汐彩

四葉美亜

汐彩・上

 ゆったりと、落ち着いて、『愛の挨拶』を弾く。

 覚えたての指で絃を抑える。テンポは抑え目に、正確に。ボーイングを意識して、音を外さないように……。

 椅子に逆方向から腰かけた、たった一人の観客は、簡単なメロディを弾き切った私たちに安っぽい拍手をしてみせた。

「ミスも無くなったし、音程も良くなってた。日に日に上達していってるね、万理ちゃん」

 褒め言葉の後ろにアクセントをつけるかのようにして、万理ちゃん、と七海はしれっと言ってのける。私と一緒に弾いていた万理は嬉しそうに微笑む。

「ありがとう。毎日練習に付き合ってくれるナナちゃんのおかげだよ」

 バイオリンを始めてひと月もしないのに、万理はしっかりと上達している。一音一音のぎこちなさがあるけれど、それは私にしたって同じ。

「で、汐里。ホントに音楽経験者なのって。音程」

「うっさいな、もう」

 売り言葉に買い言葉。七海はまるで容赦してくれない。こっちだって遠慮はしない。

「バイオリンって難しいんだぞ。クラと全然違うんだから。音を探って弾いてるし、まだ」

「音探るから、ズレてるの余計目立ってるんだけど」

「う、まあ、確かに」

 また頑張るかあ、と私はため息をついてバイオリンをケースの中へとしまう。音楽に関しては七海の方が一枚上手だ。音程は正確だし、ミスを聞き逃すことも無い。言葉がキツイのはともかく、正しい指摘だった。絶対音感は無いと本人は云うけれど、私からしてみれば歩くチューナーだ。

 左腕をぐるぐると回すと、首元で小気味良い音がした。わ、肩鳴った、と七海は屈託無く笑う。曰く、お父さんがそんな音を鳴らすとか。要はオジサンくさい仕草なのだ。私だって好きで鳴らしている訳もない。

「ほら、手伝って。こっちは一時間半も同じ姿勢だったんだから疲れてるの」

 楽譜を片付けて、立てらせたままの譜面台を七海に押し付ける。中学校の錆び付いたボロの譜面台とはまるで違う、汚れも軋みもほとんどない綺麗な譜面台。少し仕様が違っていて手間取ったりもするけれど、七海はさっさとそれを畳んでいく。私はそのあいだに弓を緩めてケースに仕舞う。

 手を叩く大きな音が数回、片づけとお喋りとに忙しい音楽室に響いた。小柄な部長がちょんちょんと跳ねながら注意を促している。

「ミーティング。ほら、七海は外に出た出た」

「えぇ、外暑いし」

「部外者は外。怒られるのは私だからな」

 だいたい何の用でこんな時間まで残ってるんだ、こいつ。口には出さないけど。

 汐里のケチ、と言い残して仕方なく七海は音楽室から出て行った。文句を言いながらも畳まれた譜面台を準備室へと片づけに行ってくれた。ビオラ静かにして、と叫ぶ部長の声は必死だ。元気の良い女子がざっと三十ほど集まれば、どうしたって騒がしい。既に手早く片づけてしまってすまし顔をした万理と目が合って、私は肩をすくめた。


「何やってんの、まったく七海は。授業ちゃんと聞いてる?」

 万理を駅まで送る途中で、私は七海が放課後に居残っていた理由を訊いた。水の入った田んぼの傍をのんびりと歩く。傾いた陽は鮮やかで、すがすがしい空気が私たちの歩を自然と緩慢にさせる。

「聞いてる聞いてる。でもわけわかんないし。あのセンセーって予習しろばっかりうっさいじゃん」

 それが大事なんだってば、と呆れる。七海の怠慢さは高校に入ってすぐに再発したらしい。結局、勉強が難しいから部活に入らないと決めた筈なのに、すっかり宿題は私頼みに戻ってしまっている。宿題ならまだ良い、小テストとなれば手助けなんてできない。

