コイルマットレスや羽毛ぶとんに慣れ親しんだ現代人からしてみれば決して寝心地がいいとは言えないベッドから体を起こすと、ちょうど良くトゥト・アンクが入室してきた。


「おはようございます、天上様。」


「おはようございます、トゥト・アンク。」


天気は良い。いっそ良すぎるくらいで、水不足は素直に頷けた。

トゥト・アンクが持ってきた水をゆっくりと嚥下しながら、小百合は窓から外を眺めた。


小百合の生んだ水は溜池が作られ、民はそこから身分関係なく自由に水を飲める。

極稀に医師から外の疫病状況を報告されているが、概ね良好だと満足していた。亡くなる人ももちろん多いが、そんなもの一朝一夕ではどうにもならない。人間一人に出来ることは限られているのだ。

医師たちは良く働いた。神の怒りだと諦めていた人間たちがみるみるうちに回復しているのを見て、小百合を神のように扱うようになったのだ。


天上の華の外出を禁じる。と、メネスが小百合に言い放ったのは昨日の事だった。

メネスが何を考えているのかは分からなかったが、小百合は深く考えずに了承した。

これで小百合があと50も若ければ抵抗くらいしたのかもしれないが、孫に近しい年齢の男の我儘にも取れる発言を気にするほど、小百合の心は若くなかったのだ。

やや肉体に精神が引き摺られている感覚はあれど、小百合の心は老婆のままだった。


「今から食事を取っていただき、日がもうすこし高くなりましたら、ファラオと共に兵たちの鍛錬の様子の見学へ。」


わかりました、とだけ返すと、トゥト・アンクは満足そうに踵を返し、かけて、何かを思い出したかのように小百合に駆け寄ると、小百合の耳元で、これはファラオには秘密ですが、と囁く。


「私個人の判断で、昨日ノーマに使者をお送りしました。ネロ皇太子は天上様を昼夜問わず探しておられる様子。ノーマに行かれるのがよろしいでしよう。」


無論それはトゥト・アンクが小百合をノーマに売り飛ばす算段なのだが、そうとも知らぬ小百合はトゥト・アンクが自身を気遣って使者を送ったものだと思い込み、顔色を明るくし、ありがとうございます、と小さな声で返した。



「天上様、トゥト・アンク様。ファラオがお呼びです。」


食事の呼び出しだ。

ファラオと同じ卓で食事を許されるのは宰相位のトゥト・アンクと天上の華、そしてもう一人。


「やぁトゥト・アンク。サユリさんのところに行くなら誘ってくれたって良かったのに。」


やや大柄な身体の、長髪の美青年


「おはようございます、ハトシェプスト。」


に、見える女性。

ハトシェプストもまた、ファラオと同じ卓に並ぶ一人であった。


「おはようサユリさん。二人でなんの内緒話をしていたんだい?」


ハトシェプストは唯一、小百合のことを天上の華と呼ばず名前で呼ぶ。

小百合はそれがとても嬉しかった。精神年齢はさておき、同性の肉体年齢が近しいハトシェプストは小百合にとっての友人のようなポジションについていたからだ。


ハトシェプストはトゥト・アンクと同じく宰相位についているが、ほとんどを外交に徹しているためにレジルトにいることがほとんどない。レジルトに天上の華が来たと言うことで急遽一昨日帰国したばかりで、とれた休暇は僅か七日間。それが過ぎればまた別の国へ飛ぶのだという。


「トゥト・アンクと私の秘密よ。」


内緒話に混ぜて貰えなかったからなのか、はたまた別の意味なのか、ハトシェプストは子供のように口を尖らせると、まぁいいや、と小百合を抱き上げる。


「きゃあ!」


小百合は叫び声を上げたが、トゥト・アンクもそれが当たり前かのように、横抱きにされている小百合に向かってにっこりと笑いかけた。


「神聖な天上の華を床で汚してはならぬ、とファラオが仰せです。男が抱いてもファラオのお怒りをかいますので、このままハトシェプストにファラオのところまでの移動をお願いしましょう。」


床、と言ってもよく掃除のされた比較的綺麗な廊下だ。靴もあり、汚れるとは思えない、と思いながらも、とりあえず楽だし、女性だし、いいか。と、小百合はされるがままに、ハトシェプストによる移動を甘受したのである。





ーーーーーー





神聖国家ノーマ


皇太子私邸「太陽殿」

2階 ネロ皇太子私室



「皇太子、レジルトより密使が参りました。」



薄暗い私室に、プラチナブロンドを散らしながら、ネロはまだ眠たい目を擦りながら、一言、通せ、とだけ呟く。


まだやや生臭い私室は、ネロが昨晩、父親に宛てがわれた側室候補の女を抱いた名残か、それともそのまま腹を刺し、臓物を引きずり出してやった名残か。


ネロは苛立っていた。どうしても、欲しい女が手に入らない。


無償の愛が欲しい。とうに親愛などではない、小百合という女が欲しいのだと。


鼻は低いし、顔も平凡で、ただ笑った顔が可愛らしいだけの。


老婆だろうがネロには関係なかった。きっと世間的に、寿命的に問題がありそうだから若くしただけだ。


その手に小百合を抱く為だけに、ネロは酷い頭痛に悩まされながら軍を編成した。


大国同士の戦争になるだろう。たくさんの人間が犠牲になるだろう。


たった一人を手に入れるためだけに。


「レジルト宰相、トゥト・アンク様の使者でございます。皇太子におかれましては、ご機」


「要件を手短に申せ。」


「ーーーは。トゥト・アンク様は、条件付きで天上の華をノーマに譲り渡すと仰せです。」


眠たげな目が、大きく見開かれた。

緑に近い青い瞳を使者に向けながら、ネロは口角を上げる。


「条件とやらを申してみよ。余に出来ることならば、叶えてやろう。」








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天上の百合 @usiosio

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