六章 水面の向こう
「おはよう」
気付けば普段通りの朝が来ていた。
台所からトントンと食材をきざむ音が聞こえてきて、テレビからは天気予報が流れている。どうやら今日は晴れるようだ。窓から射しこむ明かりも温かい。
「おはよう。まだ眠そうだな」
新聞に目を落としていた父が笑った。
僕は濡れ衣をかぶったような疲労を感じながら「うん、眠い」と欠伸まじりに答えた。
昨日は家に帰ってきてから、すぐに眠ってしまったのだった。ろくな食事も摂らず、軽くシャワーを浴びるだけで入浴もしなかった。
女性との営みが、あんなにも疲れるのだということを初めて知った。結局、行為は挿入の段階でうち止めになったけれど。いざ解散の段になって――まあ、色々あった。端的に言えば、女性にしぼり取られるというのは、ひどく惨めだということだ。自分で適当に処理するときよりも、ある意味において辛い。
「なんかあったの?」
「えっ?」
台所から顔を出して、ふいに母が訊ねてくるものだから、つい高い声がでてしまった。だが、ここにいる誰も、僕と真衣の逢瀬があったことを知らない。知るはずがない。両親にとっては、昨日も今日も日常なのだった。
「特になにも」
そう思いだしたら、世界がひどく淡白に思えた。
いざ学校へ出発すると、ゴミ出しにでる男の人とすれ違った。小学生の列を追いこすと、僕ごと車が追いこしていった。信号は変わらず三色で、黄色のまま静止することはなかった。
学校にたどり着き、校門で出迎えた教師に挨拶すると、普段通りの挨拶が返ってきた。こんにちはでも、こんばんはでもなかった。こんなものかと思った。僕らの悪戯は、やはり普段の行いの延長線上にあった。誰に影響を及ぼすわけでなく、自己の中で完結されてしまう類のもの。
ところが、その考えがすぐに間違いであると気付かされる。
教室に入っただけで、それを痛感するには充分だった。各々談笑していたクラスメイトたちが、僕の顔を見た瞬間に、ぴたりと話をやめたのだ。眼差しに疑惑と好奇が浮上し、ある女子たちは平静を装って「嘉瀬くん、おはよー」と挨拶した。ある男子たちは、挨拶もなくニタニタと笑んだ。
「おはよう」
僕が挨拶をかえすと、それぞれの談笑が再開された。しかし、不躾な一瞥が方々から飛んできているのは明らかで、どうにも居心地が悪かった。まるで、急に明かりを灯した電球にでもなってしまったかのようだ。あるいは、ふいに明かりが消えてしまったのか?
いずれにせよ、恋愛ごっこが及ぼした影響は想像以上のものらしい。クラスメイトたちは、僕と真衣が付き合っているいないに係わらず、昨日の出来事から様々な邪推を重ね楽しんでいるようだ。その中に、真実がどれだけあるだろうか。僕と真衣が寝たという真実が。
ぞわり。蠢いたのは愉悦めいた感情だった。慣れ親しんだ侮蔑とともに浮かび上がる愉悦。なるほど。これが真衣の言った悪戯の意味か。僕はようやく得心した。
その上で僕は、周囲からの眼差しを意識しながら、市原と話す真衣の姿を一瞥した。すると、彼女もそれを待っていたかのように僕を一瞥した。きっと零コンマの交わりだった。思惟の余地もない一瞬だった。その間に僕らは、たくさんの情報を共有したような気がした。まるで僕と真衣だけが、異なる時間のなかを生きているようだった。
市原がそれに気付いた。真っ直ぐな彼女は遠慮というものを知らない。僕のもとにそそくさと駆けよってきて、開口一番「どうなの?」と訊いてきた。
「なにが?」
「とぼけても無駄だよ、嘉瀬くん……! 真衣ちゃんとどうなってるの?」
「どうって?」
「もう! 焦らすなぁ。付き合ってるんでしょ?」
彼女の尋問には確信が透けて見えた。きっと他のクラスメイトたちも、皆そう思っているに違いない。なんと浅はかで可愛い連中だろう。僕ははにかんで小さく肩をすくめた。
「あー、どうなんだろうね。難しいな」
「え、どういうことなの? 真衣ちゃんまで、そんなような事言ってた」
「告白とかしたわけじゃないから」
「ウソ! 昨日の真衣ちゃんのあれ、告白じゃないの?」
「え、告白なの?」
「マジかぁ……」
