白と青

宮島奈落

夏の海。

__夏ってさ、落ちてるよね。

真っ青な快晴の下で、夏菜はそう呟いた。

センチメンタルな言葉とは裏腹に、ノースリーブにショートパンツの涼し気な格好のまま、アイスバーを齧っている。

今日は日射しが強い。海岸沿いのコンクリートブロックは、焼けるように熱くなっている。1度座ってしまえばもう位置は変えられなかった。

海太は滴る汗をTシャツで扇ぎながら聞き返す。

「ん?」

「んや、だってさ。なんとなくそう思って」

へぇ、と相槌を打ちながら、海太はアイスバーの棒を噛んだ。

「あ、またやってる。そのくせ直んないねぇ、美味しくないでしょ」

「いいんだよ、木の味はする」

屁理屈を返す海太を、夏菜は笑って小突いた。

「ばかいたっ」

馬鹿の海太。ばかいた。くだらない駄洒落でよくあるあだ名。小学生レベルの軽口だけれど、夏菜が呼ぶ時は腹も立たない。

「はいはい、そんなら夏菜も馬鹿かな」

「うーわ、さむっ。何それ」

「いいじゃん涼しくなったっしょ」

道路を挟んだ向こう側には赤色の自販機。その真横に、潮風で錆びた金網のくず入れが置いてある。

噛み跡がつきのアイスバー___おまけにはずれ付き___を放り投げると、からんっと軽快な音を立てた。

「あ、海太へたくそ」

「うるせぇ。風のせいだ」

「そーぉ?」

夏菜はコンクリートブロックに立ち上がり、慣れた動作で力の抜けた投球モーションに入った。

ひゅんっ、と風を切る音が真横で聴こえる。

腕を振り下ろした拍子に、日焼けのない真っ白な横腹が少しだけ目に入った。

レースの裾がひるがえる。


かしゃんっ。


あ、ほら入ったじゃん、と見事なドヤ顔を披露している夏菜を横目に、海太は呟いた。

「…お前焼けないよな」

「あー、日焼け止め頑張ってんの。流石に高校生にもなって日焼けのライン出てたら恥ずかしくない?」

小学校の高学年から夏菜はソフトボールを続けていた。今年の夏、インターハイ出場で無事に幕を下ろしたのだが、とても運動部には見えない肌の白さである。

「いや何か幽霊みてぇ」

前から白くね?と続けようとした代わりに口から出たのは褒め言葉でも何でもなかった。

あまりにも本心とかけ離れた台詞に自分でも驚いて少し焦った海太だが、夏菜は海太に見向きもせずサイダーを飲んでいた。


ぷしゅっ


炭酸が弾ける音がする。

喉を滑り降りる刺激を想像して、海太はごくりと喉を鳴らした。

「あ、そいえば。幽霊で思い出したけど今日花火だね」

「何で幽霊なんだよ。あぁ、でも花火か、忘れてた」

だぁって、と夏菜はくすくすと笑う。

「海太、花火大会の帰り道で肝試ししようぜ!って自分から言い出したくせにいざ神社に入ろうとしたら1番」

「あーーーー!!うるせぇうるせぇ!!!」


6年前、小学校最後の夏。

嫌という程覚えている。なんなら忘れてしまいたいほど覚えている。





花火大会の熱気に夜風が通り始め、星空も河川敷も光が薄れていくと、何となく名残惜しくなる。夏菜の白い花柄の浴衣が揺れている横で、海太はざっかざっかと草履を鳴らしていた。

前日にねだって買ってもらったばかりの甚平がやけに子どもっぽく見えてきて、海太は夏菜の半歩後ろを歩いている。


「ねぇ海太」

「なんだよ」


クラスで1番背の高いユキヤはもう声変わりが始まっていた。夏菜はまた少し背が伸びた。背の順並びで3番目の海太はまだ夏菜と声の高さが変わらない。

少し無理して下げてみる。けれど、夏菜には気付かれている気もした。


「あのさぁ、夏の始業式みたいだね、花火って」

「なんだそれ」

「んー、だってこれから夏だーって感じしない?」


くるりと振り向いた夏菜のポニーテールが揺れる。

海太は手に持っていた水風船を投げる。

屋台で一回百円。五百円分粘って取ったものだ。近所でも有名な負けず嫌いの海太らしいといえばらしいのだろう。夏菜は両手に抱えるほどありとあらゆる景品を取り、取り損ねた子どもに分け与えるという義賊のような有様になっていた。

