五章 こんなに遠い
「お邪魔します」
「いいよ、そんな形式ばったの。どうせ誰もいないし」
背後でドアが閉まった瞬間、キューンといかにも機械的な駆動音がして鍵が閉まった。オートロックなんて都会の人間の過剰防衛か金持ちの気休めくらいのもので、平凡な市民には無縁のものだと思っていた。けれどそれは僕の狭い価値観でしかなかったようだ。驚いた顔をしてドアを見ていると、真衣に訝しげに「早く入んなよ?」と促された。
「う、うん」
傘立てに傘を突っこみ、泥でも詰まってるんじゃないかと錯覚するほど重い足で框をあがった。女の子の家に来るなんて初めてで、しかも僕たちは悪い事をしようとしている。明かりの点いていない玄関の、そこここに滲んだ暗がりが、じっと僕らの動向を監視する目のようで不気味だった。
ところが、胃の腑に落ちた鉛はすぐに融けて消えた。
框をあがった瞬間から、不自然に気持ちが軽くなった。
重い鎧をひとつ脱ぎ捨てたようだった。
玄関に踏み入った瞬間から、どっと汗が噴き出すほど熱気のこもった場所なのに。息もしやすかった。
住み慣れた真衣にとっては、なおさら気楽な場所らしかった。そそくさと先に歩いて行ってしまって、すりガラスのドアを暖簾でも押すように開いた。
あとに続いて進んでいくと、リビングだった。ダイニングキッチンに食卓と思われる長テーブル。部屋の奥にはローテーブルとコの字に並んだソファがあって、一面を切りとった窓は濃緑のカーテンに塞がれて暗かった。
「ソファにでも座っててよ。なに飲みたい?」
「え、っと、なにがあるの?」
「ウーロン茶、オレンジジュース、サイダー。牛乳も。お父さんのだけど、青汁もちょびっとならバレないよ」
「いや、いいよ。そういえば、コンビニで買ったやつあるし」
「ああ、そうだったね」
意外にも平凡な会話に、僕は面食らう。まるで普通に友達が遊びに来たみたいじゃないか。適当におしゃべりでもして、弛緩した疲れを引きずりながら解散するんじゃなかろうか。
そんなことを考えながら、言われた通りソファに着いた。ローテーブルの天板はガラス張りで、テレビやエアコンのリモコンがきれいに並べられていた。リモコンの下には折りたたまれて皺のない新聞が。カーペットには毛玉ひとつ浮きだしていない。一目で真衣の両親が綺麗好きなんだろうと判った。
「なにしてんの? 置いていいよ」
「あ、うん」
真衣が冷房をいれて、僕の隣に座った。リモコンを寸分違わぬ位置に戻したのを見て、綺麗好きなのは彼女の両親でなく真衣自身なのかもしれないと思った。
僕は恐るおそる手にもっていたレジ袋を、よく整頓されたテーブルの上に置いた。安いいちごオレと避妊具の入った袋を。
「ねぇ、本当にするの?」
訊ねながら、声が震えていない自分に驚いた。框を上がったあの瞬間から、すっかり緊張を忘れてしまったようだった。ここに来たという事は、彼女のいう恋愛ごっこを実践する事なのに。
「するってば。解ってて来たんでしょ。それともわたしに言わせたいの? えっち」
真衣が悪戯っぽく笑う。
やっぱり彼女は、僕をからかっているだけなんじゃないかと思う。エアコンが冷たい息を吐きだす。首筋を撫でるように。呆れた声がでる。
「そんなんじゃないよ。でも、こんなの普通じゃない」
「普通じゃなくていいんだよ」
ふいに湿っぽい吐息が耳朶を撫ぜた。冷たい空気が吹き飛んで、蒸し暑さが腹の底に溜まった。
柔らかく腕を掴まれる感触。制服越しのはずなのに、いやに生々しい。肩の上、直接彼女の肌を感じるような気がする。
恐るおそる僕は見る。
眼前に真衣の顔があった。涸れた瞳の表面が、暗い室内で光を弾いていた。桜色の唇が微笑の形に緩めば、ふいに香った彼女の匂いに、頭がくらくらした。
本当にするのか。
いまさらになって思った。冷静な自分に驚いた。さしたる抵抗感がないのに、さらに驚かされた。自分をひどくちっぽけに感じた。これまで何度も対峙してきた劣等感が、微妙に形をかえて胸を抉る。露島真衣という少女の誘惑を、こんなにもすんなり受けいれてしまえる自分がいる。
