四章 変人とか狂人

「二人きりで話すの、久しぶりだね」


 頭上でなり響くぱたぱた跳ねる雨の音。

 それが軽やかな踊りなら、露島真衣の口調は優雅な歌のようだった。


「……」


 車が飛沫をはねながら去っていく。

 雨の音が空白に滑りこむ。互いの歩調が、決して楽しげでない憂鬱な音を鳴らす。


 ここには友人も市原もいない。

 およそ高校生らしくない珍妙なやり取りから、僕らは二人になった。まるでもう付き合いだした男女のように、一つの傘に互いの肩がおさまっている。いや、僕の肩は若干濡れている。肩にシャツが貼り付いている。それでも暑さがつきまとう。


「どういうつもりなの?」


 憮然として僕は訊ねた。憤然ではない。憮然だ。彼女に目を付けられた時点で絶望的な気分だった。彼女のグラスは他の誰とも違っていた。杭で打たれたようにまっすぐ立っていて、ヒビもなければ汚れもなかった。美しく均整のとれた寸胴のグラスに、どす黒い液体が充ち満ちているように感じられた。そのような非の打ち所のないグラスは恐怖だった。僕は周囲をおとしめ、けなすことでしか、僕という存在の優位性を確立できなかったから。


 真衣が薄ら笑いを浮かべた。


「どうって言われても難しいなぁ。ただ周りと違うことがしたかったのかも」

「周りと違う? 恋愛ごっこが?」

「そう。みんな恋愛ごっこするでしょ。周りがカップルになっていって、そういう空気にあてられちゃう。ちょっと胸がキュンってしたら、それが恋だって暗示をかけて。でも、普通はそこまで考えてないよ。あとになって気付くの」


 彼女の言っていることは、解るようでわからなかった。理屈としては理解できるが、それが「周りと違う」という言葉に結びつかなかったからだ。彼女のやろうとしていることは、恋愛ごっこそのものではないか。


 真衣がデイパックを背負いなおして、夏の厚い曇天を見上げた。


「嘉瀬くんとわたしって似てるよね」

「は?」

「賢いフリして、みんなを見下しながら生きてる」

「露島さんは違うんじゃないの?」


 自分に対する評価は否定しなかった。彼女にはきっと嘘をついても無駄だ。付け焼刃など断ち切られる。ずっと封印してきた本当の僕は、劣等感の塊だから、敵わない相手を識別するのは上手かった。


 真衣が無機質な笑みを浮かべた。


「違わないよ。細かいところは違っても。おおむね嘉瀬くんと同じ。だから入学式のときに話したことも、同じクラスになったことも嬉しかった。わたしは独りじゃないんだって思えて」


 その言葉を聞いて確信した。やっぱり真衣は僕とは異なる人種だ。僕はちっとも嬉しくなんかなかった。劣等感にとり憑かれた僕にとって、自分より賢い人間は、僕を脅かす存在でしかなかったから。


「恋愛ごっこの話だけど」


 無視して話題を修正すると、真衣はさも面倒そうに大きく靴音を鳴らした。彼女が僕の正面に立って頭を傾けた。傘の下からはみだした身体が、じとじとと雨に濡れる。斜めの眼差しが僕のあごを掬いあげるようにした。


「わたしたちはね、ごっこ遊びを故意にするの。無意識にごっこ遊びをするみんなと違って、意図的にするんだよ。真面目に恋愛してるつもりのみんなの隣で、同じ玩具を使って無邪気に遊ぶの」


 僕は一歩踏みだして、彼女を傘のなかに入れた。首筋に冷たい感触が落ちた。肩甲骨の間を滑って、腰のあたりでシャツに滲みた。


「無邪気、ね。そうは思えないけど。まあ、僕と似てるところはあるかも。性格わるいところとか」


 僕が眉をひそめると、真衣は楽しそうに笑った。サッと走り抜けた軽自動車の飛沫が剥きだした脚を汚しても彼女は笑っていた。


「性格なんて、みんな悪いよ。だから無邪気って言ったの。少なくとも嘉瀬くんの前でのわたしは無邪気だよ。仮面とか皮とか脱ぎさって、素直な気持ちを吐露してるもの」


「一応言っておくけど、僕は同じになるつもりないから。正直な気持ちなんて言わない」


「性格悪いね」


「みんな悪いんでしょ?」


「まあね」


 真衣が僕の隣に戻って歩きはじめる。

 ふと、どこまで行けばいいんだろうと考えた。


 僕は彼女の家を知らない。最寄りの駅に向かっている様子もない。ショッピングモールやゲームセンターだってこの辺りにはなかったはずで、遊びに行くつもりもないようだ。


 このままでは道に迷ってしまいそうだった。

 終着点を確認しなくては。


「ねぇ」


 しかしそれを訊ねようとすると、真衣がふいにコンビニへ入った。


「ちょ、なに」


 引き留めようとすると、彼女はもう店内だった。置いていくこともできるけれど、さすがに雨のなか女の子を置き去りにするほど嫌な奴にはなれない。適当に滴を飛ばし、傘を片手に店内へ入った。


