そして、未来へ
田野倉は反対したが、俺は、優樹菜の記憶を消した。
夢以外での彼女との思い出はほとんどなかったから、記憶操作はそれほど難しいものではなかった。あまりにもあっけなくて、笑えた。
彼女は、自分が入院していたことに疑念を抱いたとしても、俺を思い出すことはないだろう。
数か月もすれば、身体も元に戻り、今までと同じ日常へ彼女は帰るはずだ。
もう、優樹菜をいつもマイナス思考に陥れていた暗霧もいない。
恋人はいたことがない、と彼女は言っていたけれど、魅力的な彼女のことだ。遠からず、陽の光の下で彼女にふさわしい男性と幸せをつかむに違いない。
それを確認に行けるほど、俺は強くはないが。
俺は志願して、術具研究班から田野倉と同じ防魔調査室の最前線の調査班へと移った。
もともと調査班の真田課長からは、誘いを受けてはいたから、移動の願いは簡単に受け入れられた。夢渡りの技術そのものがアフターケア向きなのは事実ではあるが、攻撃的な退魔術が苦手というわけでもない。
そして、それにともない、出勤は不規則になり電車通勤でもなくなった。
もう、優樹菜に会うことはない。
会えば、また迷う……彼女を闇につきまとわれるような世界に引き戻しかねない。
「しかし、お前、バカだよねー。なんで、こんなブラックな部署に志願するかね」
「……いいだろうよ、別に」
昏い非常階段を登りながら、あきれた顔をする田野倉に、俺は苦笑いを返した。
「最近、全然、休暇もとっていないって課長がいっていたぞ」
「正直、今、仕事以外興味がなくてな」
「うーわ。おそろしい社畜だねえ」
田野倉が首をすくめて、上を見上げる。ねっとりとした闇の気配だ。
「ま、仕事に目が向いているだけ、お前はマシなのかもな」
ふうっと大きく息をついて、手にした数珠を握り締めた。
「……会いに行けばいいだろう? 彼女は被害者じゃない。規定には反しないはずだ」
「会ってどうする? 彼女は俺を覚えてはいない」
俺の言葉は苦くなるのを感じながら、刀印を結ぶ。
「その話は、またあとだ。とりあえず、仕事だ」
俺はそれだけ言うと、九字を斬った。
仕事をしていれば、忘れられる。そう。仕事をしていれば。
そして、半年がすぎた。
闇夜の非番は辛い。
月のない夜は、どうしたって、彼女を思い出す。
つけっぱなしのテレビが、くだらないバラエティ番組を垂れ流している。
世の中、平和だな、と思う。
俺は、大きく伸びをした。
リンコン
不意に、ドアフォンの音がした。
宅急便を頼んだ記憶はないし、こんな夜更けに突然訪ねてくるような知人はいないはずだ。
仕事だろうか?
それにしたって、仕事仲間なら、連絡ぐらいよこすはずだ、と思いながら、扉を開け、俺は絶句した。
そこに優樹菜が立っていた。
目を見開いて、俺を見つめている。
「優樹菜? どうして?」
俺は言葉を失った。
「好きです」
胸に飛び込んだ彼女ははっきりとそう言った。
「月のない晩、理由もわからずに哀しくて、泣くのはもう嫌です」
涙を流す優樹菜の顔は、その言葉が真実だと裏付ける。
「鬼頭さんは、私を忘れてしまいたいのですか?」
忘れようと、仕事に打ち込んだのは事実だ――しかし。
「忘れてしまえたら、楽だったと思う」
俺は彼女を抱き寄せ、部屋に招き入れるとそのままキスをした。
もう……自分に嘘はつくことはできない。たとえそれが彼女のためにみえたとしても。
そして、彼女が俺を選んでくれるのなら、迷う必要はない。やっと、そのことに気が付いた。
駅の広場は、雪が降り始めているというのに、あいかわらず待ち合わせの人でいっぱいだ。
日は暮れて、イルミネーションの明かりが木々を灯している。
吐く息は白く、ポケットに入れたものの感触を俺は震える手で確かめた。
自分でも、緊張しすぎだな、と思う。
「待った?」
「いや――」
笑顔で現れた優樹菜の手を握る。
男慣れしていない優樹菜は、付き合いはじめて二か月もすぎるというのに、手を握るだけでうつむいて寡黙になるのが、なんともこそばゆい。
本当は腰を抱きたい気分のだが、それをすると俺のほうが我慢できなくなってダメだ。
特に、今日は欲望に負ける前に、やっておかないといけないことがある。
「それにしても、どうして、カニ鍋?」
「ん? まあ、リベンジかな」
俺はあいまいに答えて、駅前のカニ料理専門店に入った。
ずっと、店の前を通るたびに、彼女の涙を浮かべた笑顔を思い出してしまう――それは、俺の心に今でものしかかってくるから。だからこそ、ここでなくては、いけない。
店の奥にある座敷を予約した俺は、コートを脱いだ彼女が、あの夢と同じ、白のニットのワンピースなのに気がついた。
ドキリ、とする。
「私、カニ大好き」
ニコニコと優樹菜が笑う。
テーブルで、ぐつぐつ煮える鍋をつっつきながらも、俺は緊張していた。
「私、こうやって前にも、セイくんと鍋を食べたことがある気がする」
ぞうすいをよそおいながら、優樹菜がくすりと笑った。
「……夢でなら、ある」
俺は緊張して答えた。
「私は覚えてないなあ」
優樹菜は不思議そうに首をかしげる。
記憶操作前のことは、ほぼ思い出した優樹菜ではあるが、夢の記憶は、意識して潜っていた俺と違ってあいまいだ。
むしろ、俺の知らない『予知夢』のほうが、鮮明らしい。
俺は、ゆっくりと立ち上がり、彼女の横に座りなおして、彼女の手を取った。
ポケットに手を入れて、大きく息を吸い込む。
「セイくん?」
優樹菜の白くて長い指に、小さな石のついたリングをすべらせた。
「俺に、優樹菜を守らせて?」
「え?」
優樹菜の瞳が大きく見開かれ、俺の顔を映す。
「俺と、結婚してほしい」
彼女の瞳に涙がにじみ始め、泣き笑いの表情に変わっていく。
でも、それは、夢のような哀しい笑顔ではない。
「はい」
小さいけれど、はっきりとした声で、優樹菜は頷いた。
彼女の指のリングがキラリと光る。
店を出ると、街路に雪が降り積もっていた。
俺は優樹菜の肩を引き寄せる。
暗闇の中で、純白の道が俺たちを未来へと招いていた。
夜光虫が招く海 秋月忍 @kotatumuri-akituki
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