二章 それはざらつく鏡のように
僕にとって学生の本分とは、勉強でもなければ、友人を作ることでもなかった。高校生活という誰もが華やかに飾ろうとする三年間を、いかに面倒なく消費できるか。それだけだ。
だから友人とは学校という檻のなかで迫害されないための肉の盾であり、成績とは振るい方によって周囲を牽制したり、自らを傷つけることもある諸刃の剣だった。
両方とも、うまく扱ってきたつもりだ。迫害を受けることはなかったし、疎ましがられることもなかったから。装備を慎重に振るっていることにすら、ある一人を除いて気付かれていなかったのではなかろうか。僕はその場に必要だと思えば、男子たちのゲスな話題にも笑って答えたし、男女問わず投げかけられる恋の難問もすんなり受け流すことができた。僕という存在は、謎めいた不気味な男子ではなく、ミステリアスで色気のある一種のキャラクターとして成立していた。はずだった。
それを壊したのは、もちろん彼女――露島真衣だった。
入学してから三ヶ月の間。
僕たちはろくに話したことがなかった。入学式の通学路で話して以来、まるで不思議な夢でも見ていたかのように、僕も彼女も夢のキャラクターと同じ皮を着た別人だったのだ。
そんな生活がいつまでも続くと思っていた。
真衣のことは面白い人間だと感じていたし、彼女が友人と談笑していれば、その内容に聞き耳をたてることもあった。けれど、互いに積極的に関わろうとする素振りはなかった。僕にとって露島真衣という人間は、珍妙な観察対象であって、面と向かって語らいたい相手ではなかった。
むしろ、口も利きたくなかった。目を合わせることさえ嫌だった。あの桜並木で話しあった時から、僕は彼女に畏れめいたものを感じていた。それは自分と似た人間が存在することへの同族嫌悪とは僅かに異なるものだ。そんな生易しいものではない。僕という存在の自尊心を揺るがす、腐った大地のようなものだ。
僕の人生に露島真衣という人間が、直截的に介入してきたのは、ある放課後のこと。肌にはりついて離れない、湿っぽい暑さが充満した日だった。
なんとなく僕は教室に居残っていた。雨粒がぽつぽつと窓に当たっては弾け、退屈をもて余した生徒たちがぽつぽつと残る教室で、友人と話していた。楽しい話題ではなかったと思う。そもそも学校で楽しい話題と巡り合ったことは一度だってなかった。僕にとっての楽しみとは、関わりのなかにある機微ではなく、俯瞰された人間の愚かさそのものだった。僕の腹のうちでどろどろと唸る侮蔑心を知らず、心底信頼したように寄ってくるバカどもを見下すのが唯一の楽しみだったのだ。
そうして僕は、友人とは名ばかりの男子生徒を見下しながら、嫌らしい悦に入るはずだったのだ。
ところが、僕らの話題に二人の女子生徒が割って入ってきた。「なぁに話してるの?」と頭から突っこんできたのは、市原だった。彼女は人間の黒々としたものをいっさい漂白して磨きなおしたような純粋無垢な人だった。学校という場を心の底から楽しみ、人を責めず、疑わず、どんな相手とも急速に距離を近づけたがる性癖の持ち主だった。
だから、市原と話すのは初めてではなかった。むしろ、よく話した。清廉な彼女と向かい合うと、僕の黒ずんだ心はいっそう強調されるようだった。こんなに眩しく、白シャツの似合う彼女が、どんな風に汚れていくのだろうと想像するのが楽しかった。彼女は僕のお気に入りの玩具のひとつだった。
「もしかして、恋バナ?」
想像力の乏しい市原を、普段なら胸のうちで嗤っていたはずだった。けれどこの時、転がされた玩具の床は腐っていた。僕らの話題に割って入ったのは、二人の女子生徒。
一方が眩ゆく潔白な市原なら。
もう一方は、底の知れない沼、露島真衣だった。
真衣が僕の顔を見て可笑しそうにわらった。
「へぇ、男子も恋バナするの?」
友人がすぐに「いや、違うから」と顔の前で手を振った。それが普通の反応だろうと思った。けれど僕は彼女の前では、うまく仮面をかぶることができなかった。恐怖で手許が狂ったように。仮面は大きく傾いて片目を露出させる。滑稽な道化だ。僕は友人の言葉を真っ向から否定した。
「そりゃ、するよ。こいつの恋バナとか超面白いし」
友人をあごで示して悪戯な笑みを浮かべた。友人は「おい」と露骨に慌てた素振りで、けれど僕とちがい道化になることを楽しむような笑みを浮かべた。
「マジで? 聞きたい聞きたい!」
「わたしも興味あるなぁ」
女子二人は食い付いてきた。近くの席から椅子を引っぱりだしてきて座った。
僕はすぐに選択を誤ったことに気付いた。これでは真衣を自分のテリトリーに、自ら招き入れてしまったようなものだ。
僕と彼女は違う。けれど似ている。
仮面をかぶり、決して真実の自分をださず、一日一日を空虚に消化する観察者。教室のなかに席を割り振られた影。
そんな彼女だから面倒事など運んでこないだろうけれど。彼女が傍にいると、僕はどうにも居心地の悪さを感じずにはおれなかった。
幸い、しばらくは平穏な話題がつづいた。友人がある種の尋問を受けただけだ。僕を恨めじげに睨みつけてくるあいつの顔は楽しそうだった。こんなことに楽しみを覚えられるのは幸せな奴の証だと思った。
僕の思い出せる幸せは少ない。精々、幼い頃の両親との思い出くらいのものだろう。『嬉しい』、『楽しい』程度にしか世界を受容できなかった頃は、きっと誰も至高のときを過ごすのではあるまいか。
けれど知識や経験は、人をずる賢くこそすれ、幸せにするとは限らない。健全であり続ける事も難しい。学校という場所を経験するようになってから、純粋な幸せは翳り、粘ついた快楽が僕を慰めるようになっていた。
「あ、そういえば」
と言った真衣の声が、この時の僕には遠かった。内省的で、ある種感傷的な気持ちになっていた僕には。
意識のベクトルは過去に向いて、今があることを忘れながら、今を虚しく感じていたときには。
それは紛れもない僕の隙だった。
顔をすっぽりと覆った、つるりとした仮面に生じた疵だった。
その比喩が正しいとするなら、真衣の言葉は、狙い過たず疵に刺しこまれた細く鋭いナイフだった。
「嘉瀬くんって、わたしのこと好きなの?」
「うーん……へっ?」
マヌケな声がでた。
自分の声じゃないみたいだった。
なにか致命的なミスを犯したように感じた。
今、彼女はおかしな事を口走らなかったか?
