汐彩・下

 二人だけになると七海は急に大人しくなった。喋ってもいないのに、心なしか歩幅が小さくなっていた。調子が悪そうなようには見えない。むしろ背筋はすっと伸びていて顔色も良い。ふつうの、どこにでもいそうな女子のようにぼんやりしているのだった。ひょっとするとアナーキーなくらいに勝手気ままな七海にはまるでそぐわない。なのに……らしくないのに、横顔には金色の夕陽が映えて見えた。

「何見てるの、さっきからチラチラって」

 無遠慮に細められた七海の目が合って、は、と息を呑んだ。ずっと前から気が付いていたと言いたげで、七海らしい少しふてた云い方だった。

 見てないって、と素っ気なく否定したけれど、七海は強情に「いーや、だって目が合ったし」と食い下がる。だから見てないって、と顔をそむけると、七海のほうが私の顔を追って身を乗り出す。

 ……はあ、観念。この子の勘の鋭さとしつこさには勝てた試しがない。

「何か、元気ないって云うか、七海らしくないって云うか。そんな感じがしただけ。気のせいなら別に構わないんだけど、ちょっと気になった。」

 自分で云っておいて随分と曖昧な理由だと思い直す。別に思い過ごしならそれだけのこと。らしくない感じがした、だけとしか云えなかった。それ以上にはっきりと説明ができなかった。

 七海は、けれど決まり悪そうにその場で固まった。私も脚を止める。何だいきなり。

 汐里にはわかっちゃうかあ、そうだよなあ、と七海は天を仰いで云った。さっきまでのしおらしい――ような――、とにかくそんな感じだったさっきまでを、自分自身で吹き飛ばすみたいに。

「さて問題です。私は何を悩んでいたのでしょうか」

「知るわけない。ってか、七海が悩むって何、想像つかない」

「うわ、酷いなあ。私だって悩むことくらいあるって」

 あっさりと調子良く切り替わったところで、私はいつも通りに七海をあしらって歩き始める。抗議してくる声がすぐに後ろから追いついてくる。幾ら七海のことだとしても、頭の中まではわからない。

「なになに、ようやく自分で勉強する気になったりした? もう古文の宿題、みてあげなくて良かったりする?」

「違うし。あ、でも当たりっちゃ当たりかも」

 ふふ、と意味ありげな笑みだった。

「古文の勉強もまあ、しても良いかなって思った。だって楽しそうだしさ、万理ちゃんに教えてもらうなら」

「万理ちゃんに? 私じゃなくてか」

 そ、万理ちゃんに。はっきりそう云われると少しむっとする。ちょっと得意げですらある。私のほうがよく教えられる自信もなければ決して優しく教えてきたつもりもないけれど、あっさり鞍替えされるとなるとあまり良い気がしない。もしそうなら面倒がひとつ減るわけだけど。

 そう思った。ただ、それだけ。どうしてだよ。私は冗談半分に文句をつけた。すると、七海はニカ、と、とびきりの笑顔になって

「私、万理ちゃんのことが好きだから」

 と高らかに云い放った。

 え、七海。それってどう云う好きなのさ。

 あまりに唐突すぎて言葉は声にならない。喉元につっかえたまま。意味を尋ねる間でもない。ふへへ、と鮮やかにはにはむ七海はいっそう夕焼で綺麗に染められていた。普段口にする好きとは違う好き。待て待て。本当にそうなのか。私の勘違いではなくて。

「悩んでたけどもう良い。汐里に云ったら吹っ切れたし。――明日、告白するから」

 七海の宣言だけが一方的に私の頭をぶち抜いていく。何だよそれ。あのそぐわない感じが急速に私の頭の中に確かなかたちに組み合わせれていく。

 汐里に迷惑かけちゃったらごめんね。

 ああもう、恥ずかしいし。そんな目でこっち見んなって。先に帰るね。

 七海は私の反応も待たずに、軽やかな小走りでさっさと駆け出す。七海の背中を私はただ見送るだけだった。だって、あんまり鮮やかすぎて。自分勝手で楽しそうで嬉しそうで、ただ好きだって私に云っただけなのに。ただ、それだけのこと。あんな七海は初めてだけれど、七海らしい七海で。

 ああ、そうなの。こう云うことだったの。

 私はやっと、さっきまでの七海の頭の中をめぐっていた気持ちを知った。

 悔しいじゃないか。きっと、私の横顔はあの子と同じ夕陽の金色に彩られている。


 酷い土砂降りになっていた。予報には無かった夕立だった。部活が始まっても、雨脚が弱まる気配は無かった。万理も七海も部活に顔を出さない。音の外れっぱなしな『愛の挨拶』を一回弾いたきり、私はそっと音楽室を抜け出した。七海と万理の靴は両方とも、下駄箱からは無くなっていた。折り畳み傘を夕立へのささやかな抵抗として、私は久しぶりに一人で真っ直ぐ下校することにした。

黙りっぱなしだと自然と速足になるものなのだろう。早く帰りたい。いつの間にか私は小走りになっていた。

 家へ帰って玄関を開けると、上がり框で七海がしゃがみ込んでいた。頭を膝のあいだにうずめていて顔は見えない。したたかに濡れた身体から雨粒が零れていた。髪の先から、スカートの先から。水滴が絶え間なく滴って板場を濡らしていた。

 ホッとした、そんな溜息を私握り潰す。こんなにも、七海が。こんなにも悲しんでいるのに。何を――何を安心して。なんて、辛いのだろう。

「ただいま、七海」

 返事は無かった。七海はいっそう身を縮めた。

 雨音に消され損なった啜り泣きが聴こえた――気がした。私は首にかけたタオルをとって、力尽きた人形のようになった七海の肩にかけた。湿っぽいタオルでは気休めにもならなかった。それでも良かった……いや、本当は駄目なのかもしれない。どちらなのかわからない。

 すぐ傍に私もしゃがみこむことにした。どうせ雨で湿った身体、これ以上濡れ鼠になったところで大差ない。瓜二つの肩をしっかり抱き寄せる。七海が私に体重を預けてくる。

 そっか、そうだったんだ。言葉に出さなくても、七海の気持ちが私のもののように感じられた。ただ、駄目だった、駄目だったんだ、とだけ七海は繰り返し呟いた。一緒に泣いてしまいたかった。なのに、私の気持ちがそれを許してくれそうもない。冷え冷えとした七海の腕をさする手が、どうしようもなく自分勝手に思えた。姉として慰めなければ。励まさなければ。そんな使命感が今は勝手だ。

 ごめんなさい。今は、これで良い。この距離が心地いい。

 静かな騒めきのなかで、密やかなこの想いだけが確かなものだった。産まれる前からずっと寄り添ってきたぬくもりを感じながら、私は少しだけ、妹の背に追いつけた気がした。

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汐彩 四葉美亜 @miah_blacklily

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