「いま僕を動かしてるのは、誰なんだろう……」
真衣の腕が僕の背中に回って、かすかな息遣いを聞いて、僕の身体は確かに反応を示している。初めての出来事に愕然とするように。本能に衝き動かされるように。下腹部で熱が蠢く。けれど僕自身が、真衣の裸体を見たいとか、服従させたいとか、喘がせたいとか、淫らなことに思いを馳せることはなかった。
「わかんない。でも君はここにいる。それでいいんじゃないの?」
真衣の妖しい眼差しが僕を見つめる。魔法をかけられたみたいだ。頭がくらくらする。くらくらして、よくわからない。何がわからないのかも、きっとわかっていなかった。
怯えたように真衣の肩を掴んだ。縋るように押せば、簡単に倒れた。クッションが彼女の頭をやさしく抱き留めて髪を散らした。
滝のようにまっすぐ流れていた髪が、今は氾濫した川のように見えた。
僕はその破壊的な力に呑みこまれていく。互いの視線が絡みあったと感じたときには、すでに彼女の柔らかい唇が、僕の唇のなかにあった。
「……あ」
一瞬の接触。
唇を離して彼女を見下ろすと、急速に喉が渇いた。
テーブルの上に、いちごオレがある。飲む気にはなれなかった。渇きを癒す潤いなら、もう目の前にあるような気がした。薄くひらいた唇が泉だった。
ゆっくりと彼女へ落ちていく。唇と唇が触れあって、淫靡な音を鳴らす。雨の湿り気が残った腕に指を這わせる。かすかに真衣が震える。渇く。わけも分からず舌を伸ばす。
「ん……」
そこに応える潤いがある。撫でるように伸びて絡みあう舌。唾液がまとわりついて、逆流していくような気がする。一瞬の癒しがある。もっと癒されたいと思う。
それでもそっと身を離して、名残惜しげに互いを結ぶ唾液の糸を指先で解いた。目が合うと真衣が微笑んだ。蠱惑な笑みだった。僕というマヌケな羽虫を、糸に絡めとって喰らおうとする蜘蛛のように。
露島さん、君は……。
遊びだと言った。彼女が遊びだと言ったのだ。
これは恋愛ごっこで、思春期の昂りがもたらす盲目な恋ではない。それを模倣した、空虚な遊びでしかない。行いは本物でも、僕らの間に交わされるものは、悪事の共犯者となった共感だけのはずだった。
それなのに。
こんなにも生々しいのか。
女性という存在の色香が。
男性の脈打つ継承が。
胸の奥でむくむくと大きくなるものは何だ?
これは僕の意志だろうか?
それとも肉体がもたらす錯覚に過ぎないのだろうか?
「……露島さん」
答えは出ぬまま、僕は彼女のスカーフに手をやった。少し引いただけで、するすると解けて、無防備な首筋をさらした。白い。薄暗闇のなかで、まるでそこだけが光っているようだ。
真衣が僕のネクタイを掴んで首を振った。
「ダメ。わたしたち恋愛ごっこしてるんだから。ちゃんとそれっぽくしなきゃ。真衣って呼んで」
囁きが心を絆す。言葉は糸だ。逆らうことなどできない。網に捕らえられてしまった羽虫は、いくら足掻いたところで抜け出すことなどできないのだ。
彼女の腰に指を這わせて、服の中に手を入れた。涸れた眼差しがわずかに細まり、声がもれたように思うが、雨粒が一際つよく窓を打ってかき消す。温い絹のような感触を指先に感じ、僕はゆっくりと衣服をめくりあげていく。
そこから現れた肌も白皙だった。陶器のようなそれではなく。はっきりと血の通った白。潤いに満たされ、僕の胸の奥で疼くものの色を受けいれ染まろうとするキャンバス地のように。ある。
僕は彼女の首筋に吸いつく。指先がキャンバスのきめ細やかさを確かめる。浅葱色のブラジャーの下に滑りこみ押しあげ、そこにおさまったものの新鮮さや清潔さを直感する。
「真衣……」
「なに?」
そう呼んで欲しいと言ったくせに。なに、はないだろう。
僕はただ彼女の名を呼んだだけだ。遊びに興じる相手の名前を。遊びを楽しむための手段のひとつとして。
