一章 桜並木の出逢い

 冬の気配の残る風は、まだ痛いほど冷たかった。紺のブレザーが頼もしく、同時にとても窮屈だった。


 視線の先に降りしきるのは、桜の雨だ。鮮やかな並木道のアーチの下を、僕とおなじ新入生の男女が歩いている。折々立ちどまり、頭上を見上げる横顔に、期待と不安の色が濃い。そう義務づけられているかのように。みんな同じ顔だった。


 ふと足許を見下ろせば、揺れる小さな水たまり。


 表面に浮いた桜は、ピンクの小舟のようで。風に揺れ、ごく微かな波紋を作る。僕の顔は歪んで、よく見えない。見返してくる眼差しだけが、はっきりと虚ろだった。


 顔をあげると、同級生の背中がちょっぴり遠かった。


 すぐ隣を女生徒が追いこしていく。


 それを見て僕は、思い出したように歩きだした。

 まるで、その子を初めから知っていたみたいに、隣り合って歩いていた。


「おはよう」


 先に声をかけてきたのは、彼女のほうだった。

 烏の濡れ羽色の髪が風になびいて、ピンクの景色によく映えた。


「おはよう」


 応えると、まだあどけなさのの残る相貌に微笑が載った。アーモンド形の目に、正体不明の翳りが過ぎる、不釣り合いに大人びた笑み。

 どきりとした。


 もしかしたら、上級生かもしれない。

 そう思わせるほど、彼女の笑みには余裕があって、どこか蠱惑的にすら見えたのだ。


 けれど、ブレザーから下がったスカーフの色は赤。僕のネクタイと同じ。一年生の色だ。


 正面に向き直ると、彼女が言った。


「緊張するね」


 横顔を見ると、髪の束から覗く白いほおが眩しかった。そこには期待も不安も、まして緊張もなかった。彼女の相貌だけが、世界というキャンバスから浮かび上がっているような。


 知らず知らずのうちに、「うん」と頷いていた。

 ふいに彼女が、こちらを一瞥してくすくすと笑った。


「思ってないでしょ」

「え?」

「緊張なんてしてないでしょ」


 僕はばつ悪く苦笑を返した。


「……バレた?」

「うん。どうでもいいって顔してる」

「なにが?」

「うーん、これからが?」

「まあ、当たってるかも」


 これから高校生になり、新生活が始まる。みんなは友達ができるかとか、授業にはついていけるかとか、どんな恋をするかとか、きっとそんなことに囚われている。


 だけど僕には、ほとんど不安もないし期待なんて微塵もない。しょせん高校生活なんて、あの桜のアーチをくぐり終えるくらい他愛ないことに違いない。少なくとも中学時代はそうだった。


 ただひとつ、つと思いついたことはあった。

 彼女の予想を裏切ることができるとしたら――と。


 僕は彼女を見つめなおして薄く笑った。


「でも、そっちもどうでもいいって顔してる」

「そう?」

「うん」


 多少は気を悪くするかと思ったのに、返ってきたのはやはり大人びたあの笑みだけだった。肯定も否定もない。ただ視線の交わる時間が、ほんの少し長引いたように感じた。


「そういえば君、名前は?」


 彼女が言った。「君」という響きが、いっそう大人びていた。


 その時ちょっと前をあるく背中から、無遠慮に大きな声が飛びだして、僕は道化めいて高校生を演じなければならない気がした。彼女には、ある種カリスマ的な光を感じられたけれど、学生という狭い世界の中で、僕らの態度はひどく危ういもののように思えた。だから答えた声は、素っ気なかったかもしれない。


「……嘉瀬かせ。嘉瀬隼人はやと

「隼人くん、カッコいい名前だね。わたしは露島つゆしま真衣まい。よろしくね」

「よろしく」


 ありきたりな自己紹介を終えると、あろうことか彼女は握手を求めてきた。僕は一瞬、差しだされた手の意味を解しかねて首を傾げた。そんな定型的で、非現実的な挨拶を、日常のなかに知らなかったからだ。


 外交官でもあるまいし。


 そう思った僕は、自分をひどく矮小な存在に感じた。道化に徹するのではなく本音だったからだ。まだ中学生気分でいるばかりに、高校生としての嗜みを欠いているのではないかと気を揉みまでした。


 けれど、それが彼女の独特な雰囲気からもたらされる錯覚なのは明らかだった。

 僕は「ああ」と曖昧に微笑んで、その柔い手を握った。普通の高校生として握るべきではなかったはずなのに。彼女と共にあるとき、僕はいつだって自分を偽るのに苦心した。

 

 それからあとは、どうしたのだったか。

 いつからか学校に着いていて、彼女と同じクラスになったのは憶えているけれど。道中に交わした会話、彼女の仕種、僕の当惑、何一つ明瞭に思い返せることはない。


 それだけあの朝の出来事は退屈だったのか。

 あるいは幻影めいていたのか。

 真相など知れないし、知る意味もないような気がする。


 いずれせによ、僕たちは出逢ってしまった。

 あの日、あの瞬間から僕たちは、いつか迎えるはずの春を、永遠に失ったのだ。

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