呆れかえったように額を叩く様は、さながら昭和の芸人、大物司会者といった風情だ。市原はいちいち仕種が大仰で芝居がかって見える。
「なら、早いうちにはっきりさせといた方がいいよ! 恋愛は早い者勝ちだよ! 嘉瀬くん、真衣ちゃんのこと好きなんでしょ?」
「どうだろうなぁ」
「焦らさなくていいから!」
「いやぁ、焦らすとかじゃないんだけど」
「じゃあ、なに!」
なぜか市原は苛立った様子だ。それがますます滑稽だった。
僕は真衣を一瞥すると笑った。
「その気持ちを言う相手は、市原さんじゃないかなって思ってさ」
「あっ……」
そう答えた瞬間、市原が耳まで赤くしてうつむいた。べつに僕が彼女に告白したわけでもないのに。「わー!」とか「きゃー!」とか言って真衣の許へ逃げていく。
僕と真衣に、いっそう注目が集まるのがわかった。それを解っていながら、僕らはろくに口を利かなかった。ただ意味深な一瞥を交わしては逸らした。その度に波のような憶測が教室を満たし、肌に沁みるようだった。
僕がアクションを起こしたのは放課後のことだった。
真衣の許に歩み寄るだけで、教室に残った生徒たちの注意が高まった。
「露島さん、きょうも一緒に帰らない?」
――
背後で閉まったドアは、今日も自動的に施錠された。
ただし、家のなかに廻る空気が、昨日よりもかすかに涼やかだ。
「昨日、暑かったでしょ? だから、タイマーかけといたの」
外からは蝉の鳴き声が押しよせてくる。からりと晴れた外の暑さに、夏の虫も悲鳴をあげているようだ。うんとかすんとか言った僕のか細い声はかき消された。
やがて昨日と同じ部屋に通され、同じソファに腰を下ろした。僕が薬局のロゴが入ったレジ袋を、ガラス張りのローテーブルに置くと、それを挟むようにして、真衣がウーロン茶の入ったグラスを置いた。
「ありがとう」
「青汁はお父さんが全部飲んじゃった。今朝の飲みっぷりすごくて」
「べつに飲む気ないって」
「えー、身体にいいのに」
そう言って真衣が隣に腰かけた。好い匂いがした。首筋に汗が光っているのに、全然いやな感じがしなかった。それどころか、不思議と落ち着く香りだ。僕はソファに背中を沈め、透けたブラジャーのホックをぼんやりと見つめた。
「……ハハ」
すると、急に笑いがこみあげてきた。真衣もソファに身を投げだして笑った。
しばらくの間そうしてから、おもむろに僕はお茶を飲んだ。僕らは冷房で汗がひいていくのに、グラスは汗をかいていた。また笑いがこみあげてきた。
ところが、ひとしきり笑った後というのは、却って冷静になるものだ。僕は微笑んだ真衣の横顔を見つめて訊いた。
「どうして今まで話しかけてこなかったの?」
純粋な疑問だった。
高校入学から三ヶ月後の昨日。突如として恋愛ごっこは決行された。
それまで真衣がアクションを起こす事はなかった。悪戯の打ち合わせどころか、僕と関わろうとする素振りすら見せなかった。空白の意味は謎めいていた。あるいは彼女風に言えば、意味などないのだろうか。
「ああ、それね」
真衣も笑いはおさまったようだ。ウーロン茶を舐めるように飲むと、僕の肩にもたれかかった。
「トレンドを知りたかったんだよ。高校生になったら何か変わってるかもしれないって。それを確かめる期間だった。でも結局、みんなが興味あるのって恋愛のことばっかり。ちょうどカップルがでてきた時期だし、タイミングも今かなって」
どうやら意味はあったらしい。彼女らしい動機だとも感じた。
「なるほど。そのトレンドとやらが恋愛じゃなかったら、僕は巻きこまれなかったわけだ」
「かもねぇ」
気怠いやり取りをしながら、二人してテーブルの上を眺めた。
ウーロン茶のグラスの間。薬局のロゴが入ったレジ袋だ。いちごオレは入っておらず、昨日よりも大きな紙の袋が透けて見える。中にあるのは、モノの薄さを示す数字の書かれた箱である。
「あれ、どれだけもつかな?」
「さあ、隼人の元気次第でしょ」
「そうだろうけど。結構高いんだよね。バイトしなきゃな……」
言いながら、ひどく奇妙な感覚に襲われる。
僕の考え方は、なにか間違っちゃいないだろうか?