ほんの数瞬前の過去を反芻し、パズルめいた言葉の散らばりを収斂していった。奇跡的にピースは欠けていなかった。だからこそ彼女の言葉が聞き間違いでないことを確信し戦慄した。
「え、嘉瀬くん、うんって言った?」
亢進をあらわに市原が言った。
「ん、ごめん、なに?」
とっさに僕は苦笑した。
「ボーっとしてた」
嘘ではなかった。嘘ではなかったが。真実の分だけ白々しく見えたに違いない。できるだけ自然に。表情を本物に繕わなければならなかった。
表情を知る鏡が欲しかった。いつもどおり、上手く笑えているかどうか。すっかり瞳孔がひらいて、真衣を恐れているのが表出していないか知りたかった。
けれど僕の目の前にあるのは、純粋無垢な驚きと好奇心に輝く市原の瞳。あるいは、ざらついた鏡のように幽かな僕の輪郭を映した真衣の双眸だけだった。
「いや、だからさ、嘉瀬くんって、わたしのこと好きなの?」
「……え、どうして?」
ようやくしぼり出した言葉は震えていた。まるで彼女の言葉を肯定するように。真
衣は笑っている。なにひとつ教えてくれない思慮深く蠱惑にすら思える笑みで。ただ笑っていた。
「ちょっと噂になっててさ。びっくりしちゃった。嘉瀬くんって、恋愛とか興味なさそうなのに。え、わたしとか思っちゃって」
彼女の言葉は鋭かった。傷口にふかく抉りこまれる刃だった。
裂けた皮膚の奥。隠された僕のどろどろを暴く白刃だった。
恐ろしかった。彼女が恐ろしくてたまらなかった。
だから僕は言ってしまったのかもしれない。
絶対に言ってはならない一言。
僕の人生を狂わせる呪いめいた言葉を。
「そんなことないよ。でも、噂か。困ったな。露島さんは、噂が本当だったらどうする?」
言ってしまってからハッとした。
違う。選ぶ言葉を間違えた。話の区切りを誤った。
いや、これは罠ではないのか。
僕の隙を狙いすました不意打ち。冷静さを欠いた僕からミスを誘うための一言ではないのか。自らとどめを刺すことなく、自滅を待ったのではないのか。
ざらついた鏡の向こうに僕が見えた。
ひきつった笑みを浮かべた少年だった。
鏡も笑った。さぞ愉快そうに笑った。僕にはそれが本物に見えた。
「付き合っちゃうかも」
肩をすくめて言った真衣は可憐だった。少なくとも、僕以外の目にはそう映っただろう。市原の口を塞いでも、なお甲高く響いた「えーっ!」の嬌声が、それを物語っていた。
まだ道はあった。選ぶべき道はあった。
けれど、ここで正直な気持ちを吐きだしたら、どうやってこの場を繕えばいいのだろうか。周囲からの僕の評判はどうなるだろう。平穏な高校生活はどうなるだろう。あるいは何も変化などないのかもしれないけれど、不明であることは、僕に否応なく焦燥を突きつけた。
「付き合っちゃえよ」
友人がそう言って、僕の脇腹を肘で小突いた。
怒りと焦りが燃えあがった。
友人に対するものか、真衣に対するものか。はたまた僕自身に対するものなのか。わからなかった。
ただ僕の奥深くの部分では、ダメだダメだと連呼する声が聞こえていた。真衣の言葉に従ってはならない。この流れにながされてはいけないと。
それでもなお嘉瀬隼人という人間は、露島真衣という女王の前では、道化となるしかないのだった。
「ハハッ、それもいいかもね」
どうして、こんな事を言ってしまったのか。わからない。
ぴと、と窓を叩く雨音がつづいた。
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