 狭い店のなかは、空調がよくきいていて寒いほどだった。湿っぽくもない。細かな空気の粒が、熱気を払い落としていくのがわかる。


 二の腕をさすりながら陳列棚の間を覗くと、真衣は見つかった。外は蒸し暑い。喉でも渇いたのだろう。

 そう思っていたのだけれど。


 違った。


 彼女はショーケースのドリンクコーナーのやや手前で屈みこんでいた。文房具や酒の肴の置かれているちょうど中間あたり。何を見ているんだろうと近づいてみて目を疑った。


「あの、何してんの」

「コンドーム見てるの。値段どれくらいなのかなって」


 今度は耳を疑った。

 正気とは思えなかった。男子と一緒に歩いている最中、突然コンビニに入って避妊具の値段を確認する女子高生などいるものだろうか。いや、いるのかもしれない。いるのかもしれないが、僕の常識ではあり得ないことだった。


 嫌な予感がした。


「……なんで、そんなこと知りたいの」


 恐るおそる訊ねた。

 すると真衣は僕を一瞥して答える。


「なんでって。恋愛ごっこには必要でしょ」

「あー、財布に入れといてほのめかすみたいなやつ?」

「使うやつ」

「嘘でしょ……」


 僕は頭を抱える。やっぱり僕たちはちっとも似ていない。恋愛ごっこを故意にする。そこまでは、もしかしたら僕も思いついたかもしれない。けれど、ごっこ相手にそういう事を実践するなんてあり得ない。遊びの範疇を超えている。


「ねぇ、ごっこ遊びなんでしょ? そこまでする必要ないじゃん。付き合ってる体裁だけ整えればさ」


「いやいや。みんながやってることを遊びとして実践するのに意味があるんだよ。そこまでして初めて気持ちが追い付いてくるでしょ?」


 同意を求められても解らない。少なくとも僕は同意できない。したくない。

 見下ろした彼女の白いうなじが、急に熟した白桃のように見えた。あの柔らかく、触れれば融けるような果肉の中から溢れだす汁気。樹に成っているのではなく、食べられるためにあるような潤い。敏感になった嗅覚に、馥郁とした香りが流れこんでくる。背中の棚の向こう、冷やされたスイーツの香りではない。店内に充満した匂いではない。今まさに足許から発散される、女性の色香だ。


「あっ、今えっちなこと考えたでしょ?」


 いつ間にか真衣が僕を見ていた。


「か、考えてないよ!」

「そんなわけないじゃん。わたしとコンドーム見てるのに」

「いちいち名前を言うなよ。理屈としては考えたけど、べつに露島さんとどうとかは、その……」


 その時、指先に何かが触れた。僕が言い終えるより前に、真衣が立ちあがっていた。


「ん、買ってきて」


 押しつけられていた。その銀色の袋を。輪っかの形が浮かびあがった、生々しいそれを。


「ちょっと待って。からかってるなら、僕の負けだ。それでいいよ。だからもう勘弁してくれよ」


 そう言うと真衣は、初めて機嫌を損ねたように唇を尖らせた。


「冗談だと思ってるの? ホンキに決まってるじゃん。わたしたちは似た者同士。だから手を組んで、バカなみんなに悪戯するの。誰にも気付かれない、でもわたしたちが満足できる悪戯。わかるでしょ?」


「わかんない。そういうの冗談とか悪戯でやるべきじゃないって。ごっこ遊びなら付き合ってもいい。手繋いだり、それらしい態度とるだけならいいよ。でも、身体の、とか、そういうのはダメだよ」


「当たり前じゃん。ダメに決まってる。だから、やるの」


 感情をそぎ落とした顔で、彼女が言った。店内の冷気が、一挙に押し寄せてくるような気がした。ぞっとした。


 理解できなかったからじゃない。

 理解からだ。


 僕の続けてきたことは。僕たちの続けてきたことは。

 誰にも気付かれず、誰にも責められない。犯罪でもない。けれど、暴かれればきっと責め立てられ、軽蔑されるような振る舞い。ことだった。


 彼女の提案するごっこ遊びは、その意味において、これまでの行いの延長線上にあるのかもしれなかった。だからと言って首肯するつもりはないけれど。彼女がそのような考えの中で邁進しようとする意志に、僕は気圧されていた。


「いや、でも……」


 なおも反駁しようとする僕の許へ、折悪しく一人の客が近づいてきた。いや、僕の許へ来ているわけじゃない。僕を責めようとか軽蔑しようとか、そんなつもりはきっとない。もっと個人的で無関心な理由によって現れた、ただの客のはずだった。


 僕は無意識に手の中のものを握りこんでいた。

 これでは万引き犯みたいだ。馬鹿みたいに突っ立っていることはできない


 僕は恨めし気に真衣を睨んでから、パックのドリンクコーナーに寄っていちごオレを二つ手にとった。それらを黙ってレジに滑らせた。

 大学生風の店員を一瞥した。彼が一縷の望みだった。いや、勝算はそこそこあったはずだ。学校帰り。この身なりはあからさまに高校生だ。そんな相手に避妊具の購入を認めることはできないのでは?


