夢だから
華の言った通り、岩窟はあった。
ただし、ひとつではない。みっつもあった。中で全部つながっている可能性もあるし、違う可能性もある。
俺は、目を閉じて、気配をよむ。術を使うなら、気配はあるはずだ。
――鬼頭さん!
優樹菜の声が聞こえた。悲痛な叫びだ。
「呪言を!」
俺が応えると、優樹菜の力が大きくはじけた。真ん中の岩窟だ。
「見つけた!」
俺は走った。優樹菜を守るように龍に命じながら、暗い岩窟を走る。
足元はところどころ海水がたまっていて、ぽたぽたと天井からしずくが滴っている。おそらく、満潮時にはここは海の中なのであろう。
「おおいなる
男の声が響く。力が弾け、大気が震える。
「そこまでだ、隼人!」
俺は叫んだ。
薄暗い岩窟に声が反響する。
暗闇に淡い光を放つ龍に守られた優樹菜と、抜き身の刀身を持つ隼人がそこにいた。
隼人の手が伸びて、大波押し寄せてくるのを、俺は力で弾き返す。
「諦めろ、隼人。ひとに刃を向け傷つけた以上、お前は既に『犯罪者』だ。防魔調査室だけではなく、警察もお前を追う――逃げ切れはしない」
空を傷つけた以上、少なくとも傷害罪が適用される。よくみれば、優樹菜の胸元にも血がにじむ。乱れた着衣からみて、隼人が何をしようとしたのか、明らかだ。
傷害罪、婦女暴行罪は、術と違って、完全に社会的に裁かれるべき『犯罪』である。
「神の力を得て我ら兄妹は、この理不尽な世を変える」
隼人の力が洞窟の中に渦巻き、大気がゆがんでいく。その顔は、すでにそれが正しいことであると、信じている自信を感じさせた。
「理不尽?」
「そうだ。この世は理不尽だ。妹の紗枝をひき殺した男は、代議士の息子だったはずなのに、別の人間が身代わりにされた」
「証拠は?」
「紗枝が見ている」
紗枝というのは、隼人の亡くなった妹だと聞いている。今、そこにいる『命亡き』女であろう。
「死人の証言では、人を裁くことはできない。それが真実であれば、ほかに証拠を……」
「なぜ? 死したものは、間違いなくそこにいるじゃないか。なぜ、我らが聞いた言葉は、真とならない?」
隼人の気持ちはわからなくもないが、それはできない相談である。そもそも、死したものが必ず正直であるとは限らない。この世に留まり続けた霊は、少なからず変異を遂げてしまうことも少なくないのである。
「おぬしが、死ぬ気で
「……どういうことですか?」
優樹菜の声が震える。
「防魔調査室っていうのは、関わりあった一般人の記憶は、基本、消去するというとんでもないお役所なんだよ」
憎々しい感情を隠しもしないで、隼人はそう言いながら、俺に力をぶつけてきた。
「すべてじゃないし、例外だってある。それに、この世の秩序を守るために闇を秘すことは必要なことだ」
俺は、隼人の力をはねつけ、奴の言葉を否定する。
「そんな……私、鬼頭さんを忘れてしまうの?」
優樹菜の声がかすれた。心から、それを恐れている声だ。
そんなことはない……そう言おうと思ったその時。
「ふふふ」
優樹菜がゆっくりと立ち上がった。
「兄さん、大丈夫ですわ」
そういって、襟を大きく開き、白い乳房を露出させた。
豊かな胸に赤い刀傷が走っていて血が滴っている。
それをゆっくりと長い指でからめとり、妖艶に舌で舐めた。
ドクンと、大気が震える。おそらく、優樹菜の中の『神』が呼応しているのだ。
「紗枝?」
「神は、私とともにあるわ」
それは、優樹菜であって、優樹菜でないものだ。
「中島さん?」
応えは、ない。
優樹菜の中の『神』が膨れていく。
「優樹菜! しっかりしろ、優樹菜!」
どうしたらいいのか。俺は、ただ、ひたすらに優樹菜を呼ぶ。
龍が、神の力を押さえきれなくなり、あえぐ。
「優樹菜!」
応えてほしい。このままでは、神の力ごと、彼女の力を押さえることしかできない。
そうしたら、優樹菜を失ってしまうかもしれない――俺はどうしたらよいのかわからず、ただ、彼女の名を呼んだ。
「我は龍。いかになくとも妖魔はいぬ。龍の逆鱗、おそれざらめや」