 頭の良い二人が羨ましいな、とぼやく七海は、さっきまで再テストで居残ったことなんてどこ吹く風のことかとまるで気にしていないようだった。

「古文って面白いよ。だって千年以上も読み継がれて来たんですから」

 面白い、かあ。それには私も同意しかねる。なのに万理は熱心になって古文を読み込んでいる。眼鏡を掛けているものだから、それこそ文学少女然としていて、先生のお気に入りにもなっている。正直なところ、私はあの先生のあからさまな贔屓は好かない。

 ところが、七海は天を仰いで呻くと意外なことを云った。

「千年、千年……むー、万理ちゃんが薦めるのなら読んでも良いけど」

「えっ、七海? 七海が古文……」

 こいつが古典。それって雨蛙と砂漠なみに似合わない組み合わせ。

 万理の方は目を輝かせる。雨に降られた雨蛙みたいに元気になって、控えめな歓声をあげる。二人の間に立って歩いている私は、心なし、身を引いてしまう。古文なら断然、源氏物語が良いと万理は張り切った。現代語訳されている簡単なものから読んでいけば自ずと面白さが解るらしい。勢い余って中身まで語ろうとして、まるで古文の知識を持ち合わせていない七海が反応に困る。少しくらい中身を知っている私が七海にも解るように補足する。

 好きなものに熱心なのは鮮やかだな。

 駅の改札前に辿り着いても、私を通訳にした七海と万理の会話は続いた。もしこれを機に七海が古文に苦労しなくなれば、私の苦労も少しは減る。悪くはないのだろう。悪くはない、のだけど。どこかしらに引っかかりを覚えるのはただの気のせいなのだろうか。

 万理の帰る電車がまもなく到着するとアナウンスされて、引き伸ばされた下校中の休息は終わってしまう。

 この三人の時間が心地よくて、最後に私はずっと思っていたことを口にした。

「なあ七海、管弦入んない? バイオリンなら今からでも空きあるから」

「今からでも遅くないよ。私たちもいるんだし大丈夫」

 万理も口を揃える。

「だぞ、七海。だいたい私より音感良いってのに……入りたくないなら仕方ないけどさ。七海ってペット上手かったの、音楽やめるとかもったいないくらい」

 後ろ半分は万理に向けて云った。中学の時、明らかにトランペットの腕前は確かだった。この高校に行くと云い始めた時には、てっきりここの音楽科を狙っているのだと私を含めて周りに思わせるくらいには。

「音楽以外の可能性を見出したかったの、ペット飽きた」

 七海はわざと小難しい言い方をする。この飽き性め。

「ペット……? 犬?」

「違う違う、トランペット。ペット違い。万理ちゃんは音楽はバイオリンが初めてだもんねぇ、ウチらと違って」

 ひと言余計に、万理の明後日の答えを七海が訂正した。

「あー、ウチを除け者扱いだー」

「ふへへ、万理ちゃんは音楽の勉強頑張ってな」

「汐里ちゃん、ナナちゃんが酷いです」

「はいはい、七海、大人しくしなさい」

 らしくないな。

 なぜかしら、そんな言葉が頭によぎった。悪戯っぽい七海の笑みもどこかしら作り物めいている気がする。それに七海なら無理にでも自分の意見を押し通しそうなものなのに、どうしてか部活に入ってこない。それなのに、このところずっと私たちと一緒に帰る。あんなに入りたがったテニス部も、練習がキツイだとか女子が煩いとか散々云ってすぐに辞めてしまった程、周りを振り回してでも自分を押し通す七海なのに。

 改札の向こうの万理に手を振ると、私と七海だけが駅に残される。その時、ふと気になって七海の顔色をそっと窺った。

 ――あの、あの時と同じ目。いたいけな、寂し気な、けれど――。

 一度だけ、ミーティングの最中に七海が私たちの方を覗き込んでいるのを見たことがあった。あの時の七海もあまり見慣れない、複雑そうな――未練がましいような、そんな目をしていたのだった

 見てはいけない気がして、私はそっと目を離した。

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