昨日の初めてを終えて、なにか人として大事なものを置いてきてしまったような気がする。彼女とこんな関係にあることを、いちいち疑問に思わないし、抵抗もないのだ。「一緒に帰らない?」の意味は自明だった。にもかかわらず、選択肢さえ念頭に浮かばなかった。
だからと言って、真衣と寝たいわけでもない。
抵抗もないが喜びもないのだ。昨日だって肉体的には気持ち良かったけれど、精神的充足があったかと言えば、そうではない。もちろん、彼女がひどく痛がったのが、理由の一つでもあるのだろうけれど。僕らの間に存在するものは、みんなの普遍的な営みとはまったく別種のものだった。
「そういえば、昨日も今日もお金渡してないね」
「いいよ、べつに。女の子にああいう物のお金払わせるのも気が引けるし」
「そういうしがらみに囚われちゃうんだ? かっこいいねぇ」
真衣が嘲るような声色で言った。ちょっと腹が立った。
けれど、言い返す気にはなれない。口論したところで勝てる気がしないからだ。そもそも僕と彼女の世界観はまるで異なっていて、口論にさえならないような気がした。
僕の生き方が逃避的や防御的と言い表せるなら、彼女の生き方は破滅的とでも言うべきものだ。表立って無茶なことはしないけれど、裏では自分でさえ犠牲にすることを厭わない。あるいは単に無頓着なのか。いずれにしても、不思議で危うい人なのは確かだ。僕は隣に視線を滑らせて、真衣の頭頂部を見つめた。
「ねぇ、今日はどうする?」
真衣が僕の腕に指を這わせながら言った。それを意外に感じた。
「え、するんじゃないの?」
訊ね返せば、また彼女の中から笑いがこみあげてきたようだ。
「いいねぇ。肝が据わってきたね」
「何様なんだよ」
「どちら様」
「は?」
「誰でもないの」
「こんな個性的な人、他に知らないけど」
真衣はわずかに片眉をもち上げると、ソファに寝転んだ。
「隼人が見てるわたしは偽者かもしれない」
「僕の前では無邪気だって言ってたじゃないか。仮面も皮も脱いでるって」
「それが本心だって証拠はないよ?」
「まあね。でも相手の言葉一つひとつを、いちいち斟酌してたらキリがないよ。人の心なんて解りようがないんだから。他人なんて、水面の向こうに住んでるようなものだし」
「水面の向こう?」
真衣が面白そうに僕を見た。なんだかそれが嬉しかった。
「僕らは水面を挟んで関わってる。だから相手の声は、くぐもって聞こえない。互いにじっとしていれば顔が見られるし、顔が見えれば気持ちも判るような気がする。でも、どちらかが身動ぎしたら、とたんに波紋ができて顔も見えなくなる。それくらい脆い」
冷房の風にあわせて、カーテンが踊る。それに合わせて、隙間から忍びこむ光が踊る。時々、僕らの間に揺らいで、柔らかい波型をつくる。
真衣がくすぐったいでも言いたげに目を細めた。
「つまり?」
「信じたいものを信じるしかないんだよ。そうしなきゃ生きていけないくらい、この世界は不確かだから。何も信じないことも真理かもしれない。だけど、それじゃ辛すぎるから。目に見えるものが、水面の向こうでは、ずっと歪んでまったくの別物だとしても、僕は真衣を信じたいよ」
その時、真衣の顔が驚愕に切り替わった。二度、大きく瞬きをした。瞬時に仮面を付け替えたのか、本心なのかはわからなかった。僕は、それが純粋な驚きなのだと信じようとした。
「ほとんど話したこともないのに信じるの?」
「過程はどうでもいい。時間の長さとかも。信じたいから信じる。それだけ」
「なんか急に子どもになったみたい」
「きっと僕らは、大人でも子どもでもないよ」
「だから、どっちにでもなれる?」
「わかんないけど。たぶん、そんな感じ」
真衣がクスクスと笑う。意味は解らない。それなのに僕も、なぜだか愉快な気持ちになる。涸れた瞳を向けあって笑う。互いを隔てる水面を掬って、そこへ注ぎこむように。どうせ波紋になると解っていても。そうすることに意味があるような気がする。カーテンが揺らいで、光が揺れる。
その時、巨大な何かが口を開けたように錯覚する。
けれど実際にひらいたのは、真衣の腕だ。
僕は彼女に覆いかぶさって、一方の手をとる。上に伸ばすと腋が見える。服の上からでもわかる透明な肌。互いの指と視線が絡みあう。
「ねぇ、好き」
「愛してるんじゃなくて?」
「それは隼人の言葉。わたしは好きなの」
「そっか。ありがとう」
「愛してるんじゃなくて?」
「愛してるよ、真衣」
僕らの言葉は微妙に異なる。言葉が違えば、心も違う。
だけど、真衣が何を言いたいのか、何をしたいのかは解る。今日もカーテンに遮られた薄暗闇のなかで、秘密の遊戯に耽るのだ。誰に知られることもないのに、僕らの中に刻まれて、世界に発散されていく。意味のない悪戯を求めている。
僕はその空虚な欲求に応える。
互いの水面がはじけて薄闇のなかに声があがる。
深みへ落ちていくようだ。足場を踏みはずした先は、海の底だろうか?
「どこでもいい……」
声にでていた。
真衣がその意味を理解するはずはなかった。
けれど紅潮した相貌で言った。
「どこでもいいよ」
共感。二文字が脳裏に明滅した。
一つだった。二つだった。結び合わされた二つだった。結び合わされ意味をもった一つだった。
この意味のない世界に?
愉悦の後の空虚が待つ世界に?
僕らは存在しているのだろうか?
僕らの間で水音が弾ける。どちらのものとも知れない喘ぎが波形を生みだす。
心を覆った水はひんやりと気持ちいい。
息のできない苦しみも忘れられるくらいに。
口づけに春は来なかった 笹野にゃん吉 @nyankawa
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