 しかし最後の希望は容易くうち砕かれた。

 店員が銀色の袋を、小さな紙の袋に入れたのだ。いちごオレと同じレジ袋に、それがぽとんと落とされて、値段を告げられた。


 僕はもう一度店員の顔を見た。死んだ魚のような目をしていた。口がやや前につき出していて「ポイントカードはお持ちですか?」とか何とか言ったその口が、空気を求めるようにぱくぱくと動いていた。


 この魚野郎……!


 僕は心中で悪態をつき、千円札をつき出した。お釣りが幾らかなんてどうだって良かった。「レシートは――」と言った店員の声を無視して、店外にまろび出た。


 このまま真衣を置いていきたかった。一人になりたかった。自分を知る者のないところへ行きたかった。降りしきる雨の一粒一粒が、僕の破廉恥な行いを糺す眼差しのようだ。まとわりつく熱気も。外の喧騒も。なにもかも。


 けれど僕は立ち尽くした。

 ピロンピロンとマヌケな音で開いたコンビニの自動ドア。そこから現れた女子高生に腕を掴まれた。


「エラい。買えたじゃん。一歩前進だね」

「そうは思えないよ……」


 実際に一歩前進してみたけれど、とても前向きな気持ちにはなれなかった。頭全体をじわじわと炙るような熱が、雨の冷たさを受けて、いっそう熱い。


 僕はさらに踏みだして、行くあてもなく歩き始めた。

 それを真衣が「こっち」と言って修正した。

 僕はされるがままだった。もうどうでもいい気持ちになっていた。抵抗する気力がなかった。彼女がなにをしようとしているのか、考えたくもなかった。ただ一言こういった。


「露島さんは嫌じゃないの?」

「なにが?」

「僕とするのが」

「べつに。自分の親だって経験してることだし」


 なおさら気分の悪くなる答えだった。

 雨がじとじとと身体を濡らしていく。傘を拡げるのも億劫で、真衣が僕の手から傘をぶんどって拡げた。


「……わたしたちは違うんだよ」


 そのとき聞こえた声が、あの飄々としたものなら、僕は絶対に彼女を見なかった。見ようともしなかったはずだ。けれど、思いの外暗鬱な声音に、僕の視線はついもち上がってしまった。

 なにもしたくなかったはずなのに。破天荒な彼女が不可解で、憎みたい気持ちすらあったのに。その顔を見てしまった。なにも感じとることのできない、陶器のような顔を。


 陶器の唇が滑らかに言葉をつむいだ。


「高校生って、まだ子どもでしょ。何も知らない。あまりにも多くを知らない。だから学んでいくの。学んでいこうとするの。動機は遊びでも、これは勉強みたいなものなのかもしれない」


「だから、こんな事するっていうのか? おかしいよ」


「大抵のことはおかしいよ。わたしたちは普通とか一般とか常識とかいう言葉で、正当化する理由を与えられてるだけ。楽に生きるための指標みたいなもの。でも、それで楽になれない人たちもいる。つまらない方便では丸め込まれなくて、世間から変人とか狂人って言われるような人たち。それがわたしたちだよ」


 僕はなぜか彼女の眼差しから目を逸らせなかった。涸れた井戸の底のような虚ろな眼差し。きっとどんなに温かくまばゆいものを投げ込んでも、底なしに呑みこんで塗りつぶしてしまう深み。


 達観。諦念。絶望。

 そんな言葉では陳腐すぎる混沌。


 一瞬、僕のなかから恐怖が消えた。代わりに湧いたのは憐憫めいた感情だった。グラスを満たした黒い液体に、蒼く冷たいものが混じった。


 だからと言って、僕が彼女に何かをするつもりはなかった。どんな仕種も言葉も、きっと慰めにはならないと知っていたからだ。彼女の浮かべた、終わりない砂漠の端っこみたいな虚無は、僕のなかにもあるものだった。決して見てはならないと、膝を抱えた本当の僕と一緒に封じてきた類のものだった。


 僕に言えることがあるとするならば、それは一つだけだった。


「……露島さんの家ってどこ?」


 その言葉の意味が解らない僕ではなかった。不安を感じない僕でもなかった。

 けれど同じものを抱え苦しんできた分だけ、独りにしてはいけないと思うのだ。この雨の街に彼女を置き去りにすることは、あの白桃めいた首筋に刃を突き立てるのと同義であるような気がした。傷ついた桃はすぐに腐り、雨水とともに押し流されて、排水溝へと消えていくだろう。


 あるいは、先の言葉は、僕自身への慰めでもあったのかもしれない。人を愛する事を知らず、歯車やグラスとしてしか認識できなくなってしまった僕は、この目に映る他者の姿と同じように、もはや人間ではないものなのだ。人間ではないものが慰められるためには、同じく人間でないものに頼るしかなかったのだ。


 濡れ羽色の髪が一束濡れて、頬にはり付いていた。

 感情の読めない顔で、真衣が笑った。


「こっちだよ。付いて来て」


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