのは、見覚えのある建物――彼のアパートだ。
僕は電車の時間も忘れて、人ごみに分け入っていく。
「何かあったんですか?」
「それがねえ……」
初老の女性は、ためらいがちに僕に視線を送る。
「人が死んでたらしいのよ。それも、普通の死に方じゃなかったって。まるで喰い殺されたみたいな……」
そのとき、僕はどんな顔をしていただろう。
「部屋のなかに鍵の開いた檻があって、動物かなにかが逃げたらしいのよ……怖いわねえ」
どこかで遠吠えが聞こえたような気がした。
僕は野次馬を突き飛ばすように走り出していた。
そいつが追ってこないことを祈りながら……。
カラノオリ ささはらゆき @ijwuaslwmqexd2vqr5th
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