優樹菜の唇が呪を唱え、彼女の身体が銀色に包まれ、世界が発光し、俺は壁にたたきつけられた。
「――グッ」
優樹菜以外のものが、吹き飛び、優樹菜は龍に守られたまま崩れ落ちる。
はじき出された力は、とぐろを巻くようにうねり、そのまま隼人の身体に入り込んだ。
ギャアアアアアアア
隼人の声が岩窟に響き渡る。
すでに、優樹菜の血をなめていたのであろう。中途半端な儀式でも、つながりは有効だったようだ。
大いなる力が体に満ちた隼人は、唸り声をあげながら、歓喜と苦痛の顔をゆがめた。
その歓喜は、隼人のものなのか、それとも神のものなのかわからない。
隼人は、笑いと苦痛の悲鳴を同時にあげながら、岩窟から出ていく。ざわざわと、神域が変質していくのが分かった。おそらく、神は悪霊であった紗枝を取り込み闇に染まってしまったのだろう。
「龍よ」
俺は優樹菜に駆け寄りながら、隼人に龍を向かわせる。
中にいるものは『神』だ。祀るべき神である。払ってはいけない。滅してもいけない。できることは、封じることだけだ。
しかし、隼人の得た力は強大だ。膨れていく力をおさえるのが精いっぱいである。
俺は優樹菜を抱き上げた。意識はないが、呼吸は安定していて、顔色は悪くない。
「鬼頭!」
岩窟を出ると、空が待っていた。
「……優樹菜は大丈夫だ。しかし……」
「山頂に向かっているのを、坊さんが追っていった。しかし、長くはもたん」
すべてを察しているのであろう。空はそれだけ言って、頭を振った。
「では、優樹菜を—―」
俺の言葉を空は制した。
「腕をやられちまって、残念ながら、動かすと傷口が開きそうだ」
血は止まったものの、本来ならすぐに医学的な手当てが必要な傷だ。気を失った優樹菜を抱えて干宮に行くのは、確かに、キツイだろう。
「華に儀式の用意をさせてある。干宮に行け。もはや、巫女姫に頼るしか方法はない」
「巫女姫……か」
ただ滅するというのならば、田野倉、空、そして俺が三人でかかれば、できないことではない。
しかし、隼人に入った神は、本来祀るべき『神』である。
悪しきものから清め、再び祀るには、巫女である優樹菜の力が絶対必要だ。
「おれは、坊さんに手を貸して時間を稼ぐ――急げ」
「わかった」
俺は頷き、干宮へと急いだ。
—― 私、鬼頭さんを忘れてしまうの?
優樹菜の言葉が頭に鳴り響く。
干宮に着いた俺は、優樹菜に、生気を注ぎ込みながら、ぼんやりと考える。
彼女の母が彼女にほどこした術は、たぶん俺にも使えるだろう。
霊的な力と彼女の思考を分断すればいい。力を『行使した』記憶を強引に封じればたぶん可能だ。そして、その時の術そのものが障壁として覆う形にできれば、魔を近づける可能性は減る。
この先、今までと同じ生活を続けるには、おそらくそれしか方法はない。
彼女の傷に手を当てながら、その肌の柔らかさに戸惑う。
夢で触れた彼女は不確かなものだった。
そう……もともと、俺と彼女のつながりは、あるほどもないものばかりだ。
彼女にとって、俺は、夢の中の男で、実際の恋人ではない。ぬくもりを交わしたわけではないのだ。俺が覚えているほどに、彼女は夢の中の出来事を覚えてはいないだろう—―すべては、夢なのだから。
「セイくん?」
優樹菜の唇が開いた。瞳に俺の姿が映る。
「治療はすんだ」
俺は、雑念を払いのけ、華を呼んだ。
儀式は終わらなければならない—―そして、命に代えても、彼女は守らなくてはならない。
今は、それ以上のことを考える暇はないのだ。
「やってみます」
頷く優樹菜を見つめながら、俺はこぶしをぎゅっと握り締めた。
干宮の神を宿した優樹菜は、まさしく『巫女姫』であった。
神の力を借り、荒ぶる満宮の神を鎮め、そして、儀式は完璧に終えた。
すべてが終わり、力尽きて倒れた優樹菜を病院に運びながら、俺の心は、決まる。
彼女を昏い世界に留めたくはなかった。
夢は、いつか覚めるもの。俺は、彼女にとって、夢なのだから――そう思った。
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