三章 秒針は鳴る、歯車は軋む

 幼い頃、時計の音が怖かった。

 僕には昔から自分の部屋がなく、しんと静まり返った居間にひとり座っていると、それは聞こえてきた。


 時計の音が、僕に害を与えるわけじゃなかった。傷つくことはなかった。命を脅かされることはなかった。ただただ怖かった。この音が、なにか得体の知れないものを運んでくるような気がした。あるいは得体の知れないものの跫音とでも感じていたのか。ただただ怖かった。


 小学校から帰ってくると、再放送のドラマがやっていた。大抵がサスペンスものや恋愛ものだった。犯人らしき顔の見えない誰かが銃を手に、キリキリと引金をしぼるシーンが印象的だった。実際に銃からそんな音がするのか僕は知らなかったし、今でも知らない。べつに知りたいとも思わないが、とにかく怖かった。時計のたてる規則的な音は、姿の見えない誰かがしぼる引金の音のようだった。「撃つぞ、ほら撃つぞ!」と、見えない誰かが叫ぶ脅迫めいても感じられたかもしれない。


 どうして、そんな風に感じたのかはわからない。ただ当時の僕には、僕という卑小な存在を守るものがなかった。仕事で忙しい両親は、夜にならないと帰ってこなかったし、学校にいる間はむき出しの僕が小学生として振る舞っていた。小児喘息をわずらい病弱だった僕は身体も小さく、ゼリーのように柔らかい人格を守る、剣も盾も鎧も兜も身につけていなかった。


 毎日が怖かった。独りでいることが怖かった。友達といても怖かった。時計の針のように、僕を害するものは何もなかった。けれど少しずつ、ほんの少しずつ、人と人とが交わるなかには軋みが生じる。整然と動きつづける歯車が、ある拍子にキチと変な音を鳴らす。脅かすように。


 それがいつか致命的な破滅を招いてしまうような気がした。僕以外の人々は、変な音が鳴っても歯車を調整する術を知っているようだったけれど、僕は知らなかった。むき出しだった。生身だった。油をささなければ、歯車はまた軋む。その油がどこにあるのか、長い間知らないままだった。


 知らないことが怖かった。みんなに置いていかれるような気がした。僕だけがキチと軋んで、みんなは全容を窺い知ることのできない途轍もなく巨大な機械を動かしていく。僕にはとてもできそうにない。僕には何もない。時計の刻む秒針の音が、カチカチと引金をしぼるように。怖かった。


 恐怖を和らげてくれる人がいたなら、僕は変われただろうか。

 生憎、そんな人はいなかった。

 母の胸に抱かれる温もりは、僕を癒してくれたものだ。父の大きな手に撫でられると勇気が湧いたものだ。だけど、それは根本的な解決にはなり得なかった。僕の欲しいものは愛情ではなかったから。人並みの愛情なら感じとれていたから。夜になって帰ってくる両親との少ない時間の中に、愛情はたっぷりとあったから。


 僕が欲しいのは、僕を肯定してくれる言葉だった。僕という存在を満たす液体だった。胸のなかに置かれたグラスは空だった。何もなかった。徒競走で一位をとった僕に、父がかけてくれた言葉は「お疲れ」だけだった。テストで百点をとった僕に、母がかけてくれた言葉は「次も頑張りなさいね」だけだった。一度も褒められたことがなかった。「よく頑張ったね」、「すごいね」、特別な言葉はいらなかったのに。短くて単純な言葉が、両親の口からは決して出てこなかった。


 学校の先生は、最初は褒めてくれた。けれど僕がいつも満点をとっていると、次第に何も言わなくなった。九十点をとれば、両親も先生も「もう少し頑張れただろうに」と言った。それなのに、普段五十点しかとれない奴が七十点をとれば「すごいね!」と褒められるのだった。不公平だった。


 僕の中には何もなかった。僕という存在を肯定するものが。


 夜になると喘息の発作が襲ってきた。ひどいと両親が心配してくれた。けれ、ど誰もあの苦しみを理解できなかった。徒競走で一位をとることはできても、僕の胸はその度に炙られ、傷口に茨を転がされるように痛んだ。夜の苦しみもほとんど同じだった。毎夜やってきた。決まってやってきた。規則的だった。運命めいていた。逃れることはできなかった。苦しみが一生続くような気がした。あと何回やってくるかもわからない夜に、僕は怯えなければならなかった。


 だから褒めて欲しかったのだろうか。苦しみに耐える僕を。不幸な運命を受けいれるしかない僕を。せめて肯定できる材料が欲しかったのだろうか。不公平だった。


 僕には何もなかった。

 心のグラスに、とぷとぷと黒い液体が注がれていく。母の温もりが、父の強さが、泡のように液体を弾けさせても、どこかからそれを注ぐ者がいて、あるいはグラスの底から湧きだして際限がない。僕には何もない。何もない場所に、黒い液体は居座ろうとした。


 最初は抵抗した。卑しい感情は、僕自身を傷つける刃だった。

 だが、すぐに痛みは受けいれた。中学生になると抵抗しなくなった。痛みも日夜くり返されれば麻痺した。幸い、喘息はほぼ完治していた。疲れだけが残っていた。些細なことにかかずらっていても仕方がないような気がした。あるいは、そういう気持ちこそが、黒い液体だった。


 僕には何もないのだから、僕を肯定する術は、自ら見出すしかなかった。空っぽのグラス以下のものが転がった世界だ。歪んだグラス。割れたグラス。蛍光色のサイケなグラス。僕以下の存在がごろごろいると思ったら生きやすかった。あの途轍もなく巨大な機械も、こんな欠陥品ばかりで動いているなら。なんてことはない。世界はなんてことはない。馬鹿げた場所だった。


 それなのに。

 露島真衣。

 彼女の登場によって、僕のグラスの底が暴かれようとしている。


 あるいは僕自身が、それを見つめなければならない状況に追いやられている。


 ずっと隠してきた。

 脆くて壊れやすい部分。

 膝を折って顔を埋める本当の僕なんて、もう二度と見たくなかったのに。


 グラスの液体は涸れていく。

 むき出しの自分が、歯車の世界へ放り出されてしまう。


 カチ、カチ、カチ。


 時計の音が聞こえる。 

「撃つぞ、ほら撃つぞ!」と誰かが叫ぶみたいに。


「そういえば、きょう傘忘れちゃったんだよね」


 露島真衣が言った。


 カチ、カチ、カチ。


 聞こえるはずのない秒針の音が聞こえる。

 教室の壁掛け時計に秒針はないのに。

 耳の奥で鳴りひびく。


 ぽつぽつと雨が窓を打って。

 露島真衣が僕を見る。

 グラスから黒い液体が溢れだす。

 それなのに底が見える。生身の僕が泣いている。

 

 僕は笑う。ひきつった顔で笑う。泣き笑いのように。


「ああ、それなら」


 なぜ彼女に逆らえないのか。

 わからない。

 僕が彼女を退けられない理由は、自分でも合理的には感じられないのに。この場でどう思われようと、また仮面をかぶって上手く周囲を懐柔すればいいだけのはずなのに。


 僕の行動は、露島真衣という歯車と噛み合って抜けだすことができない。巨大な機械はすでに動きだしていて、止めることができない。


 キチ、と奇妙な音が鳴っても。


「一緒に帰る?」


 もうどうすることもできない。

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