だが、彼女の答えもまたその手段のひとつであったなら、僕は心底道化になる道を選ばなければならないのではなかろうか。
「好きだよ」
「そんなんじゃイヤ」
真衣がクスクスと笑う。
幼気な少女のように。本当に愛しい人をまえにした乙女のように。
僕もやわく笑む。
噴出する欲望の生々しさなど知らぬ、
美しい黒髪に指をうずめ、梳いて。
春の色をした唇と、そっと交わった。
「愛してる」
「うん、わたしも」
互いに心ない事を吐きながら笑った。
その時、真衣が動いた。背中に回された手が、するすると下りてくるのがわかった。僕の膨らみに触れた。かすかな摩擦があった。彼女のやわらかな指使いに反して、衣擦れが痛かった。
僕が顔をしかめると、もう一方の手も下りてきた。真衣が二度ゆっくり瞬いて、甘い声で「ごめんね」と言った。荒くなる僕の息とベルトのたてる音がうるさかった。かき消すように彼女の唇を貪った。乳頭を指で押しつけた。唇と唇の隙間からみじかい喘ぎがこぼれ、下腹部を空気が撫ぜた。
ベルトの音はもうしない。緩く腰にもたれかかったスラックスを脱ぎ捨て、下着を放りだすと、真衣の熱い手のひらが僕を包みこもうとした。それをやんわり払って、ふたたび彼女の腰に手をやった。今度は上から指を滑らせた。
そういえば、スカートの仕組みはどうなっているのか。わからなかった。とにかく隙間に指をねじこんでみると、なぜかもう緩んでいた。それを乱暴に下ろした。現れた下着がもどかしかった。真衣がわずかに股を閉じた。その隙に下着に手をやった。スカートのように、すんなりとはいかなかった。それでも真衣が、股の開き具合を調整してくれるものだから、焦らすようにゆっくりと、肌を離れていった。
「今、どんな気持ち?」
僕の中には昂りがあった。熱せられて真っ赤に焼けた鉄のような昂りが。
真衣はそれを見透かしたような薄笑いを浮かべ、今度こそその手で僕を包みこんだ。強烈な快感が上に下にと、僕をもてあそぶようだ。頭に熱が爆ぜ、下腹部にも熱が爆ぜる。
その中間に、僕がいるような気がした。
昂りを覚えているのとも違う僕が。
熱伝導のない僕が。
ただ僕という存在を通過して上下する熱を、悲哀にも似た眼差しで見ているような気がした。
そして改めて見下ろした真衣の姿を見て、ふと彼女も僕と同じ思いを抱えているだろうかと考えた。
確かめる術はなかった。
あるいは、それを知らなかっただけなのだろうか。
刻々と進む時間は、熱くなっていく昂りは、眼前の半裸の少女を貪るためだけにあるようだった。
レジ袋がガサガサと音をたてていた。未開封のいちごオレが、カーペットの上に投げだされて転がった。紙袋の破ける音がした。銀の袋が裂ける。ぬるぬるとした感触が指先にあった。何の知識もない僕の手つきはぎこちない。真衣もなにも知らないようだ。じっと僕を待っている。あの感情の知れぬ妖しい眼差しで。
意識が茫洋としていた。避妊具がいつ僕の性器に吸いついたのかわからない。けれど、それは確かに薄い膜に覆われて脈をうっている。
「……ねぇ、本当にいいの?」
今更になって僕は訊いた。とっくに戻ることはできないのだと知っていながら。
「いいよ」
真衣がやさしく答えた。完璧な演技だった。不甲斐ない恋人の細やかなプライドを傷つけまいとする、聖母のような包容力があった。
僕はその優しさに抱かれた。鷹揚さに甘えた。
暗がりのなかに裂け目を探し、そこにゆっくりと入っていった。
「……ッ!」
胸の下で、短い悲鳴があがった。真衣が口許を押さえた。
「大丈夫?」
と訊けば、今にも決壊しそうな潤んだ目をむけ頷かれた。
それでも、もうやめるべきなんじゃないかと思った。こんなくだらない遊びのために。束の間の醜い優越のために。どうしてここまで身を捧げる必要があるのだろう。
その一方で、終わらせる責任があるようにも感じた。ここまで来てしまったからには、中途半端に終わらせてはいけない。たとえこれが遊びでも。遊びのために、今、僕らは生きているんじゃないだろうか?