水風船はぼぅんっ、と夏菜の腕で跳ねる。

すんでのところでキャッチする。


「わっ、なになに」

「じゃあ今から夏っぽいことしようぜ」

「え?今から?」

「夏といえば肝試しだろ、あそこにある山の下の神社で、境内までお参りできたらゴールってことで」

えぇ、と戸惑った様子を見せる夏菜の手を引いて、海太はまばらな人混みを走ったのだ。





「あれはお前が帰りたくなさそうだったから気を利かせたんだろ」

「どこにそんな要素あった…?大丈夫?」

「とにかく俺は悪くない」

「悪いなんて言ってないでしょ、ただ言い出しっぺが半泣きのくせに意地になって行こうとするのを止めて手を繋いで帰ってあげたことは忘れてるのかなーと思っただけで」

「お前の神経が太すぎるんだろ…」


あわよくば怖がる夏菜をからかおうと意気込んだ海太の期待も虚しく、夏菜はすたすたと進んでいった。挙句に途中で待ち伏せ、白い浴衣をつかって幽霊の振りをすることさえしたのだから、余裕ぶりが窺える。


思い出しながら口を尖らせる海太を見て、夏菜はからかうような声で言う。

「あたし全然信じてないんだもん」

「はいはい、そーですかい」

「なーによう」

「でもお前、昔から変な事言うよな」

うん?と首をかしげた夏菜の髪が揺れた。

ぬるい風が吹く。

「夏の始業式だとか、さっきみたいな」

「あ、落ちてるって?」

「そうそれ」

あれはさ、と言いながら、夏菜はコンクリートブロックに立ち上がると、背後の砂浜にひょいと飛び降りた。続いて海太も飛び降りる。夏菜より少し大きく砂が舞う。

「あれ」

夏菜が指さす方向に、ぽつりと空のラムネ瓶が落ちていた。打ち寄せる波でキラキラ反射しながら、砂をかぶって転がっている。

「夏、落ちてるじゃん」

「いやゴミだろ」

「んーー、なんて言うか、夏だなぁって感じしない?」

「頭まであったかにしてる暇があるなら捨てろよって思う」

「いや間違いないけども」


__でも夏なんだよ。


そういえばこいつ国語得意だったなぁとぼんやりと考えている海太がふと見た横顔は、いやに大人びて見えた。

「ふーん…」

「海太が食べてたアイスもあたしの飲んでるサイダーも、夏って感じ。さっき海太が外したアイスの棒とかも多分だけど夏、落ちてるなって思う」

「俺が落としただけなんじゃねそれ」

「じゃあ海太は夏に落ちてたんだよ」

「へぁえー、すげぇなお前」

気の抜けた返事を返す。

「…夏、ねぇ」

ぼんやり考えていた海太だったが、いつの間にか夏菜はすたすたと遠くを歩いて貝殻を拾っていた。

「……まじかよ」

「んー?なんかいったぁーー?」

少し遠くから聞こえる声に、大声で何でもないと返す。砂浜の照り返しに目を細めると、夏菜の白いレースがぼやけて見えた。波にさらわれてしまいそうで慌てて目を開ける。

ふと下を見ると、海太にもすぐそばまで波が来ていた。

ざぶん、と音が響く。


ざぶん。ざんぶ、ざんぶん。


すぅ、と大きく息を吸う。

クロックスが濡れて少し足が冷えた。


「かなぁーー」

「なーーにー」

「ぬれんぞぉーーーー」

「ショーパンだからへーーきーーー」


大声で返し合ううち、突然夏菜が立ち止まる。手招きされた海太は夏菜のもとへ駆け寄り、手のひらを覗き込んだ。

「いい貝殻みっけ」

満足気な表情で見せつけてきた貝殻は、青紫に光る鱗のようだった。はいこれ、と海太の手にも同じ貝殻を乗せる。

「よく味噌汁で見るじゃんこんなの」

「ほんとに海太には情緒がないよ情緒が」

「ジョーチョ」

「風情とか粋を感じる心とかそういうの」

「江戸っ子か」

「だいたいそんなとこ」

明らかに説明を面倒がる様子を見せつつ、夏菜は貝殻を海に放り投げる。

「んー…暑い」

「そりゃな。夏だし」

「でもオーストラリア寒いし」

「そりゃ夏じゃないし」

「あ、そか」

「お前賢いのか馬鹿なのかわかんねぇな」

多分馬鹿だよ、と夏菜は笑う。

くしゃりと入る目尻のシワと右頬のえくぼはずっと前から変わらない。白いレースのノースリーブが、あの時の浴衣と少し被った。


あの時は何も言わなかった。

本当はすごく似合っていたのかもしれない。

めちゃくちゃ可愛かったのかもしれない。


何より、そんなことも言えない俺はめちゃくちゃ子どもだったのかもしれなかった。


「…かなぁ、ひま?」

「きょう?うん」

「はなび、いこうぜ」


思ったより拙い言葉使いになってしまった海太の誘いに、満面の笑みで夏菜は答える。

「いーよ!いこ!!」


海太も釣られて笑いながら、握っていた貝殻を放り投げる。


ぱしゃんっ、と水面がはねた。



____夏に、落ちた音がした。

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