葛藤から一方をぬき出し、僕は彼女を貫いた。
「んんッ……ッ」
指の隙間から悲痛な声がもれ、罪悪感に胸がはり裂けそうになった。
真衣のまなじりから、つーっと涙がこぼれ落ちた。
選択を誤ったと思った。後悔が胸を溺れさせた。
僕はそれきり動けなかった。
「ごめん、ごめんね……露島さん」
「ち、がう。真衣、でしょ?」
「そんなの、いいよ……。もうやめよう」
「よく、ないよ。これは、わたしの痛みじゃないもの」
「……」
何も言えなかった。意味が解らなかったからだ。
目の前で涙を流す女の子。その痛みが、その子のものじゃないなら、一体誰の痛みだというのだろう。罪悪感を覚えて動けなくなってしまった僕は、幻に情をうつしたとでも言うのだろうか。
「わたしはね、気持ちいいよ。恋愛ごっこ、してるんだもん。みんなと違うことして、親にも友達にも秘密で、イケないことしてる。ちっとも、痛くなんかないの」
「でも、泣いてるじゃないか」
そう言った僕の目に、彼女の親指が触れた。濡れた感触がまなじりを伝ってしみた。
「泣いてるのは、君だよ。嘉瀬くんは優しいから、そうやって人のために泣けるんだね」
「優しくなんかない」
「そうかもね、性格悪いし。でも、わたしは優しい人だって思うよ」
彼女の手が頬に触れる。なんて温かいんだろうと思う。
そして温かなそれが、僕の眼前に拡げられた。
「ねぇ、嘉瀬くんの手、重ねてみて」
「え?」
「いいから」
わけも分からず、けれど一蹴する気にもなれず、僕は彼女と手を重ね合わせた。僕のほうが少し大きかった。彼女のほうがずっと繊細に見えた。
「やっぱり、わたし痛くなんてないよ。でも、わたしと嘉瀬くん、こんなに近いのに、こんなに遠いんだね」
「うん……」
真衣の手は、しんと冷えた僕の心にも沁みるように温かかった。確かに触れあい、密着した肌と肌は、これ以上近づくことなんてできなかった。もどかしい距離を感じていた。壁なんてどこにもないはずなのに。れっきとした隔たりがあると判るのだ。
キチ、と歯車が鳴る。
彼女となら、しっかり噛み合って変な音なんて鳴らないかもしれない。そう信じたかったけれど。秒針が時を刻むように、歯車は規則的に鳴りつづける。巨大な機械は止まることなく、爆発するときを待っている。
「ねぇ、こんなことに何の意味があるんだろう?」
「意味なんてないよ。ごっこ遊びだもん。でも、みんなの健全な生き方も同じ」
「どうして、こんなに空しいんだろう」
「みんな繋がったフリをしてる。でも、わたしたちは気付いてる。こうやって一緒になっても、一緒になれないこと。みんながやってるごっこ遊びの中で、わたしたちだけが、遊びじゃない事に気付いちゃったんだよ」
僕は真衣と繋がっている。物理的な意味でだ。でも、そんな事には何の意味もなかった。みんなの言う普通とか常識は、生きていることに真摯になれる人の言葉だ。あるいは盲目になれる人の言葉だ。
だから人生に対して怠惰で、見たくないものが見えてしまう僕らには、普通とか常識なんて言葉は、なんの意味ももたらしてはくれない。僕らの行為が遊びなのか、みんなの行為が遊びなのかも、さして重要じゃない。どちらかが真実で、どちらかが虚構。それだけの事なのだ。
「今日はもうやめよう」
僕は彼女の中から滲みだした血液をみて言った。
真衣は自分の涙を拭おうとせず笑った。涙などという虚構に、真実の自分はないとでも言うように。
「今日は? じゃあ、明日は最後までする?」
「まだ続けるの? 意味なんてないのに」
「意味なんてなくても、わたしはまだ終わりたくないの。君とこうして、ここにいるもの」
不思議な人だと僕は思った。彼女の言葉は、支離滅裂で矛盾しているとも言えなくはない。けれど、強固な、頑固とも言っていい芯があって、決して健全ではないのに強いのだ。
それは単に、僕に慧眼と言えるほどのものがないからこその虚飾なのかもしれなかった。僕自身が本当の自分を隠して、他人を蔑んできたように。彼女は、彼女の鎧をまとい、似ていると言った僕にさえ、生身の自分を隠しているだけなのかもしれない。
それでもいいと僕は思った。どうせ意味なんてないのだから。生身の自分をさらしたところで、僕らは決して交わることのできない、一つひとつのグラスなのだから。
「じゃあ、これからも付き合ったっていいよ。ただし、僕からも条件を出させてよ」
「なに?」
真衣が楽しそうに笑った。彼女を満たしたどす黒い液体に、ぱっと暖色の明かりが灯ったような気がした。
「嘉瀬くんはダメだよ……真衣」
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